7月の駒ヶ岳
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7月の駒ヶ岳
例年より早く梅雨入りした分、早く梅雨明けしたような感じ。
一気に30度越えの真夏の日射しがやってきました (^_^;)
これから気温があがると注意しなければならないのが熱中症。
私たちも屋外の現場では、定期的に休憩をとって水分補給をしたり、塩飴などで塩分を補給したりする、など熱中症の対策をしっかりととって作業にあたっています。
皆さんも、特に屋外の作業の際には体調に十分ご注意ください。
[南アルプス]
さて、ゼンシン菜園でも、いよいよ収穫がはじまりまりました。
まずは、キュウリ。油断してたらいきなりゴーヤみないなキュウリになりました。
これは、浅漬けにしておいしくいただきました。
これから、夏の日射しを一杯浴びた野菜たちがたくさん収穫できるかな。
【森林紀行No.1 8/18】「ラゴ・アグリオにて」
ホテル エル・コファン
ラゴ・アグリオに着いてすぐにホテルエル・コファン(El Cofan:コファンとは先住民の一部族名)にチェック・インした。荷物を部屋に入れてすぐ隣りの電話局へ電話をかけに行った。
当時このホテルはできたばかりで新しかったが、床やドアが歪んでいて建て付けが悪く、また部屋も狭くて居心地は良いとはいえなかった。しかし、ここが最良でここより良いホテルはなく、シャワーもトイレも付いているし、キャンプに比べれば天国と思ったものである。

ホテル エル・コファンの部屋(増井が最初に泊まった部屋。
部屋が狭かったのでベッドにいろいろ広げて整理)

ホテル エル・コファンの経営者の家族達と(長逗留するうちに家族とも親しくなった)
団長に電話
当時ラゴ・アグリオから電話回線はキトーに2回線しかなく、電話局へ行かなければなかった。幸い電話局がホテルの隣だったので、夜は待っている人がいなくて、閉局少し前の夜9時にキトーにいる団長に電話が繋がり、無事ラゴ・アグリオに到着したことを報告した。
印象に残った傲慢なアメリカ人
ホテルエル・コファンに泊まっていたアメリカ人がここの電圧はいくらかと聞いてきた。私は「one hundred ten volt」と言うとアメリカ人は「お前はそんなことの言い方も知らないのか。教えてやる。それはone tenと言うのだ。」と非常に感じ悪く、人が親切に教えてやったのに威張っていて、いかにも普通に傲慢なアメリカ人で、感じが悪かった。
ラゴ・アグリオの町の印象
調査基地とした町はこのラゴ・アグリオとコカの2つであり、どちらも同じくらいの期間滞在したが、コカの方がより生活条件が悪かったので、印象はコカの方が強い。とは言うもののこの当時のラゴ・アグリオも生活条件は相当悪かった。
ラゴ・アグリオは1970年台に石油開発で開かれたということで、まだできて新しい町だった。町は碁盤の目のように道路が通っていたが、まだ舗装もされていなく、砂利道で車が通ると砂ぼこりがひどかった。空き地も相当あり、徐々に建物が建てられつつあった。そのため、まだまだ整った町ではなく、西部劇でみるような荒くれ者が流れて来るような非常にガサツで汚いという印象を持った。治安は悪いといわれていたが、実際に相当悪かったのだろう。

最初に石油が発見された最初の井戸の記録を書いた看板
(1967年2月16日?1967年3月29日)

ラゴ・アグリオの町(未舗装で、建築中の建物も多かった。)

ラゴ・アグリオを走るバス(トラックの荷台に座席を作り改造)
食堂や店屋
ホテル以外にもいくつか食堂があり、よく外の食堂に夕食を食べに行った。印象に残っているのは野外で屋台のような場所があったが、カルド・デ・ガジーナ(Caldo de gallina)といって鶏肉を煮込んだスープがとても美味しかった。しかし、4本指の鶏足が、そのまま入っていて、それもおいしいのだが形を見てしまうと鶏足だけは何となく進んで食べにくかった。中華料理屋も1軒あった。こんな奥地にもさすがに中国人。そして町はずれに韓国人が雑貨屋を開いていた。そこで良く買い物をしたが、そこの主人は私が帰国してまた来る時にいろいろ必要物を買ってきてくれるよう私に頼んだ。適当に生返事で、お茶を濁していたが、だめもとで知らない人にでも頼みごとをするだけ彼らは生命力が強いのだろう。
飲屋
ラゴ・アグリオにも何軒かの飲屋があった。そのうち一番きれいな飲屋にヒメネスとモリーナがよく連れて行ってくれた。ビール以外にはロン(ラム酒)があり、ロン・カスティージョ(Ron Castillo:城のロン)というのが、結構いけた。

