森林紀行travel
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.12
最終報告書
最後の報告書の説明会へ
報告書が出来上がった後に、1985年2月8日から2月23日までの2週間、最後の報告会に行ったのであった。報告会が無事終わり、帰国後、パラグアイ側の希望などを取りこんで最終の報告書を作成した。
計画の概要
今から30年以上も前のことではあるが、ここで計画の概要をごく簡単に述べると、毎年約1,000haずつ6年間に渡って植林する計画であった。植林面積はもちろん初年度が少なく、徐々に増やして6年目が植林面積は最も多い。植栽培樹種は、針葉樹のエリオッティマツ、テーダマツ、カリビアマツを中心として伐期を20年とした。一般建築用材を生産目標にし、間伐材はパルプ材や牧柵用材とした。
パラナマツは材質が良質なので、伐期を30年とし、一般建築材でも良質材を生産目標にした。
その他、広葉樹でユーカリ、パライソ(成長が早い)の外来種と郷土樹種でラパチョとペテレビを植栽することとした。
針葉樹と広葉樹の植栽割合は90%対10%である。
初期6年間は天然林の伐採収入が入り、9年目から間伐収入を予定した。
雇用する労働者は多い年で約300人、少ない年で約60人程度であり、50年間で述べ約5,000人、年平均で約100人だった。
林道は10m幅で幅員は6m、左右2mは伐開整理し、保護樹帯も設けることとした。施設は中央事務所、修理工場、倉庫などと職員アパート、診療所、学校、教会なども計画した。
機材も重機、消防自動車、ジープ等の車両類から事務機器まで非常に細かいところまで設計した。
50年間に支出する額は約4,000億グアラニー(約2,700億円、1$=350G、1$=240¥)で、収入は約8,000億グアラニー(約5,400億円)となった。収支が黒字に転じるのは19年目からで、内部財務収益率は19.6%となった。これは50年間も実行すれば非常に儲かる数字である。
資金は15?16年目くらいまで借りる必要があり、30億グララニー(約20億円)借りられれば、計画は実行できたのではないかと思う。
その後
それから2年たった1987年3月に別の仕事でパラグアイを訪れた。
森林局にて1987年3月28日
その時パラグアイの森林局には日本から専門家が派遣されていた。我々の作成した計画の実行立ち上げのため、森林局の技術者達を鍛えていた。
専門家の指導は厳しく森林局の技術者と共に、日曜日の午後から金曜日の午後までカピバリの現地におり、金曜日の午後にアスンシオンに帰り、土曜日の午前中は講義、日曜の午後またカピバリに出かけるというハードスケジュールであった。森林局の技術者も音を上げていた。
この時皆で日本式に最初の木に斧入れをするので安全祈願祭を行い、私も参加した。お供え物としてバナナ、リンゴ、パイナップルなどの果物とそれにワインを持って行った。ご神木として選んだ木にしめ縄を巻き、その下にお供え物を供えた。そしていくつかの呪文を唱えた後、「これから山の作業に入りますが、山の神様、どうか安全をお守り下さるようよろしくお願いします。」と日本語とスペイン語でお祈りをしたのであった。その後、全員が各々お祈りをした。
安全祈願祭 1987年3月31日
技術者全員に訓示をする長官
カブラルとウエスペ
この時、私が2年ぶりにパラグアイを訪れたので、カブラルが家に招待してパーティを開いてくれた。ウエスペともう2組の友人達も来た。カブラルは新婚であった。カブラルの奥さんは、ずっと以前から私は知っていて、独身の時は細めであったが、結婚したら随分とどっしりした。奥さんは薬局を経営していた。ウエスペの奥さんはもう少しで子供が生まれるくらいの時期であった。
その後、カブラルから手紙をもらいそれには「増井、家族ともども元気だよね。息子の写真を送るよ。早くパラグアイに遊びに来なよ。待っているよ。カブラル夫婦」と記されていた。
通訳の若者
この時は、前に通訳をしてくれた若者にも会った。彼は、カピバリの調査が終わる頃の彼女と結婚をしており、一児をもうけていた。彼にしてもそうだが、前の二人もとても夫婦仲が良さそうに見えた。これは日本人では人前では恥ずかしがって見せられないのが、オープンに仲が良いところを見せられて、とってもいい雰囲気に見えた。私も人前で仲良くみせられたら、もっと良かったかもしれない。日本人も一般にもっと人前での夫婦仲が良いのを見せれば世の中も明るくなるだろう。
それからのその後
その後1988年11月にアルゼンチンのコリエンテスで、国連主催のTFAP(熱帯林行動計画)の国際会議が開かれ、私は日本代表として派遣されたのだった。
コリエンテスはパラグアイの対面で、アスンシオンから近く、もしかしたらパラグアイの代表もきているのではないかと期待していたところ長官とエンシーソーが出席していた。ここで再会を喜び、旧交を温めた。
その後、前述したようにエンシーソーとは彼が2000年くらいに日本に研修で来た時にあった。その後、彼は森林局の長官となった。彼の体形が、いかにもパラグアイ人らしく、ビヤダルのようになり、長官とそっくりになったのには驚いた。
これにて、パラグアイのカビバリの造林計画についての話は終わりにし、次からはセネガルのマングローブ林について書く予定である。
「パラグアイ – 造林計画調査編」終わり
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.11
現地確認調査へ
とにかく国内での計画作りは、終わり、その後、その計画が実際に実行可能か確認のために、再度パラグアイに向かった。このとき、前回記したように団長は、病み上がりの身であった。出発は1984年11月2日(金)だった。
アスンシオンにて
到着後11月5日(月)に企画庁の長官に挨拶に行くが、入植者問題は、既にかたづいたような口ぶりである。「土地が確保できたから早く植林を実施したい。」などと言う。
計画地域に入っている住民は移転させると言っているので、「その具体的手続きはどうなっているか?」と質問すると、あいまいではっきりと答えられない。「いずれにせよ法令が出されて土地は確保されるので大丈夫だ。」と言う。一旦住民が入ってしまえば、移転は、普通は無理なので、これではあてにならないと思ったものである。南米特有の何の根拠もなしに、安心しろというのと同じである。
移転は無理である
翌11月6日(火)には森林局の長官と話し合った。この時、「パラグアイに出発前に東京で、既に東側の土地から西側に入植者を移転させたとの話を聞いたが、その通りであるか?」と質問すると、長官は、「これから移転を開始し、計画を実行する段階ではすべての住民を移転させている。」と言う。いかにも南米的な答えである。東京に既に移転させたから大丈夫というのは、日本側に安心して来てもらいたいための方便だったのだ。実際は何にも片付いていなくとも、片付いているといえば、皆ハッピーだという感覚からきているのだろう。
「今は住民が、植えた大豆、綿花の収穫が来年の3月になるので、それを待ってから移転を開始したい。また、問題はマンディオカ(南米の芋、キャッサバと同じようなもの)で、この収穫には木を植えてから最低1年はかかるので、移転には1年以上かかるだろう。」と言う。
一体何だろう。これでは移転は無理だと言っているようなもので、実際には、進まないだろうと思わされた。結果的には、本当に移転させることなどできなかったのである。
セロ・ドス・デ・オロでの現地説明会
この時はアスンシオンの森林局で計画を説明した後、カピバリの現地のセロ・ドス・デ・オロの頂上に登り計画を説明した。
この日は特に暑く団長は杖をつき、よろよろし、汗だくになりながらセロ・ドス・デ・オロに登った。相当辛かったと思う。私が手をかすと「いや、大丈夫だ。」と頑張った。
日本から派遣されて、他の森林関係のプロジェクトを行っている専門家達やパラグアイの共同作業者達、14人も参加した。総勢約30人の大デレゲーションであった。この時はほとんどがペンションに泊まったから、ブトゥの小さなペンションにぎゅうぎゅう詰めで泊まったのである。
1984年11月16日(金) セロ・ドス・デ・オロでの現地説明会。
頂上には計画を示した大きな図面を持って行き、どこにどのような樹種を植えるとか天然林で保護する地域はどこだとか苗畑の位置はどこだとか具体的に説明した。
ガウチョに出会う
この現地検証時には、現地の確認のためよく森林を歩いた。その時いかにもガウチョ(カウボーイ)といういで立ちの人達に出会ったので写真を撮らせてもらった。森林が牧場に転換されていった最盛期なのでこのようなガウチョも多かった。
ガウチョ達
既に現場では食堂も開設
また、計画地の近くでは、もう食堂などを開いて商売をしている店があった。こういった必要なものはすぐにできるのである。生きていくにはしたたかで、早く行動しなければならないのだ。そこにかわいい姉妹達が働いていた。
右がお母さん。その左から3人の娘。右は一番下の娘。
パラグアイ人のほとんどは、メスティッソ、メスティッサ(mestizo, mestiza) といって白人とインディオとの混血であり、ひときわ美人が多いと思った。3Cの国(Chile, Colombia, Costa Rica)は美人が多いと言われており、私もこれらの国に行ったが、確かに美人は多いと思った。コロンビアのアンデス山脈の村の中で、美人ばかりという感じの村があった。その話はコロンビア編で書くとして、パラグアイの山の中の田舎でもそれに劣らず美人は多いと感じた。
パラグアイ川での釣り
