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【増井 博明 森林紀行No.8 中国編】 No.1_河北省張家口市赤城県へ

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筆者紹介



7月23日(日)
 この紀行文は、中国で北京オリンピックが開催されている真っ最中(2022年2月前半)に書いたものである。オリンピックのスキー会場は張家口ゾーンである。そこで張家口市のことを思い出したのだ。今から16年前の2006年の7月に、この周辺の森林を調査したことがあり、広大な中国のごく一部ではあるが、今回はその時のことを書いてみたい。例により日記風な紀行文である。

出発(家から成田空港へ)
 2006年7月23日(日)のことである。京成上野駅発10時40分発の成田空港行に乗るつもりで家を出発したが、わずかの差で乗り遅れた。次のスカイライナーは11時20分であった。駅でコーヒーを飲んで時間をつぶしていたらあっという間に時間が過ぎ、次の11時20分のスカイライナーに乗った。12時20分頃に第2ターミナルに着いた。
 出発ロビーに上がると今回の同行者のShuさんは既にロビーで待っていた。Shuさんは同じ部で働いており、台湾出身で母国語が中国語なので、中国関係の仕事を受け持っており、今回は私の通訳兼秘書兼助手だった。つまりは、仕事の同僚との出張ということだ。
 私は宅配のabcのカウンターに行き、スーツケースを受け取って、すぐに二人で登場手続きをする。中華航空のビジネスだ。エコノミークラスの受付は多くの人が列を成していたがビジネスだったのですぐに搭乗手続きは終わった。
 パスポート審査を受け、中に入り、コンコースDへモノレールに乗って行く。当時、成田空港にはこのモノレールがあったが、今は廃線となっている。あまりに短く、必要性がなく、不便で不評だったからだろう。
 ラウンジに入る前にお土産用にタバコを買う。この頃、中国ではまだタバコがかなり吸われているとのことだった。ピースとセブンスターを2カートンずつ、計4カートン買う。
 ビジネスのラウンジには、色々食べ物もあり、昼飯として食べることができた。私が中国へ行くのは、この時が初めてだったが、Shuさんはこの仕事に長年関わってきたので、今までの経緯を色々とおさらいさせてもらった。そして、この旅を気楽に行こうとビールで乾杯。

離陸
 14時55分発が1時間近く遅れて、日本を発ったのは16時くらいだった。北京時間の午後3時だ。東京と北京の時差は1時間だ。席は3Aと3B。すぐに機内食がでて、ビールも頼む。ドイツビールで美味かった。食事は鮨、まずくはなかったが、うまくもなかった。機内での鮨は今一だ。少し眠ったらもう北京に着陸とのアナウンスがかかった。正味3時間ちょっとである。

到着
 荷物を取り、通関し、空港の自動換金機で100ドルを換金しようとしたが、うまく通らなかったので、あきらめて人のいる窓口で換金した。当時、円だと1元15円くらいだった。

北京空港

 外へでると河北省と張家口市赤城県の関係者と運転手もいれて合計で、6人もの人が出迎えに来てくれていた。熱烈大歓迎である。地下の駐車場へ行き、車に荷物を積む。車は2台ともランドクルーザーのようなタイプの車だ。

北京市から張家口市赤城県へ
 この日は、北京市には泊まらずに、これから仕事をする河北省張家口市赤城県に向かった。張家口市は河北省内の北西部にある。中国の行政区は市の下に県があり、市の方が大きくて、県の方が小さいのは日本とは逆だ。そこまでは北京から約100㎞で、車で2時間ほどとのことだ。ちなみに河北省には今回の調査対象の北京市、張家口市、承徳市が含まれている。

 外にでると、早速汚染された空気の匂いを感じた。さて、これから一緒に仕事をする仲間がここからずっと北京に戻るまで一緒に過ごすとのことだった。えっ。そんなことは思ってもいなかった。確かに熱烈大歓迎だったけれど、いつも一緒の行動では、自由がない。まあ、歓迎を装って自由に行動できないように見張っているということなのだろう。こちらには何もやましいことも悪いこともしてはいないのだからどうということはない。ただし、彼らには国家機密というほど大げさなものではないが、援助を受けている植林は必ず成功しており、上手くいっていない場所などは見せられない、だから我々が案内するのだ、といったことがあるのかもしれないと想像させられた。
 とは言うものの、それまで仕事をした中南米やアフリカの国とは違い、また東南アジアの国とも違い、外国にきたという感じがなく、強い親近感を抱いた。単に顔立ちが同じだからだろうか?これは、日本人だって元をただせば、中国大陸から朝鮮半島を渡ってきた渡来人だろうし、元を正せば同根というところから来ているのだろうか?
 そこで、中国、韓国とは戦争というひどい過去はあったが、聖徳太子の時代には中国、朝鮮の文化が日本に持ち込まれたのだから、そういったものを乗り越えて、よりわかりあえるのではないかと到着したこの瞬間には思わされた。これから徐々にカルチャーショックを受けるのではあったが、まずは親近感を覚えるというポジティブな軽いカルチャーショックである。

最初にみた北京の街並みの印象
 北京の町並みはどのようだろうか。空港を出発した後、古い建物(家屋)は見えるのだろうかと思っていたところ、素晴らしく幅広の高速道路の連続で、超高層のビルが余裕を持って林立しているのが見えるだけで、古い建物は見られなかった。東京では近代的なビルの谷間に古い民家が残っているのが見られるのだが。早くも自分のイメージと違った軽いショックを受けた。
 かつての中国は、ニュース映像などでは、自転車があふれているという印象もあったが、もう町には自転車は見られなくなっていた。GDPで日本を追い越したのは2011年のことだったが、この2006年も中国は急速な経済成長を続けていたのだった。
 しばらくすると雷が鳴り始め雨が降り始めた。段々と雨が激しくなる。7月は雨期なのだ。夜と雨ではっきりは見えないものの、「スケールが東京とは違い過ぎる。でかすぎる。」とまた軽いショックを受ける。
 河北省のRiさんが助手席に乗り、Shuさんと私が後ろの座席でShuさんが通訳してくれる。Riさんに今までの経緯のお礼や今回の調査を改めて頼み、丁寧なアテンドのお礼などを言う。雨が降っていたせいか、半袖では寒い。薄いジャンバーを羽織る。日本も天気が悪かったが北京も雨だった。

途中のレストラン
 1時間ほど、午後8時くらいまで走って、途中の町のレストランに入る。Riさんが沢山の料理を頼み、早くも接待攻勢を受けているという感じだった。日本からの援助で植林が進んでいるということへの感謝の気持ちを表しているのだろうが、以後の役所がらみの接待ではより多くの援助金を引き出したいという目論見が透けて見えることも多かった。
 シャブシャブのようなスタイルで薄い羊肉を沸騰したタレに入れて食べる。タレはトオガラシの効いた辛い方がおいしいが、辛すぎるので、私は、ゴマタレの方を多く食べた。それから沢山の炒め物が出る。
 料理の種類や量はやたら多いが大味で、繊細な料理といった感じは受けず、少しがっかりした。
 酒は、ここの地酒の蒸留酒(白酒:パイチュウ)をRiさんが頼む。すぐに乾杯(カンペイ)となるが、乾杯だと本当に一気に飲み干さなくてはならないのだ。何しろ飲むときに自分一人で、手酌のように飲んではならず、飲むときは、誰かと一緒に必ず乾杯か随意(スイイ)と言って飲むのだ。スイイであれば人に強要されることなく、好きなだけ飲めば良い。皆が乾杯、乾杯といってくるので、これではすぐに酔っ払ってしまう。小さいチョコではあるが、私には無理なので随意(スイイ)でお願いする。
 最初は、少し飲んだだけでむせてしまった。度数を見ると58度であった。むせるはずである。口の中でアルコールがサット広がるのだ。飲めないはずである。しかし、これだけ強い酒だととてもおいしい。
 河北省のFonさんというのが陽気で色々と話をしてきて面白かった。Fonさんを見ていると、白酒(パイチュウ)を飲んだらすぐに何かを食べるか、お茶を飲むかビールを飲んで一挙に酔っ払わないようにしていた。これを見習わないとすぐに酔っぱらってしまうなと思い、良い参考になった。ビールは燕京ビールといい、アルコール分が薄いのは良いが、とても不味く感じた。しかし、酔わないためにはビールを水代わりに飲むのは良いのだろう。今は燕京ビールもきっともっとうまくなっていると思う。因みに燕京は北京の古称とのことだった。
 夜9時半くらいに食事が終わり赤城県に向かう。

赤城県のホテルに到着
 赤城県に着いたのは夜中に近い、午後11時過ぎだった。温泉地である。宿泊は温泉賓館というホテルだった。赤城県の職員の女性2名が夜遅いのにもかかわらず、待っていてくれた。年頃は30代と40代くらいに見えた。若い方は、美人だったが、話しかけても全く愛想がなく、「接客業とは言っても日本のようなサービス精神はないのだ、さすが中国。」と妙に感心した。

温泉賓館
 用意していてくれていた温泉賓館は赤城県のゲストハウスで、結構大きく立派で、7階立てで、全部で100室くらいはありそうだった。しかし、室内の設備の作りは悪かった。温泉なので湯船に湯を溜めて入れば良いといわれたが、お湯を入れると栓が緩くお湯が漏れてしまう。湯船からのお湯は排水溝に直接繋がっておらず、風呂床にお湯があふれた。大したことはなかったが、遅いので風呂に入るのは止めてシャワーのみにした。
 電話もついているのだが、内線のみで、市内も市外も通ぜず、インターネットはできないことがわかった。
 空港で待っていてくれて、北京から一緒に来た河北省と赤城県の関係者全員が、同じホテルに泊まった。明日の朝は8時半に朝食とのこと。ここでは関係者一同朝から晩まで同一行動とのことと念を押され再度びっくりした。


つづく

[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.1_清流に感じた多摩川

森林紀行

【はじめに】
 地域探訪の小さな旅として、最初に、2021年12月初旬に歩いた多摩川周辺散歩について書いてみたい。新型コロナが出現する以前は、主に低山を登っていたが、新型コロナ禍となった後は、感染を避けるため交通機関を使うのを止めて、家から歩いていける場所を目的地として長距離散歩をすることにした。地域探訪といっても身近な場所である。しかし、身近であっても初めて歩く道は、無数と言っても良いほどあり、そこには何らかの発見があり、とても興味深いことが分かった。その後、緊急事態宣言が発せられ、その間は家に閉じこもってこの長距離散歩もやめていた。ところが、昨年(2021年)10月くらいから東京も感染者が激減し、交通機関の利用も心配なくなったので、電車に乗って行ける場所へ目的地もシフトし、長距離散歩を再開したものである。しかし、2022年になり、またオミクロン株が流行し始め、今後どうなるかわからないが、最近歩いたこの多摩川周辺の散歩を最初の地域探訪の小さな旅として書いてみる。

【コース】
 今回のコースは、南武線の久地駅からか神奈川県(川崎市)側の多摩川沿いに登戸方面まで歩き、水道橋を渡り東京都に入り、多摩川沿いに二子玉川駅まで(狛江市と世田谷区)である。

久地駅から歩き始め、二子玉川駅まで歩いた

【久地駅で待ち合わせ】
 前日は雨だったが、この日は快晴の良い天気で幸いだった。いつも散歩する友人と南武線の久地(くじ)駅で、10時に待ち合わせた。10時少し前にお互いに久地駅に着いた。

【途中駅で偶然の出会い】
 久地駅に行く途中、偶然なことに、府中本町の駅で、私が、国分寺でギターを習っている先生とばったりと出会った。そこから久地駅まで一緒に行った。近所とは言え、府中本町駅でばったり出会うのは、かなり低い確率であろう。