左からモリーナ、増井、ヒメネス。彼らは長時間飲むのが好きだった
打合せ
ヒメネスの事務所へ
翌日早速ヒメネスの事務所に行き、調査について打ち合わせた。
最初は改めて何を調査するかについての打合せである。つまり今回の調査の材積表作りのためのデータを集める仕事であり、標本木として150本を伐採するのをどのあたりで行うかが中心であった。この他にペンタプリズマ(簡易に直径を測ることができる器具。器具の中にプリズムが入っていて樹木までの距離に関係なく、カメラのファインダーのようなものを覗くと、樹木の幹の左端と右端を直線で合わせられるようになっていて、それを合わすと、バーが幹の直径と同じ長さにスライドし、幹の直径が測れるもの)で200本ほどのデータを取ることであった。
これは次に述べるように、この周囲でアクセスができる5つの地域から概ね30本ずつ、木の胸高直径(太さ)をバラつかせて取ることにした。
次は日程で、どの辺りをいつ頃調査するか、そして調査の前に全体の概況調査をするなどであった。
そして調査メンバーをどういうグループにするか、作業員と森の案内人、チェンソーマンなど何人くらい必要かなどを打ち合わせた。
必要な作業員達はヒメネスが手配してくれることになった。このことは後述するが、最初に雇った作業員がいろいろ要求してくるので結局クビにしたけれど、この地域の生活の厳しさを感じた。
ヒメネス
ヒメネスは赤ら顔のスペイン系で、非常に調子が良くて、何でもオーケー、オーケーというタイプなので大分迷惑を蒙らされた。ラゴ・アグリオからキトーに仕事に行った時も月曜日に行き、木曜日に戻って来ると言って出かける。3日後に帰ってくるのだなと思っていると、帰ってくるのは必ず1週間後か2週間後の木曜日なのであった。本当にいいかげんであった。
調査地域
標本木を採取するのに、この地域全体に適用できるようにするため、5つの地域から採取することとした。概ね集落がある。ラゴ・アグリオとコカが比較的大きな町で、その他小さな集落で、そこまでアクセスできる道路があった。
ダユマは石油開発のために道路を作設中の最先端で、貧しい作業員だけのいる場所である。

標本木を選んだ地域
上の図に示す所である。
1 ラゴ・アグリオ周辺
2 テテテス周辺
3 シュシュフィンディ周辺
4 パヤミーノ周辺
5 ダユマ周辺
旬の話題

就職して 山梨県で暮らす次男のアパートからは、先日 “世界遺産” に登録された ≪富士山≫ が見える・・・?
・・・見えるはずなのですが、この日はあいにくの曇り空で全然だめでした…。
【社窓】のパクリ『富士山バージョン』を目論んでいたのに、すっかり当てが外れてしまい、話題に窮しています。
仕方なく、何かネタはないか…と探して、無理やりの感がアリアリですが、我が家の「旬の話題」ということで…



・今年収穫した梅。 ・梅ジュース…仕込み中。 ・梅酒…完成品。
梅ジュース : 効能 ⇒ 夏バテ予防に最適!
梅酒 : 効能 ⇒ 疲労回復 ・ ストレス解消 ・ 血行促進 ・ 利尿作用 ・ 美肌・・・etc ( 注:適量の場合に限る )
N.A (^^)v
段ボールは便利
先日、テーブルを購入しました。
テーブルをくださる方がなかなか現れず、
やむをえず購入した次第です。
これです。
実に便利。
今日まで約3ヶ月・・・
段ボールをひっくり返して
テーブル替わりにしていた者にしか分らない感動!
これからの暑い夏に向け
すずやかな「和」を基調とした雰囲気にしてみました。
今や、テーブルのある生活が当たり前になりつつある今日この頃、
段ボールもなかなか便利でした。
掃除の時など移動が楽だし、
耐久性は劣りますが、すぐに新しいのに交換できます。
これで、脱! 段ボールと思いきや・・・
テレビ台は、こんな感じです。

