萌ゆ

ゼンシンの日々

 

4月まで冬が続いたかと思えば、5月からはいきなり夏がやってきました。

5月、草木萌ゆる季節です。

 山の中の現場に入ることが多いのですが、色々な植物を見つけられてとても面白いです。 

写真はオクチョウジザクラ(だと思います。)

sakura[1].jpg見慣れたソメイヨシノや、鮮やかなオオヤマザクラなどと比べると華やかではないかもしれませんが、小さくて可憐な花ですね。

 また、こんなものも見つけました。

kikei[1].jpg

 ミズナラの葉っぱなのですが、2枚が根元で癒着しています。奇形でしょうか?初めて見ました。

 珍しいのかな?

hsd.

 

【森林紀行No.1 5/18】「共同作業機関と共同作業技術者など」

森林紀行

共同作業機関(カウンターパート機関)のMAG(農牧省)

我々のカウンターパート機関(共同作業機関)はMAG(Ministerio de Agricultura y Ganadería : 農牧省)の中の一つの局であるDirección Forestal(森林局)であった。

翌日まずMAGへ挨拶と打合せに行った。既に先発隊がいろいろと打合せをしていたので、後発隊は主に、森林局で実際に一緒に仕事をするカウンターパート(共同作業技術者)との顔合わせであった。

この時強く印象に残っているのが、森林管理部長をしていたフアン・サリーナス氏である。(Ing. Juan Salinas ; Ing.はIngeniero。技師という意味だが大卒者への敬称)この仕事が終わるころには、彼は国際関係部長に移っていた。私にはこの方はメスティッソ(スペイン人とインディオの混血)のようには見えず、先住民の顔立ちに見えた。いかにも先住民の顔立ちで、それも威厳のある堂々とした大酋長のような印象を受けた。サリーナス氏は調査地域にはほとんど入らなかったが、キトーで様々に協力してくれた。また、サリーナス氏は住民の反対運動で調査地に入れないときに、調査団は太平洋岸を調査したが、その時には現場を案内してくれた。

モリーナ_他.jpg

左からモリーナ氏、サリーナス氏、ヴィヴァンコ氏

その他、時々現場も来たが、主にキトーでいろいろ情報提供をしてくれた森林経営部の次長のオスワルド・ヴィヴァンコ(Ing. Oswaldo Vivanco)、実際に現場に良く来た森林経営課長のオスワルド・マンティージャ(Ing. Oswaldo Mantilla)、それに常時現場で一緒に働いたフアン・モリーナ(Agr. Juan Molina Agrは農業技士への敬称。)に挨拶をした。モリーナは専門学校卒でIng.ではなく、Ing.より地位が低い様な扱いを受けているように感じた。つまり日本以上の学歴社会が存在しているようだった。

 

共同作業技術者(カウンターパート)

キトーの森林局の本部から、この調査に最も多く参加したのは前述したように最初に挨拶した次の3人で、全員がスペイン系か、わずかにメスティソなのだろうかといったような顔立ちだった。

1.オスワルド・ヴィヴァンコ(Ing. Oswaldo Vivanco、共同作業技術者の実質のチーフ)

2.オスワルド・マンティージャ(Ing.Oswaldo Mantilla、ヴィヴァンコの下)

3. ファン・モリーナ(Agr. Juan Molina、現場の責任者)

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左からマンティージャ、モリーナ、ヴィヴァンコ

 

3人の中で最も若いが、最も地位が高かったのがヴィヴァンコで当時40代の前半だった。モリーナが40代半ば、一番の年上がマンティージャで50才前後だったろう。

ヴィヴァンコは非常に頭が良いと感じた。仕事のことに関しては、あらゆることについて、ヴィヴァンコに聞かなければ、はっきりしないのが実情だった。だからMAGの事務所に朝行ったらまずヴィヴァンコを捉まえなければ仕事が始まらないのであった。彼がすべて知っているので、当時MAGには、国際協力で、アメリカ、フランス、スペイン、ドイツなどの技術者が出入りしており、どのチームもヴィヴァンコ以外は当てにしていない状態だったので、朝ヴィヴァンコを捉まえるのが競争だった。

マンティージャはかなり小柄であったが、アゴ髭をヤギのように生やし、ゆっくりと話をし、とても気の良いおじさんだった。マンティージャがゆっくり話すものだから私にも彼のスペイン語は良くわかった。

マンティージャ_私.jpg

マンティージャと私

 

