森林紀行travel
【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.39_アルゼンチン
筆者紹介
南米6ヵ国訪問(アルゼンチン)
【チリのサンティアゴからアルゼンチンのブエノス・アイレスへ】
チリの首都サンティアゴでの仕事が終わり、次はアルゼンチンのブエノス・アイレスへ向かった。アルゼンチンへはパラグアイの調査をしている時に行ったことがあった。パラグアイに隣接するアルゼンチンのミシオネス州は当時(1980年以前)から植林や林産業も進んでいたので、パラグアイと土地条件が似たミシオネス州の森林や林産業の状況を調査することにより、パラグアイにも応用できるだろうと調査したものだった。パラグアイ側のエンカルナシオンという町から対岸のアルゼンチンのポサーダスという町にフェリーで渡り、アルゼンチンに入国したのだった。これについては、以前、この紀行文の「パラグアイ-造林計画編」で書いた。そういう訳で、アルゼンチンには既に足を踏みいれていたため、ブエノス・アイレスは初めて訪れるというものの、初めての土地という気はしなかった。
【機内からみたアンデス山脈】
1987年4月10日に、サンティアゴをPA209便にて14:00に出発し、ブエノス・アイエスに15:30に到着した。この間の距離は1,140kmで時差はないので、1時間半のフライトだった。
アンデス山脈を越えるときには、幾重にも重なった山並みが連なって見えた。地図でみるとこのルートの下には6,000m級~5,000m級の山がかなりある。例えばトゥプンガート山(6,570m)、プロモ山(5,430m)、マルモレホ山(6,108m)、マイボ山(5,323m)、ネバド・ピケネス(6,019m)などだ。氷河で削られた大きな谷のカール地形も見えた。このあたりの山はヒマラヤよりは2,000mほど低いが、同じく荒々しい。しかし、登山者はヒマラヤよりは少ないようで、登頂した人もきっと少ないだろうから登りがいはあるだろう。
【着陸前の景色】
アンデス山脈を越えたら、さすがにアルゼンチンの大草原、パンパが続いた。パンパがずっと続いていたが、着陸前のブエノス・アイレスに近い場所では農場である。防風林らしき植林地も見えた。
【既にパタゴニアに行っていた同僚】
さて、当時の私と同じ職場で、私より数年先輩の方が、その当時30才前後だったが、専門家としてアルゼンチンに派遣されたことがあった。我々は若かったが、その方は優秀だったので、その若さで、アルゼンチンの森林研究所に林業技術の指導のために派遣されたのだった。帰国後の話では、その方は、その時パタゴニアの森林も調査していた。残念。先を越されたと思った。前回のチリの調査でも書いたが、私は学生の時に「パタゴニア会」を作り、いつかパタゴニアに行きたいと思っていたからだ。その時、私はまだ専門家として派遣されるほどの実力を備えていなかったので仕方がないことだった。しかし、いつかパタゴニアに行こう、きっといけるだろうと思っていた。実際には今でも実現はしていないが。
【IFONA】
ブエノス・アイレスで訪問したのはIFONAである。IFONAとはInstituto Forestal Nacional で森林研究所のことである。ここは、上述した同僚が派遣されていた研究所であり、その方と常時一緒に仕事をしていた女性の技術者がいた。その方は日本に研修にも来ていたことがあり、私も日本で会っていたので、ここアルゼンチンで再会できてとても歓迎してくれた。そこで、ここでの話は非常にやりやすかった。
私にこの研究所の上席の研究者を紹介してくれた。この方にアルゼンチンの森林や林業の状況を聞き込んだが、この方の話によるとアルゼンチンにしてもこの当時はまだ森林の基礎的調査が全てできているわけではなく、森林分布や資源量といったものが、地域により把握されていないところがあるとのことだった。特にパラグアイと接する地域はチャコ地域と呼ばれ乾燥地帯であるが、未調査地域だった。この地域だけで、日本の森林面積と同程度の面積の森林があるが、森林内容は把握されていなかった。ここにはケブラーチョやアガローボという名の有用樹があるが、その資源量をアルゼンチン側としては把握したいとのことだった。その土地所有のほぼ1/3は国有地で、2/3が民有地とのことだった。この国有地の中にも農民が無許可でどんどん入植し、森林を伐採し、牧場へ転換しているとのことで、森林消失の圧力は相当に高いということだった。
【「ガウチョ(カーボーイ)」ツアー】
日曜日に休日の牧場へ気晴らしに行った。ホテルで行っているツアーの一つで、昼にはアサード(焼肉)も食べられるし、ガウチョ(カウボーイ)と遊べることとのことで、きっと楽しいと思い選んだのだった。ところが、牧場の一か所でじっとして過ごしているだけで、退屈で面白くなく、やはりいろいろ動き回って沢山見学したいと思い、私も日本人としての習性が染みついていると思ったものである。しかし、この面白くなかったということが、印象に強く残り、34年経った今でも、鮮明に思い出せるのだ。面白くなかったことのご利益だ。
朝9時にホテルを出発し、2時間ほどバスに乗り、郊外の牧場に着いた。ブエノス・アイレスの中心地からそんなに遠くに行かなくとも牧場は広がっているのに、何故かかなり遠くまで行った。100km以上は中心街から離れていただろう。
着いてから、あとはすることがなく、昼食でアサードを食べたり、食べている間に、テントを張った野外舞台でのダンスを見たりして過ごし、その後はカウボーイが馬に乗ってのパン食い競争のようなものを見たり、自分で馬にのって庭を散歩したりであった。すぐに飽きてしまい、ただボーと牧場内で昼寝をしているような状態だった。これがこちらの人には、それがリラックスできて良いのだろう。私は牧場風景もパラグアイの仕事で見飽きていた。それでも忙しく動き回っている日々から解放され、良いリラックスだった。午後4時頃再びバスに乗り、6時ごろにホテルに戻った。しかし、今思い出しても退屈なツアーだった。
【ブエノス・アイレスの町】
ブエノス・アイレスは南米のパリだと言われていた。確かに、古いオペラ劇場(コロン劇場)などがある通りの外観などはそのような雰囲気を醸し出しているようだった。しかし、近代的な街に変身しているように思われた。
写真はブエノス・アイレスの町で見たイングリッシュタワーという名の時計塔である。これはアルゼンチンで起きた1810年の5月革命の100周年を記念してアルゼンチンのイギリス人コミュニティから送られたものとのことだ。しかし、1982年にアルゼンチンとイギリスはフォークランドで戦争に突入したので、それ以来イングリッシュタワーと言う名は変更され、単に記念塔と呼ばれているとのことだった。
アルゼンチンの5月革命とは、南米のリオ・デ・ラ・プラタ副王領(首都はブエノス・アイレス)で起きた革命とのことで、この革命によりスペインから派遣される上流貴族の副王は廃止され、リオ・デ・ラプラタ革命政府が樹立され、アルゼンチンの独立の契機となったということだ。
【銀行の支店長等との会食】
ある晩、当時ブエノス・アイレスに支店を持っていた日本の有名な銀行の支店長と商社の方達など6~7人で会食をしたことがあった。とても印象に残った会食だった。会食はこの支店長の方が全般的に話の流れを仕切っていた。私が感心したのは、この支店長の方の話がとても上手な上に、参加している皆さん夫々に上手に話題を振り分け、それぞれから話を引き出すのが非常に上手だったことだ。
私はどちらかというと遠慮がちにしゃべるよりも聞き役に回っていたが、この時は、私にも上手に話を振ってくれ、皆さんと同じようにいろいろとしゃべることができ、皆さんも熱心に聞いてくれた。会食とはいえ、洗練されたその采配が大変に勉強になったことが強く印象に残っている。
これ以後、私も大勢で会食をする時は、皆に気を配り、一人でかってにしゃべるばかりの人も時にはおとなしく聞き役にも回ってもらうよう、また遠慮がちの人にはうまく話しを引き出すよう、話を振り分けることが上手になったと思う。
【カミニート】
せっかくブエノス・アイレスまで来たので、タンゴの発祥地カミニートに行ってみた。スペイン語でカミーノが「道」という意味で、カミニートはその縮小辞で「小道」という意味だ。ここはボカ地区というところにある。ボカは口という意味で、「河口」ということだ。ここはラプラタ河の河口だ。中高生の頃は何故か南米に憧れを持っていた。ラプラタと聞いただけで、心躍る思いがしたものである。実際にこのラプラタ側の上流地域のパラグアイで調査できたことは、ある種の夢を実現できたことであり、このことは既にこの紀行文で書いた通りである。
さて、この河口は、ヨーロッパからの移民の到着地だったとのことで、この港町は、新天地を求めて来た移民者がひしめき、雑然とした港町だったとのことである。様々な国の人種が共存したため、いろいろな軋轢が生じ、そのフラストレーションのはけ口として、最初は男同士が酒場で荒々しく踊ったのが、タンゴの始まりとのことである。しかし、次第に男は女を求め娼婦を相手に踊るようになり、男女で踊るタンゴの原型が出来て行ったそうである。そしてボカ地区は、船乗り、移民者に加え労働者なども夜な夜な集まり、安酒場でタンゴを踊るようになったとのことである。
ある晩、この一角にある有名なタンゴレストランに行ってみた。哀愁を帯びたバンドネオンの音、そしてその独特のリズムと踊り、女性は独特のスリットの入ったスカートを着て、足を振り上げたり、あたかも床に着く寸前まで体を倒しそれを支える男の踊り手など、とても印象に残っている。
【アルゼンチンのカフェー・バー】
また、ある晩、まだ宵の口だったが飲みに行った時に、できるだけ安全で健全そうな店を選んでカフェー・バーに入った。中にはテーブル席とカウンター席があり、カウンター席に座った。カウンター内では数人のウエイトレスが働いていた。その中の一人が「あなたどこから来たの?(ちゃんとした意味は、どこの出身なの?)」と聞かれ、私は「チリから来たよ。」と言った。相手は、「チリ人だよ。」と解釈したはずである。だから「違うね。あんたはチリ人じゃあないね。あんたにはチリ人のなまりがないもの。たぶんボリビア人だと思うね。あたっているでしょ?」と言われた。「残念でした。違うよ。私は、本当は日本人だよ。今回は仕事で、東京を出発してから南米の各国を回って、最近チリからアルゼンチンに来たんだよ。」と、私は、この時、初めて自分のスペイン語がネイティブと間違えられるくらいうまくしゃべれるようになったんだなとうれしく思った。ボリビアは先住民の比率が高いので、祖先がアジア系で日本人に似たような顔の人も多いのだ。そんなことがあり、話が弾んだ。この一晩で私のスペイン語は随分とレベルアップしたと感じたものだった。
【帰国】
この時は予定していた6ヵ国の訪問が終わり目的も達成できたので、帰国することにした。この当時、日本はバブルの最中であり、世の中全体に余裕があったようで、私も自由に動かせてもらいとても良い経験となった。この後バブルがはじけて日本全体が大変な状況に陥ったのではあるが。
帰国は1987年4月16日にブエノス・アイレスを20:00にAR332便にて出発し、ニューヨークに向かった。途中リオデジャネイロとマイアミでトランジットで降りたので、空港でお土産を買ったり、コーヒーを飲んだりしてリラッックスできた。ニューヨークには翌日4月17日の午前11時に到着した。一人だったので、ニューヨーク市内も何回か見学しているので、一泊せずにそのままJL005便に乗り継いだ。ニューヨークを13時半に出発し、翌日4月18日の16時半に成田空港に着いた。やはりブエノス・アイレスから成田まで3回のトランジットはあったものの出発してから24時間以上のフライトはとても長かった。余裕があったのだから一泊しニューヨークで疲れを取っていけば良かったと後で思った。とにかく仕事も終わり、無事帰国できた。これで南米6ヵ国訪問の話は終わる。
つづく
【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.38_チリ
筆者紹介
南米6ヵ国訪問(チリ)