【久地駅から多摩川へ】
 久地駅で友人と出会い、そこから多摩川に向かう。駅のすぐそばに寺院があった。天台宗の青龍山龍源寺で、保育園が併設されていた。いつもは寺院も見学していくのだが、この日は裏側を素通りして多摩川に向かった。

裏から見た清流山龍源寺

【向の岡工業高校】
 多摩川に向かって歩いていくと、多摩川の沿いに神奈川県立向の岡工業高校がある。高校も目的地の一つだ。そして目的の高校に向かって歩いている時に周辺にある神社仏閣や珍しいものなども訪れるのだ。この高校のかなり広い敷地は、多摩川沿いだから取れたのであろう。

向の岡高校のグランウンド側から

【きれいになった多摩川】
 向の岡工高沿いの道路を渡ると多摩川である。ここから上流に向かい、登戸方面に堤防道路を歩いた。この堤防道路を、この時一緒に散歩している友人とはるか昔の若い時、川崎からこの堤防道路が終わる府中まで往復約40㎞を走ったことがある。懐かしい思い出だ。この日の、多摩川沿いは風が強く、寒く感じた。川沿いを離れて街中を歩くと日差しが強く暖かく感じた。

多摩川

 多摩川は私が高校生だった半世紀以上前は下流の堰などでは、泡が飛び交う汚染された汚い川だった。処理されない下水などが流れ込んでいたのだ。その後、環境規制が徐々に厳しくなり、汚染水が流れなくなり、今はきれいになり清流のように見える。冬なので微生物や水生昆虫の活動も不活発なこともあり、とてもきれいにみえた。

【多摩川にかかる橋や河川敷の施設】
 向の岡工高からすぐに東名高速の多摩川橋をくぐる。そこから上流に向かって堤防の上の道路を歩く。走っている人やサイクリングをしている人も少なからずいる。自転車がかなりのスピードで追い抜いたり、向かってきたりするので危ない。時々チャリンとベルを鳴らすものもいて、ここは歩行者優先なのにとんでもない野郎だなどと友人が言う。遠くに小田急線の橋もきれいに見える。

小田急線の橋

 しばらく行くと河川敷にフットサル場もある。サッカースクールなども併設されているようだ。

【多摩高校】
 このフットサル場の町側には神奈川県立多摩高校がある。多摩高校の周辺を一周する。この高校の敷地もかなり広い。やはり河川に近いのできっと創立当時に敷地が広く確保できたのであろう。
 都立にも多摩高校という名の高校があり、それは青梅市にある。同じ地名を取った学校ではあるが、県立多摩高校は多摩川の中下流で都立多摩高校は上流にある。こことは随分と遠くに離れている。

神奈川県立多摩高校
多摩高校の入り口にあった日時計。ほぼ11時。

【宿河原の堰】
 多摩高校から上流に向かって歩く。河川敷には縄文時代の遺跡もあるようだ。しばらく歩くと宿河原の堰がある。ここには沢山のシラサギがいた。コサギかチュウサギだ。宿河原の堰から取水して、ここから二ヶ領用水(宿河原用水)がスタートするとのことだ。江戸時代初期に農地に水を引いたそうだ。

写りが良くないがシラサギが多数いた
宿河原の堰

【船島稲荷大明神】
 宿河原の堰とほぼ同じくらいの位置の河川敷に船島稲荷大明神があった。鳥居の名前には「正一位稲荷大明神」と書かれてあった。治水興能の守り神だ。

船島大明神
同上

【水道橋】
 それから小田急の橋をくぐる。ここは登戸駅のすぐそばだ。それから少し上流に行くと歩いても渡れる水道橋がある。ここを渡り川崎市側から東京都側の狛江市に入る。水道橋の中間には東京都と神奈川県との都県境の標識がある。
 ここには昔は、「登戸の渡し」があったそうだが、1953年(昭和28年)に相模川の水を都心へと送る「導水管」の建設の際に、道路と水道管の併用橋として架橋され水道橋と名付けられたとのことだ。その後、交通量の増加や橋の老朽化により、新たな橋が2001年(平成13年)にかけられたそうだ。橋の長さは約360mだ。

多摩川水道橋
水道橋からの景色
水道橋の中間にある都県境

【都立狛江高校】
水道橋を渡った上流側には都立狛江高校があり、高校の周囲を回った。

多摩川と都立狛江高校

【小田急線の和泉多摩川駅へ】
 狛江高校から今度は下流へ向かって歩く。近くに小田急線の和泉多摩川駅があった。この駅の下のスーパーで昼食を買い、多摩川に出る。

小田急和泉多摩川駅付近

【多摩川の河川敷で昼食】
 多摩川の河川敷の緑地にベンチがあったので、そこでスーパーで買った昼飯を食べた。ここは多摩川緑地公園グラウンドだった。

多摩川緑地公園グラウンド。水道橋方面を望む

【多摩川の川沿い】
 天気が良いものの風が強いので、ゆっくりと川沿いを双子玉川駅まで歩いた。途中、警視庁の教育センター(白バイ訓練所)などがあった。

【駒沢大の玉川キャンパス】
 東名高速の下をくぐりしばらく歩くと駒沢大学の玉川キャンパスがあった。相撲部という看板もあり運動場も見えたのでスポーツ専門の施設のように見えた。多摩川と玉川と二つの漢字があるが、その違いは、川を示す場合は多摩川で、この周辺は玉川という地名のようだ。

駒澤大学玉川キャンパス
同上

【双子玉川駅から帰宅】
 その後、多摩川の河川敷には、ラグビー場や野球場など様々な運動施設があった。二子玉川駅に着いたらそこから溝の口駅まで歩く予定だったが、歩行数も3万歩も越えて、ここからの道路は交通量が多いので、この日の散歩はここで終わりにし、二子玉川駅から電車に乗り溝の口駅に出て、溝の口駅で友人と別れ、帰宅した。

【今回の小さな旅の感想】
 今回一番印象に残ったのは、再発見ではあるが、多摩川がとてもきれいになったことである。多摩川がこれだけきれいになり下流の京浜工業地帯での大気も海も相当にきれいになっている。これならCO₂の排出も少なくなっているのではないかと感じるが、そうは問屋が卸さないのである。これは日本では巨大な火力発電所が石炭火力で動いていたり、車の総量が多いので、今のところはCO₂はなかなか減らせないのだ。日本も早く石炭使用から再生可能エネルギーへ、車もEVの製造過程ではCO₂排出を抑える方向でEV車へ早急にシフトすべきであろう。
 これ以外に、東京は神奈川にも広々として気持ちよく散歩できる場所があることが発見できた。また、広い河川敷の土地利用には、様々な運動場やドライビングスクールなどもあることがわかった。
 しかし、普段は穏やかな流れの多摩川ではあるが、2019年の台風19号では堤防を越水して洪水を起こしている。この洪水により下流のグラウンドや道路が被害を受け、復旧に1年以上も要し、時々参加していた月例川崎マラソンもその間、中止となった。
 単純に考えても、普段、幅50ⅿで深さ1ⅿの流れが、洪水時には幅300ⅿ・深さ5mで、流速が10倍になれば、水量は普段の300倍にもなるのである。とてつもない暴れ川となる恐れがある。一部の地域では天井川になっているし、多摩川といえども、今後想定される地球温暖化による台風や豪雨が増加する影響下での治水は、より困難になるのではないかと思わされた。

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.40_ドミニカ共和国

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旅行-成田空港からサント・ドミンゴヘ(ドミニカ共和国)

はじめに
 現在(2022年1月)、世界は依然としてコロナ禍にあり、自由に観光旅行はできない状況にある。昨年末には、デルタ株は一旦収まったかに見えたが、新たにオミクロン株が出現し、今後どのような状況になるか予断は許さないところである。現在でもビジネスなどで許可証持っている方は、旅行はできるだろうが、一般人の観光旅行は当分難しいであろう。私は仕事で海外に行っていたので、今では観光旅行を楽しみたい気分であるが、上に述べたようにいつになったら再開できるかは見通せない。そこで今回は、何回も往復した成田空港からドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴヘの旅行を思い出し、旅行の楽しみ感や緊張感を書いてみたい。(カリブ海の国にはドミニカ共和国とドミニカ国があるが、以下ドミニカ共和国はドミニカと記す。)
 今回書くのは、ドミニカへ2回目に行った時のことで、2007年6月2日(土)~3日(日)である。2011年の東日本大震災の4年前のことである。

ドミニカ共和国の位置

経緯
 ドミニカでのプロジェクトの団長をしていた同僚が、ドミニカの現地、パドレ・ラス・カサスという町の奥のペリーキート村という場所で、突然、不幸にも心不全で亡くなったため、急遽、私が派遣され、同僚をサント・ドミンゴで荼毘に付し、遺骨を持ち帰ったのが5月19日(土)だった。その後日本での葬儀を5月26日(土)に行った。プロジェクトの団長は、私が引き継ぐことになり、葬儀の手配や団長交代の手続きなどで、2週間があっという間に過ぎ去った。そして、早くもドミニカへの出発の日の6月2日(土)となったのである。このころはしょっちゅう海外出張だったので、海外用の荷物は、帰国したら衣類は洗濯をして、海外用の荷物として保管していた。そのため、同僚が亡くなった時も、翌日にドミニカに飛ばなければならなかったが、いつでも準備はできていたので、用意は楽だった。

成田空港へ
 6月2日は、朝食後7時15分に家を出た。私の娘は勤めていたが、土曜日なので仕事が休みで、自転車の荷台に私のショルダーバッグを乗せて、自転車を押しながら歩いて駅まで見送ってくれた。そして最寄り駅から南浦和駅、上野駅を経て、京成上野駅からスカイライナーに乗り成田空港へ向かった。JALでニューヨークまで向かうので成田空港の第2ターミナルで降りた。着いたのは8時40分くらいだった。
 前日家から送ってあった荷物を宅配のABCのカウンターで受け取り、すぐにチェックインした。大きなスーツケースを2つも持って行った。1つは自分のもの、もう1つは仕事用である。2週間前に行った時より空港は、大分すいていた。前回はできるだけ早くサント・ドミンゴに行くため、アメリカで一泊しなくとも行けるシカゴ経由で行ったが、今回はニューヨーク周りで行く。ニューヨーク周りだとニューヨークで一泊でき休めるので、体への負担は少なくなり、翌日から仕事をする上でも一泊していったほうが効率的で、楽だった。
 成田空港の土産物売り場で、ドニニカの仕事先のお偉いさんやカウンターパート(共同作業技術者)用に沢山のお土産を買いこんだ。それで空のリックサックが一杯になった。通関してアメリカンエアラインのラウンジに入った。この時は、JALのラウンジがリニューアルの最中で使えなかったため、アメリカンエアラインのラウンジが代わりに使えたのだ。なにしろこの頃は、沢山の仕事を持っていたので、ラウンジに入ってすぐに勤め先に電話し打ち合わせをしたり、家族に電話をかけているうちに11時半になってしまい、飛行機に乗るようにとのアナウンスがあった。
 ラウンジでコーヒーを飲んだり雑誌を見たりする暇がなく、あわただしく、観光旅行とはかなり違うかなというところだった。ただし、わずか2週間前であるが、前回行ったときは、亡くなった同僚の家族を引率しての重い気持ちを引きずりながらの旅だったので、その大変さを思い出すと、この時のフライトは、かなり落ち着いて行くことができた。