通訳をしていた青年が、アスンシオンに帰ったときの休日にパラグアイ川に釣りに連れて行ってくれた。川幅は約1Kmもある。うまくいったらドラド(南米の淡水にすむ魚。成長すると全長約80cm。体が黄金色に輝き、大変に美しい)が釣れるのではないかと思ったが、ドラドはトローリングをして1日に1匹つれるかどうかくらい難しいとのことだった。ドラド釣りはあきらめ、小さな手こぎのボートで川岸から数10m離れたところで釣った。パラグアイで「マンディイ」と言われるナマズがやたらに釣れた。だいたい30cmくらいの大きさのものが多く、釣りごたえはあった。皆で釣果を競争したが、入れ食い状態なので、ここでは競争にはならなかった。
通訳の青年
通訳の青年は、パラグアイ生まれの二世で、私のイメージではどちらかと言うと大胆だった。車の運転にも自信を持っており、彼が所有していた小型ワゴンに良く乗せてもらった。アスンシオンの市内をかなりのスピードで前の車との車間距離なく走るので、私が「こわいなあ。」と言ったら、「俺の運転のうまさを認めてくれないのか?」と気分を悪くしていたことがあった。
とはいえ、彼のいい加減さなど私とは結構波長があった。私が日本から着て行った背広やワイシャツなど譲ってくれというので、いろいろなものを譲った。その後何年後だったか、彼が日本に遊びに来た時に会ったことがあった。その後音信不通になってしまったが、今はどうしているであろうか。
共同作業技術者達
カウンターパートというのはパラグアイ森林局の共同作業技術者である。1年目のカウンターパートの中心人物は、北東部の調査のときも一緒に仕事をしたカブラルであった。
カブラルは非常に真面目で信頼がおけた。森林局には予算が少なく出張旅費が出ないときがあり、他のカウンターパートは全員現地から引き揚げてしまったことがあった。しかし、カブラルだけは現地に残り、日本の調査団が働いているのに、パラグアイの森林局の者が働かないのではメンツがたたないと頑張ったのだ。出張旅費は、調査団で立替え、他のカウンターパートにも戻ってもらった。
北東部で一緒に働いて、なんとなく気取っている感じであったウエスペは既に大学教授に転身していた。エンシーソーはカピバリから離れ、別のプロジェクトのカウンターパートとなっていた。
2年目からは、ゴンサーレスとロペスがカウンターパートの中心となった。その他森林局の次長や部長がよく参加した。その他多くのカウンターパートが現場の作業には入れ替わり立ち替わり参加した。
ゴンサーレスとロペスは仲が良く、年は私と同年代だったので、仕事はやりやすかった。どちらかというとロペスとは良く打ち解け、ゴンサーレスの方が多少硬かった。ゴンサーレスは非常にサッカーが上手で、大柄で体つきもいかにもスポーツ選手という体形で、ちゃんと練習していればプロのサッカー選手になれていたのではないかと思わされるほどだった。彼らの家にも招待されたことがあるが、立派な家で、彼らは地方の営林署長をしていたからさもありなんと思ったものである。ゴンサーレスには小さなお子さんがおり、ロペスは新婚であった。二人とも奥さんにはとてもやさしく振舞っていたが、実態は尻に引かれているようだった。
ロペスが、日本に研修に来た時には三原山が爆発(1986.11)したときだったので良く覚えている。ゴンサーレスが来日した時は、家族が病気になったとかで日本に到着後すぐに帰国したことがあり、残念であった。
私の誕生日
この現地検証調査の時に私はパラグアイで35才を迎えた。このとき森林局の連中も含めて私の誕生日を祝ってくれた。スポンサーはもちろん私であるが、アスンシオン内のしゃれたレストランに行った。飲んだり食べたりした後はダンスと決まっている。私も良くダンスを楽しんだ。
帰国後
さて、現地から帰国したのが1984年12月1日であり、その後に最終的な計画作りに入った。何しろ経済分析を頼んでいる担当者からさっぱり分析がでてこない。50年計画で作らなければならないが、なんといっても資金計画が大変である。正月休みを返上し、我々はずっと電卓をたたいたり、大型コンピュータをつかって計算をしていた。
1985年の1月は5日、6日が土、日で出勤は1月7日(月)からであった。計算量が多く電卓をたたいているが、電卓でできる量ではなかった。今のパソコンがあれば、相当楽だったのに、当時は電卓に毛が生えた程度のパソコンだった。
計画した投入資機材が約250種類あり、それが内貨と外貨に分かれており、50年間ということで費用の積算だけでも250×50×2もあり、その他、様々な計算があった。結局当時職場で導入したIBMのスーパーコンピュータで処理したが、どの程度の能力だったのだろうか?
その前に、1976年くらいにベーシック言語でプログラムを組んで計算できるIBMのコンピュータを導入しており、私はその時からプログラムを組んで計算させていた。コンピュータ言語のベーシックはフォートランとほとんど変わらなかった。ただ、今から思うと内部のメモリーは64Kしかなかったし、外付けの磁気式の大きな円盤のようなフロッピーディスクも8インチ(20cm)で、容量は1Mもなかった。けれどもプログラムさえできてしまえば、今のパソコンで処理するよりも、早くできたような気がする。
情報処理については、隔世の感を禁じ得ない。たった30年である。超特急で進歩したパソコン。この後どのように進歩するのであろうか。AIが発達し、既に将棋も囲碁も勝てなくなったが、この世界のAIとの勝負では、今後人間が逆転して勝つこともあるのではないかと思う。南米的に何の根拠もない感覚ではあるが。
つづく
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.10
財務・経済分析など
チームがまとまる
私が長年仕事をしてきた中でも、かなり大変なことがあった。それは、この仕事の団長をしていた方が体調不良で、団長を交代することになり、また、交代した新しい団長が、交代後しばらくして、またまた体調不良に陥ったことである。交代の間、私に負担がかかったり、また、新しい団長に体調不良のまま、無理をして仕事を継続してもらったことからチームメンバー全員が心配するなど余計な負担がかかったことなどがある。やはり、肉体的に健全でなければ、フィールドワークを伴う仕事はもちろんのこと報告書をまとめるような精神的な活動もできない。責任感が強いとどうしても無理をすることになるし、自分の命との引き換えになってしまう恐れもある。
さて、団長の交代の間は、仕事は私が補い、実質的に私を中心に現地調査の結果を分析し、まとめを行うようになったのだが、仕事量が増え過ぎ、日本にいる時は残業が続いた。ただ、私は若かったのとこの仕事を大変に面白いと感じていたので、疲れは感じなかった。今、働き方、電通の新入社員の自殺問題など、残業が問題となっているが、本当に残業などないが良いに決まっている。しかし、私の場合、楽しいとつい仕事をし過ぎてしまい、家族もおろそかにしてしまったのが問題である。
交代する前の団長は、非常に優れていたが、団を指揮するというよりもむしろ研究者のような方だった。交代後の団長も非常にすぐれており、この方は研究者でもあるし、技術者でもあるし、厳しい指揮もできる素晴らしい方だった。年頃は、二人ともこのころ還暦を過ぎたころだったろう。
この二人の団長は、共著で森林調査方法や測樹方法に関する教科書のような本を書いていた。出版されたのは今から50年以上も前のことだが、私はこの本を学生時代からずっと愛用しており、今でも参考にしている。森林調査関係の本でこれが最もすぐれているのではないかと思っている。こういった優れた人と一緒に仕事をできたことは本当に私の財産になっている。
ところで、仕事を引き継いだ、今度の団長は頑張り、今までの経緯をすべて吸収しようとメンバー全員に様々に質問ぜめにし、改めてメンバー一人一人の計画作りの分担を決め、指示し、全員がまとまり計画作りに励むようになった。これで私の負担は正常になった。この方は、パラグアイ北東部の紀行文でも書いたが、北東部の調査を取りまとめたばかりで、パラグアイの林業事情は詳しかったのだ。しかし、頑張り過ぎたのだろう。好事魔多し。
ようやくチームがまとまり始めて2週間ほど経った9月の半ばのある日、いつものように仕事をしていた団長が、気分がすぐれないと早退した。翌日軽い脳梗塞であるとのことが判明し、数日間入院することになった。軽かったので1週間程度で仕事に復帰した。1ヵ月半後の現地検証の調査には、大丈夫だから行くと言う。行くのはやめた方が良いと私は思ったが、責任感が強い方で、どうしても行くと頑張った。他のメンバーにまかせれば良かったのだろうが、まかせられなかったのだろう。とにかくチームは、普通の状態には戻った。
財務・経済分析の委託
仕事の中身としては、造林技術上確実に実行できる方法を示さなければならず、またどこの機関からでも良いから融資が受けることができる計画を作らなければならなかった。我々は森林の技術者であるから財務や経済分析は、その道の専門家にまかすことにした。そして林業政策や林業経済を研究している機関を探り、そこの専門家に財務や経済分析を委託することにした。
近隣のエリオッティマツ造林地
国内での関係機関も調査
そこで、日本でも融資してもらえるかどうか当時のODA関係の融資をしている銀行などで、融資条件などを調査した。また、我々と同じように別な国で、似たような造林計画を作成し、そこで財務分析や経済分析を行った機関も訪ね、その方法などをいろいろ調査した。勤め先内でも関係する研究員を集めて、何回も検討会を開き、いろいろな意見を聴取した。
またまた危機