パラグアイの仕事が終わり、次はチリに向かった。チリは始めて訪問する国だったのでいささかワクワクしていた。どんな国でもそうだが、初めて訪問する国はワクワクするものだ。初めていった国で実際に自分の目で見た印象は、事前に調べていたことや人から聞いていたこととは、全く違うことが多かった。そこでここでも中学校で習った英語の「Seeing is believing.」を思い出していた。「見ることは信ずることだ。」が直訳だが、ことわざとしての「百聞は一見にしかず。」に相当する訳は、今ではなんとなく分かるにしても、中学のころは百聞という文章が入っていない文章をなぜそう訳せるのか分からなかったことも思い出していた。白紙の状態で、自分の目で見て、その国の印象を受け止めるのが自分なりの正しい評価を得られると経験上思うようになってきたころである。まさに「Seeing is believing.」である。
さて、アスンシオンのホテル内山田を9時に出発して、空港に9時半に着いた。チリ行きの便はAF209で、11時15分発だった。わずかに遅れて11時25分に出発し、チリの首都サンティアゴに予定通り14時25分に着いた。
アコンカグア
アスンシオンからアンデス山脈を越えるときには雪をかぶった山が良く見えた。このルートはアスンシオンから南西に向かって飛ぶが、サンティアゴの北北東のアルゼンチン側には南米の最高峰アコンカグア(6,960ⅿ)が見えるのではないかと思っていた。私が若いころまでは地図には7,000ⅿをわずかに超える高さが表記されていたが、その後正確に再測量され正確な標高6,960mとなったのだろう。南米には7,000ⅿを越える山があるのだ、一体どんなところだろうか、ヒマラヤと変わらないのだろうか、いつか登ってみたいものだと高校生くらいの時は思っていた。因みにアコンカグアとは先住民の言語で、「雪の山」という意味と「岩の番人」と言う意味があるとのことである。種族により同じ発音で意味が違うのであろう。
7,000ⅿを下回ってしまったのは残念だったけれど、学生の時にも、岩波新書の「パタゴニア探検記」を読んでパタゴニアに行きたい、アコンカグアに登りたいと思い、友人達と「パタゴニア会」を作ったりしたものだった。どちらも実現する前に老いぼれてしまったようだ。しかし、この時はアコンカグアの頂上と5kmくらいまでには最接近しただろうし、パタゴニアには自分なりにはかなり近づいたと思った。コロナ禍が収まれば、パタゴニアツアーなどには参加できないとも限らないからパタゴニアに行く機会はまだあるかもしれない。この夢は強い意思を持てば、物理的にはかなえられる夢であるが、この種の夢をいくつか叶えてきた今となっては、夢は夢としてずっと持ち続けている方が楽しいと思う今日この頃である。
それはそれとして、ちょうどアンデス山脈の上空を飛んだ時に撮った写真は、ネットの画像などと比較して、アコンカグアだと思われる。
チリの関係機関
サンティアゴに着き、翌日から関係機関を訪問し、様々な調査を行った。当時チリの森林は、農業省の下部組織のCONAF (Corporación Nacional Forestal国有林公社)という公社が管理し、それとともにもう一つ経済省の下部機関のINFOR(Instituto Forestal 森林研究所)が森林に関する研究機関とのことだった。現在はどちらも農業省の下部組織のようである。森林計画作りに関してはINFORが中心に行っていたので、まずは、INFORを訪ねた。森林情報をどの程度把握しているのか、どの程度の調査の能力があるかを探った。
INFOR(森林研究所)
直接訪ねて行ったが、当時のINFORのDirector(所長)に面会でき、所長はチリの森林状況を説明してくれた。1987年当時のことであるが、それによるとチリには造林地が120万haあり、そのうちラジアータ松が90~95%とのことだった。2021年現在は造林地は拡大し、倍以上の250万ha程度存在するようである。たとえ人工林であろうとこの地球温暖化の時代、CO2の吸収源としての森林が増えることはうれしいことである。
ところで、林地はすべて民有地で、国有林は国立公園だけであるとのことだった。そしてその管理はINFORが行っているとのことだった。INFORの主な仕事は国立公園の森林の管理だった。ただし、造林地は民有地であるけれども、その施業指導などは行っており、また、民有地では入植地での森林伐採問題があるとのことだった。実際に、様々な森林調査も行っていた。
所長も最初は、我々が何のためにチリ国の森林の状況を調査に来たのかわからなくて、日本と一緒に仕事をしようなどということは考えたこともなかったようで、あまりやる気は感じられなかった。
日を改めての議論
しばらく話しているうちに私が日本の森林や林業の状況などを説明し、人工林の管理としては、人工林密度管理図や収穫予想用なども作り、収穫時にはどの程度の材がとれるかどうかなども予想している、あるいは造林適地区分図なども作成されているというようなことを説明していると急に目が輝いてきて、「それは面白い話だ。私の国ではまだそこまで進んでいないし、私一人で話していてはもったいないし、理解できないこともあるので、専門の技術者を集めるので彼らと議論してもらいたい。」ということになり、3日後の木曜日に、日を改めて意見交換をしようということになった。
そして木曜日になり、チリの技術者5人が集められ彼らを相手に様々な議論をした。チリは国土が南北に細長く、北から南に向かい14の州に分かれていて、やや南の州での天然林の再生の問題や入植地での森林管理の問題などがあることがわかってきた。
天然林の再生問題は南緯35度~44度程度(日本でいうと東日本~北海道くらいの緯度)にはブナ科のNotofagusという優占樹種があり、これが有用樹なので、これらの分布や林分構造、特徴を把握し、Notofagusを中心とした天然林森林管理計画を作成したいという意向があった。ただし、民有林なので、政府としては補助金を出し、天然林の再生指導を進めたいとのことだった。
入植地の問題は南緯45度付近であるが、この地区は人口が少ないので8年前から入植政策を取り、国有地を入植者に払い下げているとのことだった。森林を農地に転換させているので、より具体的に森林と農地の土地利用区分をはっきりさせ森林管理計画を作成しなければならないとのことだった。様々な問題が明らかになってきて、私もチリの森林問題が少しはわかってきた。
最後に、チリの技術者の実力がみたいと思い、今日の議論の結果をレポートとしてまとめてくれるように頼んだところ、翌日、きちんとした、まとまりのある文章として提出されてきたので、チリの技術者の実力は高いと感じたものである。その当時一緒に仕事をしていた他のラテンアメリカの国では、いつになってもレポートなどは出てこないのが常だったので、きちんとしたINFORの対応に驚いたのである。
しかし、その後実際に仕事をしたチームの話によると、INFORは研究機関のため共同作業技術者達は皆頭でっかちで、何をするにも議論、議論で体が動かず、現場調査がはかどらず、苦労したとのことだった。私もモロッコで同じような経験があり、これは異文化のぶつかり合いで、折り合いをつけるには、やはり議論をつくさなければならないが、いつまでも平行線になるので、結局、現地調査をしつつお互いのやり方を見ながら双方が納得し、頭の中で考えた方法を現地調査で解決していかなければならないだろうというのが私の今の結論である。しかし、チリ側にしても日本側も議論には妥協せずに頑固な技術者ばかりだなあと思ったことだろう。
首都サンティアゴ
さて、首都のサンティアゴであるが、訪問した時はあまり天気が良くなく暗い感じで、明るい感じは受けなかった。また、南半球の4月は日本でいえば10月で、これから冬に向かう時期だったかもしれない。
サンティアゴの町にはサンタ・ルシアの丘とサン・クリストーバルの丘がある。この時にサンタ・ルシアの丘に行ったのだろうと思うが、サンチャゴの町が一望できた。見晴らし台のベンチには、若い男女がいちゃついていて、雇っていた車の40 代くらいの運転手が「ああいうのは、我々には関係のない若者の特権ですな。」と言っていたのを思い出す。私は当時37才だったが、私もそういう齢になってきたのだなあと残念な思いを自覚したのを思い出す。そしてチリの仕事が終わった後はアルゼンチンのブエノスアイレスに向かったのだった。
つづく
【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.37_パラグアイ
筆者紹介
南米6ヵ国訪問(パラグアイ)
ボリビアの次はパラグアイに向かった。ラパスを1987年3月27日(金)の朝7時に飛び立ち、サンタ・クルスに8時に到着した。サンタ・クルスでの出国検査が厳しかったことは前回の紀行文で述べた通りである。その後サンタ・クルスを11時半に立ち、パラグアイの首都アスンシオンに午後1時少し前に到着した。今回のパラグアイの話は以前にも書いたが、リニューアルした。
訪問の目的
私は、1985年にカピバリという地区の造林計画を作成しており、その後、計画に沿ってまず試験的に植林をしようという話になっており、今回はその進捗状況などを調べにパラグアイを訪問したのだった。
パラグアイの森林局
私は1979年から1985年にかけて、パラグアイの森林局において、パラグアイ北東部の森林資源調査とカピバリ地区での造林計画調査で、パラグアイの森林局の職員と共同で働いた。そのため、森林局の職員である技術者とは旧知の仲だったので、2年ぶりに訪ねたことで、皆大歓迎してくれた。
大規模な植林を実行するには事務所や苗畑建設、大量の作業員の雇用など相当な初期投資が必要なため世銀、米州開発銀行あるいは日本から借款して植林を進めようという計画だったが、その前にまずは日本の技術協力で試験的に植林を試みようということになり、日本の専門家が派遣されていた。この方はとても温厚そうに見える方であったが、実際に行っていることはとても厳しくて、つい緩んでしまう南米気質の職員を鍛え上げるには打ってつけの方だった。
この方は、森林局の職員達と共に、日曜日の午後から金曜日の午後までカピバリの現地に入り、金曜日の午後にアスンシオンに帰り、土曜日の午前中は講義と打ち合わせ、日曜の午後またカピバリに出かけるというハードスケジュールを森林局の職員とともにこなしていた。このようなハードスケジュールに慣れていない南米パラグアイの森林局の職員達にとってはグーの根もでない大変さだった。
カピバリの森林
カピバリの森林に行くには、アスンシオンからルエダという場所にでて、そこからペドロ・ファン・カバジェーロという北部の町に向かう国道を進み、途中ブトゥという町で東に入り、小一時間進んだところだった。ブトゥのあたりの土壌は、フェラルソルといって灼熱の太陽により風化と養分の溶脱を激しく受け、鉄やアルミニウムなどが集積した赤土である。
カピバリの現地の森林は、パラグアイでセドロ、ラパーチョ、ペローバなどと呼ばれ樹高30m~40m、胸高直径は1m以上にもなる良木が伐採され、持ち去られた後の森林だった。それでもまだ胸高直径が50cmほどの樹木はかなり残っており、大木の伐採後に沢山の樹木が更新してきて、藪状となっているような森林だった。この森林の中には大きな帯鋸や丸鋸が沢山残された製材所の跡があり、伐採前には大径木が林立する素晴らしい森林があったことが想像されるのだった。
安全祈願祭
この時、関係する職員全員で、特にパラグアイの森林局の局長もこの森林に入り、これから藪状の木を伐採し、そこにマツを植林するために、安全祈願祭を行った。
お供え物としてバナナ、リンゴ、パイナップルなどの果物とそれにワインを持って行った。御神酒のワインだ。この周辺の残っている一番の大木をご神木として選定し、その木にしめ縄を巻き、その下にお供え物を供えた。そしていくつかの呪文を唱えた後、「これから山の作業に入りますが、山の神様、どうか安全をお守り下さるようよろしくお願いします。」と日本語とスペイン語でお祈りをしたのであった。こういったことをしたことがない、パラグアイ職員達もこの宗教的かもしれがいが、安全意識を高める行事の重要さを悟り、真面目に行い、その後お互いにさらに意識を高めあった。
苗畑
カピバリの事務所に隣接して苗畑も作っていた。マツ類を中心に育てていたが、これを管理する職員も作業員もいかにも南米らしい精神論の規則を作って頑張っていた。彼らは規則は破られるためにあるといつも言っていたが、それは冗談としても南米の人たちは素晴らしい標語を作る能力には長けていると思う。
苗畑での仕事の時間割
午前 7:00~11:00
テレレタイム(お茶)9:00~9:45
午後 13:00~17:00
テレレタイム(お茶)15:00~15:15
月曜日から金曜日まで毎日
(テレレはパラグアイのお茶で牛の角で作った容器の中にマテ茶の葉を入れ、ボンビージャという金属のストローのようなもので、回し飲みする。このコロナ禍でテレレの習慣はどうなっただろうか?)