マンティージャは調査の終わるころに日本に研修に来たのであるが、その時に大層疲弊した。カルチャーショックに耐えられなかったのであろう。大変に残念なことであったが、帰国後まもなく心臓マヒ(と奥さんから聞いた)で亡くなられた。

マンティージャと親しくなってからマンティージャは、「MAGはエレファンテ(象)と呼ばれている。」と私に言った。「どういう意味だ?」と聞くと「大きいばかりで何の役にもたっていない。」と答えた。

最初はそんなものかと思っていたが、実態を知れば知るほど、マンティージャの言う通りだと実感するようになったものだ。MAGの建物は新市街のはずれに位置し、白い十数階の大きな建物で、近隣に大きな建物が少なかったので目立ち、図体ばかり大きいエレファンテといったところだったのだろう。

そして、マンティージャはこう言った。「MAGの職員が働くのは週に1日、水曜日くらいなものだ。」と。一体なぜなのか尋ねると、「土日は、飲んだくれて夜中まで遊ぶのが当たり前だから、月曜日は疲れていて仕事にならない。火曜日もまだ疲れていて似たようなものだ。ようやく疲れのとれた水曜日に働ける。木曜日は週末の遊びを考えるのに忙しい。金曜日はそれでそわそわして仕事ができない。」と言うことであった。まさに実態を現していた。

私がマンティージャやモリーナの部屋で仕事をしていると別の部屋の職員が入ってきておしゃべりを始めるのであった。ひとしきりしゃべっていると別の職員が入ってきて、交代するか一緒になってしゃべっている。誰もこないと彼らが別な部屋に行っておしゃべりをしている。観察しているとだいたい勤務時間の大半がおしゃべりに費やされ、1日が暮れるのであった。

 それでも秘書のマリアさんは、おしゃべりに時間を費やすこともなく、真面目に良く働いてくれた。とても陽気な方だった。

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MAG森林局の秘書 主婦でもあったSra. マリアさん

 

ヴィヴァンコはモリーナを馬鹿にしていたように見える。いつもきつい態度で接していた。モリーナはヴィヴァンコに頭が上がらず、いつもヴァイヴァンコに気を使っていた。人間関係の難しさはいずこも同じと感じた。

モリーナは現場の責任者になるのだが、ラテン気質そのもので、私から見れば全てにいい加減のように思え、最初は波長が合わなくていつもイライラさせられていた。しかし、だんだんと彼にしこまれていき、私もモリーナとは良い友人となった。

私はモリーナにいつもこう言われていた。「マスイ。急ぐな。そんなに仕事ばかりやるな。人生は仕事だけじゃあない。イライラしたときのしかめっつらはやめろ。仕事も楽しく行え。楽しく生きろ。最後は全てうまくいく。ウワハッハッ。」と最後はやや甲高い声で大きく笑うのであった。

そして彼らの「明日できることは今日するな。」、「明日は明日の風が吹く。」といった生き方にだんだんと染まっていき、これこそがストレスを感じない生き方だと思うようになったのである。

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モリーナと私

 

MAGでの通訳

このとき、キトーの市内での通訳をしてくれた方は、結婚後キトーに住んでいる方だった。この方は日本の大学のスペイン語科在学中、東京のエクアドル大使館でアルバイトをしていた時に、大使館に勤務していたご主人に捉まり、結婚し、キトーに住むことになったとのことだった。

当時、10歳前後のお子さんがいた。日本の男の子よりもませているようで、お母さんにデートの相談などをしていた。通訳の方のしゃべるスペイン語はとても美しい響きがあり、エクアドル人よりも上手ではないかと思わされた。書いたりすると、実際向こうの人より、はるかに正確だった。

 

材積表

さて、作成する材積表はS/W(Scope of Work : 調査の枠組み ; 調査の内容を決め、最初に二国間で結ぶ協定書)調査団が概ね打ち合わせていたが、決まったものではなかった。そこで先発隊がエクアドル側と詳しく打ち合わせ、現在調査地域内で伐採利用されていて、かつ大木となる樹種6種とその他の樹種に分けて、2つの材積表を樹皮付きのものと樹皮無しのものと合計4種類のものを作成することとなった。その樹種はエクアドルではチュンチョ(Chuncho)、グアランゴ(Guarango)、イゲロン(Higueron)、グアパ(Guapa)、サンデ(Sande)、サポーテ(Zapote)と呼ばれている樹種だった。これは重要な決定だったので、その経緯を知っているべきで、私はやはり、これらの打合せの時には先発隊でいるべきだったと思った。

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どこまでも続くアマゾンの原生林

 

原生林の上空から.jpg

原生林の上空から

 

 

つづく

今年もまたやって来ました!