結局、我々は財務や経済の専門家ではなかったから、この計画の財務分析と経済分析を上述した研究所に頼むことにした。この研究所の担当者とは何度も打合せ、最終的なデータは現地検証後に渡すとして、それまで積み上げてきたデータを渡した。しかし、この研究員がひどく無責任で、結局我々が求めるものを全くだせなかったのだ。高い金を払って仕事を頼んだのに一体どうなっているんだ、責任の所在はどうなっているのだといくら言ったところで、締め切りの期限までには結果を出さなければならない。私はかなり焦った。
当時、エクセルやロータスなどのソフトは無く、小さなパソコンが出た当初とはいえ、研究員が使っていたその小さなパソコンでは、十分に分析ができなかった。一応何らかの形を出したものを提出してきたが、結果はひどく、全く使えなかった。その方が持っていたのが、当時のパソコンだったから、こんな大量にあるデータをそんな小さなパソコンで、できるのかと私は最初から疑っていたのだが、後の祭りだった。いくらこういう結果を出せと言ったところで、そのパソコンではできないことは分かり切っていた。
私は、勤め先に当時導入したスーパーコンピュータを使えば、できると思っていた。ただ、自分がやるしかないのだが、誰かにやらせるか再度どこかに頼むか決断がすぐできなかった。しかし、締めきりが近づいているので、自分がやらなければできないと思い、やることにした。スーパーコンピュータの言語は、フォートランで、当時私は、フォートランもベーシックもプログラミングは自由自在に扱えるようになっていたので自信があったのだ。
資金計画では、チーム内の担当者がデータを積み上げていたので、最終的にはそのデータを用いて、財務分析や経済分析の方法も頼んだ研究員と多くの参考書から学び、スーパーコンンピュータで計算できたのだった。当時データはパンチ屋といって、データ専門に打ち込んでいる会社があり、そのようなところで、データを打ってもらい、プログラミングでは、ときどきプログラムが通らないときは、勤め内の専門の者やコンピュータ会社の者を助っ人として頼んだのだった。
牛の行進
内部収益率
この時作る計画は、50年計画で、事業計画と共に資金計画を作らなければならなかった。造林でいくら費用がかかるか支出計算をし、天然林の材を売った収入や生産材の販売収入などの収入計算をするのである。その上、それらのデータを用いて、内部収益率などを計算することになっていた。
内部収益率というのは、現在投資する額と将来得られるキャッシュフロー(年ごとの収入?支出で算出される資金の流れ)の現在価値とがちょうど等しくなるように計算される収益率のことである。分かっている人には簡単であろうが、素人には理解するのは難しいであろう。
例えばプロジェクトの初期と終期の頃の収益が同じ額であったとしたら、現在価値に換算すれば初期のほうの額の方が、終期の額より価値が高いだろうというようなことは予想されるであろう。それは物価上昇などがあれば、同じ額ならば現在価値に換算すれば将来の額の方が価値は低いということである。そういうことでインフレ率なども推定し、計画期間が50年のキャッシュフローを現在価値に換算し、投資額と等しくなるような割引率を求めるのである。
この式が複雑で解くのはやっかいであった。そこで、現在価値と将来のキャッシュフローの現在価値を等しくなるようにコンピュータにこの式を入れて、割引率を目安で入れて、収束させて行った。これなら式を解かなくとも解が得られるのである。いろいろ調べて行くとそのように解くのが簡易な方法であると書いてある参考書もあった。
これを純粋に資金の流れで求める財務分析とシャドープライスやシャドー為替レートなどを用いて求める経済内部収益率も出すことになっていた。シャドープライスというのは競争市場によってなされる最適な資源配分を計画経済などで競争によらずに達成させるための計算上の価格である。
この部分は仕事の中身で、難しい話が多いのでここでやめるが、技術的な計画でも実行するには予算がいくらかかるか、その後の管理運営にかかる収入や支出の計算で、事業が独立採算できるかなどの経済分析は重要なことだろう。林業で儲かるということは今の日本では、なかなか難しいが、樹木の成長が早く、需要があり、材が高く売れれば経営は十分に成り立つということである。
つづく
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.9
ガラガラ蛇など
ガラガラ蛇でのいたずら
ある日、調査チームの全員は、セロ・ドス・デ・オロ(森林地域のほぼ中心にあった小さな山)の頂上から調査地域全体を見晴らすために、頂上に登った。登っていると早さが違うので3グループくらいに分かれてしまった。私はまだ30台前半で、疲れ知らずで、先頭グループにいた。団長は60代前半くらいで、皆のペースについてこれないので一番後ろのグループでゆっくりと登ってきた。
先頭グループの我々はガラガラ蛇を見つけた。一緒に登っていたチームのSさんは、ヘビを捕まえたり、爬虫類などは大好きで、その時もガラガラヘビを捕まえ、頭を叩いて動けないようにした。そしてポリ袋に入れて頂上へ持って行った。そして頂上の少し下の山道の真ん中に、そのガラガラ蛇をとぐろを巻いた形で置いたのだった。
すると後から登ってくるパラグアイの技術者達も、ここにはガラガラ蛇が沢山いるのを知っているものの、まじかでみると驚いてびっくりして肝を冷やすのであった。第2グループで登ってきた森林局の次長も飛びあがって驚いた。この方は、いつもアルコールに浸かっていて酔っぱらい気味だったかもしれない。中でも一番驚いたのは我が団長だった。本当に団長は森林局の次長よりも高く飛びあがって驚いた。腰でもぬかすのではないかとこちらが心配するほどだった。ちょっとやり過ぎたかなと後で反省した。
そのガラガラ蛇をSさんは、ポリ袋に入れてペンションに持ち帰り、パラグアイ人のように尻尾のガラガラを切り、お守りとした。しかし、このガラガラ蛇は、血がかなりでていたので生臭くてまいった。
セロ・ドス・デ・オロの頂上付近でガラガラ蛇を捕まえた
大使館にて
この時の日本大使は、日本の調査団をより活動しやすくするためにバックアップしてくれるような活動的な大使だった。その時期にパラグアイに滞在していた調査団、プロジェクトチーム、専門家等を一堂に会して意見交換会を開催してくれたことがあった。
その時、農業関係の調査をしていた調査団の中堅どころの技術者が、「林業など土地生産力の低い場所での計画作りの協力などしてもしょうがない。農業のように収入が上がるような土地を対象として、そこで土地生産力をもっと高めるような計画作りをする協力をもっと増やすべきだ。」との趣旨の発言をした。
まさに林業協力分野の政府開援助、ODA資金を農業協力分野に分捕ってしまえという意図があり、かなり横柄な態度でもあった。
そのような林業批判をするべき場所でもなく、場違いな発言で、皆を失笑させ、大使にもたしなめられ、会をしらけさせてしまった。しかし、この方は、当時飛ぶ鳥も落とすいきおいのあった会社の職員だったから、恥も感じず、厚顔にもそのような場違いな発言をしたのだろう。今思えば技術者も必要なのは正しい技術的認識とともに常識と謙虚さであろう。
アスンシオンの日系女性
北東部の調査の時から日系人が経営していた内山田という旅館に部屋が空いていれば、泊まった。当時は3階建てだったと思うが、お金が溜まると1階ずつ継ぎ足して行くのであった。鉄筋コンクリート製ではあるが、まさにおかぐら作りである。地震がないから許されるのあろうが、鉄筋とはいえその建て方をみていると強度計算などカンで行っているのではないかと思わざるを得なかった。
内山田は1階がレストランになっており、メインメニューはスキヤキだった。パラグアイの牛は日本の牛のように油が乗っているわけではないがスキヤキ用に薄く切ると程良い固さとなり、日本の柔らか過ぎる肉よりもむしろ食べ易いと思ったほどだった。
この内山田でアルバイトをしていたパラグアイだけでなく日系の女性達とも親しくなり、休日にはイパカライ湖に遊びに行ったりした。
オリンピック
1984年の夏はちょうどロスアンゼルスオリンピックが開催されていた。パラグアイではオリンピックなどに興味がある人は、当時いなかったようである。パラグアイのテレビも新聞もほとんど報道がなかった。私は、昔陸上部にいたこともあり、マラソンはどうなったかを知りたかった。そのため機材として持っていっていた短波の入る大きなラジオでラジオジャパンのニュースで結果を聞いた。短波の入るラジオも今では考えられないくらい大きかった。25cm×15cm×5cmくらいもあり、重さも1kg以上あっただろう。雑音だらけの音声で、3位までの順位だけが聞けた。すると日本選手は3位以内に一人も入っていなかった。瀬古選手と宗兄弟が出場しており、一人も3位以内に入らないなんて考えられなかった。短波ではっきり聞き取れなかったので、間違いであることを願ったが、聞いた通りの結果だった。期待が大きかっただけにそんなこともあるのかと不思議な感じがした。
サンパウロへ
第3回目の調査の帰国時には、アスンシオンからサンパウロに立ち寄った。ブラジルのサンパウロで行っていた森林・林業関係の技術協力プロジェクトで行っているブラジルの植林状況の調査で立ち寄ったのだった。
サンパウロにて。1984年8月17日
そのプロジェクトのリーダーや専門家が懇切丁寧にブラジルの林業事情を説明してくれた。このリーダーは我々のカピバリにも調査に来ていたので、我々調査団にとても親切にしてくれたのだった。
アナコンダの頭蓋骨
その時に、毒蛇研究所の博物館にも案内してもらった。