Ⅰ 浪費や無駄をしない、不規則なことをしない、非合理なことをしない。
Ⅱ
1. 感じよく「おはよう」と言おう。
2. 「はい」と言って従う。
3. 「すみません」と言って反省する
4. 「どうぞ」、「ご自由に」、「お先にどうぞ」(慎み深く)
5. ボランティア精神「私がやります」(献身、奉仕)
6. 「あなた達に感謝」という謙虚さ
7. 「皆さんありがとう」という感謝
8. 「あなたの仕事に感謝」という尊敬
9. 「失うものはない」、「頑張れる」、「耐えらえる」という楽観主義
10. 「嘘はつかない」という誠実さ
Ⅲ 素直に勉強します
厳しく実践します
分かり易い方法で教えます
Ⅳ 孝行と国家への忠誠
(この標語は、この時パラグアイではストロエスネル大統領で軍事独裁国家であったため書かざるを得なかったのでないかと思われる。)
パラグアイ森林局の同僚達
この時、私が2年ぶりにパラグアイを訪れたので、パラグアイ北東部の森林資源調査で働いた同僚が家に招待してパーティを開いてくれた。何人かの同僚が夫婦できてくれた。結婚して数年というカップルが多く、私は奥さん達も同僚が独身時代から知っている方が多かった。奥さん達は、独身の時は細めであったが、結婚したら随分とどっしりして、早くも貫禄を見せ、同僚達は尻にひかれているようだった。
当時、コロナならず、エイズが発見されたばかりの頃で、話していてエイズの話題になった時に、奥さん達は、その感染した後に死に至る恐ろしさを強調していた。旦那達が決して浮気をしないようにと特にこの話題を持ち出し強調するような感じを受けたが、もっともなことである。
彼らも私と同年代だったので、今は70才前後になっているはずである。
当時撮影した写真
その他当時撮影した写真を掲げる。
森林局の前の建設中のビル:1980年当時地下を工事中だったが、7年経った1987年も上層階を建設中だったので、まだ建設中なのかと驚いた。完成まで何年かかるかと思ったものである。
内山田:アスンシオンにあった日本人が経営するスキヤキ屋とホテルであるが、今も盛況のようである。このコロナ禍で経営はどのようであろうか?当時6階を建設中だった。資金が溜まると上層階を継ぎ足していた。
イパカライ湖:フーリオ・イグレッシアスも歌う「イパカライ湖の思い出」で有名なイパカライ湖。アスンシオンの東、約30㎞にある。有名な保養地で1980年の頃よりも1987年にはだいぶ整備されてきた印象を受けた。いまはもっとはるかに整備されていることと思う。
アスンシオン大学にあったアナコンダの皮の標本。下の水槽と比べて、皮幅が約40㎝とすると腹の直径は約13㎝、巻いてある皮の直径が約30㎝として、内側に10㎝の空洞があり、1㎝に2巻あるとすると長さは約12~13mもある大物となる。
アスンシオン市内から見たパラグアイ川:パラグアイ川の対岸はアルゼンチンのコリエンテス。その後1988年11月にアルゼンチンのコリエンテスで、国連主催のTFAP(熱帯林行動計画)の国際会議が開かれ、私は参加した。この時パラグアイで、森林局の局長と同僚だったエンシーソが出席していた。ここで再会を喜び、旧交を温めた。その後エンシーソは、森林局の局長となり2000年に日本に研修で来た時にあった。彼の体形が、いかにもパラグアイ人らしく、ビヤダルのようになり、この時の局長とそっくりな体形になったのには驚いた。肉食だからだろう。
アスンシオン市内:このころから高層ビルが増え始めた
パラグアイからチリへ
この時のパラグアイの訪問が終わり、次にはチリに向かった。その話はまた次回に。
つづく
【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.36_ボリビア
筆者紹介
南米6ヵ国訪問(ボリビア)
ボリビアに行った目的
南米の森林に関する仕事では、この時まで隣国のパラグアイで行った後、赤道直下のエクアドルで行っていた。その後、ボリビアでも同じような仕事ができるかどうか、まずはボリビアの森林の概況とそれを管理する官庁の状況などを調べに行ったものである。
キトーからラパスへ
1987年3月21日(土)、エクアドルの首都キトーからボリビアの首都ラパスへ飛んだ。ラパス空港の標高は約4,000ⅿだ。非常に空気が薄い。着陸時も普通の空港より大分長く滑走して止まった。この時、私は、2,600mのボゴタ、次に2,800mのキトーとしばらく滞在した後に、ラパスに行ったので、これがうまい具合に高度順化になっていて、空気の薄さはほとんど感じることもなく影響はほとんどなかった。しかし、ラパスの空港につき、飛行機から通関のため空港の建物まで歩く間に、白人の大柄の若い女性がパタッと倒れた。酸欠で倒れたのだろう。酸素吸入をしてことなきを得た。
ラパス市
ラパスは空港が4,000mで街が3,800mだ。主に富裕層が標高の低い場所に住み、貧しい人々が上の方に住んでいるという。普通の都市と反対だ。下町に富裕層、山の手に貧困層だ。何しろ空気が薄いので、ホテルに入ってから就寝時にベッドで寝るよりも床で寝た方が、標高が低くなるので、酸素は濃くなるだろうというので、床に寝たという人もいるという笑えない話も聞いた。
市場
ラパス市内のホテルにチェックインの後、早速、市内見学に出た。換金すると、当時ボリビアは大変なインフレで、安いものを買うのにも札束、何束もの束を渡さなくてはならず、リックサックで金を運ばなければならず、これには困った。
市場では物珍しく見たこともない物も沢山売っていた。コカの葉も売っていた。コカの葉を精製して作ったコカインは麻薬のため非合法だが、コカの葉をそのまま噛んだり、お茶に出して飲むのは合法だった。高山病に良いというので、きたないなりをしたおばさんにいくらか聞いてみた。「500gいくらかな。」と聞くと、「とんでもない。何考えてんだい。kg当たりじゃなきゃ売らないよ。それも5kgか10kgね。」、「えっ。そんなにあったら困るから、今はいらないや。」、「しょうがないね。ケチだね。それじゃあ1kgでも売ってやるよ。どうだね。」といくらだったか忘れたが、そんな沢山買ってもどうしようもないし、バカにされ気分が悪いので、そこを後にした。
それから歩いていくとサルや他の動物の胎児と思われるものをミイラにしたようなものを売っているのにはびっくりした。漢方薬のようにして使うのであろう。
訪問先
さて、仕事として、この時、多くの関係機関を訪問した。訪問先は、MACA (Ministerio de Asuntos Campesinos y Agropecuario農民と農牧に関する省=農牧省)のCDF (Centro de Desarrollo Forestal 森林開発センター=森林局)、MICT (Ministerio de Industria, Comercio y Turismo工業、商業、観光の省=商工省)、IGM (Instituto Geografía Militar 軍地理院)、Cor de la Paz (Corporación Regional de Desarrollo de La Paz ラパス地域開発公社)などだった。
メインは農牧省の森林局であるが、上層部の職員の異動が多く、安定していないので説明したことがうまく引き継がれないような雰囲気を感じた。コロンビアのように実際の活動部隊には直接会えなかったので、実際にきちんと動いてくれるかどうか危うい印象も受けた。
ボリビアの森林は、東部のアマゾン川流域の熱帯多雨林から南のタリハ州の乾燥地帯まで様々な植生が広がっていた。しかし、森林を管轄する森林局ではほとんど管理ができていないような状態だったのだが、森林資源の利用を進めたい商工省は林産業を開発したい意向もあった。しかし、林業や林産業よりもまずは、道路整備などインフラ整備の優先順位が高く、林業開発の優先順位は低かった。また、中央政府の力が弱く、州政府の独自の力は強く、そのバランスを取って、ここで仕事をするにはなかなか難しいのではないかという印象も受けた。
しかし、森林局の上層部は援助を受けられるならとやる気は満々だった。自ら実行する予算がなく体制も整っていないのに、やる意思だけは強かった。それは上層部では、海外からの援助で仕事ができれば、まず自分の懐が潤うと考えているためだろうという雰囲気も伝わってきた。案の定、我々は単に民間で、ボリビアの森林や林業の状態がどのようなものかを調査をしているだけなのに、我々がボリビアを出国した後に、日本の関係機関が林業部門に援助するようなことを新聞記事として発表してしまった。約束も何もしていないのに、あたかも約束したように発表するなどとんでもないことだった。発展途上国ではこうした思惑で齟齬が生じることが多々あり、我々もそれには十分には気を付けていたが、どうにもならず、落とし穴に落ちたような気分だった。我々は関係機関から大目玉をくらい、商社に頼んで火消しに躍起になり、無事火消しをし、事なきを得た。 その後何年か後に、協力することになり、私はメンバーには入っていなかったが、調査団が入り、アマゾン川の流域を調査し、森林管理計画を作成した。
チチカカ湖でニジマスを食べる
チチカカ湖は大きな湖でラパスからチチカカ湖の南の湖畔までは車で1時間ほどで、ニジマスを食べに行った。ニジマスは、アメリカから導入されたようで、チチカカ湖では非常に成長が良いとのことだった。食べたニジマスも日本のものよりもかなり大きかった。しかし、味は大味で、次にまた食べたいという感じは起きなかった。
市内
その他、当時撮影したいくつかの写真を掲げる。
ラパスからサンタ・クルスへ
ボリビアから次の訪問国バラグアイに向かったが、この時はサンタ・クルスからアスンシオンに向かった。ラパスからサンタ・クルスまでは国内線を利用した。朝7時の便でサンタ・クルスに向かい、1時間足らずでサンタ・クルスに着いた。空気が薄いので、離陸時に随分と長い距離を滑走するなあと改めて思ったものである。
出国時の厳しい検査
その後11時半の便でアスンシオンに向かった。この時、出国時のコカの葉の検査が非常にきびしかった。スーツケース内のもの全部を調べられ、着ているもの全てのポケットに手を突っ込まれ、また持っていた財布やその他の手荷物全てを徹底的に調べられた。幸いコカの葉は持っていなかったので、何事もなかったが、もし持っていたら取り上げられた後に、調べられたりし、予定の便に搭乗できなかったかもしれない。
つづく
【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.35_エクアドル
筆者紹介
南米6ヵ国訪問(エクアドル)
コロンビアの調査が終えてからエクアドルに向かった。1987年3月19日(木)の午後15時15分にコロンビアの首都ボゴタを立ち、午後16時30分にエクアドルの首都キトーに着いた。隣国で距離は約700kmと近く、たった1時間15分のフライトだった。そしてキトーを立ったのが2日後の3月21日(土)の朝だったから、仕事をしたのは3月20日(金)の実質1日だったので大忙しだった。