ゼンシンの日々

今年もまた自宅の玄関にツバメが巣作りを始めました。これで3年連続になります。(ちなみに去年は2回も掛けました。)

ただし今年は少々複雑な気分ではあります。

というのも我が家も築10数年が経過し、屋根と外壁が大分劣化してきたため思い切って3月に屋根と外壁を塗装したのですが、工事が完了して1か月少々しか経っていないのに、もう玄関周りが泥と糞で汚れだしたからです。(家族中ブーブー言ってますが、皆半ばあきらめてます。)

 この間ラジオで言っていたのですが、最近は糞害から巣を撤去してしまうところが多いらしく、ツバメの巣が減っているみたいです。

 

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 写真上:4月末頃   写真下:現在

4月末頃から通い始めて、現在巣は完成していますので、これから卵を産んで、雛が孵って、成長し巣立っていくまでの間、また掃除が大変ですが、これも縁起物ですし、我が家ではもう少し我慢することにします。 

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5月の駒ヶ岳

社窓


5月の駒ヶ岳

今年は、3月が例年になく暖かかったと思ったら、

4月は一転して例年にない寒さ(>_<)

冬物がなかなか片付けられない日が続いています。

皆さんは体調を崩されていないでしょうか?

GWも終わり、そろそろ本格的に暖かい気候になってほしいものです。

 

 

[南アルプス]

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【森林紀行No.1 4/18】「キトーにて」

森林紀行

到着

キトーの空港では先発隊が借りあげていたレンタカーで出迎えてくれ、予約してあったホテルアラメダに向かう。ホテルアラメダはキトーでは高級なホテルだった。

チェエクインした後に町を散歩する。まだ、キトーの町がどのようなものだが皆目わからなかったが新市街と旧市街とに分かれているキトーで、ホテルアラメダは新市街外の中心にあったからまずは新市街を散歩した。日本でいうと銀座通りにあたるカジェ・アマソーナス(Calle Amazonas:アマゾン通り)に行ってみた。

何と乾いて澄んだ空気だろうか、何と深い空だろうか。キトーは標高2,800mの高地だ。それでこんなに空がきれいなのだろう。ペルーから続いたインカ帝国に来たような気分がした。実際、エクアドルは15世紀にはインカ帝国の領土だった。心は高揚し、何と素晴らしいところだというのが、キトーの第一印象だった。

しかし、どことなく暗い、それは強い光の中でサングラスをかけて見ているような感じだった。空気が乾燥しひんやりしており、夕方でビルの影が長くなってきて、光の強度が落ちて来たためだったのだろうか。赤道直下の高地だからコントラスが強いのであろう。

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キトー市、先住民も多かった

 町で見つけたカンビオ(Cambio:両替商)で早速、当面必要な自分の費用をドルからスクレ(Sucre:当時のエクアドルの通貨)に変える。この当時1ドルが約110スクレだった。円は1ドル約250円だった。

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 町で物売りをする先住民

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MAGからキトー市内を望む(1985.7.11)

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キトーから見える山ではピチンチャ山(4839m)が最高峰。中央のとがったところ

 

翌朝の不思議な頭痛

翌日起きると二日酔いのように頭が痛い。おかしいな?昨晩はアルコールは一滴も飲まなかったのに。時差で眠くてしょうがなくすぐに寝てしまったからだ。何だろうかと思っていた。しかし、朝食を食べ終わった頃には頭痛はなくなっていた。「そうだ。高山病だ。そうに違いない。」キトーの標高は2,800mもあり空気が薄いのだ。その後どこへ行っても階段を上ると息が切れるのがわかった。その後キトーに着くたびに翌日は同じ様な頭痛が起こった。

メンバー全員合流

前述したが今回の調査の目的は、2つに分かれていて、立木材積表作成調査グループと航空写真の撮影グループだった。メンバー全員が合流して、先発隊のMAG(農牧省)森林局での打合せ内容、準備作業の状況、今後の調査方針などを打ち合わせる。

ホテル

ホテルアラメダ

最初キトーで滞在したホテルは、既に述べたアラメダであった。値段は一流であり、部屋はまあまあ良かったが、全体としては一流半と言ったところであった。アラメダの長期滞在は経済的にちょっと大変だったので、そのときキトーに事務所を持っていた商社にも世話になっていたので、商社の方に紹介してもらい、もっと手頃なエンバシーというホテルに翌日7月10日に移った。ただ、アラメダのロビーは使い易かったので、人との面会や打合せに良く使わせてもらった。