成田空港
成田空港 荷物を運ぶ車両

機内
 飛行機は定刻の12時15分に飛び立った。ニューヨークには時差の関係で同日の11時半に着く。約13時間のフライトだ。出発した時刻よりも早い時刻に着くので、時差がなければ過去への旅となる。帰りは偏西風の関係で約14時間半かかる。これは未来の1日を失う旅だ。この路線がフライト時間は一番長いであろう。この機内での半日の間は仕事を忘れて一番リラックスできる時間だった。ニューヨークから先のフライトは、目的地が近づくので、つい仕事を考えてしまうからだ。
 乗ってしばらくすると飲み物のサービスがあり、それから食事となる。缶ビールを1本か2本飲んで、ワインを飲みながら食事をする。昔は和食を食べていたが、この頃はだいたい洋食で魚よりも肉系を好んで食べていた。それは色々食べて肉系が私には一番おいしく感じられたからだった。
 その昔は、映画も大きなスクリーンで皆で見ていたので食事の時は、隣の人との会話も楽しんだものだが、映画も個別に見るようになってからは、イヤホーンをしている人が多く、話しかけられなくなり、会話も楽しめず、フライトでの面白みが一つ減った。
 機内を前から後ろまで、エコノミークラス症候群にならないように、時々歩き回った。ジュースやスナックなどが置いてある場所では、そこにいる人と良く話をした。アメリカへ向かうのでアメリカ人も多く、英語慣らしに良い準備ともなり、頭は日本語から英語もOKに切り替わる。英語の客室乗務員には、休んでいる時に、水やビールをもらう時の英語も、最初のころは「Water, please.」と言っていたが、だんだん丁寧になり、「Can I have water?」とか「May I have another beer?」とか言うようになっていった。
 13時間のフライトはかなり長く、映画を見たり本を読んだりだった。最初の食事をとった後にすぐに眠れて、次の着陸前の食事の時に起こされるくらいの時はとても調子が良いが、眠れないと着いてから余計に眠いので、できるだけ眠れるのが良かった。

ニューヨークへ到着
 さてこの時は、ニューヨークにも予定どおりに同日の11時半に着いた。この時は、降りてからはラッキーだった。前の便の到着客がいなく、すぐに通関できた。到着便が多いと入国審査でパスポートチェックなどに手間取り、多くの人が列をなして待っており、ひどいと2時間も待たされることがあったからだ。荷物を取って、予約してあるホテル・ヒルトンニューガーデンへ行く。ここへ行くには空港内を回る電車で二駅くらい乗ったところにホテルのシャトルバスが付く場所があり、そこで待っていると15分~30分おきくらいにシャトルバスが来る。
 ここは前回泊まったホテルと同じだったから気が楽だったが、一人で旅をしていると、時々これで良いのか不安になったりする。それに大きなスーツケースを2つも持っていて一人だと、トイレに行くのにも容易ではない。この時は昼間だったから良いが、夜で真っ暗であたりが見えなく、初めての場所だと、シャトルバスがちゃんとくるかなとか不安になる。幸いにも何のトラブルもなくホテルに着いた。

JFK空港からホテルに向かう

ホテルにて
 前回の帰りに泊まったホテルである。ホテルには午後1時くらいにチェックインできた。同僚と一緒に来ていればマンハッタンあたりまで行って、見学しても良いが、一人で行って何かあると嫌だし、日本から出発して徹夜状態なので、眠いけれどビールを飲んでからぐっすり眠ろうと、ホテルの売店で小瓶のビールを1本買ったら7ドル(840円:この当時の円ドルレートは120円)もし、あまりに高いのでびっくりした。
 それでビールを飲んで、うつらうつらしながらベッドに横になったら、ブレザーもズボンのそのままで眠ってしまい、気が付いたらもう午後の8時だった。起きていた方が良かったかもしれなかったが、それからレストランに行き食事して、戻ってからまた眠ってしまった。時差で気持ち良く眠れた。出発前の2週間が、ずっと忙しかったので、これで疲れも取れるだろうと思った。

JFK空港へ
 翌6月3日(日)は、午前6時に朝食を取った。12時間くらい寝たので、目覚めはばっちりだった。7時30分のシャトルバスで空港ヘ向かう。バスに乗ってからスーツケースに巻くベルトをホテルに忘れたことに気がついた。前回、帰国時に同じホテルに泊まり、ホテルからJALの乗り場まではシャトルバスで5分ほどと近かったので取りに戻ろうと思ったが、今回はJALの乗り場も過ぎ、次々と色々な国のエアラインの乗り場を止まって行く。アメリカン航空までシャトルバスで30分もかかったので、取りに行ったら乗り遅れる可能性もあるので、取りに行くのはあきらめた。

JFK 空港のjetBlue アメリカの格安航空会社

チェックイン
 8時過ぎに直ぐにチェックインできた。大きなスーツケースを2つ持っていても規定内の大きさと重さで超過料金も取られることはなかった。アメリカはこういう点は厳しくチェックされる。ここでもアメリカンエアラインのラウンジで休むことができた。ここに入っていれば何かと安心で、リラックスできた。

機内にて
 飛行機は午前10時前に離陸した。飛行時間は3時間半ほどだった。機内はスペイン語が飛び交いすっかりドミニカの雰囲気だ。スペイン語慣らしに隣の席の人話をする。頭は英語からスペイン語もOKに切り替わる。
 ここでもしばらくして食事がでる。いつも中継地から目的の国までの飛行の時は、アルコールは飲まない。到着した時に、何かトラブルがあった場合に頭が働かないと困るからだ。数え上げれば切りがない。荷物が着かなかったこと、日本から持ってきた機器が通関できず保税倉庫行きになったこと、お土産も取り上げられたことなどだ。その都度、どうやって取り戻すか頭を悩ましながら交渉しなくてはならない。
 食事が終われば、自然と頭は仕事で、一杯になってしまう。明日のアポイント先の面会予定者ごとに話す内容を反芻し、こういう質問にはこう返すと言った想定問答も繰り返している。その後の予定はどうなっているか資料を引っ張りだし、読み返す。資料は日本語だが、それを訳したスペイン語も読んでいる。段々とプレッシャーがかかってくる。いや、自分でプレッシャーをかけ過ぎていたのだろう。
 さて、飛行中、今までも何回も上空を横切り、降りたことはないキューバを見た。南米に行くときは、続いて、今回の目的地のドミニカやハイチを見ることもあった。午後1時半に予定通りサント・ドミンゴの空港へ着陸した。

到着
 やっとサント・ドミンゴの空港だ。日本を出発してから丸1日以上経過しているからかなり長時間のフライトだった。幸いこの時は何のトラブルもなく通関できた。荷物を持って外に出るとプロジェクトのメンバーと運転手との2人が出迎えてくれた。

サント・ドミンゴの空港

海岸線の通り
 強烈な太陽だった。空港から街中のホテルまでは約30分かかり、海岸線を走った。夜は、治安が悪い場所だと言われているが、昼間は大丈夫だ。前回は余裕がなかったが、今回は、周りをよく見れば、強烈な太陽の下、真っ青の海が見え、とても風光明媚で、カリブ海の景色は素晴らしいところだなと思った。

カリブ海 海の色が美しい
サント・ドミンゴに近いボカ・チカの海岸 強烈な太陽
サント・ドミンゴの街に近い場所にある海岸沿いのレストラン
別な時期の夕方

ホテルや街
 サント・ドミンゴの街に入り、この辺りでは、やや高級なホテル・サント・ドミンゴへチェックインする。前回も泊まったホテルで、その後もサント・ドミンゴでは常泊としていたホテルだ。建物は古いが、一人でいるには部屋はかなり広く居心地が良い。

ホテル・サント・ドミンゴの入り口
ホテル・サント・ドミンゴの部屋
サント・ドミンゴの市内

 この日は、日曜日。ホテルで落ち着いてからしばらくして、近くのスーパーマーケットに買い物に出かけた。暑くて外に出ると汗が噴き出る感じだった。ただし、ホテルの周りでも治安が悪いので、出かける時はいつも車だ。もちろん運転手が待っている。行った先は、巨大なショッピングセンターで、ここで必要なものは何でも手に入るのだった。ホテルに戻ってから、同僚に仕事の状況はどうなっているか、ずっと説明を受け、明日の月曜日からの仕事に備え、急ピッチで準備を進めるのであった。

 観光旅行気分を味わおうと往きの旅行時のことを書いてみたが、書いてみるとやはり仕事の旅行になってしまい、開放感が味わえないなあと思ったが、致し方がなくご容赦願いたい。


つづく 

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.39_アルゼンチン

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南米6ヵ国訪問(アルゼンチン)

【チリのサンティアゴからアルゼンチンのブエノス・アイレスへ】
 チリの首都サンティアゴでの仕事が終わり、次はアルゼンチンのブエノス・アイレスへ向かった。アルゼンチンへはパラグアイの調査をしている時に行ったことがあった。パラグアイに隣接するアルゼンチンのミシオネス州は当時(1980年以前)から植林や林産業も進んでいたので、パラグアイと土地条件が似たミシオネス州の森林や林産業の状況を調査することにより、パラグアイにも応用できるだろうと調査したものだった。パラグアイ側のエンカルナシオンという町から対岸のアルゼンチンのポサーダスという町にフェリーで渡り、アルゼンチンに入国したのだった。これについては、以前、この紀行文の「パラグアイ-造林計画編」で書いた。そういう訳で、アルゼンチンには既に足を踏みいれていたため、ブエノス・アイレスは初めて訪れるというものの、初めての土地という気はしなかった。

【機内からみたアンデス山脈】
 1987年4月10日に、サンティアゴをPA209便にて14:00に出発し、ブエノス・アイエスに15:30に到着した。この間の距離は1,140kmで時差はないので、1時間半のフライトだった。
 アンデス山脈を越えるときには、幾重にも重なった山並みが連なって見えた。地図でみるとこのルートの下には6,000m級~5,000m級の山がかなりある。例えばトゥプンガート山(6,570m)、プロモ山(5,430m)、マルモレホ山(6,108m)、マイボ山(5,323m)、ネバド・ピケネス(6,019m)などだ。氷河で削られた大きな谷のカール地形も見えた。このあたりの山はヒマラヤよりは2,000mほど低いが、同じく荒々しい。しかし、登山者はヒマラヤよりは少ないようで、登頂した人もきっと少ないだろうから登りがいはあるだろう。

手前の谷は大きく削られたカール地形
幾重にも山並みが連なるアンデス山脈

【着陸前の景色】
 アンデス山脈を越えたら、さすがにアルゼンチンの大草原、パンパが続いた。パンパがずっと続いていたが、着陸前のブエノス・アイレスに近い場所では農場である。防風林らしき植林地も見えた。

着陸前。パンパから農場へ。ブエノス・アイレス空港の近郊
ブエノス・アイレス空港の着陸前に見えた防風林らしき植林

【既にパタゴニアに行っていた同僚】
 さて、当時の私と同じ職場で、私より数年先輩の方が、その当時30才前後だったが、専門家としてアルゼンチンに派遣されたことがあった。我々は若かったが、その方は優秀だったので、その若さで、アルゼンチンの森林研究所に林業技術の指導のために派遣されたのだった。帰国後の話では、その方は、その時パタゴニアの森林も調査していた。残念。先を越されたと思った。前回のチリの調査でも書いたが、私は学生の時に「パタゴニア会」を作り、いつかパタゴニアに行きたいと思っていたからだ。その時、私はまだ専門家として派遣されるほどの実力を備えていなかったので仕方がないことだった。しかし、いつかパタゴニアに行こう、きっといけるだろうと思っていた。実際には今でも実現はしていないが。