すこし首を傾けてみるのがベスト。
話は変わりますが、食べ物ネタです。
先日、何年ぶりかに、寿司屋の寿司(回転寿司ではない寿司屋の寿司!)を食べに行ってきました。
(正確にはごちそうになったのですが・・・。)
伊那市にある「富久寿司」というお店。
さすがにネタが新鮮!
お店のご主人も従業員の方もとても感じよく
「ネギトロ」と「わさび巻き」はおすすめです。
かなりうまいです!
つづきまして、ここ数日暑い日が続いていますが、そんな日は、
ソフトクリームです。
左から伊那市の「Yoshiko(フランセ板屋のカフェ)」、諏訪の「たまごや工房」、「長門牧場」のソフトクリームです。
つづきまして、箕輪町の「パン茶房窯屋」のカツサンドです。
これはかなり美味しいです。
つづきまして、伊那市の「久良運」のもうもうシチューです。
スパゲティのうえにビーフシチューがかかっています。
これもなかなか美味しいです。
つづきまして、伊那市の「ぱいぷのけむり」のハンバーグカレーです。
これはふつうです。空腹時に食べたので胃がやられました。
さかまさ
【森林紀行No.1 7/18】「アマゾンの町ラゴ・アグリオへ」
ラテン気質の役所MAG
MAGでの出発の打合せ
MAGで先発隊が打合せ、現地ラゴ・アグリオへの出発は7月15日の月曜からと決まっていた。この日に調査団からは、私増井を含めて4名が現地に行き、団長は航空写真の撮影契約の署名などの関係で担当の2名とともにキトーに残ることになり、10日ほど遅れてラゴ・アグリオに入ることになった。
先発隊が打ち合わせていたところによると、MAGから運転手付きで車が2台が提供されることとなっていた。しかも運転手の支払いも燃料の支払いもMAGが行うから調査団は心配しなくとも良いと言うことだった。現地で雇う作業員などの費用だけを持ってくれれば良いということだったので、私はにわかには信じられなかったが、月曜日にMAGで朝7時に待ち合わせて、ラゴ・アグリオに向かうということになった。
またラゴ・アグリオにはヒメネスというナポ県の営林署長がおり、彼が作業員の手配などを全て行うので心配はいらないとのことだった。なんとMAGは良いところだろうと思わされた。
出発が一日遅れる
翌7月15日、月曜日の朝7時にホテルをチェックアウトして荷物を全部車に積んでMAGへ行くとMAGが提供すると言っていた車も運転手も来ていない。カウンターパートも来ていない。1時間ほど待つと運転手とモリーナが来た。運転手の話を聞くと出張旅費などもらってないし、すぐには出発できないと言う。
モリーナにどうなっているのか確かめさせた。車もMAGでは出せないということだ。一体どうなっているのだ。森林局側の言っていたのは体のいい繕いだけだったのか。いずれにせよこれでは今日出発するのは無理だ。
ホテルにすぐ電話しチェックアウトを取り消してもらい予約を1泊延長した。分かったのは、MAGから車も人も出せるものではないことだった。だったらはっきり最初からそう言ってくれと。そうすれば、我々はそのように手配したのに。そこのラテン気質を私はまだ分かっていなかった。
人に後で大迷惑をかけるのであるが、その時は迷惑をかけてはまずいと思うのか、あるいは、人の喜ぶ顔がみたいからだろうか、できないこともできると言いたいのだろうか?ラテン気質の気楽さである。そんなことからやはり先発隊で来るのだったと思うのだった。海外では行き違いのないように、念には念を入れて確認してもなお予定通り行かないことだらけだから人には任せておけないという気持ちだった。怒り心頭に達したが、それは顔に出さずに冷静に、では一日遅れだが、明日の出発を次の手として考え、モリーナとマンティージャを巻き込んだ。
今使っているレンタカー会社に確かめさせると明日ラゴ・アグリオまで送るだけならジープタイプの車は1台確保でき、その後別の車を2台すぐに確保できラゴ・アグリオに送ることができるというので、取り敢えずラゴ・アグリオに行くのに1台はレンタカーを使うことにした。もう1台はMAGの中から手配するようもう一度捜させると、ちょうどラゴ・アグリオから来ているヒメネスがジープタイプのランドクルーザーで帰るので、それに半分のメンバーが分乗すれば明日出発できることが分かった。
そんなことで翌日運転手付きのレンタカー1台とヒメネスの運転するジープと計2台でラゴ・アグリオに出発できることになった。その後は後から来るレンタカーを使い、運転手の給料やガソリン代は我々が出すことにした。言ってみれば、費用は当初の想定通り日本側が全て持つことになったのだが、MAG側の見栄やプライドの高さといったラテン気質が混乱を招いたのだ。
ラゴ・アグリオへ。
1985年7月16日(火)キトーからラゴ・アグリオに向かって2台の車で出発した。レンタカーの1台は大型のジープタイプのシボレー社製の車だ。シボレー(Chevrolet)のことをここではチェブロレットと発音しているのが何となく陽気な響きに聞こえた。
7時20分にキトーを出発する。7時の予定が20分遅れただけなんて、この国では完璧に時間ぴったりだ。一日遅れではあるが。アンデス山脈を越えるのに最初はキトーから山を登って行く。私は何故か緊張していた。たぶんレンタカーの運転手が往復だけではあるが、アマゾン川の流域に行くというので緊張していたのでそれが移ったのだろう。さすがに地元民でもアマゾンに行くと言えば身構えるのであろう。
赤道直下の雪
頂上の少し手前から雪が降り出した。ここは赤道上の熱帯ではないのか?この寒さは何だ。気温は0度以下だろう。長袖や薄手のジャンバーなどを重ね着するが、防寒着でないので震えるほど寒い。とうとう峠の頂上に着く。ここは標高約4,000mだ。キトーが2,800mだから約1,200mも上がったことになる。