ホテル アラメダの案内の女性

ホテルでキトー市内の地図を買ったり、絵葉書を買ったりした。

ホテルアラメダのインフォーメーションに座っていた女性は感じが悪かった。何かを聞いた時に、彼女が何と答えたか私には良くわかったのだが、スペイン語の練習のつもりで「Perdón. Otra vez, por favor? すみません。もう一度お願いします。」と言ったところ、「うるさい。あっち行け。」と言われた。まだこのときは、このような女性をなだめるほどスペイン語はうまくなかった。これでホテルアラメダの印象がすっかり悪くなった。

ホテル エンバシー

エンバシーは普通のホテルのスタイルの部屋とアパート形式のホテルがあり、アパート形式では、中に入ると大きな居間と2?4部屋くらいに分かれているタイプがあり、打ち合わせや、作業を行う関係もあり、アパート形式の部屋を借りることが多かった。値段が手ごろで居心地も良かった。

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 ホテル エンバシー

 

つづく

麦草峠

ゼンシンの日々

小海町の調査の帰りに、昨日4月18日(木)午前11時に冬期間の通行止めが解除された、茅野市と小海町を結ぶ国道299号(通称メルヘン街道)にある「麦草峠」標高2,127mを通ってきました。

道路の周りは、雪景色で除雪された雪の壁が1.5m位あったかと思います。

おりしも今日19日は、気温も低くすごく寒かったです。歩いていた人も冬支度でした。

夏の避暑や秋の紅葉の時期に訪れて見るのもいいかもしれません。・・・・NK

駒ヶ根の春

ゼンシンの日々

京都から信州駒ヶ根に移住して、5年目に突入しました。

いまだ体が慣れきれない、駒ヶ根名物のひとつである “凍み”

(=しみ、と読みます。信州では冬の朝の挨拶は、「今朝は凍みるね!!」から始めるのが大人のたしなみです。ちなみに、関西圏では高野豆腐と称されていたスポンジみたいな食物が、信州では凍み豆腐と呼ばれています。その他に、凍み大根、凍み餅(別名:氷餅)などがあり、信州人の「凍み」好きは留まることを知らない。)

がやっと終わり、春が猛ダッシュでやって来ました。

この時期は空気が澄んでいて、中央アルプスの山景色は素晴らしいです。


現在、駒ヶ根市内の至るところで、花が見頃となっています。

 

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【森林紀行No.1 3/18】「いざエクアドルへ」

森林紀行

先発隊が出発

第1回目の調査は、エクアドルへは初めて行くことになるので、先発隊が約1週間早く出発し、エクアドルの森林局と調査計画を打合せ、調査用の車両の手配や必要な資機材の調達などの準備作業を行うことになった。先発隊は、団長と団員のY君、それと航空写真の撮影をエクアドルの機関に委託して行うため、その契約と撮影監督のため、UさんとNさんの2人、合計4人が1985年7月1日に出発した。

私は後発隊となったのだが、この調査はすぐに私を中心に動くことになったことを思えば、先発隊で出発すべきだった。というのは、調査の立ち上げ時には、相手国の森林局とお互い見知らぬ同士、相当の緊張感を持って、会議、打合せをする最も重要な時期だったからだ。特に最初の会議で決まったことは後々まで影響するし、それを他のメンバーから伝え聞くだけでは、私自身の理解が十分でなくなる恐れもあったからだ。

最初に相手国と打ちわせる時には、本来、団員全員が出席するべきであると私は思っていたが、準備作業には、それほど多くのメンバーも必要ではあるまいという上司の意見に押されて、私は先発メンバーからはずされてしまった。その時、強く主張すれば私も先発メンバーに入れたが、初めて行く国での調査の立ち上げ時の困難さは、私が南米で最初に調査したパラグアイで経験しており、それに団の中での私の担当は、立木材積表作成の中心的技術者ではなく、補佐的な立場になっていたので、自分が先頭に立って行うというモチベーションが失われ、そのような意思と自覚にも欠けていたのである。