【IFONA】
 ブエノス・アイレスで訪問したのはIFONAである。IFONAとはInstituto Forestal Nacional で森林研究所のことである。ここは、上述した同僚が派遣されていた研究所であり、その方と常時一緒に仕事をしていた女性の技術者がいた。その方は日本に研修にも来ていたことがあり、私も日本で会っていたので、ここアルゼンチンで再会できてとても歓迎してくれた。そこで、ここでの話は非常にやりやすかった。
 私にこの研究所の上席の研究者を紹介してくれた。この方にアルゼンチンの森林や林業の状況を聞き込んだが、この方の話によるとアルゼンチンにしてもこの当時はまだ森林の基礎的調査が全てできているわけではなく、森林分布や資源量といったものが、地域により把握されていないところがあるとのことだった。特にパラグアイと接する地域はチャコ地域と呼ばれ乾燥地帯であるが、未調査地域だった。この地域だけで、日本の森林面積と同程度の面積の森林があるが、森林内容は把握されていなかった。ここにはケブラーチョやアガローボという名の有用樹があるが、その資源量をアルゼンチン側としては把握したいとのことだった。その土地所有のほぼ1/3は国有地で、2/3が民有地とのことだった。この国有地の中にも農民が無許可でどんどん入植し、森林を伐採し、牧場へ転換しているとのことで、森林消失の圧力は相当に高いということだった。

【「ガウチョ(カーボーイ)」ツアー】
 日曜日に休日の牧場へ気晴らしに行った。ホテルで行っているツアーの一つで、昼にはアサード(焼肉)も食べられるし、ガウチョ(カウボーイ)と遊べることとのことで、きっと楽しいと思い選んだのだった。ところが、牧場の一か所でじっとして過ごしているだけで、退屈で面白くなく、やはりいろいろ動き回って沢山見学したいと思い、私も日本人としての習性が染みついていると思ったものである。しかし、この面白くなかったということが、印象に強く残り、34年経った今でも、鮮明に思い出せるのだ。面白くなかったことのご利益だ。
 朝9時にホテルを出発し、2時間ほどバスに乗り、郊外の牧場に着いた。ブエノス・アイレスの中心地からそんなに遠くに行かなくとも牧場は広がっているのに、何故かかなり遠くまで行った。100km以上は中心街から離れていただろう。
 着いてから、あとはすることがなく、昼食でアサードを食べたり、食べている間に、テントを張った野外舞台でのダンスを見たりして過ごし、その後はカウボーイが馬に乗ってのパン食い競争のようなものを見たり、自分で馬にのって庭を散歩したりであった。すぐに飽きてしまい、ただボーと牧場内で昼寝をしているような状態だった。これがこちらの人には、それがリラックスできて良いのだろう。私は牧場風景もパラグアイの仕事で見飽きていた。それでも忙しく動き回っている日々から解放され、良いリラックスだった。午後4時頃再びバスに乗り、6時ごろにホテルに戻った。しかし、今思い出しても退屈なツアーだった。

ツアーで行った牧場
牧場内で他のツアー客と
牧場の野外テントの中で昼食を食べながら見学したダンス
ガウチョ(カウボーイ)が馬に乗ってのパン食い競争

【ブエノス・アイレスの町】
 ブエノス・アイレスは南米のパリだと言われていた。確かに、古いオペラ劇場(コロン劇場)などがある通りの外観などはそのような雰囲気を醸し出しているようだった。しかし、近代的な街に変身しているように思われた。

ブエノス・アイレスの町
イングリッシュタワー

 写真はブエノス・アイレスの町で見たイングリッシュタワーという名の時計塔である。これはアルゼンチンで起きた1810年の5月革命の100周年を記念してアルゼンチンのイギリス人コミュニティから送られたものとのことだ。しかし、1982年にアルゼンチンとイギリスはフォークランドで戦争に突入したので、それ以来イングリッシュタワーと言う名は変更され、単に記念塔と呼ばれているとのことだった。
 アルゼンチンの5月革命とは、南米のリオ・デ・ラ・プラタ副王領(首都はブエノス・アイレス)で起きた革命とのことで、この革命によりスペインから派遣される上流貴族の副王は廃止され、リオ・デ・ラプラタ革命政府が樹立され、アルゼンチンの独立の契機となったということだ。

【銀行の支店長等との会食】
 ある晩、当時ブエノス・アイレスに支店を持っていた日本の有名な銀行の支店長と商社の方達など6~7人で会食をしたことがあった。とても印象に残った会食だった。会食はこの支店長の方が全般的に話の流れを仕切っていた。私が感心したのは、この支店長の方の話がとても上手な上に、参加している皆さん夫々に上手に話題を振り分け、それぞれから話を引き出すのが非常に上手だったことだ。
 私はどちらかというと遠慮がちにしゃべるよりも聞き役に回っていたが、この時は、私にも上手に話を振ってくれ、皆さんと同じようにいろいろとしゃべることができ、皆さんも熱心に聞いてくれた。会食とはいえ、洗練されたその采配が大変に勉強になったことが強く印象に残っている。
 これ以後、私も大勢で会食をする時は、皆に気を配り、一人でかってにしゃべるばかりの人も時にはおとなしく聞き役にも回ってもらうよう、また遠慮がちの人にはうまく話しを引き出すよう、話を振り分けることが上手になったと思う。

【カミニート】
 せっかくブエノス・アイレスまで来たので、タンゴの発祥地カミニートに行ってみた。スペイン語でカミーノが「道」という意味で、カミニートはその縮小辞で「小道」という意味だ。ここはボカ地区というところにある。ボカは口という意味で、「河口」ということだ。ここはラプラタ河の河口だ。中高生の頃は何故か南米に憧れを持っていた。ラプラタと聞いただけで、心躍る思いがしたものである。実際にこのラプラタ側の上流地域のパラグアイで調査できたことは、ある種の夢を実現できたことであり、このことは既にこの紀行文で書いた通りである。
 さて、この河口は、ヨーロッパからの移民の到着地だったとのことで、この港町は、新天地を求めて来た移民者がひしめき、雑然とした港町だったとのことである。様々な国の人種が共存したため、いろいろな軋轢が生じ、そのフラストレーションのはけ口として、最初は男同士が酒場で荒々しく踊ったのが、タンゴの始まりとのことである。しかし、次第に男は女を求め娼婦を相手に踊るようになり、男女で踊るタンゴの原型が出来て行ったそうである。そしてボカ地区は、船乗り、移民者に加え労働者なども夜な夜な集まり、安酒場でタンゴを踊るようになったとのことである。
 ある晩、この一角にある有名なタンゴレストランに行ってみた。哀愁を帯びたバンドネオンの音、そしてその独特のリズムと踊り、女性は独特のスリットの入ったスカートを着て、足を振り上げたり、あたかも床に着く寸前まで体を倒しそれを支える男の踊り手など、とても印象に残っている。

カミニートの入り口のカフェー・バー
河沿いの店
壁に描かれた絵画、その前で売られている絵画
ボカ地区のラプラタ河の河口
ここで釣れた魚

【アルゼンチンのカフェー・バー】
 また、ある晩、まだ宵の口だったが飲みに行った時に、できるだけ安全で健全そうな店を選んでカフェー・バーに入った。中にはテーブル席とカウンター席があり、カウンター席に座った。カウンター内では数人のウエイトレスが働いていた。その中の一人が「あなたどこから来たの?(ちゃんとした意味は、どこの出身なの?)」と聞かれ、私は「チリから来たよ。」と言った。相手は、「チリ人だよ。」と解釈したはずである。だから「違うね。あんたはチリ人じゃあないね。あんたにはチリ人のなまりがないもの。たぶんボリビア人だと思うね。あたっているでしょ?」と言われた。「残念でした。違うよ。私は、本当は日本人だよ。今回は仕事で、東京を出発してから南米の各国を回って、最近チリからアルゼンチンに来たんだよ。」と、私は、この時、初めて自分のスペイン語がネイティブと間違えられるくらいうまくしゃべれるようになったんだなとうれしく思った。ボリビアは先住民の比率が高いので、祖先がアジア系で日本人に似たような顔の人も多いのだ。そんなことがあり、話が弾んだ。この一晩で私のスペイン語は随分とレベルアップしたと感じたものだった。

【帰国】
 この時は予定していた6ヵ国の訪問が終わり目的も達成できたので、帰国することにした。この当時、日本はバブルの最中であり、世の中全体に余裕があったようで、私も自由に動かせてもらいとても良い経験となった。この後バブルがはじけて日本全体が大変な状況に陥ったのではあるが。
 帰国は1987年4月16日にブエノス・アイレスを20:00にAR332便にて出発し、ニューヨークに向かった。途中リオデジャネイロとマイアミでトランジットで降りたので、空港でお土産を買ったり、コーヒーを飲んだりしてリラッックスできた。ニューヨークには翌日4月17日の午前11時に到着した。一人だったので、ニューヨーク市内も何回か見学しているので、一泊せずにそのままJL005便に乗り継いだ。ニューヨークを13時半に出発し、翌日4月18日の16時半に成田空港に着いた。やはりブエノス・アイレスから成田まで3回のトランジットはあったものの出発してから24時間以上のフライトはとても長かった。余裕があったのだから一泊しニューヨークで疲れを取っていけば良かったと後で思った。とにかく仕事も終わり、無事帰国できた。これで南米6ヵ国訪問の話は終わる。


つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.38_チリ

森林紀行

筆者紹介




南米6ヵ国訪問(チリ)

 パラグアイの仕事が終わり、次はチリに向かった。チリは始めて訪問する国だったのでいささかワクワクしていた。どんな国でもそうだが、初めて訪問する国はワクワクするものだ。初めていった国で実際に自分の目で見た印象は、事前に調べていたことや人から聞いていたこととは、全く違うことが多かった。そこでここでも中学校で習った英語の「Seeing is believing.」を思い出していた。「見ることは信ずることだ。」が直訳だが、ことわざとしての「百聞は一見にしかず。」に相当する訳は、今ではなんとなく分かるにしても、中学のころは百聞という文章が入っていない文章をなぜそう訳せるのか分からなかったことも思い出していた。白紙の状態で、自分の目で見て、その国の印象を受け止めるのが自分なりの正しい評価を得られると経験上思うようになってきたころである。まさに「Seeing is believing.」である。
 さて、アスンシオンのホテル内山田を9時に出発して、空港に9時半に着いた。チリ行きの便はAF209で、11時15分発だった。わずかに遅れて11時25分に出発し、チリの首都サンティアゴに予定通り14時25分に着いた。

アコンカグア
 アスンシオンからアンデス山脈を越えるときには雪をかぶった山が良く見えた。このルートはアスンシオンから南西に向かって飛ぶが、サンティアゴの北北東のアルゼンチン側には南米の最高峰アコンカグア(6,960ⅿ)が見えるのではないかと思っていた。私が若いころまでは地図には7,000ⅿをわずかに超える高さが表記されていたが、その後正確に再測量され正確な標高6,960mとなったのだろう。南米には7,000ⅿを越える山があるのだ、一体どんなところだろうか、ヒマラヤと変わらないのだろうか、いつか登ってみたいものだと高校生くらいの時は思っていた。因みにアコンカグアとは先住民の言語で、「雪の山」という意味と「岩の番人」と言う意味があるとのことである。種族により同じ発音で意味が違うのであろう。
 7,000ⅿを下回ってしまったのは残念だったけれど、学生の時にも、岩波新書の「パタゴニア探検記」を読んでパタゴニアに行きたい、アコンカグアに登りたいと思い、友人達と「パタゴニア会」を作ったりしたものだった。どちらも実現する前に老いぼれてしまったようだ。しかし、この時はアコンカグアの頂上と5kmくらいまでには最接近しただろうし、パタゴニアには自分なりにはかなり近づいたと思った。コロナ禍が収まれば、パタゴニアツアーなどには参加できないとも限らないからパタゴニアに行く機会はまだあるかもしれない。この夢は強い意思を持てば、物理的にはかなえられる夢であるが、この種の夢をいくつか叶えてきた今となっては、夢は夢としてずっと持ち続けている方が楽しいと思う今日この頃である。
 それはそれとして、ちょうどアンデス山脈の上空を飛んだ時に撮った写真は、ネットの画像などと比較して、アコンカグアだと思われる。