アンデス山脈を峠に向い登る。赤道直下の雪

峠。標高約4,000m。薄着で震えあがる。
それから下り出す。下るにつれて今度は段々と暑くなる。寒帯から熱帯へだ。10時半にバエサ(Baeza)に着く。ここは標高は約800mで、もう気温は30度もあろうというくらいで、Tシャツである。
苗畑
バエサには苗畑があり、しばらく苗畑を見学する。マメ科植物の苗木が多かった。

バエサの苗畑

マメ科の木が多い
伐採木の検問所
伐採木の税金を取る検問所もある。1立方当たり25スクレ(約50円)取るとのことだった。

伐採木を積んだトラック
伐採が進んでいるのだろう。バエサで昼飯を食べてから出発。
ドイツの協力プロジェクトを見学
午後3時頃ドイツミッションに出会った。近くでドイツが協力しているプロジェクトがあるという。そこでドイツの協力プロジェクトを見せてもらう。主に製材をしている。木材の加工技術の向上を目指しているのだ。

ドイツの援助で作った製材所
セイケ(Seyke)、カネロ(Canelo)、セドロ(Cedro)という名の樹種から質の良い木材が取れ、長持ちするとの説明を受ける。
ここの名前はAssociacion Carpinteros Lumbaqui:ルンバッキ大工協会と言うそうだ。このプロジェクトスタッフとして働いていたのは、3人のスペイン人だった。ドイツの援助下でスペイン人が働いているのは言葉が通じるから雇ったのであろう。10cm×30cm×2.4mの材が普通材の倍の厚さで、セイケが240ドル(当時の円換算で約5万円)、セドロが400ドル(9万円)で売れると言っていたので、当時のエクアドルの物価水準からすると相当に儲かりそうに思えた。
ヒメネスの車がエンスト
そこを出発して、まもなくしてヒメネスの車がエンストして動かなくなる。直すのに大分時間がかかったがどうやら動くようになった。

エンストしたヒメネスの車

アンデス山脈を下ってなだらかになり始めるあたり。石油のパイプラインが並走している
ラゴ・アグリオの手前にて
ラゴ・アグリオに入る手前にはかなり長い橋がかかっていたが、この橋は2年後に起きた地震で落ちたとのことだった。

ラゴ・アグリオに入る手前の橋
道路の途中にあった食堂に寄るとチョウのコレクションが飾ってあり、その種類の多さに驚いた。また体の大きさだけでも10cm以上はあり、角までいれると20cmもあるカブトムシの標本が飾ってあり、これまたその大きさに驚ろかされた。アマゾン源流域の生物多様性の高さを最初から感じさせられた。同じ種類の昆虫でも体が大きくなるものは、日本のものとはこれほども違うのかと印象深かった。

途中の食堂の壁にかけてあった蝶のコレクション
いろいろあった一日であったが、夜の8時過ぎにようやくラゴ・アグリオに到着した。
つづく
狩人
8時ちょうどの-
あずさ2号で-
の、狩人ではないのですが・・・
先日、狩りに行ってきました。
ちなみにモンスターでもありません。
すこし脚を伸ばして甲州まで
この時期の甲州といえば、