エクアドルでは1985年の7月から調査を始めており、1986年の夏の調査時に、調査地域の入植農民や先住民によるエクアドル政府が行っていたアマゾン地域の国有林設定事業に反対する調査反対運動が起こった。そして、我々の調査もその一旦を担いでいるではないかと言う疑いから、飛び火して調査反対運動も起こった。我々の調査用の機材なども壊され身の危険にもさらされたので、一旦調査を中断し、私は日本に帰国していた。 そして、この調査の出発の1週間前の3月5日にエクアドルで地震が発生し、調査地域も多大な被害を受けたという情報が入ったため、どの程度の地震の被害の影響があるのか、また支援している農牧省の森林局側の調査の継続意思があるかなどを確認するために、農牧省の森林局を訪問したのだった。
地震の震央など
当時入手した在エクアドル日本大使館の資料からの情報をまとめると地震は次のようだった。1987年3月5日にエクアドルのアンデス山脈の東に位置するレベンタドール火山付近でM(マグニチュード)6.9の地震が起こった。正確には南緯6分、西経77度50分が震央である。
地震は、3月5日午後8時54分にM=6.1の地震が、午後11時9分にM=6.9の地震が引き続いて起った。2度目の地震の方が大きいと言うのは、日本の熊本地震の例もあるが珍しいだろう。地震の原因は、火山の噴火によるものではなく、地殻構造上のものとのことだった。その後、5日の夜から6日の午後6時までの間に約700回以上の微震、うち10回の軽震があったとのことである。東日本大震災でもそうであったように、その後の余震は長く続いたとのことである。
地震の被害
①人的被害
死者300名、行方不明4,000名と推定された。被災者は15万人で、そのうち家屋損傷による屋外生活者、州道の遮断による孤立状態の者が夫々7,500人と推定された。
当時のエクアドルでは、この周辺の正確な状況を把握することは極めて困難だったと思われるので誤差の大きい推定値だと思われた。
②物的被害
家屋全壊 2,000戸
家屋損傷20,000戸
(ユネスコの文化遺産指定地域のキトー旧市街の40%がこれとは別に損傷を受けた。)
道路の損傷
(45kmが全壊、15kmが部分的損傷)
石油パイプラインの切断
(震源付近のレベンタドール火山の山腹崩壊による)
橋梁の崩壊7か所
(崩壊土砂が河を堰き止め自然ダムが形成され、それが数時間後に破れ、大洪水が発生し、それにより落橋)
この地域では簡易なバラック作りの家が多く、たいした揺れでなくとも簡単に壊れてしまうような家が多かった。入植農民や先住民の家が多かったからだ。壊れやすかったが、物も少ないし、修理も簡単だったと思われる。 この地震の後、すぐには調査は再開できなかったが、それは落橋した橋の改修や再建が出来なかったことが原因だった。地震や地滑りなど自然現象により形成されるダムは堰止湖や天然ダムと呼ばれ、日本でも地震の後に形成されることがかなりある。規模が大きくなるほど危険は増す。
メルカリ震度
日本の気象庁の地震震度に相当するメルカリ震度というものをエクアドルでは使っていたが、それによると最初の地震の震度は4.5であり、2回目の震度は6.5だった。これを日本の気象庁の震度に置き換えると最初は震度4、2度目の地震は震度5程度に相当する。だから日本で感じる地震からすれば、強いけれどもそれほど被害がでるほどの地震ではない。しかし、エクアドルでは地震対策が弱いのと地すべりが起きたこととそれによる天然ダムが形成され、その決壊による被害が大きかったのである。
我々の調査への影響
調査地域のかなり近隣で発生した地震のため、アマゾン川源流域に向かう道路が損傷し、また、橋梁が落下したため、現地へ向かうことはできなくなった。政府自体が緊急事態に陥ったため、調査どころではなくなり、森林局としては調査を再開したいという意向だったが、すぐには無理とのことで、半年間延長となった。再開するには、日本への事務手続きなど行うべきことが沢山あったので、森林局の尻をたたいて、色々後押しをした。そして、私はボリビアヘ向かったのだった。
この訪問の感想
結局キトーに滞在したのはたった2晩だったが、エクアドル農牧省森林局の職員とは旧知の仲で家に呼んでくれ歓待してくれた。アンデス山脈の上の方に位置するキトーでは、上に述べたようにユネスコの世界遺産になっている旧市街で被害があったものの新市街では家の作りもしっかりしていて被害はなかった。また、エクドルの方と結婚され通訳してくれた方にも世話にもなった。道路、橋梁、石油パイプラインが被害を受け、アマゾン方面には行けなかったが、キトーの新市街では被害がなかったため、どこか他人事のような雰囲気を感じた。森林局はのんびりとしていたので、上で述べたように、私はその他の関係機関も回り、再会に向けてバックアップをし、一日かけまわったことを思い出す。
つづく
【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.34_コロンビア
筆者紹介
南米6ヵ国訪問(コロンビア)
1987年の3月~4月にかけて南米の6ヵ国(コロンビア、エクアドル、ボリビア、パラグアイ、チリ、アルゼンチン)を約1週間ずつかけて訪問したことがあり、その時のことを書いてみたい。目的は、各国の森林や林業の状況の調査と、地震の影響で調査が中断していたエクアドルの状況や、既に調査が終了した後のパラグアイの状況なども調べに行ったのだ。訪問した国の順に書いてみたい。最初はコロンビアに行った。
【ニューヨークへ】
1987年3月13日に成田からニューヨークに向かった。今コロナ禍の中、以前のように海外旅行や仕事で海外の国に行けるようになるだろうかと不安に思ったりするが、ワクチン接種も始まったことであるし、いずれ行けるようになるとは思う。
ニューヨークには午前中に着き、翌日のコロンビア便までほぼ1日あった。一緒に行った同僚がスーツケースの鍵を失くしたため、カバン屋を捜すとホテルの前にカバン屋があり、そのカバン屋の店員が合う鍵をすぐに見つけてくれ、随分と親切だったことを思い出す。その後、エンパイアステートビルなどニューヨークの町を見学し、夜は日本レストラン、名前は初花と言ったが、そこで寿司を食べたりした。今でもあるのだろうか。ニューヨークでの寿司は美味かった思いが残っている。その後、映画を見たりし、わずかな時間を利用し楽しんだ。
【コロンビアへ】
翌日ボゴタに向けて飛び立ったが、中南米行きの飛行機の機内の荷物入れは、客がアメリカで買った大量の電化製品などを母国に持ち帰るので、いつも一杯であり、自分の席の上の棚に早く自分の手荷物を置かないと、空いてる場所が無くなり、場所を確保するのが大変だった。客の友人同士は、飛行機が飛び立っても席を越えて大声で話しあっており、人の迷惑などお構いなしで、うるさくてかなわんと思ったものである。
【ボゴタの空港での出来事】
初めてのボゴタである。空港で荷物を受け取る時にスーツケースの腹巻のバンドが無くなっていた。なんで無くなるのだ。空港の作業員に取られたのだなと疑ったが、たいした被害ではないので、腹を立てると碌なことがないので、落ち着いていようと思った。
ところが通関時にかなり腹が立つことが起こったのだった。まずは、荷物を開けられた。係官は、「これは何だ。これは何だ。」とスーツケースに入っている荷物、一つ一つにいちいち細かく聞いてくる。そしてこれから会う人ようにかなり沢山のお土産を持ってきていて、日本茶も持っていた。すると、お茶のお土産用の包装紙をビリビリと破られた。「これは何だ。」と問われた。すごい嫌がらせである。「何で、紙を破るんだ。お土産用に持ってきたのに。」と抗議し、日本語で馬鹿野郎とつぶやく。すると、「これはだめだ。通関させられない。」と言われる。全然たいしたものではないのにいちゃもんをつけてくるのである。「何にも悪いものではない。返してくれ。」と頼んでも、「だめだ。渡すには100$(当時だと15,000円くらい)が必要だ。」だと言われる。とんでもない。買った値段が2千円くらいなのに。しばらく押し問答していたが、らちが明かないので、「もういらないからお前にそれをやる。」と言って荷物を閉めて、空港建物の外にでた。
そうしたらその職員が追っかけてきて、「20$で良い。」と言う。「もういらないから、お茶はあんたにあげるから勝手にしろ。」と言うと「10$、5$」と値下げしてくる。あまりにかわいそうになり、お茶を取りあげ20$をあげた。空港職員だから公務員だろうと思ったが、コロンビアでこの先、起きるであろう出来事が思いやられた。
かつてインドネシアでもわずかなワイロを上げれば、すぐに仕事が終わっただろうが、それを知らずに1日つぶされたことがあったが、私は真面目だし、普通の日本人であればワイロを上げるわけにはいかないだろう。しかし、ワイロ社会はそれで社会が動いているのだろうから、ワイロがないと社会は動かないのであろう。このような小さなワイロが国の上層部では巨悪となり、国家が発展しない理由の一つでもある。
【環境庁など】
この時、森林や林業の状況を調べるため、それらを管轄する自然環境保護庁(環境庁)を訪問した。この時まで私は、南米ではパラグアイとエクアドルでしか仕事をしたことがなく、これらの国での仕事は、のんびりしたもので、資料を頼んでもいつまでたっても提出されず、いつもイライラさせられ、スピーディだったためしがなかった。しかし、コロンビアの職員は上の二つの国とは全く違い、資料を集めてくれと頼めばすぐに集めるし、情報をまとめてくれと頼めば文書ですぐに提出されるし、コロンビアの職員は相当スピーディに働くと感じた。空港での出来事がウソのようで、仕事振りはまるで先進国のようだった。ただ、この環境庁には給料以外に何かを行う予算が全くないということだったので、実際に仕事ができるかどうかは、当然ながら実際に行ってみないとわからなかった。
環境庁では、アマゾン川源流域の森林は全く管理できておらず、その地域を調査してもらいたいとのことだった。この当時、私はエクアドルのアマゾン川源流域を調査しており、ランドサットでエクアドルとコロンビアの国境を見るとコロンビアの森林の方が、虫食い状態が大きいことは分かっていた。当時アマゾン川地域では麻薬栽培が行われているということだったので、調査をするなら危険地域は避けたいと思った。とはいえアマゾン地域でも日本の協力では、京大の人類学研究者達が南米の類人猿を調査していた。
アンデス山脈の状態はどうか聞き込んだところ、アンデスの山間地は相当に傾斜がきついが、アンデス地域でもアマゾン流域と同じように国有地を決定しようと線引きをしているとのことだった。すると国有地というか管理が行き届かない地域にはかってに入植する者が多く、国との間で相当の争いがあるとのことだった。アマゾン川流域でもアンデス山域でも入植が問題で、森林は侵食され農地や牧場に転換されていくということで、パラグアイやエクアドルと共通の問題があった。アンデスは急傾斜のため崩壊地も多いとのことだった。(これについては以前にこの紀行文で「コロンビアのアンデスは崩壊地だらけ)を書いた。)この環境庁は自然保護に力を入れていたが、実際には森林の把握のレベルは相当に低かった。
【ボゴタの状況】
この後に1989年から1992年にかけてアンデス地域で仕事を行ったが、ボゴタに行ったのはこの時が初めてだった。それまで南米の首都としては、パラグアイのアスンシオン、エクアドルのキトーを知っていたが、当時パラグアイ全土の人口が約300万人、アスンシオンは約40万人、エクアドルの人口は約1,000万人、キトーは100万人都市だったが、コロンビアの人口は約3,000万人、ボゴタは500万都市だったから、この3つの首都ではボゴタが断トツに大きく、発展具合も他の2首都と比較して断然発展しているように感じた。郊外の高台のモンセラーテ(標高3,100m)にはロープウェイが設置され、観光地というか市民の憩いの場のようになっていた。第2の都市メデジンにも今はロープウエイが設置され、市民の通勤に使われているとのことだ。