34年前のアコンカグア
アンデス山脈

チリの関係機関
 サンティアゴに着き、翌日から関係機関を訪問し、様々な調査を行った。当時チリの森林は、農業省の下部組織のCONAF (Corporación Nacional Forestal国有林公社)という公社が管理し、それとともにもう一つ経済省の下部機関のINFOR(Instituto Forestal 森林研究所)が森林に関する研究機関とのことだった。現在はどちらも農業省の下部組織のようである。森林計画作りに関してはINFORが中心に行っていたので、まずは、INFORを訪ねた。森林情報をどの程度把握しているのか、どの程度の調査の能力があるかを探った。

INFOR(森林研究所)
 直接訪ねて行ったが、当時のINFORのDirector(所長)に面会でき、所長はチリの森林状況を説明してくれた。1987年当時のことであるが、それによるとチリには造林地が120万haあり、そのうちラジアータ松が90~95%とのことだった。2021年現在は造林地は拡大し、倍以上の250万ha程度存在するようである。たとえ人工林であろうとこの地球温暖化の時代、CO2の吸収源としての森林が増えることはうれしいことである。
 ところで、林地はすべて民有地で、国有林は国立公園だけであるとのことだった。そしてその管理はINFORが行っているとのことだった。INFORの主な仕事は国立公園の森林の管理だった。ただし、造林地は民有地であるけれども、その施業指導などは行っており、また、民有地では入植地での森林伐採問題があるとのことだった。実際に、様々な森林調査も行っていた。
 所長も最初は、我々が何のためにチリ国の森林の状況を調査に来たのかわからなくて、日本と一緒に仕事をしようなどということは考えたこともなかったようで、あまりやる気は感じられなかった。

日を改めての議論
 しばらく話しているうちに私が日本の森林や林業の状況などを説明し、人工林の管理としては、人工林密度管理図や収穫予想用なども作り、収穫時にはどの程度の材がとれるかどうかなども予想している、あるいは造林適地区分図なども作成されているというようなことを説明していると急に目が輝いてきて、「それは面白い話だ。私の国ではまだそこまで進んでいないし、私一人で話していてはもったいないし、理解できないこともあるので、専門の技術者を集めるので彼らと議論してもらいたい。」ということになり、3日後の木曜日に、日を改めて意見交換をしようということになった。
 そして木曜日になり、チリの技術者5人が集められ彼らを相手に様々な議論をした。チリは国土が南北に細長く、北から南に向かい14の州に分かれていて、やや南の州での天然林の再生の問題や入植地での森林管理の問題などがあることがわかってきた。
 天然林の再生問題は南緯35度~44度程度(日本でいうと東日本~北海道くらいの緯度)にはブナ科のNotofagusという優占樹種があり、これが有用樹なので、これらの分布や林分構造、特徴を把握し、Notofagusを中心とした天然林森林管理計画を作成したいという意向があった。ただし、民有林なので、政府としては補助金を出し、天然林の再生指導を進めたいとのことだった。
 入植地の問題は南緯45度付近であるが、この地区は人口が少ないので8年前から入植政策を取り、国有地を入植者に払い下げているとのことだった。森林を農地に転換させているので、より具体的に森林と農地の土地利用区分をはっきりさせ森林管理計画を作成しなければならないとのことだった。様々な問題が明らかになってきて、私もチリの森林問題が少しはわかってきた。
 最後に、チリの技術者の実力がみたいと思い、今日の議論の結果をレポートとしてまとめてくれるように頼んだところ、翌日、きちんとした、まとまりのある文章として提出されてきたので、チリの技術者の実力は高いと感じたものである。その当時一緒に仕事をしていた他のラテンアメリカの国では、いつになってもレポートなどは出てこないのが常だったので、きちんとしたINFORの対応に驚いたのである。
 しかし、その後実際に仕事をしたチームの話によると、INFORは研究機関のため共同作業技術者達は皆頭でっかちで、何をするにも議論、議論で体が動かず、現場調査がはかどらず、苦労したとのことだった。私もモロッコで同じような経験があり、これは異文化のぶつかり合いで、折り合いをつけるには、やはり議論をつくさなければならないが、いつまでも平行線になるので、結局、現地調査をしつつお互いのやり方を見ながら双方が納得し、頭の中で考えた方法を現地調査で解決していかなければならないだろうというのが私の今の結論である。しかし、チリ側にしても日本側も議論には妥協せずに頑固な技術者ばかりだなあと思ったことだろう。

首都サンティアゴ
 さて、首都のサンティアゴであるが、訪問した時はあまり天気が良くなく暗い感じで、明るい感じは受けなかった。また、南半球の4月は日本でいえば10月で、これから冬に向かう時期だったかもしれない。

サン・クリストーバルの丘
サンティアゴの市内
サンティアゴの市内
サン・フランシスコ教会

 サンティアゴの町にはサンタ・ルシアの丘とサン・クリストーバルの丘がある。この時にサンタ・ルシアの丘に行ったのだろうと思うが、サンチャゴの町が一望できた。見晴らし台のベンチには、若い男女がいちゃついていて、雇っていた車の40 代くらいの運転手が「ああいうのは、我々には関係のない若者の特権ですな。」と言っていたのを思い出す。私は当時37才だったが、私もそういう齢になってきたのだなあと残念な思いを自覚したのを思い出す。そしてチリの仕事が終わった後はアルゼンチンのブエノスアイレスに向かったのだった。



つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.37_パラグアイ

森林紀行

筆者紹介




南米6ヵ国訪問(パラグアイ)

 ボリビアの次はパラグアイに向かった。ラパスを1987年3月27日(金)の朝7時に飛び立ち、サンタ・クルスに8時に到着した。サンタ・クルスでの出国検査が厳しかったことは前回の紀行文で述べた通りである。その後サンタ・クルスを11時半に立ち、パラグアイの首都アスンシオンに午後1時少し前に到着した。今回のパラグアイの話は以前にも書いたが、リニューアルした。

訪問の目的
 私は、1985年にカピバリという地区の造林計画を作成しており、その後、計画に沿ってまず試験的に植林をしようという話になっており、今回はその進捗状況などを調べにパラグアイを訪問したのだった。

パラグアイの森林局
 私は1979年から1985年にかけて、パラグアイの森林局において、パラグアイ北東部の森林資源調査とカピバリ地区での造林計画調査で、パラグアイの森林局の職員と共同で働いた。そのため、森林局の職員である技術者とは旧知の仲だったので、2年ぶりに訪ねたことで、皆大歓迎してくれた。
 大規模な植林を実行するには事務所や苗畑建設、大量の作業員の雇用など相当な初期投資が必要なため世銀、米州開発銀行あるいは日本から借款して植林を進めようという計画だったが、その前にまずは日本の技術協力で試験的に植林を試みようということになり、日本の専門家が派遣されていた。この方はとても温厚そうに見える方であったが、実際に行っていることはとても厳しくて、つい緩んでしまう南米気質の職員を鍛え上げるには打ってつけの方だった。
 この方は、森林局の職員達と共に、日曜日の午後から金曜日の午後までカピバリの現地に入り、金曜日の午後にアスンシオンに帰り、土曜日の午前中は講義と打ち合わせ、日曜の午後またカピバリに出かけるというハードスケジュールを森林局の職員とともにこなしていた。このようなハードスケジュールに慣れていない南米パラグアイの森林局の職員達にとってはグーの根もでない大変さだった。

カピバリの森林
 カピバリの森林に行くには、アスンシオンからルエダという場所にでて、そこからペドロ・ファン・カバジェーロという北部の町に向かう国道を進み、途中ブトゥという町で東に入り、小一時間進んだところだった。ブトゥのあたりの土壌は、フェラルソルといって灼熱の太陽により風化と養分の溶脱を激しく受け、鉄やアルミニウムなどが集積した赤土である。

ブトゥの町の前の国道

 カピバリの現地の森林は、パラグアイでセドロ、ラパーチョ、ペローバなどと呼ばれ樹高30m~40m、胸高直径は1m以上にもなる良木が伐採され、持ち去られた後の森林だった。それでもまだ胸高直径が50cmほどの樹木はかなり残っており、大木の伐採後に沢山の樹木が更新してきて、藪状となっているような森林だった。この森林の中には大きな帯鋸や丸鋸が沢山残された製材所の跡があり、伐採前には大径木が林立する素晴らしい森林があったことが想像されるのだった。

森林に入る。大径木が伐採された後に藪状となっている
袖群落ともいえる森林

安全祈願祭
 この時、関係する職員全員で、特にパラグアイの森林局の局長もこの森林に入り、これから藪状の木を伐採し、そこにマツを植林するために、安全祈願祭を行った。
 お供え物としてバナナ、リンゴ、パイナップルなどの果物とそれにワインを持って行った。御神酒のワインだ。この周辺の残っている一番の大木をご神木として選定し、その木にしめ縄を巻き、その下にお供え物を供えた。そしていくつかの呪文を唱えた後、「これから山の作業に入りますが、山の神様、どうか安全をお守り下さるようよろしくお願いします。」と日本語とスペイン語でお祈りをしたのであった。こういったことをしたことがない、パラグアイ職員達もこの宗教的かもしれがいが、安全意識を高める行事の重要さを悟り、真面目に行い、その後お互いにさらに意識を高めあった。

安全祈願祭 1987年3月31日

苗畑
 カピバリの事務所に隣接して苗畑も作っていた。マツ類を中心に育てていたが、これを管理する職員も作業員もいかにも南米らしい精神論の規則を作って頑張っていた。彼らは規則は破られるためにあるといつも言っていたが、それは冗談としても南米の人たちは素晴らしい標語を作る能力には長けていると思う。

苗畑

                        苗畑での仕事の時間割 
                         午前  7:00~11:00
                         テレレタイム(お茶)9:00~9:45
                         午後 13:00~17:00
                         テレレタイム(お茶)15:00~15:15

                        月曜日から金曜日まで毎日

(テレレはパラグアイのお茶で牛の角で作った容器の中にマテ茶の葉を入れ、ボンビージャという金属のストローのようなもので、回し飲みする。このコロナ禍でテレレの習慣はどうなっただろうか?)

労働者の精神

Ⅰ 浪費や無駄をしない、不規則なことをしない、非合理なことをしない。


   1. 感じよく「おはよう」と言おう。
   2. 「はい」と言って従う。
   3. 「すみません」と言って反省する
   4. 「どうぞ」、「ご自由に」、「お先にどうぞ」(慎み深く)
   5. ボランティア精神「私がやります」(献身、奉仕)
   6. 「あなた達に感謝」という謙虚さ
   7. 「皆さんありがとう」という感謝
   8. 「あなたの仕事に感謝」という尊敬
   9. 「失うものはない」、「頑張れる」、「耐えらえる」という楽観主義
  10. 「嘘はつかない」という誠実さ

Ⅲ 素直に勉強します
  厳しく実践します
  分かり易い方法で教えます

Ⅳ 孝行と国家への忠誠
 (この標語は、この時パラグアイではストロエスネル大統領で軍事独裁国家であったため書かざるを得なかったのでないかと思われる。)

パラグアイ森林局の同僚達
 この時、私が2年ぶりにパラグアイを訪れたので、パラグアイ北東部の森林資源調査で働いた同僚が家に招待してパーティを開いてくれた。何人かの同僚が夫婦できてくれた。結婚して数年というカップルが多く、私は奥さん達も同僚が独身時代から知っている方が多かった。奥さん達は、独身の時は細めであったが、結婚したら随分とどっしりして、早くも貫禄を見せ、同僚達は尻にひかれているようだった。
 当時、コロナならず、エイズが発見されたばかりの頃で、話していてエイズの話題になった時に、奥さん達は、その感染した後に死に至る恐ろしさを強調していた。旦那達が決して浮気をしないようにと特にこの話題を持ち出し強調するような感じを受けたが、もっともなことである。
 彼らも私と同年代だったので、今は70才前後になっているはずである。