学生時代に、中公新書で「アマゾン河」(神田錬蔵)という本を読んだことがあったが、その中にアナコンダが馬を飲み込む記述があった。この話は「椎名誠」が書いたりしゃべったりしているが、当時は本当にそんな話があったのか信じられない思いであった。しかし、その毒蛇研究所にはアナコンダの頭蓋骨が飾ってあり、あごの下から頭のてっぺんまでの高さが50cm以上はありそうな標本が2つも並んでいた。これなら口を開けば軽く1m以上にもなり、馬を飲み込むのも可能であろうと思ったものである。
同郷の人に出会う
その時泊まったホテルで働いていた日系人で、横浜の六角橋に住んでいて、神奈川大学を卒業した方がおられた。私の生まれが横浜の六角橋で、昔、我が家には神奈川大学の下宿生が沢山いたので、話しが弾み、世間は狭いと思ったものである。
この話を帰国してから母親にしたところ、今は六角橋に住んでいないからなおさら六角橋が懐かしかったのだろう、母親は今でもこの話を覚えており、良く思い出話しの話題に上る。
つづく
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.8
入植者達や気晴らし
入植者達
入植者達はたくましかった。入植地はミニフンデ (minifunde 零細農地、小農場) と呼ばれていた。土地の地権はないが,軍から許可を貰っているし、住民達は逆に軍が守ってくれるからと安心していられたのだろう。
入植者はブタやニワトリを連れて遠くからやって来て、オノとナタで木を伐り倒し、掘っ建て小屋を建て、住み込んだ。たくましい限りに見える。
この調査の最初には、造林予定地全体の地図を作成するために、トランシットで正確な測量を行ったが、それが半分以上も役に立たないことになってしまった。
入植者達と。一番右が私。その左は森林局の技術者
ロバを引く入植者の小さな娘
黄疸になった入植者を病院へ運ぶ
入植者がいくらたくましくても病気には勝てない。ある日調査が終え、ブトゥのペンション(ホテル)に帰る途中だったが、まだ調査地に近いところで、道路をブトゥ方面に歩いている二人連れのカップルを車で追い抜いた。夫が妻の手を引いており、歩き方が不安定である。
車を運転していた森林局の技術者に車を止めるようにいい、二人のところに戻って話すと、奥さんと思われる女性は、顔がもう真っ黄色というくらい黄色く黄疸がでていた。肝炎だなと思った。どこへ行くのか訪ねるとブトゥの病院へとのことだった。ここから20Kmも歩いていくつもりだったのだ。こんなに黄疸がでていて歩くのはとても無理である。へたをすると死んでしまうだろう。
肝炎の感染の恐れもあるかとも思ったがそんなことは言ってられない、車に乗れとブトゥの病院まで送り届けた。仕事ついでの人助けといったところだったが、その後どうなっただろうか。
肝炎といえば、私もこの調査の15年後くらいではあるが、アフリカのジンバブエでA型肝炎に罹り、死の淵をさまよったことがある。全身のけだるさで、全く動けなくなるのだが、黄疸がでるあたりまでは、食欲は全くないのだが、動けることはできた。この話は、またジンバブエ編で書く予定である。
気晴らしなど
調査基地としたペンション
この調査で滞在していたのは、国道沿いのブトゥという町にあるペンション(ホテル)である。パラグアイ人がペンションと言っていた。ここから調査地までは約20Kmあり、道路が砂地であるため毎日約1時間かけて通った。
南半球なので7月~8月の冬は寒かった。毎朝霜が降りるほど寒かった。厚手のジャンパーを着こみ、車には暖房を入れて現場まで行く。着くころには少し暖かくなり、昼頃には大分暑くなる。
それに引き換え、夏にあたる11月から3月くらいは非常に暑かった。直射日光の下ではすぐに熱中症になってしまいそうである。森林内では暑さがかなりしのげ、林内にいる方が楽であった。
ペンションの娘達
このペンションには16才から25才くらいの3人の娘がおり、ペンション経営を手伝っていた。この姉妹全員、目を見張るような美人で、皆の注目の的であった。今写真を失ってしまい、見せられないのが、残念である。やはり、メスティッサで、白人系統が強い様に見えたが、美人なのはスペイン人と先住民の混血だからだろうか。美人とは関係ないが、最近のDNA研究によれば、パラグアイの先住民グアラニー族は日本人と相当近いそうだ。
一番下に5才くらいの息子がおり、これは娘達の甥っ子だったかもしれない。一番下の娘はフアニータと言い、16才である。ある時、フアニータが、その男の子のいたずらを怒るのに「¿Qué estás haciendo? ケ・エスタス・アスィエンドー(何しているの?)」と怒った声で言っているのが聞こえた。この時、怒り方は、日本語と同じ全く同じ言い方だと思ったものである。徐々にではあるが、スペイン語もかなり聞き取れるようになってきて、言葉は、やはり現場で状況に合わせて覚えるのが最も良い方法だと思ったものである。
森林局の連中は何番目の娘に手をだしたとか、あることないことを気晴らしで、この姉妹たちのうわさ話ばかりを話していた。彼らのあこがれが昂じて、想像をあたかも現実のようにしゃべっているようなところがあった。
ダンス
パラグアイではダンスが盛んでフィエスタ(パーティー、宴会)といえばダンスをしていた。やたらにフィエスタが多く、毎週末には行っていたようなものだった。もちろん男女ペアで踊るのであるが、パラグアイでは、組んで踊るよりも離れて踊る方が多かった。後に仕事をするコロンビアやエクアドルでは組んで踊る方が多かった。
私もこのペンションの一番上の娘とは良く踊ったものだった。日本人チームの若い仲間は、良く踊っていたが、40台以上のメンバーは、ほとんど踊らなかった。パラグアイ人も年は関係なく踊っているのだから、踊れば良いのに、楽しみの一つを失っていると思ったものである。
歌
このペンションにはときどき、近くに住むおじさんが(40才前後だったろう)がギターを片手に歌いに来た。体が大きく、腹が出て太り気味であるが、すごい声量で、澄んだ通る声で歌が上手なので驚いた。プロとしても十分にやっていけそうに思えた。また、森林局の共同技術者の中にいたレオンというのが、ギターを弾くのが非常に上手で驚いた。
農牧省に派遣されていた専門家
農牧省に個別に派遣されていた専門家の方も我々の仕事をバックアップしてくれ、ときどき現場にも来てくれた。その方の39才の誕生日の誕生パーティーをペンションのレストランでしたことがあった、私より5才年上であったが、彼がしみじみと「もう39才になってしまい、来年は40才で不惑です。」と年を取るのを嘆いていたが、当時は別にあまり自分の齢を感じなかったが、今の私は60才をだいぶ超えてしまい、まさに「光陰矢のごとし」である。
食事
現場にいる時はブトゥのペンションで、朝昼晩とも用意してもらった。昼は弁当のサンドイッチである。朝はパンとコーヒー。晩のご飯の味付けはほとんどどれも同じで、牛カツか、硬い肉のステーキだった。Tallarin(タジャリン:麺)もあり、ねっちゃりとしたスパゲッティで、それに肉を付けてもらったりもした。タジャリン・コン・ポージョ(麺と鶏肉)と言って注文するが、その響きがなんとなく楽しげであった。
アスンシオンにいる時は、外食であった。食べにいったのは第1が和食、次が中華、韓国、続いてドイツ、チリ、といった外国料理が中心であった。移住者が多いので前述した内山田以外にもいくつか日本料理屋があったのだ。どうしても東洋系の食事になってしまうのだった。
パラグアイ料理といってもステーキかステーキにころもをかぶせたミラネッサ(ミラノ風カツ)というカツばかりで、単調な料理だったので、値段は安いが、パラグアイ料理はたまに食べに行く程度だった。
釣り
ペンションから1?2kmくらい離れた場所に湿地があり、そこにいくつも小さな池があった。現場から帰ると暗くなるまで、サッカーをするか釣りに行くかだった。パラグアイの技術者はサッカーをしていることが多かったが、釣りにも何人かで一緒に行った。
私は、出張の時には、竿をいつも持って行っていた。エサはペンションでもらう牛肉である。肉を1cm四方程度の大きさにして針につけ、浮きでも、重りを付けて投げ込んで沈めても、ボガというコイのような魚が良く釣れた。大きさはだいたい10cm?20cm程度で、それほど大きくはなかった。腹に黒い点があった。時にはピラニアも釣れた。
それに珍しい魚で、口が吸盤になっている魚も釣れた。釣った魚はペンションに持ち帰り、スープと一緒に煮てもらい食べた。ボガは少し泥臭い感じがしたが、牛肉ばかりで飽きているところに良いおかずとなった。一方ピラニアは、やはり小さなヒピラニアで、あごの肉が発達しているが、ほど良く堅く、泥臭くもなく、ボガよりおいしいと思った。
口が吸盤になっている珍しい魚
カピバラ
ある時、皆とは別な池で、一人で静かに釣っていると対面にカピバラが現れた。10mくらい離れているが、カピバラがこちらに気が付いていないので静かに観察していた。しばらくしてカピバラが私に気が付くとあわてて水の中に飛び込み逃げていった。
ゴキブリに好かれる人もいる
ブトゥのペンションにはゴキブリが多かった。パラグアイのゴキブリは茶色で、日本のようにこげ茶色ではなかった。大きさは日本のよりも少し大きかった。
それがメンバーのHさんの部屋には特別に沢山でるのであった。ゴキブリが天井から落ちて来るというので、Hさんは時々眠れずに、ゴキブリ退治に大騒ぎしているのであった。Hさんは男らしい体臭が強かったからそれがゴキブリを引きよせていたのだろう。すると集まってきたのはメスのゴキブリだったのだろうか?
