【増井 博明 森林紀行No.8 中国編】 No.3_凄い禿山、裸山で激しい侵食
筆者紹介

2006年7月25日(火)
現地へ
この日の朝は、8時に朝食。昨日と同じ感じだ。朝食後、打ち合わせをした後に現場に行く。曇っていて、またしても雨が降りそうであるが、幸いにも霧雨程度で済んだ。現場までは車で約1時間くらいだった。

現地の山(森林)
道路際は畑になっており、畑から緩傾斜の山が続いている。山には木がない。森林がないのだ。びっくりした。どこもかしこも禿山、裸山で、草だらけである。だから物凄い土壌侵食だ。
土壌侵食
この土壌侵食の凄さといったらどうにも表現のしようがない。アンデス山脈でも大規模な土壌侵食を見たが、原因も全く同じで、昔あった樹木を根こそぎ伐採してしまったためである。
山の源頭部あたりの谷間から徐々に侵食が始まり、下流になるほど侵食の規模は大きくなり、平地になっても、まだかなりの侵食が見られる。扇状地から盆地になり、侵食された土砂が堆積して、ようやく侵食が収まるのである。次からの写真を見てもらえば良くわかるだろう。


麓に向けて侵食が激しくなっている。
途中の二次谷、三次谷の侵食も激しい。

斜面には石が多い。

斜面を登って尾根上に出る。一面の草地で禿山である。雨期のため草地になっているが、乾期には一面茶色の斜面だそうだ。ここに茶色に広がる斜面は容易に想像できた。
私は、半袖の上に薄いジャンバーを羽織っていたが、風が強く冷えてきて夏なのに手がかじかんで来た。


植林地
植林地域を確認する。針葉樹は、油松や満州赤松、広葉樹は榎などを植えているが、生存木が少なく、活着率は非常に悪い。
5月~10月にかけて雨が降り、7月、8月は雨期で月に100㎜程度雨が降るとのことである。11月~4月までは乾期で雨はほとんど降らず、年間の降雨量は400㎜程度とのことだ。これでは、乾燥に強い樹種を植林したり、植林後、数年間は灌水するといった何らかの対策を考えないと活着率向上は難しいと思った。
禿山、裸山となった原因
禿山となった原因を聞けば、はっきりとは言わないものの、これは、毛沢東の大躍進政策の中で採られた製鉄増産運動に起因しているとのことだった。当時(1950年代後半)、製鉄のために一般人も薪を用いて製鉄を行ったとのことだ。そのため、ほとんどの森林が伐採されてしまったのだ。
想像すれば、その頃までは多少の高木の森林があっただろう。しかし、中国では古代から人口は多かっただろうし、焼きレンガが建築材に使われたということなので、レンガを焼くためにも森林は徐々に伐採されて失われて行き、そこへ毛沢東の製鉄増産運動での燃料としての薪採取により残っていた森林の伐採に拍車がかけられ、根こそぎ森林が伐採されてしまったのだと想像した。
そのため、この時は既に、「退耕還林」政策が採られていたが、まだ十分には進行しておらず、その効果は、ほとんど見えない状態だった。この中国のスローガンは読んで字の如し、素晴らしいと思うが、皆が「右向け右」といった号令の下に一斉にやらされるのは、それにはそぐわない人もいるだろうし、これは空恐ろしい。森林の伐採も回復も科学的根拠に基づいて行われるべきと思ったものだった。
植林の可能性
そうは言いながら、植林が成功する可能性は十分にあると思った。というのは、表層の土壌は侵食され流されてはいるが、樹木の根を支えるその下層のかなり柔らかい土壌は十分にあるので、樹木の根は十分に支えられるからだ。
ただし、この周辺は日本の東北地方くらいの緯度で、やや寒く、雨量は夏の7月8月が100㎜前後で、年間400㎜くらいしかないので、この雨量が少ないことが厳しい条件となる。5月から10月までは雨が降るが、11月から4月くらいまでは植林した当初は、灌水できれば良いが、手間が大変なので、別な方法も考えなければならない。
樹種は、既存の植林樹種に加えて乾燥に強い郷土種を選ぶことになろう。とにかく低木でも森林を作り、天然更新して自然に樹木が増えるようになるまで、植林を行うことである。
今にして、この後に私がかかわったドミニカ共和国でのプロジェクトのように、単に緑化だけでなく、中腹あたりに貯水池なども作り、果樹などを植え、点滴灌漑などを行ない、何らかの収入も上がるアグロフォレストリー的な方法を取り入れることも一計ではないだろうか、と思ったものである。
植林は森林を伐採した後に、伐採した樹種が天然更新かクヌギ、コナラ林のように萌芽更新で元の森林に戻れば、費用がかからずに最良の方法となる。しかし、苗木作り、植え付け、灌水と手間と費用がかかれば、植林もなかなか進まないだろう。中国の土地所有は国か農民集団ということなので、国が費用を支援してくれれば良いが、農民集団の土地であれば、果樹の植林で農民が収入を上げられその一部を植林費用に回すような仕組み作りが必要であろう。
農民のトラクターがエンコ
帰路の途中、道路で多少傾斜のあるところで農民のトラクターが雨で地盤が緩んだためそこを登れず、道路を塞いでいる。我々の車の前にいるものだから我々もストップ。近くで道路工事をしていたブルドーザーがいたので、頼んで引っ張ってもらう。最初は引っ張るために付けたナイロンロープが切れてしまった。それで、ワイヤーに付け直すと、すぐに引っ張ることができ、農民のトラクターは横にどいてもらい、我々はホテルに戻ることができた。