サクランボです!!
まいうーでした。

一年分は食べたかな。
あまりに食べ過ぎて・・・
おなかがこわれちゃいました。
食べ過ぎ注意です!!
A.H
たがやす
だいぶ日があいてしまいましたが、先々週くらいに、畑を作りました。
My(共同)はたけ!!! なんだかすごいぞ。(^ω^)
学生の頃は、友人が畑を借りて野菜を作ると意気込んでいたのを、
(よくやるなぁ…..)○。 _(:3 」∠)_
と思って見ていたものですが、もとはと言えば私は植物が勉強したくて農学部に入ったのでした。
そうでした。 (結果、ぜんぜん違う分野を学ぶことになったのは別の話・・・)
というわけで、自分も畑をお借りして野菜作りに挑むことになったのですが、 、、、、
腕イタイ!!!(;ω;)
土を耕して畝を作って、マルチをかけて、苗を植えて、固定して、水をやって・・・
・・・やることいっぱい!!!!!
最近、野菜を余すことなく食べることについて知る機会ができたこともあり、食べ物のありがたみというか
感じることがあったのですが、ますます大切に食べないといけないなと思うようになりました。
畑を作るのにも一苦労で、どの苗はどうやって植えるのか調べてもらって、
最終的には畑作りをも手伝ってもらって・・・
感謝することがたくさん!!!ありがとうございます!!!
ずいぶんと広い畑をお借りしたのが・・・
(手前のほう)
びふぉあ
あふたー

うーん。。。
今回選ばれたのは、奥から
サツマイモ、かぼちゃ、ねぎ、ズッキーニ、オクラ、なす、ピーマン、トマト、とうもろこし、枝豆、きゅうり さんです!!!
(手前のスペースは、Sさんのハーブ園になる予定。)
どこに何があるのやら、いろいろあるぞ。(^ω^)
個人的には、ものすごく迷って選んだサツマイモが楽しみ・・・
でも、全部立派に収穫できるまで育ってくれるのが一番いいなぁ。(・ё・)
たぁぼ
ゼンシン花壇&菜園2013

さあ、今年もやってきました花壇づくり。
その1-基本となる土づくり (^_^;)

その2-みんなで植栽 (^_^)

その3-水やりして完成!! (^_^)v

そして、昨年に引き続き 『ぜんしん菜園』 もスタート。

今年もトマトとキュウリです。
今年は、ネットも張って準備万端!!

「おいしい野菜」 と 「緑のカーテン」 に期待してます P(^_^)q
6月の駒ヶ岳
【森林紀行No.1 6/18】「キトーでの仕事」
資金の管理
当時十分な情報が取れなかったこともあり、キトーに事務所を持っていたある商社にも世話になった。到着翌日、エクアドルの事情はさっぱり分からなかったので、早速、銀行口座を開くのを手伝ってもらった。