人により、虫を引き付けるフェロモンを出す人がいるのだろう。他にも日本で私と一緒に調査で山に入った後に、出てくると、私には全くダニがたかっていないのに、その人はダニだらけといったこともあった。
ヒキガエル(ガマガエル)
スペイン語ではヒキガエルはサポと言う。暖かくなり始める8月の終わりくらいだったろうか。ブトゥのペンションには沢山のヒキガエルが集まってきた。日本のヒキガエルよりは少し緑かかっていてやや大きい。ペンションの通路がサポだらけになってしまったこともあり、ときどきは部屋の中にも入ってきた。
つづく
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.7
計画地の土地が入植地に
現地での協力スタッフ
Fさん
このカピバリの調査では,アスンシオンなどでの会議の時などの通訳を当時アスンシオンに住んでいたFさんにお願いした。Fさんにはミシオネスの現地調査にも参加してもらった。Fさんは10代でパラグアイに移住した後、あっというまにスペイン語使いになってしまったという伝説の人である。
当時40代であった。パラグアイ政府の要人とも巾広い繋がりを持ち、そのような関係から必要な資料はすぐに見つけてくれ、またその資料の要約の日本語版を直ちに作成してくれるので、仕事推進上の強力な助っ人、縁の下の力持ちに巡り合った思いであった。
この調査の数年後に日本に戻ったが、また、南米に戻り、サンパウロで働いていらっしゃるということをお聞きした後、音信は不通となってしまった。これが今から20年くらい前の話で、今は80才台になられていると思うが、どうされているか、お会いしたいと思うものである。
Fさんの家で夕食をごちそうになったことがあるが、そのときは話が弾み二人でジョニウオーカを一本開けてしまった。遅くなり私はホテルに帰れずに、泊めていただいた。翌日の10月12日(水)はコロンブスがアメリカ大陸を発見した(インディオ側からみればインディオがヨーロッパ人を発見した)記念日で休日なのであった。今(2017)から34年前の1983年のことである。
Kさん
現場調査にはパラグアイで生まれた二世のY君と二十歳前後にパラグアイに移住したKさんに来てもらった。Kさんはほとんど白髪であったが当時50代だった。一応通訳だが、スペイン語はうまくなかった。作業員などへの指示は問題ないが、少し込み入った話だと訳す日本語の意味がわからないことが時々あり、何回か聞き直すことがあった。
一方、Kさんの娘さんが当時アスンシオンの事務所に勤めており、とてもかわいい方で、この方は日本語よりスペイン語の方が上手だった。一度日本に研修にこられたことがあり、その時、他の研修生も含めて会食に招待したことがあった。
その時、料亭の座敷に靴を履いたまま上がってしまい「アッ。やっぱり習慣の違いというのは、こういうところに現れるのだなあ。」と料亭には悪かったが、興味深かった。パラグアイでは家の中でも靴を履いたままの習慣なので、日本で靴を脱いで座敷に上がるという習慣を知らなかったのだ。この娘さんには失礼ではあったが、他にも文化の違いで話がはずんだ。
また、Kさんは戦前の教育を受けたから、それをそのまま引きずり、その考え方から抜け出せないように感じた。しかし、その洗脳されたような堅い考えが、娘さんは引きずっておらず、自由な考えの持ち主であったことは良かったことだと思った。
いい加減なパラグアイ人
Fさんのところでごちそうになった翌日10月12日(木)は、休日ではあるが、調査用に翌日からレンタカーを1台借りる話しがついていた。そしてレンタカー屋のフーリオという事務兼運転手がホテルに午前中に来て細かい打合せをすることになっていた。その時我々が使っていた車は、北東部の調査の時に購入していたランドローバー2台に、ハイエースが1台あったが、調査は4?5グループに分かれて行っていたため、もう1台車が必要だったのだ。
その日午前中チームで打ち合わせているとフーリオから、午前中は行けないので、午後4時に行くという電話があった。「わかった。4時に待っている。」と電話を切った。そこで午後4時にホテルで待っていたがフーリオは来なくて、連絡もなかった。その後フーリオに何回も電話をするが、連絡が取れない。明日からの1台が借りられないと調査がずれこむのだ。いい加減だなあと思い、しょうがないので、明日別な車を捜そうかと思っていた。
友情あふれ義理堅いパラグアイ人
そうこうしている内に、その晩は、北東部で森林局の共同作業者だったウエスペが、義理堅く奥さんを連れて訪ねて来てくれた。ウエスペは森林局を辞め、アスンシオン大学の教授に転身し、また新婚だったのである。そこで皆で日本人経営の内山田にスキヤキを食べに行った。
パラグアイの人は早朝から働くので、翌10月13日フーリオの事務所に朝7時半に行くと女性の事務員だけがいて、らちがあかない。するとその時通訳をしてくれていたFさんが、じゃあもうレンタカーはやめようということで、知り合いにあったってくれたら、ドイツ人のペンネルという人がすぐにジープタイプの車を貸してくれることになった。レンタカー屋よりも良い車が安く借りられることになり、これはこれでよかった。しかし、フーリオのレンタカー屋もいいかげんなものである。
その日はその後、9時にホテルに戻り、借りた車も含めて他のメンバーと森林局の職員をカピバリに送り出し、私は残り、作業員、運転手、通訳などの保険を保険屋で掛けてから夜ブトゥに向かったのであった。
アルゼンチンで森林と土壌を調査
第1回目の調査は、土地所有の権利など不明確な問題を残したままであったが、基礎調査ということで、予定の調査を終わり帰国した。
その後、1984年の1月?2月にかけて、第2回目の調査として森林調査と土壌調査を行った。この時の調査は、私と他の団員と2名がパラグアイに行き、パラグアイというよりもアルゼンチンでの調査が主体であった。
アルゼンチンミシオネス州を走る。粘土質の暗赤色の土壌
前述したように、アルゼンチンのミシオネス州には、植林地が多いので、その植林地の森林の成長具合と土壌との関係を調査したのである。ここでの植林木の成長具合と土壌との関係からパラグアイで植林した場合の成長を予測しようとしたが、アルゼンチンのミシオネスの土壌はニトソルというものであり、パラグアイの植林予定地のものとは、かなり異なるものだった。ミシオネス州の土壌は、粘土質が非常に強く、濃く暗い色の赤土で、硬く、中々土壌が掘れなく、スコップに粘土質の土がくっついてしまうので、調査に難儀した。それほど遠い土地でもないのに、こんなにも土壌は違うものだと思ったものである。それでもこの調査のデータは後に非常に役立った。
Y君
この時は通訳でY君が付いてくれた。Y君はパラグアイ生まれの二世であった。当時二十歳をちょっと過ぎたくらいであった。今なら50台も半ばのおじさんであろう。Y君は日本語も上手にしゃべるが、考え方はパラグアイ人で、伸び伸びと育っており、何かに動じることはないという印象を受けた。私もスペイン語がかなり上手になってきていて、Y君のしゃべるのを聞いていて、実際の場面ではこういう単語を使うのかとわかり、同じ場面で使ってみて、アルゼンチン人に感心されたり、なるほどぴったりの言い方があるものだと内心うれしく思うこともあった。
第3回目の調査
その後1984年の6月から8月にかけて第3回目の調査を行った。この時のメンバーは、6名だった。
アスンシオンでの気持ち
さて、第3回目の調査でパラグアイに到着前には、土地問題も解決するだろうという森林局からの報告を日本で受けていて、これは良い傾向だと浮き浮きした感じでアスンシンに着いたが、それがすぐに全く逆になるのであった。
企画庁
企画庁の長官に挨拶に行くと、カピバリの土地名義の変更は3カ月以内にできるだろうと言う。そしてこの2年以内に政府が勧銀に土地代を支払うので、カピバリの天然木を伐採し、売った場合の代金はすべて植林費用に充当して良いというので、また喜んだ。
BID
融資の宛先の一つとして考えているBID(米州開発銀行)のアスンシオン事務所を訪ねると、この調査には大いに期待しているので、早く報告書を提出してもらいたいと言われるので、ここでも喜んだ。
融資条件についてはいろいろ聞きこんだが、我々の計画がまだ具体的でなかったので、融資については具体的な話にはならなかった。
アセパル
アセパルも訪ねたが、木材でも炭でもどのような形であっても買いたいということだった。これで天然木の伐採の後の販売先が確保できたと喜んだ。
カピバリにて
しかしその後、現地のカピバリに行くと、大変なことが起こっていた。軍が道路の西側の土地の肥えた方の土地に、住民に一家あたり10haをめどに金を取り、入植させているのであった。全く信じられない出来事である。こんなことが日本で起こるとは考えられないだろう。奈良時代以前の土地所有があいまいな時代であれば別であろうが。
これには我々も驚き、すぐに森林局の長官に報告した。しかし、どうにもなるものではない。いろいろ調べてみると軍は既に約2,000家族も入植させてしまっていた。単純に言って約2万haである。その後も継続して入植させている。パラグアイでは今でも土地なし農民の入植問題がある。当時は、今よりも土地なし農民は多かったであろう。入植できると聞きつけるとすぐに大量の土地なし農民が全国から駆け付けて、先を争って入植してしまうのであった。
最低で一家族あたり25,000グアラニー(約21,000円)は取っていたようだから、何千万円か、とんでもない額の金が軍の懐に入ったのだろう。軍の誰の懐に入ったかは知らないが、途中で大半が消えてしまっているかも知れないが、ひどいことをするものだと思ったものである。