郊外には巨大なショッピングセンターもあり、当時は東京よりも整備されているのではないかと感じられた。しかし、麻薬戦争があり、地方は立ち遅れていた。
街の中の日本食レストランではニューヨークでの日本食レストランと同じ名前の「初花」があった。ここでは鉄板焼きで料理人が包丁さばきなど芸を見せてくれながらの食事であったが、味はイマイチだった。
【大使館の書記官】
ボゴタの日本大使館も訪ねて、環境庁やコロンビアの状況を尋ね、今後環境庁と一緒に仕事ができる場合のバックアップをお願いに行った。その時対応してくれたのが、農水省から出向されていた書記官だった。この方は、非常に気さくで協力的で、すぐに環境庁に対して働きかけてくれ、私もおおいに助かった。その後も含め色々な国の大使館の書記官と知り合いとなったが、この方は大変に身の動きが軽くとても好印象が残っていた。
【大使館の書記官との寄寓】
その後30年近く経ち、私も60も半ばになった時に、技術士会の委員に任命され4年間仕事をした。その会の副委員長と委員長をしたのが、コロンビアで応対してくれた書記官だった。30年近くたっているので、最初はお互いに全然覚えてなかった。その方が1987年はコロンビアの大使館で働いていたと言うので、その時私は大使館を訪ねましたが、あの時一生懸命働いてくれたのがあなたさんだったのですねと。記録を調べてみるとまさにその通りで、お互いに寄寓でしたなあとびっくりしたものである。その後、私がクラッシクギターを趣味にしているというと、その方もクラッシクギターを趣味にしているとのこと。えっとまたびっくりした。その方は、小川和隆さんという有名なギタリストから習っているとのことだった。それで、クラッシクギターの大本山のGGサロンというところで行われた小川教室の発表会を一度聴きに行った。小川さんが10弦ギターを使用していることは、その時知った。その方はソルの「月光」を弾かれ、私より一日の長があると思った。それでその後、その方をライバルの一人として頑張ろうと思っている次第である。
犬も歩けば棒に当たるではないが、旅すればいろいろな人との出会いがあり、あっと驚くような寄寓も沢山あったので、追々書いていきたい。
つづく
【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.33_ドミニカ共和国
筆者紹介
絵画コンクール(ドミニカ共和国)
【環境教育】
ドミニカ共和国で行っていたプロジェクトでは、山火事防止対策の一つとして、小中学校で山火事防止をテーマとした絵画コンクールを行い、環境教育も支援していた。援助していた4村のそれぞれの小中学校で毎年1回、3年間行った。この活動は未来を生きる子供たちへの教育活動として、大きな刺激を与えることができたのではないかと思う。子供たちを通して、親達にも、むろん全村に影響を与えることができたのではないかと思う。というのは親が読み書きできない山村の多くの家庭では、逆に読み書きができる子供から親達が字の読み書きを教わり、その内容も教えられることも多かったからだ。日本にいてはなかなか気づかないが、基礎的な読み書きの力を授けてくれる小学校の大きな役割というものを改めて感じたものである。2008年1月~2月にかけてラス・ラグーナス村の小学校で行った環境教育を紹介しよう。
【小学校での準備】
ラス・ラグーナス村の小学校を訪問し、環境教育の一環として、子供達に森林の重要性についての授業を行ったのは、2008年1月16日のことである。小学校に電気は来ているが、計画停電で、太陽が出ている朝から夕方までは停電していることが多く、パワーポイントなどを使うため発電機などを持ち込み朝早くから準備した。
【小学校での授業】
いつものことながら、最初に私が挨拶をした。日本から協力に来ていること、目的は森林を保護し、環境を改善し、その結果、皆さんの生活の向上を目指していること、その活動としては、はげ山にマツを植林したり果樹を植林したりし、土壌を保全し、近くのクエバス川の氾濫を防ぐことが基本だと言った。そして、この地域は昔から毎年、生産が終わった農地に焼き畑をしており、その火の後始末が悪いため、山火事が非常に多く発生し、貴重な木材資源が無くなっていることを説明した。そして皆さんの両親たちに植林をしてもらい、焼き畑をしなくても良いように、農地に灌漑施設を設置して農業生産力を上げる活動をしていることなどを紹介した。そして皆さんには森林を保護するために、山火事保護のための絵を描いてもらいたい。それは、絵画コンクールであり、山火事防止に役立つような上手な絵が描ければ表彰されることなどを説明した。
【環境教育授業】
その後、社会教育担当のヘススと植林担当のホルヘが授業を行った。ヘススは話が上手だ。ヘススは優秀だし、ドミニカ人特有の人懐っこさもあり、好感がもてる。多少おっちょこちょいで、ややルーズな面もあるが、ドミニカ人にしては、きちんとしている方だ。
絵画コンクールのテーマは、山火事防止と植林推進である。これらの絵を描いてもらうにあたり、森林が果たしている役割の大きさを説明する。山火事で木がなくなれば、家を建てる木材がなくなってしまうよ、そうしたら皆困るよね。森林は山に根を張り土がスポンジのように柔らかくなっていて保水力が沢山あるのだが、森林が無くなれば、すぐに水が流出してしまって、洪水になってしまう。だから森林は洪水を防ぎ、皆の家を守ってくれているのだ。それに昔はこのあたりも森林を棲家とするピューマもいたが、今ではほとんどいなくなってしまった。鳥も少なくなってしまった。いろいろな動植物には繋がりがあって、繋がりが切れると、今まで手に入っていたものが入らなくなったりして、人間も生きていくのが難しくなるのだよ。そのために山に樹木は必要なんだと森林の保護と森林を増やす植林の重要性を訴える。そしてこれ以上森林を減らさないために、山火事は防止しなければいけないんだよと説明をする。これらをヘススは子供達に質問をしながら森林保護の大切さを教えて行く。
「皆のお父さんはタバコを吸うかい?吸う人は手を上げて。」
「もし、山の中でタバコの吸い殻をそのまますてたらどうなると思う?」
「山火事になって山に木がなくなったらどうなると思う?」
などと次々に質問をして子供達に答えさせる。子供達も質問されると、ほとんど全員と言っていいくらい、沢山の子供が手を上げて答えようと活発だ。私が小学校高学年になる頃は、子供も多かったし、日本では先生が一方的にしゃべっていたような気がする。今の日本の子供達もここの子供たちと同じように活発だろうか?
次にホルヘが同じように森林の重要性を説明する。パワーポイントを使って、雰囲気的にはいかにも科学者といった顔で子供達に説明している。ホルヘはドミニカ人には珍しく生真面目で几帳面である。どちらかというと説明が難しく、子供たちが理解するのが難しいかもしれないと思った。 それはさておき、子供たちは非常に熱心に授業に集中していた。私も小学生の時のことをよく思い出せなかったが、このように自然に集中していたのだろうと思った。この小学生たちとの交流は私にとっても良い刺激となった。
【絵画コンクールの入賞作品を選ぶ】
さて、子供たちに約2週間余りの間に絵を描いてもらい、2月4日に、ラス・ラグーナス村とカーニャ・デ・カスティージャ村の小中学生の絵の審査を行った。ラス・ラグーナス村の小中学校は3年生から8年生まで、カーニャ・デ・カスティージャの小学校は3年生と4年生が対象であった。学年毎に1等から3等までを選んだ。年齢は7才から16才であった。全部で150枚以上の作品があった。これらを、講義を行った二人と私と事務所の他の社会教育担当2名を含め全員で、5人でどれが優秀作かを選定した。
事務所で、学校から回収してきた絵画を学年毎に一覧できるように並べた。日本の小学生に比べて、図工の授業がないので、その分ドミニカの方が不利だろうが、やはり日本の小学生の方が平均的にかなり上手のように思えた。だいたい優秀作は9割くらい全員の意見が一致した。しかし、1等から3等まで決めるとなると意見が割れる場合があるので、その時は投票で決めた。
【絵画コンクールの発表】
ラス・ラグーナス村の小中学校で、2月14日に、絵画コンクールでの入選作を学校の掲示板に張り、発表した。各学年1等賞から3等賞までを壁に貼りつけた。この時は大勢の子供達が集まり、人だかりで、大歓声だった。自分は入賞したかどうか、皆ワクワクしながらそしてガッカリもしながら発表を見ていた。
【ラス・ラグーナス村の絵画コンクール表彰式】
日曜日であったが、2月17日にラス・ラグーナス村の小中学校で絵画コンクールの表彰式を行った。小学校の教室に絵画コンクールの参加者に集まってもらい、絵画だけでなく、学芸会のようにいろいろな出し物を行い、子供達と一緒に楽しんだ。
我々や先生の挨拶の後、最初に数人の小学生に身振り手振りを入れて小話をしてもらった。これが堂々とした態度で、面白く様になっているので、ドミニカの田舎の子供達もやるなあと思わされた。私が子供の時は、引っ込み思案で、大勢の人前で話すと顔が真っ赤になりなかなか上手に話せなかったが、今は日本の小学生も人前で堂々としゃべれるのだろうか。しかし、一緒に仕事をしていた技術者達にもいろいろな会議でそれぞれプレゼンテーションをやらせたが、中には上がる技術者もいて、ドミニカ人でもやはり個人差はかなりあるものだと思った時もある。
次にパドレ・ラス・カサス町の若者のグループの二人にピエロに扮してもらい、漫才のようなコントをしてもらった。これがまた、面白く子供達は笑いの渦に巻き込まれた。おそらくドミニカ人は天性として人を楽しませるすべを身に着けているのかも知れないと思わされた。
続いて表彰式に移り、各学年1等から3等に入った子供達に先生から賞状を手渡してもらった。それから全員に参加賞が手渡された。それが終わってからもう一度1等から3等までの入賞者に賞品としてナップザックを手渡してもらった。
こうして一通りセレモニーが終わった後に、飲み物と軽食を食べてもらい、歓談し、絵画コンクールの表彰式を終えた。学年は同年齢の子供達ばかりではなく随分歳が離れた子供も同じクラスにいるのだった。多様性がありよいのではないかと思わされた。
【おわりに】
私が見たところでは、残念ながらドミニカの子供の絵は、日本の子供達に比べてあまり上手でないと思った。上述したように、それは学校の授業の中に図工がないからだと思わされた。同様に、音楽と体育の授業がないのである。学校は子供達に勉強を教えるだけで、子供達に情操教育が欠けているのは問題と思った。一番楽しかったと私が思っていた授業がないのである。
ドミニカ人はバチャータやメレンゲといった音楽は大好きで、ダンスも非常にうまい。子供もダンスをさせると大人顔負けにうまい子供も沢山いる。事務所で一緒に仕事をしていた秘書もしょっちゅう鼻歌のように歌を歌っており、よくこんなに沢山の歌詞を覚えているなあと感心していたが、ときどき音程がずれるので、あれっとよく思ったものである。これも音楽の基礎を習っていないからではないだろうか。