キトー市内 (1985年、2階バスも走っていた)
銀行口座を作る
キトーにはCiti Bankがあり、Citi Bankですぐに口座を開くことができ、業務費を預けることができた。これで日本から送金もできるようになり、また大量の費用を持ち歩かなくとも良くなった。そして業務費の一部をスクレに換金した。
小切手を作る
数日後、調査地周辺で、作業員らに支払うのも小切手の方が良いのだろうと現地ラゴ・アグリオにも支店がある地元の銀行(Banco Internacional:国際銀行)にも口座を作り小切手の発行を依頼した。
午前中に頼み、その日の午後にできるというので午後取りに行くと小切手ができていて受け取ることができた。当時は気がつかなかったが、今考えると小切手の作成を頼んだその日の内にできるなんていうことは信じられないくらい早い。
というのは2011年にアフリカのブルキナ・ファソの銀行で小切手を作ったが、できるのに2週間程度かかると言われて、実際できるのに2ヵ月近くかかったからである。また、ブルキナ・ファソでインターネット・バンキングをする手続きを開通させるのも数週間かかると言われ、その後何回も催促してようやく3カ月後に開通した経験と比べると四半世紀前のエクアドルの方がアフリカのブルキナ・ファソよりも、銀行の仕事効率は何十倍も良かったということだろう。ブルキナ・ファソもこんな状態でいるのでは、すぐに最貧国から抜け出すのは困難であろう。
それはそれとして、銀行の手続きに関しては、エクアドルは早かったが、その他のことに関しては、こんなに遅いのかと思わされることばかりだった。
現地では作業員などは小切手をもらっても、いちいち銀行に換金に行かなければならず面倒に感じていたようで、現金のほうが好まれた。
領収書
上述のように、銀行口座などを開くのも会計役の仕事であるが、私はこのころから会計役も行うようになった。現地で使用した業務費はすべて領収書が必要である。当たり前ではあるが、団員は誰でも業務費であれば、いかに細かいものでも領収書を取ることを忘れないように気を使う必要があった。私はそれらの領収書を整理保管し、帰国後精算報告書を作ったりもしていた。
不思議なことに、領収書をもらうことなどは日本では無意識に行っていて、何も気疲れなど無いが、外国だとまず当然のことながら日本語でないので、中身は何と書いてあるのか、きちんと書いてあるか、数量と単価はあっているかとか確かめなければならず、数字でも読めないことが多々あり、領収書をくれないこともあり、さらには、そのようなものを書いたことさえないという売り手がいたりするので、領収書一つ取るのにかなり気を使うのだった。そして数ヵ月も滞在すると領収書の数は膨大になるのだった。
準備作業
機材の購入
日本から持ってきた森林調査道具以外に、今回の調査では木を伐倒するので、歯渡り70cmの大きなチェンソーを2台買った。その他細々としたものを購入した。
当時のキトー市内には、今の日本の郊外にある大きなスーパーマーケットのような、セントロ・コメルシアル・エル・ボスケ(Centoro Comercial el Bosque:エル・ボスケ(森林)ショッピングセンター)というのがあり、そこでほとんどものを入手することができた。
IGMで地図など購入
IGMというのはInstituto Geográfico Militar(インスティトゥート・ヘオグラフィココ・ミリタール)といって軍地理院である。ここに航空写真の撮影を委託するのであるが、撮影が予定どおり進まずやきもきさせられるのであるが、その話しは後述する。そこでは各種の地形図、過去に撮影された航空写真、自然関係の資料等を販売しており、それらの資料を大量に購入した。
クリルセン
当時エクアドルにはランドサットの電波受信局があり、IGMの下部組織のCLIRSEN(Centro de Levantamientos Integrados de Recursos Naturales por Sensores Remotos : リモートセンシングによる自然資源総合分析センター)という施設で受信していた。我々はランドサットデータは日本で手に入れていたが、そこでの解析状況なども調査した。

クリルセンの入口
車の購入
調査用の車は、購入された新車が2台調査団に貸与され、調査終了後にエクアドルの森林局に供与されることになっていたが、購入の手続きが間に合わず、開始時点ではレンタカーで行うこととなった。そのため車の借り上げ用の予算がついていた。しかし、車の購入は、調査団がエクアドルで購入するか、あるいは日本から輸入するかを決め、またそれらの手続きについて調べなさいとの指示が出されていた。
調べると当時エクアドルでトヨタのランドクルーザーや三菱のパジェロのような日本製の4輪駆動の車を当時販売している代理店もなく、購入できないことがわかった。
いろいろ調べて、エクアドル国内でトゥローパというジープタイプの車が買えることが分かった。しかし、その車は調査用には小型で、その割に高かった。我々はランドクルーザーのステーションワゴンタイプのようなやや大型でないと多くの人といろいろな機材を乗せられないので調査用にトゥローパを使うの難しかった。トゥローパを購入すれば手続きは、それほど面倒ではなかったが、やはり後の調査のことを考えトヨタのステーションワゴンを日本から輸入することを第一に、その手続きを詳しく調べることにした。
どのような手続きが必要なのかをいくつかの代理店で、詳しく聞き込んでもすぐに理解するのが困難であった。例えば、日本から車を送った場合には、エクアドル側で車を引き出す通関業務は誰が行うのか、MAGに業者を捜させるのか、その費用は誰が持つのか、また、税関から出るまでどれくらいの期間がかかり、保管料は誰が払うのか等々。また、車を引き出す時にどの機関の名義にするのかによっても手続きが違うので、頭を悩ませた。
そして輸入許可書は中央銀行から発行してもらうことが必要で、MAG大臣から企画省、産業省、大蔵省でそれぞれ許可を取った書面が中央銀行まで行くことが必要なことなどがわかってきた。しかし、すぐに対処する時間がなかったので、それは現地での調査が終わってから対処することにした。

郊外の山の中腹ではグライダーやパラグライダーが楽しまれていた

旧市街。先住民の子孫も多かった

カヤンベ山(5,790m)
つづく