長官の現地行き
取り敢えず、森林局の長官も軍と住民と話し合ってみるために現場に行くから、我々も一緒に行ってくれと頼んできた。我々は、パラグアイ側の内政問題だからパラグアイ側で解決するように働き掛けたが、結局、長官のたっての頼みなので、同行することにした。我々は技術協力をしているので、我々には全く責任のない社会的な問題で責任をかぶらされるのを恐れていた。そもそも土地問題はなく、森林局の土地という前提で協力が始まったものであるからだ。
長官が運転する車に同乗し、我々のハイエースも同行させた。長官は運転が好きで、運転手を使わずに自分で運転したのだった。この時通訳はパラグアイ生まれの二世M君だった。すると運が良いのだか悪いのか分からないが、長官の車が途中で故障してしまった。結局、我々はハイエースで引き返し、長官は途中で車を修理しに行き、現場には行けなかった。その日は、我々はアスンシオンに戻り、長官は、後日一人で現地に行くはめとなった。
長官の話
その後、長官は、軍の将軍と話し合ったということだった。その結果を聞くと、森林局は軍に大敗北した。今さら長官が、一体何を言うかと思ったが、どうしようもない。今まで管轄区域が軍と森林局で明らかでなかったとのことで、すべての土地は軍の管轄下に置くことになり国防省が行うことになったということだった。こんな話は日本に調査を要請する、はるか以前に決めておかなければならなかったことだ。
しかし、森林局には道路の東側の痩せている方の土地が与えられるとことになった。約11,000haである。しかし、ここにも約400家族が既に入植してしまっているので、これらの入植者を東側に移転させるという。そして移転費用は森林局が持たなければならないと言う。それは全部で約4,000万グアラニーということだった。当時のレート1$=350G、1$=240¥からすると2,700万円くらいであった。森林局自体の予算は少なく、とても負担できる金額ではなかった。
造林計画の土地面積は当初予定の半分以下になってしまい、それも養分の多い方の土地を取られてしまい、がっかりであった。軍には森林局も全く何も言えないと言うことだった。
最終的に計画した地域、当初の計画地域の東側
(11,000haの地域の内、約6,600の造林計画を作成した)
つづく
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.6
製炭、製紙などの調査
製炭調査
当時パラグアイではアセパル(Acepal)という会社が、1985年から年間約15万トンの製鉄を行う計画があり、その開業準備中であった。そのためにアセパルにも調査に行った。製鉄には炭を用い、その需要は年間約10万トンとのことだった。製炭するのには、直径5mのレンガ製の炭釜を400基作る計画であった。一釜で1回約6トンの炭ができ、製炭に8日?10日かかるということで、フル稼働すれば年間約10万トンの炭ができる計算であった。
これは良い炭材の供給先ができたとカピバリからの供給を考えた。我々の計画は頓挫してしまったが、その後アセパルはどうなったのであろうか。
調査地内で住民が行っていた炭焼き、レンガで釜を作っている
日本でも製炭釜の調査
製炭も調査対象としたころからパラグアイへ出発前には当時の林業試験場に、炭研究の第一人者だった先生に製炭技術や移動式炭釜など教えを乞いに訪ねたものだった。
アルゼンチンでの調査
1983年11月17日(木)から25日(金)まで1週間ほどパラグアイ南部のエンカルナシオン周辺及びアルゼンチンのミシオネス州に調査に行った。
ミシオネス州は、パラグアイの南部と隣接しており、半島のようにブラジル内に突き入っている。ここにはパラナマツ(Araucaria南洋スギ)やエリオッティマツなどの人工林が多く、その材を用いた林産業関係の工場が多く、植林地、パルプ会社や製材工場などを調査したのである。
エンカルナシオン
エンカルナシオンはパラグアイの南部イタプア県に位置し、アルゼンチンの北東部ミシオネス州と接している。当時エンカルナシオンはパラグアイでは首都のアスンシオン、東部のストロエスネル(ストロエスネルは当時の独裁大統領の名、彼が失脚した後、エステという都市名に変更された。)についで、3番目に大きな都市といわれていた。当時のエンカルナシオンは都市というよりも少し大きな田舎町といった感じで、石畳の町並みと平屋建ての家並みが、薄暗くあるいは薄汚い感じがしたが、落ち着いていた。
領事館
ここに日本の領事館があり、領事へ挨拶へ行った。すると領事は機嫌が非常に悪い。何らかの行き違いがあり、我々の訪問は昨日と予定し、待っていたのだ。領事は我々が約束をすっぽかしたと思っていた。昨日17日(木)は我々はエンカルナシオンに着いた後、すぐに製材所などの聞き込み調査を行っていたのだった。我々は予定通りだったけれども、何がなんだかわからなっかた。しかし、我々が謝ることでひとまず領事の機嫌は治まった。
CEDEFOへ
領事への挨拶の後、エンカルナシオンから車で北へ約1時間のピラポ(Pirapo)という町にあるCEDEFO (Centro de Desarrollo Forestal 林業開発センター)を訪ねた。ピラポは日本人移住地があり、町には日本語の看板もあちこちに立っていた。ここでは、CEDEFOの他にも農業関係でCRIA (地域農業研究センター)と CEMA (農業機械化センター)という施設があり、これは日本が技術協力を行っていたものだった。移住の関係もあり、パラグアイへの技術協力に力を入れ始め数年たったころだった。
CEDEFOには建物を建て、林業関係の様々な資機材の供給を援助していた。苗木作りから植林、保育、伐採、製材まで様々な技術指導を行っていた。日本の技術者が常時数人、年単位でCEDEFOに派遣され、交代する形で専門家として長期派遣されていた。この時、当時の私の職場からも派遣されていた技術者もおり、いろいろ親切にセンター内を案内してくれた。パラグアイの森林局の共同作業者は多数働いていた。
この日はエンカルナシオンで日本人が経営している小田旅館という名のホテルに泊まった。
ポサーダスの町
アルゼンチンに行くにはエンカルナシオンからフェリーで対岸のポサーダスに渡るのであった。待ち時間に港で釣りをしたらナマズが釣れた。エサは道端で捜したミミズだった。
ポサーダスの町はきれいに整っており、先進国の町並みようだった。先の北東部の調査紀行でも書いたが、パラグアイ北東部の町ペドロファンカバジェーロとブラジル側の町ポンタポラ側との差と同じ様な差を感じた。つまり、パラグアイ側のエンカルナシオン側は道路は石畳で落ち着いてはいるが、家並みも木造で薄汚れ見栄えがしないのに対し、アルゼンチン側のポサーダスは道路も舗装され、数階建てのビルも多く近代都市のように見えた。街並みもきれいで、ホテルも清潔で従業員もパラグアイよりずっと洗練されていると感じた。
アルゼンチンに移住した日本人
ミシオネス州へ移住されて植林を行い森を育てている日系人の方も幾人か訪問した。尤も森を育てるといっても木材を販売する商売のためであったが。
その中の一人広島県出身でKさんという方の話しは次のようだった。ミシオネスに移住して約25年とのことだったので、1950年台の後半に移住されたのであろう。Kさんは60才前後と見えたから30代半ばに移住されたのであろう。今(2012年)から見れば50年以上も前のことである。家は特に裕福でも貧しいとも見えなかったが、パラグアイの平均的な田舎への移住者に比較すれば、かなり余裕はありそうに思えた。
1983年当時、植林木のパラナマツやエリオッティマツは約15年生であった。これくらいの年数でも日本の同年生のスギやマツより成長はかなり良く、植林木の胸高直径は約20cmになっており、伐採木のパルプ工場への売れ行きは非常に良いとのことだった。
この植林をするにあたり、アルゼンチン政府から植林費用の融資を受け、その返済条件は利子4%、返済開始までには10年の猶予をみてくれたとのことだった。このころアルゼンチンは大インフレで、返すときにはほとんどただみたいなもので、非常に助かったとのことだった。その後アルゼンチンは更に超大インフレに陥るのであったが。
キリは10年で約60cmになり、日本に輸出しているとのこと、日本のスギは成長が悪く、ミシオネスには適していないということだった。
樹種としてはパラナマツの方がエリオッティマツや他のマツ類よりもずっと材質が良く、同じ量で値段は倍には売れるとのことであった。
パルプ会社
Papel misioneroというパルプ会社に1983年11月24日に訪ねた。この時、訪問許可を取っていたが、工場内を見学させてもらうのにパスポートまで預けさせられた。このころは、今のようにテロが起きるということは少なく、会社管理も厳重なところは少なかったから、企業秘密を守るため厳重な警備をしていたのであろう。
ここは従業員が500人もいるとのことで、かなり大きなパルプ工場であった。日本の商社を経由して日本の大きな製紙会社の技術援助を受けているとのことであった。クラフト紙(褐色の丈夫な紙でセメント袋や封筒などに用いる)の生産が1日110トンとのことで、パラグアイやボリビアにも輸出しているとのことだった。