また、ドミニカ人は体力もあり、野球も強いが体育の授業がないので、運動しないものは子供でも体力があっても体が硬かったり、バランスが悪かったりするように見え、やはり日本の体育の時間は非常に重要なものに思われ、図工もしかりと思ったものである。
また、技術者についても記述したが、彼らと仕事をしていて、ドミニカだけでなく、どの国でも個人の能力には差がないなあと、中には私よりもよっぽど能力が髙い者もいるなあと思ったものである。しかし、日本が援助する側で、発展途上国よりも優位な立場になっている差は何なんだろうかと考えた時に、国の歴史や持っている資源の量も関係するが、それよりも社会システムの違いや人々のコンプライアンス意識の差が大きいと感じた。個人の能力もさることながら、個々人を集合させた組織が効率的、不正をすることなく動くことが経済力の差になって表れているのではないだろうかと感じていた。
それはそれとして、このような子供に対する環境教育の成果は大きく、この子供達が大人になるまで、いやもっと長く、一世代20年~30年くらい協力できれば、もっと大きな協力の成果が得られるだろうと思ったものである。
つづく
【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.32_ドミニカ共和国
筆者紹介
ハリケーン「ディーン」(2007年8月)-ドミニカ共和国
【ハリケーン「ディーン」が襲来】
「超大型のハリケーン『ディーン』の襲来予報が出ている。襲来は今晩だ。厳重警戒せよ。外出は禁止だ。」と首都サント・ドミンゴの事務所の担当者から、この日の午後、電話がかかってきた。2007年8月18日(土)のことである。隣国、ジャマイカを直撃し、ドミニカの南の海上を通過する予測とのことである。そういえば午前中に風が吹き出し、徐々に強くなってきた。午後1時半くらいからパラパラと雨が降り始めるがまだ、たいしたことはない。外にでても、まだそれほど強い風ではない。しかし、空を見上げると、どんよりとしたハリケーンの雲が低くたれこめ、勢いよく飛んで行くのが見える。
【天気が悪くなる】
この時私は、パドレ・ラス・カサスの町に家を借りており、その日の午後は、通いの家政婦には掃除と洗濯だけを頼み、早く返した。土曜日とハリケーンなので、夕食は自分で作ることにした。午前中に買ってきておいた野菜と肉を弱火でじっくり煮てモロッコで味わったタジン風のものを作る。家には大きな冷蔵庫も二つあった。この家は同じ勤め先のフランキーの持ち家だったが、かなり大きな家で、二階の一部屋にフランキーを用心棒として一緒に住ませていた。フランキーの奥さんはアメリカに出稼ぎに行っており、どきどき帰国してはアメリカから様々なものを買ってくるので、家には圧力鍋もあり、台所用品はありあまるようにあった。それに、二階の物置部屋を捜すと同じようなものがいくらでも出てくるのであった。
【ジャマイカ滞在中の兄夫婦に連絡】
ちょうどこの時、兄夫婦がジャマイカに来ていた。ジャマイカの友人のところに観光に来ていて、夫婦で2週間くらいジャマイカに滞在していたのだ。そこですぐに電話し、超大型のハリケーン「ディーン」が来ていてジャマイカを直撃するとの予報だと伝えるとまだ、そのことを知らなかった。それで今晩からハリケーンが通過するまで外出せず、警戒してくれと伝えた。翌日8月19日(日)が帰国予定日だと言うことで、「無事飛行機が飛ぶことを祈る」と言って電話を切った。
【アメリカのハリケーンセンターの予報を見る】
それからネットでアメリカのハリケーンセンターの予報を見た。すると私の住んでいるドミニカ共和国のパドレ・ラス・カサスは、予想中心進路の外側ギリギリくらいの位置にあるが、ジャマイカはまさに中心が通る予報で、直撃である。これは兄夫婦のいるジャマイカは大変だ。無事何事もなく通過してくれれば良いがと祈っていた。
【真夜中の訪問者】
その晩、寝る時分午後10時頃、玄関のドアを開け外を見てみると、雨は土砂降り、風はゴーゴーとうなっている。しかし、家は大きな家でブロック積みだったので、風にはびくともしなかった。この辺の家の作りをみているとほとんどがブロックを積んだものである。ブロックがむき出しの家もかなり多い。借家はかなり金をかけているようで、ブロック積の上にモルタルを塗り、きれいに塗装しているので、見た目はとても美しい。しかし、耐震性は低かっただろう。幸いにもこの時のハリケーンがこの辺を直撃しなかったので、この強風にも楽々耐えていた。そのため、私は1階の奥の自分の部屋で、ハリケーンの恐ろしさも感ずることなく熟睡できた。
ところがその晩の夜中である。事務所で一緒に働いていて、音楽教育で協力をしているフランス人の女性が突如訪ねてきた。彼女はやはり他の女性職員の家に住んでいたが、もの凄い風雨なので家までそれほど遠くはないが帰れなかったのだろう。事務所から近い我が家に助けを求め訪ねてきたのだ。彼女は、任期を終えフランスに帰国直前であったが、5~6才くらいの小さなお子さんを連れていた。この子が彼女の子供か、教えている子供か、どうかはわからなかったが、私は寝ていたところを起こされたので、目を覚まされて気分がすぐれなかった。しかし、びしょ濡れである。そこで、2階に寝ているフランキーを起こし、彼女の世話をするように言いつけてから、私は再び寝てしまった。2階にはトイレバス付の部屋が2部屋あり、一つはフランキーが使っていて、彼女は空いているもう一つの部屋にその子と共に泊まって行った。シャワーがあったので彼女も助かっただろう。人助けができて良かったとしたものである。
後で、考えるとこの彼女にもっと丁寧に世話をしておけば良かったと思ったものである。私もこの事務所に来たばかりで、まだプロジェクトを動かすのに必死で、彼女とは事務所では挨拶をする程度で親しくなかったからである。しかし、翌年、彼女がこの地が懐かしく、夏のバカンスで訪ねてきた。この時、市場でばったりで会い、その晩ディスコ(ディスコと言っても立派なものではなく、バーベキューを食べながら踊る青空ディスコである)に踊りに行こうと誘われたのである。その時この彼女は、以前滞在していた事務所の女性職員の家に泊まっていたのである。事務所の職員多数とディスコに行ったが、この晩は大変に楽しい晩で、彼女もかない酔いが回り、陽気なフランス女性の一端を垣間見た。この話は別の機会に書ければと思う。
【兄夫婦の状況】
さて、翌日の8月19日(日)にはハリケーンが通り過ぎた。アメリカで最大レベルの5とされたハリケーンであったが、ここパドレ・ラス・カサスでは、私が予想していたほどの雨と風ではなかった。しかし、山岳地ではかなりの雨が降ったようである。
兄夫婦がいるジャマイカが心配である。ジャマイカでは国家非常事態宣言が出た。滞在していた家に電話をしてみると、既に空港に向かって出発した後だった。後で聞くとハリケーン通過翌日で、空港までの道路は大混乱していたが、何とか空港まではたどり着けたとのことだった。しかし、予定の便は欠航となり、変更が大変だったが、何とか夜行便に変更ができ、カナダ周りで、トロントで一泊の後、無事帰国できたとのことだった。
【ハリケーンの通過の後】
朝10時頃、事務所の職員が、増水した川が渡れるかどうか様子を見に行こうと家を訪ねて来た。援助している村は川向こうにあるため被害状況も知りたいのだ。我が家の近所に住んでいる助手のエディを連れて3人で川の様子を見に行く。すると普段は数mの川幅で、下床路として渡れる箇所も相当に増水しており、とても車では渡れない。上流では相当降ったのだろう。何しろ上流域の山岳地帯もほとんどの土地が牧場や農地として利用されており、山地の保水力は低い。ドミニカがハリケーン銀座とはそれまであまり気に留めていなかったが、これでは下流域のサバナ・ジェグア・ダムでの堆積は相当量あると推測される。そのために住民たちに植林してもらい、その動機づけに農地に灌漑しようと協力にきているのだが、先が思いやられるのだった。この日、風は収まったが、雨は一日中シトシトと降っていた。
【増水で村に行けない】
その後、クエバス川が増水で、渡れず、しばらく現場には行けなかった。ただ、この時のハリケーンではクエバス川にかかるバデン(土橋、ヒューム管を並べ水を流し、その上に土を盛り橋としたもの)は流されることはなかった。そのためバデンはすぐに復旧し、村には通えるようになった。しかし、この後10月に来たハリケーン、そして翌年8月に来たハリケーンにより、バデンは流され、その復旧には時間がかかり、プロジェクトの遅延の要因ともなった。
【その後もハリケーンに悩まされる】
私は、この年8月に一旦帰国し、その後上述したように、10月にハリケーン「グスタボ」の襲来により、バデンは流され、次に12月に続けて来たハリケーン「オルガ」によって壊滅的な打撃を受けた。この時に事務所で働いていた同僚は、仕事が進まずハリケーンに苦しまされた。その後、公共事業省により、バデンは再構築されたが、その後も毎年ハリケーンが来る度に流され、翌年は私が同様にハリケーンで苦しまされるのであった。
このプロジェクトが終わって数年後に、苦しめられたバデンがある場所に橋がかけられ、村人もハリケーンにより交通が遮断されることがなくなり、村はおおいに発展しているとのことである。その後のハリケーンのことについてはまた別の機会に書ければと思う。
つづく
【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.31_セネガル
筆者紹介
セネガルでの経験-アフリカ人の運動能力の高さ
【はじめに】
アフリカ人のスポーツ選手の運動能力の高さは、誰しも認めるところであろうが、アフリカ人のスポーツ選手に言わせると「勝てるのは先天的な運動能力の高さのおかげではなく、努力のたまものだからだ。」とのことである。実際努力に負うことは確かであるが、私が見たところ走ることなどは日本人に比較して、アフリカ人の方が有利な体型であることは明らかであると思えるので、そのことについて、今回は前に書いた文章も引用して、セネガルで感じたことを書いてみたい。
【セネガルでの仕事】
まずはセネガルでの仕事であるが、セネガル南西部にあるサルーム・デルタでのマングローブ林の保護をしながら環境を保全し、そこに住む住民がマングローブ林を利用しながら生活の向上を目指す仕事だった。マングローブ林の樹木は、建築材や薪炭材ともなり、住民の生活には欠かせない重要な資源だった。同時に水産資源も育み、防潮堤の役目も果たし、さらにエコーツーリズムなど観光資源にもなる貴重なものである。
そこでマングローブの植林も行った。天然林と人工林で日隠を増やし、海水温を下げ、またマングローブの葉が海水に分解され、養分となり、プランクトンが増え、魚介類が増えるのだった。採った魚介類を販売したり、エコルートを作ったり、マングローブ林を保全しながら収入源を多様化する様々な活動を行った。
これは村人との共同作業で行ったものだが、活動を通じ政府の職員も含めて多くのセネガル人に接した。それにより驚いたのが彼らの素晴らしい体型と運動能力だった。
【体型】