当時撮影した写真
 その他当時撮影した写真を掲げる。

森林局の前の建設中のビル:1980年当時地下を工事中だったが、7年経った1987年も上層階を建設中だったので、まだ建設中なのかと驚いた。完成まで何年かかるかと思ったものである。

内山田:アスンシオンにあった日本人が経営するスキヤキ屋とホテルであるが、今も盛況のようである。このコロナ禍で経営はどのようであろうか?当時6階を建設中だった。資金が溜まると上層階を継ぎ足していた。

イパカライ湖:フーリオ・イグレッシアスも歌う「イパカライ湖の思い出」で有名なイパカライ湖。アスンシオンの東、約30㎞にある。有名な保養地で1980年の頃よりも1987年にはだいぶ整備されてきた印象を受けた。いまはもっとはるかに整備されていることと思う。

アスンシオン大学にあったアナコンダの皮の標本。下の水槽と比べて、皮幅が約40㎝とすると腹の直径は約13㎝、巻いてある皮の直径が約30㎝として、内側に10㎝の空洞があり、1㎝に2巻あるとすると長さは約12~13mもある大物となる。

アスンシオン市内から見たパラグアイ川:パラグアイ川の対岸はアルゼンチンのコリエンテス。その後1988年11月にアルゼンチンのコリエンテスで、国連主催のTFAP(熱帯林行動計画)の国際会議が開かれ、私は参加した。この時パラグアイで、森林局の局長と同僚だったエンシーソが出席していた。ここで再会を喜び、旧交を温めた。その後エンシーソは、森林局の局長となり2000年に日本に研修で来た時にあった。彼の体形が、いかにもパラグアイ人らしく、ビヤダルのようになり、この時の局長とそっくりな体形になったのには驚いた。肉食だからだろう。

アスンシオン市内:このころから高層ビルが増え始めた

パラグアイからチリへ
 この時のパラグアイの訪問が終わり、次にはチリに向かった。その話はまた次回に。



つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.36_ボリビア

森林紀行

筆者紹介




南米6ヵ国訪問(ボリビア)

ボリビアに行った目的
 南米の森林に関する仕事では、この時まで隣国のパラグアイで行った後、赤道直下のエクアドルで行っていた。その後、ボリビアでも同じような仕事ができるかどうか、まずはボリビアの森林の概況とそれを管理する官庁の状況などを調べに行ったものである。

ボリビアはペルー、ブラジル、チリ、アルゼンチン、パラグアイと国境を接する内陸国である。
面積は約110万㎢で、日本の約37万㎢の約3倍の面積を持つ。

キトーからラパスへ
 1987年3月21日(土)、エクアドルの首都キトーからボリビアの首都ラパスへ飛んだ。ラパス空港の標高は約4,000ⅿだ。非常に空気が薄い。着陸時も普通の空港より大分長く滑走して止まった。この時、私は、2,600mのボゴタ、次に2,800mのキトーとしばらく滞在した後に、ラパスに行ったので、これがうまい具合に高度順化になっていて、空気の薄さはほとんど感じることもなく影響はほとんどなかった。しかし、ラパスの空港につき、飛行機から通関のため空港の建物まで歩く間に、白人の大柄の若い女性がパタッと倒れた。酸欠で倒れたのだろう。酸素吸入をしてことなきを得た。

ラパス市
 ラパスは空港が4,000mで街が3,800mだ。主に富裕層が標高の低い場所に住み、貧しい人々が上の方に住んでいるという。普通の都市と反対だ。下町に富裕層、山の手に貧困層だ。何しろ空気が薄いので、ホテルに入ってから就寝時にベッドで寝るよりも床で寝た方が、標高が低くなるので、酸素は濃くなるだろうというので、床に寝たという人もいるという笑えない話も聞いた。

ラパスの地図。近くにイリマニ山やチチカカ湖がある
ラパス市内
ラパス市内から見えるイリマニ山(6,439m)アイマラ語で
「黄金のコンドル」を意味し、ラパス市の南東約30km。

市場
 ラパス市内のホテルにチェックインの後、早速、市内見学に出た。換金すると、当時ボリビアは大変なインフレで、安いものを買うのにも札束、何束もの束を渡さなくてはならず、リックサックで金を運ばなければならず、これには困った。
 市場では物珍しく見たこともない物も沢山売っていた。コカの葉も売っていた。コカの葉を精製して作ったコカインは麻薬のため非合法だが、コカの葉をそのまま噛んだり、お茶に出して飲むのは合法だった。高山病に良いというので、きたないなりをしたおばさんにいくらか聞いてみた。「500gいくらかな。」と聞くと、「とんでもない。何考えてんだい。kg当たりじゃなきゃ売らないよ。それも5kgか10kgね。」、「えっ。そんなにあったら困るから、今はいらないや。」、「しょうがないね。ケチだね。それじゃあ1kgでも売ってやるよ。どうだね。」といくらだったか忘れたが、そんな沢山買ってもどうしようもないし、バカにされ気分が悪いので、そこを後にした。
 それから歩いていくとサルや他の動物の胎児と思われるものをミイラにしたようなものを売っているのにはびっくりした。漢方薬のようにして使うのであろう。

市内の市場
動物の胎児のようなものをミイラにしたようなものも売っていた

訪問先
 さて、仕事として、この時、多くの関係機関を訪問した。訪問先は、MACA (Ministerio de Asuntos Campesinos y Agropecuario農民と農牧に関する省=農牧省)のCDF (Centro de Desarrollo Forestal 森林開発センター=森林局)、MICT (Ministerio de Industria, Comercio y Turismo工業、商業、観光の省=商工省)、IGM (Instituto Geografía Militar 軍地理院)、Cor de la Paz (Corporación Regional de Desarrollo de La Paz ラパス地域開発公社)などだった。

 メインは農牧省の森林局であるが、上層部の職員の異動が多く、安定していないので説明したことがうまく引き継がれないような雰囲気を感じた。コロンビアのように実際の活動部隊には直接会えなかったので、実際にきちんと動いてくれるかどうか危うい印象も受けた。

 ボリビアの森林は、東部のアマゾン川流域の熱帯多雨林から南のタリハ州の乾燥地帯まで様々な植生が広がっていた。しかし、森林を管轄する森林局ではほとんど管理ができていないような状態だったのだが、森林資源の利用を進めたい商工省は林産業を開発したい意向もあった。しかし、林業や林産業よりもまずは、道路整備などインフラ整備の優先順位が高く、林業開発の優先順位は低かった。また、中央政府の力が弱く、州政府の独自の力は強く、そのバランスを取って、ここで仕事をするにはなかなか難しいのではないかという印象も受けた。

 しかし、森林局の上層部は援助を受けられるならとやる気は満々だった。自ら実行する予算がなく体制も整っていないのに、やる意思だけは強かった。それは上層部では、海外からの援助で仕事ができれば、まず自分の懐が潤うと考えているためだろうという雰囲気も伝わってきた。案の定、我々は単に民間で、ボリビアの森林や林業の状態がどのようなものかを調査をしているだけなのに、我々がボリビアを出国した後に、日本の関係機関が林業部門に援助するようなことを新聞記事として発表してしまった。約束も何もしていないのに、あたかも約束したように発表するなどとんでもないことだった。発展途上国ではこうした思惑で齟齬が生じることが多々あり、我々もそれには十分には気を付けていたが、どうにもならず、落とし穴に落ちたような気分だった。我々は関係機関から大目玉をくらい、商社に頼んで火消しに躍起になり、無事火消しをし、事なきを得た。 その後何年か後に、協力することになり、私はメンバーには入っていなかったが、調査団が入り、アマゾン川の流域を調査し、森林管理計画を作成した。

農牧省の建物

チチカカ湖でニジマスを食べる
 チチカカ湖は大きな湖でラパスからチチカカ湖の南の湖畔までは車で1時間ほどで、ニジマスを食べに行った。ニジマスは、アメリカから導入されたようで、チチカカ湖では非常に成長が良いとのことだった。食べたニジマスも日本のものよりもかなり大きかった。しかし、味は大味で、次にまた食べたいという感じは起きなかった。

着陸前に機内から撮ったチチカカ湖

市内
 その他、当時撮影したいくつかの写真を掲げる。

ラパス市内
市内の様子
雨が降るとまたたくまに浸水するのに驚いた。
周辺が乾燥しているので、雨がふると洪水となるが、
地下に浸透するのも早いので、すぐに水は引く。
ラパス駅
ラパス市内が見晴らせる丘
郊外の乾燥地帯

ラパスからサンタ・クルスへ
 ボリビアから次の訪問国バラグアイに向かったが、この時はサンタ・クルスからアスンシオンに向かった。ラパスからサンタ・クルスまでは国内線を利用した。朝7時の便でサンタ・クルスに向かい、1時間足らずでサンタ・クルスに着いた。空気が薄いので、離陸時に随分と長い距離を滑走するなあと改めて思ったものである。

出国時の厳しい検査
 その後11時半の便でアスンシオンに向かった。この時、出国時のコカの葉の検査が非常にきびしかった。スーツケース内のもの全部を調べられ、着ているもの全てのポケットに手を突っ込まれ、また持っていた財布やその他の手荷物全てを徹底的に調べられた。幸いコカの葉は持っていなかったので、何事もなかったが、もし持っていたら取り上げられた後に、調べられたりし、予定の便に搭乗できなかったかもしれない。

サンタ・クルス空港
サンタ・クルス空港からアスンシオンへ




つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.35_エクアドル

森林紀行

筆者紹介




南米6ヵ国訪問(エクアドル)

 コロンビアの調査が終えてからエクアドルに向かった。1987年3月19日(木)の午後15時15分にコロンビアの首都ボゴタを立ち、午後16時30分にエクアドルの首都キトーに着いた。隣国で距離は約700kmと近く、たった1時間15分のフライトだった。そしてキトーを立ったのが2日後の3月21日(土)の朝だったから、仕事をしたのは3月20日(金)の実質1日だったので大忙しだった。
 エクアドルでは1985年の7月から調査を始めており、1986年の夏の調査時に、調査地域の入植農民や先住民によるエクアドル政府が行っていたアマゾン地域の国有林設定事業に反対する調査反対運動が起こった。そして、我々の調査もその一旦を担いでいるではないかと言う疑いから、飛び火して調査反対運動も起こった。我々の調査用の機材なども壊され身の危険にもさらされたので、一旦調査を中断し、私は日本に帰国していた。 そして、この調査の出発の1週間前の3月5日にエクアドルで地震が発生し、調査地域も多大な被害を受けたという情報が入ったため、どの程度の地震の被害の影響があるのか、また支援している農牧省の森林局側の調査の継続意思があるかなどを確認するために、農牧省の森林局を訪問したのだった。

キトー市内のホテルエンバシーの前にて。
キトーは標高2,800mと高地にあるためいつも乾燥しており、
また赤道無風帯にあり、風がないので、常に快適な天候である。
後ろの山はピチンチャ(4,696m)
キトー市内の中心街。アマリーナ通り。
同。キトーの中心地

地震の震央など
 当時入手した在エクアドル日本大使館の資料からの情報をまとめると地震は次のようだった。1987年3月5日にエクアドルのアンデス山脈の東に位置するレベンタドール火山付近でM(マグニチュード)6.9の地震が起こった。正確には南緯6分、西経77度50分が震央である。
 地震は、3月5日午後8時54分にM=6.1の地震が、午後11時9分にM=6.9の地震が引き続いて起った。2度目の地震の方が大きいと言うのは、日本の熊本地震の例もあるが珍しいだろう。地震の原因は、火山の噴火によるものではなく、地殻構造上のものとのことだった。その後、5日の夜から6日の午後6時までの間に約700回以上の微震、うち10回の軽震があったとのことである。東日本大震災でもそうであったように、その後の余震は長く続いたとのことである。