このパルプ工場を調査する前に、パラグアイの古紙再生工場なども調査したが、その旧式な機械や劣悪な労働環境に比べれば、機械類も巨大で近代的であるし、労働環境もかなり良く見えた。しかし、パルプ工場というのは激しい騒音と化学薬品の匂いで、勤めるのはとても大変であろうと思われた。
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.5
植林への批判や調査
天然林を伐採して人工林へ転換することへの批判
これは後に植林を実行した時に、批判されたことである。パラグアイの自然保護派は、天然林を伐採して人工林に転換するのは、自然破壊であると。
日本でも戦後同じ様にクヌギ、コナラの自然林を伐採し、スギ、ヒノキの人工林に拡大造林を進めてきたのと発想は同じであった。確かに天然林状態であれば、生物多様性は高いし、生態系も保護されるであろう。
しかし、自然林のままでは樹木の成長は遅いし、目的とする材が必ずしも生産されるわけではないので、生物多様性などは劣るが、ある面積に限っては人工林とすることもやむを得ないであろう。
あるいは放棄された牧場などで、森林に回復すべき土地などがあれば、そのようなところで人工林を造成できれば良かったのであろう。技術的には、木材の生産ということと生物多様性が維持できるように、伐採の面積を小区画にして群状に連続させないというような方法を採るのが良いのであろう。
とはいうものの、それまでのパラグアイの巨大な森林破壊を見れば、パラグアイの自然保護派もその阻止へもっと早く動くべきだったろう。しかし、独裁者の大統領ストロエスネルの下ではそういった自由な活動はできなかったのである。ストロエスネル大統領の失脚後、国民は政治的な抑圧から解放され、自由に活動できるようになったので、むしろ批判は自由な意見が言えるようになったことと、歓迎すべきことなのであった。
近隣の植林地(エリオッティマツ)
調査
調査地の形状と測量
その暫定的な27,000haの位置は次の図に示すような形で調査地のほぼ中央に道路が、東側と西側を分けるような形で走っていた。
当初の対象地域(27,000ha)
この時中央の道路をトランシットで測量をした。平らに見えた中央の道路も思ったより標高差があり、傾斜があるところでも3%(100mで3mの標高差)にも届かないが、約10kmの総延長では、50m以上のアップダウンがいくつかあった。平らに見える土地も意外に波打っている土地であることがわかった。
この調査地内のほぼ中央付近東側にはセロ・ドス・デ・オロ(Cerro dos de Oro:金の2つの丘)という標高約380m(麓は約250mだったから、頂上には約130m程登る)の双子山のような山があり、調査地を見晴らすため良く登ったものである。
このセロ・ドス・デ・オロの山頂を結ぶロープウエィでも作れば、将来は観光地としても使えるなあと思ったものである。この話を長官にすると、「それは良いアイデアだ。是非実現したいものだ。」とその気にさせてしまった。
森林調査や土壌調査
私は、森林調査を中心に行っていた。森林調査は、先にも記したが土地立木評価に必要なもので、行ったものである。標本地を設定してその中の樹木を調べたのである。小さい樹木は薪炭用に使うということで、更に小さい標本を設定し、調べた。北東部での森林調査の経験があったので、普通の標本の大きさは100m×40mの小さいものとし、胸高直径(木の高さ1.3m地点の直径)10cm以上の木の樹種、樹高、枝下高までの高さ、直径などを調べた。
土壌調査も行った。私も森林土壌の調査はそれまでもかなり行っていたが、ここに来た土壌の専門家の方に随分と教えてもらった。植林するには、土壌の種類に応じて植栽する樹種を決めるのであるが、その判断するために行ったものである。
土壌
森林土壌の調査は土壌の化学成分を分析するものではなく、幅1m、深さ1mくらいの穴を掘り、その断面を観察し、土壌の層位、色、硬さなどを観察と簡易な機器を使った値に基づき、土壌のタイプを判定するのである。ただし、土壌の酸性度pHを正確に測ったので純水を手に入れるのに苦労した。
調査地の土地は波打っているものの概ね平坦で、大きくは肥えている土地と肥えていない土地の2種類、その中を細分して4種類程度に分けられるものだった。これも調査をしてみて分かったことである。
土壌はアクリソルと言って砂岩を母体とした赤色の土壌であった。時々鉄塊もあった。昔学校で習ったラテライトの一種であるが、現在の土壌タイプは、かなり細かく分類されている。
川沿いなど土地がわずかでも低くなると土壌の養分が流されグライ化(土壌中に水分が多くなり、酸欠となり、白色化する)されている土壌もあった。土地の良い方は赤色の砂地で、肥えていない方は養分が流され白色の砂地であった。
水量調査
調査地の中に幅3?5mくらいの小川が流れており、この水を苗畑の水源にするため水量調査なども行った。これはいたって簡易な方法で行った。川の中央の点と中央と両川岸の計3点の深さを測り、断面積を計算し、その点を流れる浮きの単位時間の距離を測り、流量を計算するというものである。季節を変えて測ったが、乾期でも水量は十分にあり、苗木生産には十分過ぎる水量があり、水供給には問題ないことがわかった。
調査地内を流れていた小川
ヘビが多かった現場
1983年10月25日(火)は調査中に森林の中の大きな木から枝が落ちてきて、森林局の共同調査者の頭に当たって出血する怪我があった。幸い大事には至らなかったが、念のためレントゲン検査を受けるようアスンシオンに帰した。
そういう日は、他にも変なことがあるもので大きなヘビを見た。アナコンダの子供だったかも知れない。
ヘビといえば、ある日調査している時に体をくねらせて横飛びをするヘビを見た。体は黒く長さは2mくらいあった。1mくらい飛び跳ね、結構早いのだ。ヘビが横飛びをして私の方に近づいてくるので、私も驚き飛び跳ねて避けた。
つづく
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.4
悩まされ続ける土地問題
勧業銀行の抵当物件だった土地
前回述べたように、計画を作成する土地は、勧業銀行の抵当物件であったため、所有者は私有地から国立の勧業銀行に変わった。つまり、国有地となったため、その一部の2万7千haが森林局に払い下げられることになったのである。
パラグアイ森林局は、それまで大規模に植林を行った経験がなかったため、我々が造林計画作りのために派遣されたのである。
最終的な結果
途中、計画地の大部分を軍が住民に分譲してしまい、土地をかすめ取られてしまった。最終的に作成した造林計画は、約1万1千haの土地の中の6,600haとなった。日本ではこれほど大面積の造林計画はないだろうが、平地なのでできるのである。かなり緻密なものができ、この計画は今でもモデルとして使えるほど良い計画だと思っている。植林方法や保育方法などを計画した事業計画とその事業計画を実行するのに必要な資金の調達や返済などの計画した資金計画も作成したが、残念ながらどこも融資してくれるところはなかった。これは南米全体が超インフレに進んだという当時の社会背景が影響し、融資しても返済の可能性が少ないと見られたためである。計画では利益がもたらされるように様々に工夫したのであるが。
しかし、我々の作成した計画書に基づき、その後日本が援助し、植林を行った。ただし、全面積までの植林までには至らなかった。
森林が焼かれ農地に転換されていく
既に作成されていたFAOの報告書
調査を取り巻く状況は、あいまいなもので、まず状況を正確に把握する必要があった。まず、我々が計画を作る前にFAO(Food and Agriculture Organization of the United Nations 国連食糧農業機関)で既に同じような計画を作成していたのだが、何故その計画が実行されなかったのか私には疑問だった。いろいろ調べて行くとその計画は基礎資料として作成されたが、融資申請用の書類とまでには至らなかったとのことだった。
この計画を私は精査したが、造林計画実行に必要な施設や資金計画などは良くできており、具体的な植林箇所の指定などの技術的根拠や融資の返済計画などが少し説明不足かなと思える程度で良くまとまっていた。
FAOの報告書が利用されなかった経緯
何故これに基づきどこかの金融機関に申請しなかったかを森林局の長官に聞いてみた。すると、これに基づき、BID(Banco Interamericano del Desarrollo 米州開発銀行)に申請するつもりで、打診したところ、その段階で断れたとのことだった。当時BIDには、50年間無利息の融資枠があり、それを借りることを目的にFAOで計画を作ってもらったとのことであった。しかし、打診した時にBIDには、既に無利子で融資する原資がなく、その条件にあわなくなったとのことである。その後、BIDでは利子2.5%の融資枠も作ったが、それも利用できなくなっていたとのことである。南米全体で既に社会状況が変わり、インフレも激しく7.5%の利子でないと貸せない状況になっているとのことであった。2.5%でも返せないのに、7.5%で返すことは、到底不可能なので、申請は取りやめ、日本に再度計画作りを頼むことにしたとのことであった。造林の実行には初期投資が必要で、最も良い技術を用いたとすれば、生産材から利益を得て、何%の利子までなら返済が可能なのか、借りる先はBIDでも日本でもどこでも構わないから、もう一度最良の計画案を作ってもらいたいとのことだった。
何ともおかしな話