セネガル人は、平均的に背が高く、日本人より男女共10cmくらいは背が高いのではないかと感じた。私と一緒に仕事をしていた森林局の人と比較したのだが、彼は185cmで、私が170cmなので15cm身長が違うが、座ると座高は同じだった。つまり、足が私よりも15cmも長いのだ。それもスネが10cm、モモが5cmも長いのだ。
本当に驚くほどスネが長い。底なし沼のようなマングローブ林に入るには、下の写真で私が履いているような日本の地下足袋が最高に適していた。だから一緒に仕事をしているセネガル人も日本から持ってきた地下足袋をプレゼントした。しかし、彼らのスネは長すぎて、日本人のスネは彼らのアキレス腱くらいで,地下足袋をフック(コハゼ)で止める場合,フックの位置を一番狭いところにしてもまだ,ゆるゆるの場合が多かった。とはいえ彼らもマングローブ林を歩くときの地下足袋の素晴らしさを満喫していた。このように足、特にスネが長い場合にはサッカーには向いているだろう。
それに頭が小さいのだ。私は54cmくらいの帽子をかぶっていたが、彼のそれは50cmくらいで、彼が私の帽子をかぶるとブカブカだった。また、腕が私よりはるかに長かった。これは走る上で大きな素質と思った。運動の専門家に聞いてみると確かにそのとおりで、ヤジロベイのように重心が支点の下にあり、バランスが非常に良くなるとのことだった。
腕が長いといえば、村でのワークショップ時に、壁に模造紙を貼り付ける時、私が背伸びして手が届かない所を一緒に仕事をしていた女性が手を伸ばし張り付けてくれたことがある。その女性は、身長が165cmくらいで私より5cm低いのに手を伸ばしたら私より10cmくらい上に手が行くので、びっくりした。スタイルが非常に良いのだ。その女性は細くて柔軟性が非常に高いように見え、オリンピックの200mで優勝したアリソン・フェリックスのような感じだった。
それから、秘書の女性が、仕事は大変に良くできる上に、素晴らしい体形で、オリンピックの短距離選手のような体つきだった。100mをコーチについて練習すれはオリンピックでも出場できそうな体型に思えた。この方は筋肉質に見え、やはりオリンピックで優勝したジャマイカのキャンベル・ブラウンのような体つきだった。私は彼女によく「あなたは素晴らしい運動能力を持った体型に見える。100mでも練習すればオリンピックにでも出場できるのでは?」と言っていた。彼女も「私も皆からそう言われる。」と言っていたから、セネガル人の中でも特に素質があるような体型だったのだろう。
男の筋肉質の体も素晴らしい。小型のエンジン付きのボートをいつも使っていたが、その船頭がウエイトトレーニングでもしているように実に素晴らしい体をしていた。エンジンが50kg以上もあり、非常に重いのに軽々と扱っていた。彼らは、米に魚を乗せたチェブジェンという食事が中心で、動物性たんぱく質はあまりとってないはずなのに何でこんなに筋肉質になるのか不思議だった。エンジンの取り付け、取り外し、その保管などが生活に取り入れた良いウエイトトレーニングになっているのだろう。腕の力こぶが自然とでていて筋肉のみというような素晴らしい体型だった。
【子供の運動能力】
サルーム・デルタは文字通りデルタ地帯で多数の島から成っている。村での活動では島の民家に泊めてもらうことが多かった。マールファファコという村に泊めてもらったある朝、小さな女の子が井戸から水を汲んでいた。
女の子の身長は130cmくらいだった。小学校4~5年生くらいにみえたが、井戸からつるべ落としで水を汲んでいた。井戸の深さは10mくらいだったが、そのロープを持って全身を使った動きがしなやかで早く、全く無駄な力を使っていないようにも見え、素晴らしい運動能力を持っていた。私も汲んでみたが、一杯10kg程度はあり、単に力だけでなくタイミングが必要で、汲む速さは全くかなわなかった。日本の同年代の女子ではこの重さでは上がらないだろうと思われた。
この天性の運動能力をどこかの先進国で開花させれば、オリンピックの何かの種目で金メダルを獲得するのはそれほど難しくはないのではなかろうかと思わされた。この子だけではなく、アフリカ人の多くはそのような素質を持っているのだろうが、開花させられることはなく一生を自分の村で過ごすのだろうなと思った。
【コロナ禍のオリンピック】
今、世界中はコロナ禍の中にあり、そのため東京オリンピックも1年延期された。来年(2021)開かれるかどうかもまだ不透明である。もし予定通り開催されていたら、今頃はすべての結果がわかっていて、日本は、金メダルが何個とか余韻に浸っているころだっただろう。
来年、ワクチンが行きわたり、コロナも終息していて、オリンピックが開かれることを望むが、オリンピックでは本当に最高の力を持った選手が優勝するのであろうか?世界選手権で2回銅メダルを取り、走る哲学者とも評される為末大は「銅メダルを取ったから、自分は世界で3番目に速い、ということではなくて、たまたまそういうことが評価されるような国の選手が集まった中で、3番だったということに過ぎない。世界にはすごい走者が潜在的に沢山いる。」と言っているが、その通りだと思う。一番力がある選手でも参加していない可能性がある。
もしアフリカ人が先進国と同じ様に一般の人が豊かになり陸上の競技人口も増え、栄養も良くなれば、より潜在力がある選手が発掘されて、今よりはるかに良い記録がでるだろう。益々日本人は離されてしまう。今でさえ、マラソンでもケニアの黒人選手エウリド・キプチョゲが非公認ながら2時間を切った。これは靴やペースメーカーなど特殊な補助を受けているため非公認となっているが、相当な潜在力だろう。
一方、これに対抗するかどうかは別として、記録を出すためにドーピングなどの不正をしているものが多いのも大問題である。今のドーピングは、単に薬を飲むということだけではなくて、ゲノム編集までやってしまい、遺伝子検査をしなくてはならないということも聞く。本来の力以上のものを出し、死に至った選手もいるし後遺症に悩まされている選手もいる。また、大企業がスポンサーになって選手を広告塔として利用するなど、他にも問題はいろいろある。
薬物や特殊な補助に頼ることなく、人間の力だけで、そして潜在力がある人も練習し能力を開花させ参加できるオリンピックになれば良いと思う。しかし、潜在力がある人が参加するようになるまでにはまだまだ長年月が必要であろう。
そのようなことを考えると人間の能力をオリンピックで開花させる必要もないかなどとも思ってしまう。競争とは無縁な素朴な生活を続けていくのが一番幸せであるかもしれないとも思う。
それでもやっぱり、潜在能力を持った人達が、本当にその潜在能力を開花させたら今よりはるかに高いレベルの記録がでるのかどうかを見てみたい気もするというのも本音である。そんなことを思いながら、来年は、本当に落ち着いた年になり、本当に能力を持った人たちによる、より素朴ではあるが、ドーピングなども不正もない豊かな祭典、東京オリンピックが開催されることを望むものである。
つづく
【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.30_コロンビア
筆者紹介
不思議な夢の中の世界(コロンビア-アンデス)
コロンビアのアンデス山脈上は、はげ山が多く崩壊地が多いことなど、この地における調査については、何回か書いた。その調査をしていたペンシルバニアという村の状況についても書いた。今回はそのペンシルバニア村で経験した不思議な夢の中の世界だったような話だ。
【ペンシルバニア村】
ペンシルバニアの村名はまるでアメリカであるが,小さな村だった。カルダス州の州都マニサレスからペンシルバニアまで、山道の道路に沿って100㎞くらいの距離ではあるが、くねくねと曲がりくねる上にアップダウンを繰り返すので、車の時速は20kmも出せず、ペンシルバニアまでは6時間くらいかかる。その間に見る景色は、山の斜面に牧場が広がり、牛もころげ落ちるという急斜面だ。車に揺られてペンシルバニアに着くとくたくたで、本当に山奥に来たという思いになる。
しかし、そこペンシルバニアの若い女性は美人しかいないと思われるほどの美人だらけである。それで疲れも吹っ飛ぶのである。日本でも山奥の平家の落人の集落がそうであったりするのと似ている。カルダス州の州都マニサレス自体がコロンビアでも有名な美人の土地ということもあろう。この辺りまでは以前に書いたとおりである。
【ペンシルバニア】
ペンシルバニアは標高2,100mくらいにあり、山の中の比較的平らな場所にぽつんとある集落である。街の広さはほぼ700m~800m四方くらいで、一つの通りの幅が約100mである。真ん中の東西に通る道路が中心の道路でその道路の周辺にいくつか店があった。最初は、清潔ではあるが、古いホテルを宿舎としていた。かなりの人が馬を利用しており、18~19世紀の世界に来たような感じを持った。街の真ん中にプラサ(広場、公園)があり、その西側には大きな教会があり、東側には、街の皆が利用する大きなカフェー(喫茶店)があった。数年後に街はずれにロッジ風のしゃれたホテルができたので、その後はそこを宿舎としていた。
【アレハンドロ】
アレハンドロはコロンビア環境省の共同作業技術者グループの主査だった。非常に優秀で、呑み込みが早く、行動力があり、我々が要求する資料もすぐに提出してくるし、アポイントもすぐに取るし、行動力もあった。我々も非常に助かったし、林業や林産業関係の会社を調査するのも彼ら自身では予算がないので、我々と一緒に回れて調査ができ、非常に勉強になったと感謝もされたりした。この調査が終わった後は、大学教授に転身した。
そして、彼がまた優れているのは、よくもてることだった。黙っていてもてるというのではなく、柔らかい人当り、巧みな話術で、老若男女誰に対しても優しかった。女性に対しては、女性の喜びそうなことを何のためらいもなく自然と口から出てくるし、まあ南米の男はほとんどそうであるが、生まれ持った天性かもしれないが、うらやましいこと限りがなかった。
【カフェー】
街中のカフェーは、村人の情報交換場所はここしかないといった社交場であり、前に書いたアデリータと最初に会ったのもこのカフェーである。パトリッシアは、最初にペンシルバニアに来たときにカフェーで見かけた美人である。私はこの世の中にこんな整った顔をした女性は今までに見たことがないと思うくらい美人だった。だからと言って私が心を動かされたということはなかった。アレハンドロは早速話しかけ、すぐに仲良くなっている。何回かカフェーに行くうちに私もパトリッシアと話してみたが、何となく話がずれる感じを受けた。彼女は独身で21~22歳くらいに見えたが、もっと若かったのかもしれない。まるで高校生と話しているような純粋さを感じるのだった。パトリッシアに限らず、ここの若い女性は、生まれた時から人間に育てられた猫のようで、誰に対しても警戒心がないように感じた。それに外から来たもの珍しい日本人には、よけいに興味を持ったようでなついてくるようにも思えた。教会の裏あたりには、アトスという名のこの村では唯一のディスコがあり、我々も金曜や土曜の夜には時々踊りに行ったが、パトリッシアはそこには来なかったので、夜の外出は禁じられていたのだろう。
【土曜日の集まりに誘われる】