地震の被害
①人的被害
死者300名、行方不明4,000名と推定された。被災者は15万人で、そのうち家屋損傷による屋外生活者、州道の遮断による孤立状態の者が夫々7,500人と推定された。
当時のエクアドルでは、この周辺の正確な状況を把握することは極めて困難だったと思われるので誤差の大きい推定値だと思われた。

②物的被害
家屋全壊 2,000戸
家屋損傷20,000戸
  (ユネスコの文化遺産指定地域のキトー旧市街の40%がこれとは別に損傷を受けた。)
道路の損傷
  (45kmが全壊、15kmが部分的損傷)
石油パイプラインの切断
  (震源付近のレベンタドール火山の山腹崩壊による)
橋梁の崩壊7か所
  (崩壊土砂が河を堰き止め自然ダムが形成され、それが数時間後に破れ、大洪水が発生し、それにより落橋)

 この地域では簡易なバラック作りの家が多く、たいした揺れでなくとも簡単に壊れてしまうような家が多かった。入植農民や先住民の家が多かったからだ。壊れやすかったが、物も少ないし、修理も簡単だったと思われる。 この地震の後、すぐには調査は再開できなかったが、それは落橋した橋の改修や再建が出来なかったことが原因だった。地震や地滑りなど自然現象により形成されるダムは堰止湖や天然ダムと呼ばれ、日本でも地震の後に形成されることがかなりある。規模が大きくなるほど危険は増す。

地震の震源地。震源地のやや右上が調査地域
アマゾン川源流域に向かうこの橋も落下してしまい、
復旧に時間がかかった。

メルカリ震度
 日本の気象庁の地震震度に相当するメルカリ震度というものをエクアドルでは使っていたが、それによると最初の地震の震度は4.5であり、2回目の震度は6.5だった。これを日本の気象庁の震度に置き換えると最初は震度4、2度目の地震は震度5程度に相当する。だから日本で感じる地震からすれば、強いけれどもそれほど被害がでるほどの地震ではない。しかし、エクアドルでは地震対策が弱いのと地すべりが起きたこととそれによる天然ダムが形成され、その決壊による被害が大きかったのである。

我々の調査への影響
 調査地域のかなり近隣で発生した地震のため、アマゾン川源流域に向かう道路が損傷し、また、橋梁が落下したため、現地へ向かうことはできなくなった。政府自体が緊急事態に陥ったため、調査どころではなくなり、森林局としては調査を再開したいという意向だったが、すぐには無理とのことで、半年間延長となった。再開するには、日本への事務手続きなど行うべきことが沢山あったので、森林局の尻をたたいて、色々後押しをした。そして、私はボリビアヘ向かったのだった。

エクアドルからボリビアへ。機内で撮ったコトパクシ山(5,897m)
真ん中あたりに雲の上に雪をいだいた頂上を出している
機内からキトーの市街。郊外へ住宅が広がっていく
同上

この訪問の感想
 結局キトーに滞在したのはたった2晩だったが、エクアドル農牧省森林局の職員とは旧知の仲で家に呼んでくれ歓待してくれた。アンデス山脈の上の方に位置するキトーでは、上に述べたようにユネスコの世界遺産になっている旧市街で被害があったものの新市街では家の作りもしっかりしていて被害はなかった。また、エクドルの方と結婚され通訳してくれた方にも世話にもなった。道路、橋梁、石油パイプラインが被害を受け、アマゾン方面には行けなかったが、キトーの新市街では被害がなかったため、どこか他人事のような雰囲気を感じた。森林局はのんびりとしていたので、上で述べたように、私はその他の関係機関も回り、再会に向けてバックアップをし、一日かけまわったことを思い出す。




つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.34_コロンビア

森林紀行

筆者紹介




南米6ヵ国訪問(コロンビア)

 1987年の3月~4月にかけて南米の6ヵ国(コロンビア、エクアドル、ボリビア、パラグアイ、チリ、アルゼンチン)を約1週間ずつかけて訪問したことがあり、その時のことを書いてみたい。目的は、各国の森林や林業の状況の調査と、地震の影響で調査が中断していたエクアドルの状況や、既に調査が終了した後のパラグアイの状況なども調べに行ったのだ。訪問した国の順に書いてみたい。最初はコロンビアに行った。

【ニューヨークへ】
 1987年3月13日に成田からニューヨークに向かった。今コロナ禍の中、以前のように海外旅行や仕事で海外の国に行けるようになるだろうかと不安に思ったりするが、ワクチン接種も始まったことであるし、いずれ行けるようになるとは思う。
 ニューヨークには午前中に着き、翌日のコロンビア便までほぼ1日あった。一緒に行った同僚がスーツケースの鍵を失くしたため、カバン屋を捜すとホテルの前にカバン屋があり、そのカバン屋の店員が合う鍵をすぐに見つけてくれ、随分と親切だったことを思い出す。その後、エンパイアステートビルなどニューヨークの町を見学し、夜は日本レストラン、名前は初花と言ったが、そこで寿司を食べたりした。今でもあるのだろうか。ニューヨークでの寿司は美味かった思いが残っている。その後、映画を見たりし、わずかな時間を利用し楽しんだ。

【コロンビアへ】
 翌日ボゴタに向けて飛び立ったが、中南米行きの飛行機の機内の荷物入れは、客がアメリカで買った大量の電化製品などを母国に持ち帰るので、いつも一杯であり、自分の席の上の棚に早く自分の手荷物を置かないと、空いてる場所が無くなり、場所を確保するのが大変だった。客の友人同士は、飛行機が飛び立っても席を越えて大声で話しあっており、人の迷惑などお構いなしで、うるさくてかなわんと思ったものである。

【ボゴタの空港での出来事】
 初めてのボゴタである。空港で荷物を受け取る時にスーツケースの腹巻のバンドが無くなっていた。なんで無くなるのだ。空港の作業員に取られたのだなと疑ったが、たいした被害ではないので、腹を立てると碌なことがないので、落ち着いていようと思った。
 ところが通関時にかなり腹が立つことが起こったのだった。まずは、荷物を開けられた。係官は、「これは何だ。これは何だ。」とスーツケースに入っている荷物、一つ一つにいちいち細かく聞いてくる。そしてこれから会う人ようにかなり沢山のお土産を持ってきていて、日本茶も持っていた。すると、お茶のお土産用の包装紙をビリビリと破られた。「これは何だ。」と問われた。すごい嫌がらせである。「何で、紙を破るんだ。お土産用に持ってきたのに。」と抗議し、日本語で馬鹿野郎とつぶやく。すると、「これはだめだ。通関させられない。」と言われる。全然たいしたものではないのにいちゃもんをつけてくるのである。「何にも悪いものではない。返してくれ。」と頼んでも、「だめだ。渡すには100$(当時だと15,000円くらい)が必要だ。」だと言われる。とんでもない。買った値段が2千円くらいなのに。しばらく押し問答していたが、らちが明かないので、「もういらないからお前にそれをやる。」と言って荷物を閉めて、空港建物の外にでた。
 そうしたらその職員が追っかけてきて、「20$で良い。」と言う。「もういらないから、お茶はあんたにあげるから勝手にしろ。」と言うと「10$、5$」と値下げしてくる。あまりにかわいそうになり、お茶を取りあげ20$をあげた。空港職員だから公務員だろうと思ったが、コロンビアでこの先、起きるであろう出来事が思いやられた。
 かつてインドネシアでもわずかなワイロを上げれば、すぐに仕事が終わっただろうが、それを知らずに1日つぶされたことがあったが、私は真面目だし、普通の日本人であればワイロを上げるわけにはいかないだろう。しかし、ワイロ社会はそれで社会が動いているのだろうから、ワイロがないと社会は動かないのであろう。このような小さなワイロが国の上層部では巨悪となり、国家が発展しない理由の一つでもある。

【環境庁など】
 この時、森林や林業の状況を調べるため、それらを管轄する自然環境保護庁(環境庁)を訪問した。この時まで私は、南米ではパラグアイとエクアドルでしか仕事をしたことがなく、これらの国での仕事は、のんびりしたもので、資料を頼んでもいつまでたっても提出されず、いつもイライラさせられ、スピーディだったためしがなかった。しかし、コロンビアの職員は上の二つの国とは全く違い、資料を集めてくれと頼めばすぐに集めるし、情報をまとめてくれと頼めば文書ですぐに提出されるし、コロンビアの職員は相当スピーディに働くと感じた。空港での出来事がウソのようで、仕事振りはまるで先進国のようだった。ただ、この環境庁には給料以外に何かを行う予算が全くないということだったので、実際に仕事ができるかどうかは、当然ながら実際に行ってみないとわからなかった。
 環境庁では、アマゾン川源流域の森林は全く管理できておらず、その地域を調査してもらいたいとのことだった。この当時、私はエクアドルのアマゾン川源流域を調査しており、ランドサットでエクアドルとコロンビアの国境を見るとコロンビアの森林の方が、虫食い状態が大きいことは分かっていた。当時アマゾン川地域では麻薬栽培が行われているということだったので、調査をするなら危険地域は避けたいと思った。とはいえアマゾン地域でも日本の協力では、京大の人類学研究者達が南米の類人猿を調査していた。
 アンデス山脈の状態はどうか聞き込んだところ、アンデスの山間地は相当に傾斜がきついが、アンデス地域でもアマゾン流域と同じように国有地を決定しようと線引きをしているとのことだった。すると国有地というか管理が行き届かない地域にはかってに入植する者が多く、国との間で相当の争いがあるとのことだった。アマゾン川流域でもアンデス山域でも入植が問題で、森林は侵食され農地や牧場に転換されていくということで、パラグアイやエクアドルと共通の問題があった。アンデスは急傾斜のため崩壊地も多いとのことだった。(これについては以前にこの紀行文で「コロンビアのアンデスは崩壊地だらけ)を書いた。)この環境庁は自然保護に力を入れていたが、実際には森林の把握のレベルは相当に低かった。

【ボゴタの状況】
 この後に1989年から1992年にかけてアンデス地域で仕事を行ったが、ボゴタに行ったのはこの時が初めてだった。それまで南米の首都としては、パラグアイのアスンシオン、エクアドルのキトーを知っていたが、当時パラグアイ全土の人口が約300万人、アスンシオンは約40万人、エクアドルの人口は約1,000万人、キトーは100万人都市だったが、コロンビアの人口は約3,000万人、ボゴタは500万都市だったから、この3つの首都ではボゴタが断トツに大きく、発展具合も他の2首都と比較して断然発展しているように感じた。郊外の高台のモンセラーテ(標高3,100m)にはロープウェイが設置され、観光地というか市民の憩いの場のようになっていた。第2の都市メデジンにも今はロープウエイが設置され、市民の通勤に使われているとのことだ。
 郊外には巨大なショッピングセンターもあり、当時は東京よりも整備されているのではないかと感じられた。しかし、麻薬戦争があり、地方は立ち遅れていた。
 街の中の日本食レストランではニューヨークでの日本食レストランと同じ名前の「初花」があった。ここでは鉄板焼きで料理人が包丁さばきなど芸を見せてくれながらの食事であったが、味はイマイチだった。

ケーブルカーでモンセラーテに上がる
モンセラーテの見晴らし台からボゴタ市内を望む

【大使館の書記官】
 ボゴタの日本大使館も訪ねて、環境庁やコロンビアの状況を尋ね、今後環境庁と一緒に仕事ができる場合のバックアップをお願いに行った。その時対応してくれたのが、農水省から出向されていた書記官だった。この方は、非常に気さくで協力的で、すぐに環境庁に対して働きかけてくれ、私もおおいに助かった。その後も含め色々な国の大使館の書記官と知り合いとなったが、この方は大変に身の動きが軽くとても好印象が残っていた。