それにしても昔のBIDには50年間無利息で貸してくれるという信じられない有利な条件の融資があったものである。しかし、そもそもFAOで作った案でBIDでの融資が受けられないのだから、計画を作り直してBIDに申請してもそれが通るのは難しいと思われた。おかしな話と思った。
日本が融資するなら、儲けとかは考えないで、赤字覚悟で政策的に援助を行うなどとしなければ融資は、無理な話であると思ったものである。FAOも相当な資金を拠出して造林計画の報告書を作成したのだろう。それが使われなかったのは計画作成費が無駄になったということである。
パラグアイの森林局あるいは政府全体が、計画作成の前段階からBIDと交渉し、融資枠を獲得しておかなければならなかったであろう。常識的に行っておくべきことを怠っていたことに大きな問題があったのだろうと私は思った。そして、この怠慢が我々の計画作りにも大きな悪影響を及ぼすとは最初の段階では思いも及ばなかった。
計画作成過程の効果
尤も我々の作った計画も結果的には一部しか使われなかったことからFAOの場合と同じく、計画作成費の一部は無駄になったようにも思える。しかし、発展途上国では往々にしてあることで、計画通りにものごとは進まないことが多い。
とはいえ、日本人が協力し、ものごとを誠実に実行したり、不正なことは一切行わないといった我々の態度やモデルとしても使える造林計画ができたことは、少なからずパラグアイの森林局の職員にも好影響を与えたであろうから、協力自体は決して無駄とはいえず、相当な効果を上げたと思う。
いつまでたっても移管されない土地
さて、何度も取り上げているように調査をする上で我々にとっての大きな問題は、勧銀から森林局への土地移管が調査開始時点でなされていなかったことである。その時は勧銀の土地であったが、森林局のものとして登記されていなければ、軍がからんでいるので軍の土地となってしまうかもしれなかった。また、勝手に入ってくる入植者も多く、一旦入植してしまえば、排除するのも難しく、土地登記が急がれているのであった。
言ってみれば調査以前に決まってなければならない最も肝心なことが決まっていなかったのである。発展途上国ではありがちなことである。しかし、後の経過を考えると森林局の土地として登記されたとしても同じ様な経過をたどっていただろう。
なにしろ、森林局の土地となる予定の土地の境界は暫定的なもので、正確なものではないから、測量をして境界を確定してもらいたいという要請も含まれていた。日本でも山の境界はあいまいなものであるし、昔は見取り図だったので、そんなものだろうと思っていた。
土地登記も進まない
パラグアイに到着後、土地はまだ登記されておらず、相変わらずその手続き中とのことであった。森林局の担当者や森林局の長官には我々はいつも「土地登記を早くしてくれ、そうでないと計画地域が定まらない。」とプッシュするが答えはいつも同じで「それはすぐに終わるはずだ。」とのことで一向に終わらないのだった。
森林局の上部組織の農牧省の企画庁にも直接何回もプッシュするが進まなかった。最終的には、土地移管の話はついたが、1年半後の調査終了時にも、正式に森林局の土地に登記されたという話しにはならなかった。
大前提が崩れ、立て直すために苦労する
このように肝心なことがあいまいなままに仕事が始まるから、実際に現場の最前線で仕事をする我々のような調査チームは苦労させられるのである。仕事を始めるということは、当然、大前提が決まっていて始めるものであるが、大前提は崩れるのが当然であるかのごとく、発展途上国では崩れるのである。だから、「法律は破られるために存在する。」などという言葉がことわざのごとく言われるのである。
そして本来構築されているべき、その大前提を我々調査チームが新たに構築しなければならず、本来の仕事を行う前に、多大なエネルギーを注ぎ込まなければならないのであった。森林局のものになっていなければならなかった土地が、まだ宙ぶらりんで、いずれは森林局のものになるはずだということで、調査は見切り発車がされていたのだった。
かすめ取られていく土地
この土地問題がすぐにかたづかなかったのは、軍が絡んでいたからだった。この土地が払い下げられるのが軍と森林局であったことで、パラグアイでは軍の力が圧倒的に強く、農牧省も軍には強く口出しできなかったからである。そして多くの土地が軍にかすめ取られて行ったのである。
土地に関するもう一つのあいまいさ
また、勧銀から払い下げられる土地についてその土地代金を森林局が勧銀に支払うものなのか、勧銀から森林局にただで払い下げられるのかもはっきりしていなかった。これがはっきりしないと資金計画が成り立たないのだ。
現状は良木が抜き伐られた跡の天然林であるが、残った天然林の販売可能な樹木を製材用に売り、残りの小径木やかん木を薪炭材用に売り、その儲けを造林費用の足しにし、その伐採跡地に植林する計画であった。
そのため、前述したように、この調査で土地と立木の評価をしてもらいたいというのが森林局の希望だった。いずれにしても土地代金を勧銀に支払うにしても支払わないにしても土地と立木の金額を出すことにした。勧銀に土地代金を支払う場合は、立木の販売収入で支払った後にその金額が余れば、その金額を事業費の足しにする。また、土地代金を支払わない場合には、立木の販売収入全部を事業費の足しにする。ということで、計画作りに進んでいった。
つづく
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.3
調査の背景など
農牧大臣を表敬
翌1983年10月10日(月)には、農牧大臣を表敬訪問した。日本で大臣に会えることはめったにないし、パラグアイとはいえ大臣とはめったに会えないので、どのような感じであるか興味はあった。会ってみるとかっぷくが良く、落ち着いており、見た目は非常に貫禄がある。中身は汚職にまみれているのであろうが、そんなことはみじんも感じさせない。
当時パラグアイの南東部にある巨大なイタイプのダムがあるヤシレタ地域で、日本は農村地域の開発計画作成のための調査も行っており、我々のカピバリの調査は、それと並ぶ大きなプロジェクトと考えているとのことで、期待を示された。あたりさわりのない表面的、形式的な挨拶であった。
調査対象地の位置
調査対象地はパラグアイの首都アスンシオンから東の町コロネル・オビエド(Colonel Oviedo)に向かい、そこから国道を北に向かってブトゥ(Mbutuy)まで行く。ブトゥから北東のブラジル国境の町サントス・デル・グァイラ(Santos del Guaira)方面に向かって約20km程行った所である。アスンシオンから約225kmの距離である。
パラグアイ東部の地図と対象地域
パラグアイ自体が全体的に平坦で車は走り易かった。当時舗装されている道路も道路網も十分ではなく、道路状況は決して良いものとは言えなかったが、ブトゥまでは舗装されていた。また、ブトゥには調査基地とした小じんまりしたペンション(ホテル)もあり、北東部調査の時のようにキャンプをしながら調査をするということはなかった。一カ所に落ち着いていられ、仕事上の困難さはつきまとったが、肉体的にも精神的にも比較的落ち着いていることができた。
調査が始まった経緯
前述したように調査を行う予定であったカピバリの土地の面積は、当初2万7千haであった。ここは、もともとは、大森林であり、グアラニー族のインディオが住んでいたのだろうが、所有者がいない土地は政府のものであることからしてパラグアイ政府のものとなっていた。それが、F社という製材会社に買われ、F社の所有となった。
F社の倒産
F社はこの地域の優良の良木のみを伐採し、製材をしていた。その事業を行うに際してパラグアイの国立勧業銀行から融資を受けていた。融資を受ける際、この土地を担保とした。しかし、優良木を伐採してしまうと、まだまだ木材としては使える良木が沢山残っているのであるが、倒産してしまった。
思うにこの倒産は計画倒産に違いない。儲からなくなったから夜逃げ同然のように逃げたのだろう。F社が銀行からいくら融資を受けていたかはパラグアイ側の事情でありわからないが、土地購入代金や施設・設備費以上の多額の融資を受けていただろう。調査地域内の製材所にはまだまだ使える直径1.8mのバンドソー(帯鋸)が2台、1.2mのバンドソーが5台、丸鋸が多数、その他送材台、フォークリフトやボイラー室も残されていた。もったいないことである。持ち去った機材類も多数あっただろう。
また、返済状況もわからないが、返済猶予期間(資金を借りて何年か経過した後に返済を開始する、返済を待ってもらう期間)があったとのことから、全く返済していなかっただろうと推測された。優良木を伐採し販売した代金は、丸儲けであっただろう。優良木以外は残し、F社にしてみれば、用済みのカスの森林を残してトンズラしたのだろう。
勧銀にしてみれば、だまされたようなものだが、誰かが一枚噛んでいたのだろう。このような不正が当時数多くパラグアイには横行していたと思われ、そのために大森林は消滅してしまったのである。
F社の関係者にしてみれば、日本の技術協力チームもカスの森林を何とかするように計画作りを頼まれて、憐れなものだと思っていたことだろう。
それでも残っていた森林の見た目は立派で、相当量の大木が残っていた。私はこの時、土地立木評価を行うため、森林調査を行い、その結果から優良木以外でもかなりの量があり、相当な額に相当することが分かった。優良木があった原生林状態のときは、大変な価値があったと推定された。それが数年間の間に伐採されてしまったのである。
伐採されて牧場や農地に転換されていく森林
つづく