団長とY君が先発隊となったのは、エクアドルのカウンターパート機関(共同作業機関の森林局)への説明や交渉などを団長が行うのは当然のこととして、Y君はスペイン語がかなり上手になっていて団長補佐として適任だったからである。もちろんエクアドル国内で、通訳は雇うことになっていたが、団の中にも言葉ができるメンバーがいることは大きな強みだった。Y君は既にかなり込み入ったことでも通訳をできるくらいのレベルになっていた。それというものY君は青年海外協力隊で中米の国に2年間派遣され、スペイン語の基礎を身につけ、その後、この調査と同じ様なパナマの調査団のメンバーとなり、現地調査の後、何百ページもある報告書の翻訳を翻訳会社から派遣されたスペイン人と二人でかなりの長期にわたり、小部屋に閉じこもって、その作業にあたり、スペイン語の能力を飛躍的に向上させていたからだった。

さて、調査をするうちに、私は段々と先頭に立ち、責任感が増してきた。というのは、本来仕事の責任は団長がすべて取らなければならないはずであるが、団長が調査期間中、常時エクアドルに滞在しているわけではなく、団長の不在中は私が団長の代理をしなければならなかったからである。その結果、この仕事を通じて私が仕事を動かして行くのだという意思と自覚が強くなったのである。

 

後発隊として日本を出発

何はともあれ約1週間遅れて、1985年7月8日(月)に、後発隊として、WさんとI君との3人で日本を出発した。

成田空港17時20分発のJL0062便でロスアンゼルスに、差の関係で同日午前11時5分に着いた。ロスアンゼルスまでは、パラグアイの調査の時に何度も通った道で、もう目新しさは感じなかった。

ロスアンゼルは13時半に出発し、マイアミには21時15分に到着し、ここで一泊した。この間はアメリカの国内線で、パンナムを利用したが、そのサービスの悪さには閉口した。例えばパンを食べるのにも買わなければならず、それが6ドルで、10ドル渡すとおつりをすぐに持ってこないのであった。下りる間際までに何回かの催促をして、ようやく持ってくるありさまであった。催促をしなければ持ってこなかっただろうし、スチュワードはチップとしてごまかそうと思っていたのかも知れない。

マイアミに到着したのは夜で、予約してあったホテルまで空港のタクシーを利用したが、最初のタクシーには乗車拒否にあい、次のタクシーでホテルに向かった。何となく馬鹿にされた気分に陥ったが、1人でいてモンモンとするのではなく、3人で旅行していればストレスも3分の1で、何より安心感がある。

Wさんは人生を楽しむという点では人一倍長けていたから、ホテルに夜遅く着いたのにもかかわらす、バーに飲みに行こうという。一緒に一杯飲んでいるとアメリカに着いたばかりの緊張感が解け、リラックスでき、元気が出てくるのを感じた。リラックスさの重要さを改めて認識した次第である。

翌日7月9日(火)にマイアミを早朝出発し、午後2時にキトーに着いた。エクアドルには5,000m以上の高山が多い。天気が良ければ離着陸時はそれらを見ることができる。エクアドルの最高峰チンボラッソ山(Chimborazo)6,310mとカリウアイラッソ(Carihuairazo)山5,018mとも知らずに撮ったのが次の写真である。この他コトパクシ山(Cotopaxi)5,897m、カヤンベ山(Cayambe)5,790mなど有名なコニーデ型火山があり、赤道直下ににもかかわらず頂上付近には万年雪を抱き、その美しさは富士山に勝るとも劣らない。

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エクアドルの最高峰チンボラッソ(Chimborazo)山(6,310m)とその隣のカリウアイラッソ(Carihuairazo)山(5,018m)。共に火山

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キトー(手前が旧市街、ビル街が新市街)

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旧市街の市場 (1985年)

 

つづく

桜満開

社窓


桜満開

会社の前にある公園の桜が、今年は4月8日に満開になりました。

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6日夜中にきた爆弾低気圧にも屈せず、きれいな花を咲かせています。

穏やかな陽気と桜の花に誘われてお花見にでも行きたいものです。


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4月の駒ヶ岳

社窓


4月の駒ヶ岳

今年の新入社員は 『八重の桜』 一人です。

それにしても、この世界も 「日本男子何処へ・・・」 といった感じもあります。

とは言っても、仕事に男性・女性は関係ありません。

とにかく、謙虚に、どん欲に、頑張ってほしいと思います。

 

田中

 

新入社員紹介


 

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◇砂押 里佐

[出身地] 茨城県

[出身校] 宇都宮大学

[趣  味] 散歩・登山

[好きな食べ物] ホタテ (特に、バター醤油。最高!!)

[集めているもの] カエルのグッズ (リアル可愛いもの)

[やってみたいこと] 渓流釣り

 


 

[南アルプス]

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