【大使館の書記官との寄寓】
 その後30年近く経ち、私も60も半ばになった時に、技術士会の委員に任命され4年間仕事をした。その会の副委員長と委員長をしたのが、コロンビアで応対してくれた書記官だった。30年近くたっているので、最初はお互いに全然覚えてなかった。その方が1987年はコロンビアの大使館で働いていたと言うので、その時私は大使館を訪ねましたが、あの時一生懸命働いてくれたのがあなたさんだったのですねと。記録を調べてみるとまさにその通りで、お互いに寄寓でしたなあとびっくりしたものである。その後、私がクラッシクギターを趣味にしているというと、その方もクラッシクギターを趣味にしているとのこと。えっとまたびっくりした。その方は、小川和隆さんという有名なギタリストから習っているとのことだった。それで、クラッシクギターの大本山のGGサロンというところで行われた小川教室の発表会を一度聴きに行った。小川さんが10弦ギターを使用していることは、その時知った。その方はソルの「月光」を弾かれ、私より一日の長があると思った。それでその後、その方をライバルの一人として頑張ろうと思っている次第である。
 犬も歩けば棒に当たるではないが、旅すればいろいろな人との出会いがあり、あっと驚くような寄寓も沢山あったので、追々書いていきたい。



つづく

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.33_ドミニカ共和国

森林紀行

筆者紹介




絵画コンクール(ドミニカ共和国)

【環境教育】
 ドミニカ共和国で行っていたプロジェクトでは、山火事防止対策の一つとして、小中学校で山火事防止をテーマとした絵画コンクールを行い、環境教育も支援していた。援助していた4村のそれぞれの小中学校で毎年1回、3年間行った。この活動は未来を生きる子供たちへの教育活動として、大きな刺激を与えることができたのではないかと思う。子供たちを通して、親達にも、むろん全村に影響を与えることができたのではないかと思う。というのは親が読み書きできない山村の多くの家庭では、逆に読み書きができる子供から親達が字の読み書きを教わり、その内容も教えられることも多かったからだ。日本にいてはなかなか気づかないが、基礎的な読み書きの力を授けてくれる小学校の大きな役割というものを改めて感じたものである。2008年1月~2月にかけてラス・ラグーナス村の小学校で行った環境教育を紹介しよう。

【小学校での準備】
 ラス・ラグーナス村の小学校を訪問し、環境教育の一環として、子供達に森林の重要性についての授業を行ったのは、2008年1月16日のことである。小学校に電気は来ているが、計画停電で、太陽が出ている朝から夕方までは停電していることが多く、パワーポイントなどを使うため発電機などを持ち込み朝早くから準備した。

計画停電なのでパワーポイント用に発電機を持ち込み準備する

【小学校での授業】
 いつものことながら、最初に私が挨拶をした。日本から協力に来ていること、目的は森林を保護し、環境を改善し、その結果、皆さんの生活の向上を目指していること、その活動としては、はげ山にマツを植林したり果樹を植林したりし、土壌を保全し、近くのクエバス川の氾濫を防ぐことが基本だと言った。そして、この地域は昔から毎年、生産が終わった農地に焼き畑をしており、その火の後始末が悪いため、山火事が非常に多く発生し、貴重な木材資源が無くなっていることを説明した。そして皆さんの両親たちに植林をしてもらい、焼き畑をしなくても良いように、農地に灌漑施設を設置して農業生産力を上げる活動をしていることなどを紹介した。そして皆さんには森林を保護するために、山火事保護のための絵を描いてもらいたい。それは、絵画コンクールであり、山火事防止に役立つような上手な絵が描ければ表彰されることなどを説明した。

ラス・ラグーナス村の教室にて、これから始める環境教育の授業

【環境教育授業】
 その後、社会教育担当のヘススと植林担当のホルヘが授業を行った。ヘススは話が上手だ。ヘススは優秀だし、ドミニカ人特有の人懐っこさもあり、好感がもてる。多少おっちょこちょいで、ややルーズな面もあるが、ドミニカ人にしては、きちんとしている方だ。
 絵画コンクールのテーマは、山火事防止と植林推進である。これらの絵を描いてもらうにあたり、森林が果たしている役割の大きさを説明する。山火事で木がなくなれば、家を建てる木材がなくなってしまうよ、そうしたら皆困るよね。森林は山に根を張り土がスポンジのように柔らかくなっていて保水力が沢山あるのだが、森林が無くなれば、すぐに水が流出してしまって、洪水になってしまう。だから森林は洪水を防ぎ、皆の家を守ってくれているのだ。それに昔はこのあたりも森林を棲家とするピューマもいたが、今ではほとんどいなくなってしまった。鳥も少なくなってしまった。いろいろな動植物には繋がりがあって、繋がりが切れると、今まで手に入っていたものが入らなくなったりして、人間も生きていくのが難しくなるのだよ。そのために山に樹木は必要なんだと森林の保護と森林を増やす植林の重要性を訴える。そしてこれ以上森林を減らさないために、山火事は防止しなければいけないんだよと説明をする。これらをヘススは子供達に質問をしながら森林保護の大切さを教えて行く。
 「皆のお父さんはタバコを吸うかい?吸う人は手を上げて。」
 「もし、山の中でタバコの吸い殻をそのまますてたらどうなると思う?」
 「山火事になって山に木がなくなったらどうなると思う?」
 などと次々に質問をして子供達に答えさせる。子供達も質問されると、ほとんど全員と言っていいくらい、沢山の子供が手を上げて答えようと活発だ。私が小学校高学年になる頃は、子供も多かったし、日本では先生が一方的にしゃべっていたような気がする。今の日本の子供達もここの子供たちと同じように活発だろうか?

子供達に質問しながら授業を進めるヘスス

 次にホルヘが同じように森林の重要性を説明する。パワーポイントを使って、雰囲気的にはいかにも科学者といった顔で子供達に説明している。ホルヘはドミニカ人には珍しく生真面目で几帳面である。どちらかというと説明が難しく、子供たちが理解するのが難しいかもしれないと思った。 それはさておき、子供たちは非常に熱心に授業に集中していた。私も小学生の時のことをよく思い出せなかったが、このように自然に集中していたのだろうと思った。この小学生たちとの交流は私にとっても良い刺激となった。

パワーポイントを使って授業を進めるホルヘ

【絵画コンクールの入賞作品を選ぶ】
 さて、子供たちに約2週間余りの間に絵を描いてもらい、2月4日に、ラス・ラグーナス村とカーニャ・デ・カスティージャ村の小中学生の絵の審査を行った。ラス・ラグーナス村の小中学校は3年生から8年生まで、カーニャ・デ・カスティージャの小学校は3年生と4年生が対象であった。学年毎に1等から3等までを選んだ。年齢は7才から16才であった。全部で150枚以上の作品があった。これらを、講義を行った二人と私と事務所の他の社会教育担当2名を含め全員で、5人でどれが優秀作かを選定した。

作品を一覧できるように並べる

 事務所で、学校から回収してきた絵画を学年毎に一覧できるように並べた。日本の小学生に比べて、図工の授業がないので、その分ドミニカの方が不利だろうが、やはり日本の小学生の方が平均的にかなり上手のように思えた。だいたい優秀作は9割くらい全員の意見が一致した。しかし、1等から3等まで決めるとなると意見が割れる場合があるので、その時は投票で決めた。

【絵画コンクールの発表】
 ラス・ラグーナス村の小中学校で、2月14日に、絵画コンクールでの入選作を学校の掲示板に張り、発表した。各学年1等賞から3等賞までを壁に貼りつけた。この時は大勢の子供達が集まり、人だかりで、大歓声だった。自分は入賞したかどうか、皆ワクワクしながらそしてガッカリもしながら発表を見ていた。

ラス・ラグーナス小中学校で入選作を貼りだす。ワクワクの子供達
一等賞
二等賞
三等賞
子供たちと共に

【ラス・ラグーナス村の絵画コンクール表彰式】
 日曜日であったが、2月17日にラス・ラグーナス村の小中学校で絵画コンクールの表彰式を行った。小学校の教室に絵画コンクールの参加者に集まってもらい、絵画だけでなく、学芸会のようにいろいろな出し物を行い、子供達と一緒に楽しんだ。

集まった参加者の小学生
同上

 我々や先生の挨拶の後、最初に数人の小学生に身振り手振りを入れて小話をしてもらった。これが堂々とした態度で、面白く様になっているので、ドミニカの田舎の子供達もやるなあと思わされた。私が子供の時は、引っ込み思案で、大勢の人前で話すと顔が真っ赤になりなかなか上手に話せなかったが、今は日本の小学生も人前で堂々としゃべれるのだろうか。しかし、一緒に仕事をしていた技術者達にもいろいろな会議でそれぞれプレゼンテーションをやらせたが、中には上がる技術者もいて、ドミニカ人でもやはり個人差はかなりあるものだと思った時もある。

小話をする男子小学生
同じく小話をする女子小学生

 次にパドレ・ラス・カサス町の若者のグループの二人にピエロに扮してもらい、漫才のようなコントをしてもらった。これがまた、面白く子供達は笑いの渦に巻き込まれた。おそらくドミニカ人は天性として人を楽しませるすべを身に着けているのかも知れないと思わされた。

ピエロに扮した若者の劇

 続いて表彰式に移り、各学年1等から3等に入った子供達に先生から賞状を手渡してもらった。それから全員に参加賞が手渡された。それが終わってからもう一度1等から3等までの入賞者に賞品としてナップザックを手渡してもらった。

入賞者に賞状
全員に参加賞を渡す
入賞者に賞品

 こうして一通りセレモニーが終わった後に、飲み物と軽食を食べてもらい、歓談し、絵画コンクールの表彰式を終えた。学年は同年齢の子供達ばかりではなく随分歳が離れた子供も同じクラスにいるのだった。多様性がありよいのではないかと思わされた。

軽食を配る

【おわりに】
 私が見たところでは、残念ながらドミニカの子供の絵は、日本の子供達に比べてあまり上手でないと思った。上述したように、それは学校の授業の中に図工がないからだと思わされた。同様に、音楽と体育の授業がないのである。学校は子供達に勉強を教えるだけで、子供達に情操教育が欠けているのは問題と思った。一番楽しかったと私が思っていた授業がないのである。
 ドミニカ人はバチャータやメレンゲといった音楽は大好きで、ダンスも非常にうまい。子供もダンスをさせると大人顔負けにうまい子供も沢山いる。事務所で一緒に仕事をしていた秘書もしょっちゅう鼻歌のように歌を歌っており、よくこんなに沢山の歌詞を覚えているなあと感心していたが、ときどき音程がずれるので、あれっとよく思ったものである。これも音楽の基礎を習っていないからではないだろうか。
 また、ドミニカ人は体力もあり、野球も強いが体育の授業がないので、運動しないものは子供でも体力があっても体が硬かったり、バランスが悪かったりするように見え、やはり日本の体育の時間は非常に重要なものに思われ、図工もしかりと思ったものである。
 また、技術者についても記述したが、彼らと仕事をしていて、ドミニカだけでなく、どの国でも個人の能力には差がないなあと、中には私よりもよっぽど能力が髙い者もいるなあと思ったものである。しかし、日本が援助する側で、発展途上国よりも優位な立場になっている差は何なんだろうかと考えた時に、国の歴史や持っている資源の量も関係するが、それよりも社会システムの違いや人々のコンプライアンス意識の差が大きいと感じた。個人の能力もさることながら、個々人を集合させた組織が効率的、不正をすることなく動くことが経済力の差になって表れているのではないだろうかと感じていた。
 それはそれとして、このような子供に対する環境教育の成果は大きく、この子供達が大人になるまで、いやもっと長く、一世代20年~30年くらい協力できれば、もっと大きな協力の成果が得られるだろうと思ったものである。


つづく

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