1990年7月14日、土曜日のことだった。アレハンドロから、数日前に土曜日の夜に飲みに行こうと誘われていた。「マスイ、今度の土曜日の夜に、村はずれの牧場に招待されているので、一緒に行こう。招待されているのは私とマスイだけだから、他の者には秘密だよ。この村の名士達が集まるのだ。パトリッシアも来るから行こうよ。」と言われた。こんな山の中で、どのような人達が集まるかわからないので気が引け、また他のメンバーには悪いという思いがあったが、まあ何事も経験だし、パトリッシアも来るならいいだろうと思い、「OK。行くよ。」と返事しておいた。
アレハンドロは、その性質から誰とでもすぐに友達になるのですぐに顔が広くなるし、市役所に報告に行った時に、週末の名士達の集まりを聞いたのだろう。そこで、アレハンドロと私が行くことを頼み、パトリッシアも誘ったのだろう。
【山中の一軒家へ】
土曜日ではあるが午後までナナフシの被害状況やマツ林を調査していた。午後5時過ぎにアレハンドロの車で出発した。急斜面の山道ではあるが、道路は山の斜面に平行的に作って有り、ペンシルバニアの町から数キロ、10分ほどですぐに着いた。山と言ってもアンデス山脈は大きいので、日本のように急な侵食された崖のようなところというよりも大きな山海のうねりが続いているといった感じである。
着いた先は大きな牧場の中の一軒家だった。平らな所を選んで木造2階建ての大きな家が建っている。午後5時半頃だった。まだ、日が沈まず外には明るさがあった。早速家の中に入ると広い居間には既に、20人くらい集まっていた。男が10人、女が10人くらいだ。後から3人来たから、集まったのは全員で23人だった。中には部屋が7~8つもありそうだった。小作人に牧場を管理させ、所有者は週末に遊びに来るのだ。
【参加者】
私は、家の中に入った途端、来なければよかったと後悔した。何となく私の来る場所ではないと感じたからだ。男は知らない人だらけだったが、女性は街中で私でも目が付くほどの美人の若い女性が数人いるのがわかった。パトリッシアがいるのも分かった。しかし、何しろ私だけが異質な日本人で、他は皆コロンビア人だからということもあるが、庶民ではないという雰囲気が漂っていたからだろう。それに日本語ではなくスペイン語だけで、彼らどうしで話す早口のスペイン語には、とてもついていけなかったこともあった。しかし、私の引っ込み思案的な性質からくる思いはすぐに杞憂に終わった。
中に司会がいて、毎週末でもこのようなパーティをしているのだろう。とても上手に皆を紹介していく。私だけが異質なので、アレハンドロが自己紹介した後、私の紹介も簡単にしてくれたが、その後私自身で、自己紹介をさせられた。自己紹介の挨拶はスペイン語でも数えきれないくらいやっているので、コツがわっていたので、若干笑わせたりスムーズに行ってやや打ち解けた。彼らも簡単に自己紹介をしてくれた。この家の持ち主はこの村の医者だとわかる。その他の参加者は弁護士や先生達で、男の参加者は40代~50代くらいで、やや中年と見えた。南米の人は年寄り上に見えるので、実際はもっと若かったかもしれない。私もアレハンドロも40前後だったので、われわれはどちらかというと少し若い方だった。しかし、女性達は20~25才くらいで、男達よりもずっと若い。全員超がつくくらい美人でスタイルも良くびっくりだ。世の中にはこんな世界もあるのだと改めて世界の不公平さを感じた。中に夫婦が3人いるとのことだったから、若い女性を奥さんにした幸せな男も少なくとも3人はいるということだ。
【キャンプファイアーにバーベキュー】
しばらくして、作男が、用意ができたと言ってきたので、全員で外に出るとロマンティクな黄昏時である。キャンプファイアーが焚かれ、近くではバーベキューで大量に大きな牛肉の塊が焼かれており、美味しそうな香ばしい肉汁の香りが漂っている。その周りには椅子や切株や木の幹の長椅子が用意されていて、それぞれ好き勝手なところに座る。アレハンドロはパトリッシアの隣に座り早速くどいている。
赤道周辺は、日本のように北緯35度に比べて地球の回転速度が速いから、黄昏時間が短くて、すぐに暗くなってしまうことを感じていた。6時半くらいにはもう暗くなっていた。夏の赤道上とは言え、標高は2,100m程度なので、気温は15℃くらいと気持ちが良く、乾燥していて、赤道無風帯でもあり、そよ風が気持ち良い。
キャンプファイアーの周りで、ビールやコーラやアグアルディエンテが回ってきた。アグアレディエンテは、コロンビアの地酒でサトウキビで作られアニスなどが含まれていて独特の味があり、透明で30度くらいの強さがある。皆それぞれ好きなものをグラスに注ぎ、乾杯である。乾杯はスペイン語ではsalud(サルー)だ。
アグアルディエンテを飲みすぎると必ず酔っぱらうから、私はビールで乾杯し、酔っ払わないように二日酔いにならないよう、飲み過ぎないように気をつけていた。アレハンドロも最初はビールだったがピッチが速くぐいぐい飲んで、もともと陽気の上にさらに陽気になっている。若い美人の女性達に囲まれているせいもあろう。私は雰囲気に呑まれないように冷静にしていた。肉とジャガイモもどんどんと回ってくる。だんだんと打ち解けてきて、最初は合わないかなと思っていたが、南米人特有のオープンな心で歓待され、私も来て良かったと思うようになった。皆席を入れ替わり色々な人と話していたが、アレハンドロは若い女性を誰彼となく口説いている。
【ゲーム】
そのうち司会がゲームをやろうと言い出し、全員でハンケチ落としをやって楽しむ。皆必死になって子供の様に楽しんでいる。いい大人が童心に戻って遊ぶのも楽しい。色んな遊びを楽しんだ後、段々と皆酔っぱらってきて、借り物ゲームとなった。最初は男にシャツを持ってこいというと、お互いにシャツを交換した。下着を着ているのは私だけで、全員裸の上にシャツを着ていたのにはビックリした。次に女性達にシャツを持って来いというと、全員がキャアキャア騒いで何事かと思う。女性達はジャンバーのような上着を持ち、全員家の中に一目散に駆け込み、シャツを取り換えっこし手に持ち、ジャンバーを引っ掛けて出てきた。かなりキワドイなあと思っていた。皆真剣に遊んでいる。
【歌】
遊びも飽きて、次は歌である。真っ暗であるが、キャンプファイアーの火があたりを明るくし、皆益々酔っぱらって乗ってくる。だれかがギターを持ってきて、歌い始める。何曲か歌った後に私も歌わされる。スペイン語で歌った方が受けるので、パラグアイで覚えた「イパカライ湖の思い出」と「シエリートリンド」と日本の「コモエスタ赤坂」を「コモエスタペンシルバニア」として歌ったら大喝采を浴びた。
【ダンス】
歌が飽きて、次は定番のダンスである。コロンビアと言えばクンビアである。女性達が盛んに踊ろうと手を取り誘ってくれる。酔いも回って皆益々活発になってくる。どちらかというとこのダンスが始まるとほとんど飲まなくなるので、二日酔いにならないで済むことが多いのだ。中南米のいろいろな国で踊ったことがあるが、男女の密着度はコロンビアが一番強いと感じた。パラグアイなどは男女が離れて踊っていることも多く、エクアドルやドミニカ共和国などは日本の社交ダンスくらいであるが、コロンビアは抱き合って踊っているようなカップルも多い。
先生と話していると、ここは田舎だから男女間の中は厳しく節度があるのだとのことだった。「若い女性達もああやって奔放であるが、皆最後は節度があるのだ。節度を破ればマスイもこの村に一生住まなくてはならない。だからマスイも日本に帰りたければ、節度を守らなければならない。」と忠告をしてくれる。
そうこうしているうちに雨がポツポツと降って来たので、全員家の中に入り飲みなおしだ。家の中でもすぐにクンビアのダンスだ。この独特の調子のよいリズムのクンビア、コロンビア人はお腹の中にいるときからクンビアを聞き、ダンスをしているからリズム感が良くダンスがうまいのだと言われるが、さもあろう。
【雨で泥だらけに】
しばらくして、10時ごろからポツポツと人が帰りだす。雨がだんだん強くなり、土砂降りとなった。一人の女性が車がぬかるみにはまって動けないという。雨の中、皆で車の後ろを押したら、タイヤが空回りして全員泥だらけになった。しかし、幸い車は動き、その女性は帰って行った。我々は家の中でシャワーを浴び汚れを取った。
さて、夜中のスコールも止み11時くらいになったので、帰ろうとアレハンドロにいうと、酔っぱらっていて、もっと飲みたくて、まだ帰りたくないという。アグアルディエンテをロックでぐいぐいとまだ飲んで、残っているパトリッシアを盛んにくどいているが、パトリッシアもあきれるほどの酔っぱらいになっている。パトリッシアも帰りたがっているが、アレハンドロが引き留めている。実際にアレハンドロの酒癖は悪くて、だいたい土曜日に飲みだすと朝まで飲んでいるのが、定番のようだった。
【アレハンドロに絡まれる】
残っている女性達と私はしばらく話をしていた。12時くらいになったので、もう帰ろうとアレハンドを連れ出す。この時パトリッシアとサンドラをいう女性も一緒に車に乗り、ペンシルバニアまで帰ることになった。街までわずか10分ほどだが、山道の酔っぱらい運転は危険だった。アレハンドロが酔っぱらっているから、酔っぱらい運転はだめだから私が運転するのでアレハンドロは助手席に来いと私が彼に言った。
すると酔っぱらいのアレハンドロが豹変し、私に絡んできた。「何い。マスイ。お前は外人だろ。コロンビア人ではないだろう。コロンビアの運転免許書を持っているわけはないだろう。免許書も持ってないのに、お前が運転できるわけはない。黙って座ってろ。」と大変な剣幕である。
すると後ろの席に座っているパトリッシアとサンドラにも絡み始めた。何と言っているのかはわからなかったが、パトリッシアまで罵倒するとは思わなかった。すると二人は怒って車を降り、歩きだしてしまった。私はあわてて車を降り、二人を連れ戻そうとした。こんな真っ暗な山道を歩いて帰ったら何があるかわからず、車より危険だ。アレハンドロをなだめるから、こんな真っ暗な山道は危険だから車に乗れと説得する。パトリッシアはすぐに車に戻った。しかし、サンドラはズンズンと歩いて行く。私はサンドラに追いつき必死で説得し、ようやくサンドラも納得して車に戻った。サンドラは、この山の家で初めて会ったが、端正な顔立ちで背も高く、知的な美人に見える。怒った顔も美しく、なんでこんなに美人なんだろうと真っ暗な中で不思議に思った。
【街に戻る】
それから車の中でアレハンドロをなだめすかしてようやく街に戻る。街で、パトリッシアとサンドラを下ろし、街ではカフェーがまだ開いていたので、アレハンドロとそこに入り水を飲ますとアグアルディエンテをくれと言う。一体、酔っぱらいとはいつまで飲むのだろう。
泊まっていたホテルは、街はずれにできたばかりのコッテッジで、帰ると入り口の鉄柵が閉められていて車が入れない。真っ暗な山道を200mほどコッテッジまで歩いた。
アレハンドロはパトリシアに気があったのにこれでは、もうだめだろうと思っていたところ翌日の日曜日にカフェーに行くとアレハンドロとパトリッシアが仲良くコロンビアコーヒーを飲んでいるのでびっくりした。まあ、酔っぱらいの酔狂は水に流されるということであろうか?
コロンビアの大田舎の中の特権階級の人々の週末の遊びを経験したのだが、オープンな心で多様性を認めるような、また、お話、ゲーム、歌、ダンスと様々に楽しみ男女の仲が近くうらやましいような、何か不思議な夢の中の世界を経験したような強い印象が、30年も経った今でも鮮明に残っているので、それを書いてみた。