引っ張ってもらう

昼食
ホテルに戻り昼飯である。体が冷えたので、この時は乾杯を勧められるままに白酒を飲む。少し飲んで、体が温まってきてほっとした。こういう時にアルコール度の高い酒は元気も出るし、実に良いものだと思ったものである。しかし、それで中国の寒い地方やロシアにはアル中が多いのではないだろうか?ここで河北省のRiさんは戻っていった。
タクロク県に行く
食事後、豚鹿県(豚ではなく月片がサンズイ、タクロク県と言う)に行く。途中でタクロク県の町で県庁に立ち寄り県知事に挨拶をする。それから公安と書いた車(警察権をもった林業局の車)が先導してくれる。町はやはり立派である。幅広の道路は、片側が2車線ずつあり、その外側に街路樹植林用のスペースが広がり、それとビルとの間にはもう1車線ある。ビルは7~8階の大きなビルが余裕を持って建てられている。どうみても日本の市役所所在地などよりもはるかに余裕がある。しかし、このビルの耐震構造を考えると外見のきれいさだけでは判断できないところがあろうと思えた。
ぶどう園
そこから30分くらい未舗装の道を行くと、段々畑ならぬ段々ぶどう園が広がっている。
ここは世銀のプロジェクトの援助でできたふどう畑で6年目とのことだ。6年でそれほど立派な木になるとは思われないので、既存のぶどう畑のところを拡張的に整備したのだろう。ここはワイン生産を中心に行っているそうだ。階段切りを行って、井戸を掘り、灌漑用のパイプを通し、230haのぶどう園を造成したとのことである。1,500万元(2億2千5百万円)借り、利子は0.2%で25年返しだそうだ。それ以外に800万元(1億2千万円)は無償だそうだ。
しかし、農薬のかけ方が凄い。半端ではない。多くの人が農薬タンクを背負い、マスクもしないで一斉に農薬をかけている。手前の農地で作業している農民を見ても同様にマスクをするわけでもなく、農薬タンクを背負い、噴霧器でかけている。これを見て、中国農民や中国人自体の農薬中毒の怖れが心配になった。それに中国のワインもおいしいけれど飲むのは止めようと思ってしまった。日本で売っている中国産の野菜もできるだけ買わないようにしようとも思ったものである。
しかし、今では中国人の農薬に対する意識に変化が見られ、クリーンな野菜を食べたいと思う人も増えているようだ。
文学館
帰りに丁玲さんという人の文学記念館があったので立ち寄ってみた。丁玲さんの銅像が入り口に立っていた。
丁玲さんは中国の女流作家で、左翼作家連盟に属し、夫の刑死後、共産党に入党し、解放区で文化宣伝工作に従事し、1954年頃から批判を受け第一線から退いたが、1979年に名誉を回復した方とのことだった。
面白いものとは感じなかった。ただ、そこで遊んでいた子供達が元気で、日本の子供と同じようで心が和んだ。

タクロク県のホテル
この日は、豚鹿県のホテルに泊まった。ホテルの概観は病院のようである。中は普通のホテルといった感じだった。ツインの部屋を一人で使いかなり広いが、ここでも赤城県のホテルと同様にバスタブの排水が悪かった。
夜の接待攻勢
夜は、また接待攻勢である。このタクロク県の県知事よりも偉いと思われる方の隣に座らされた。この方は随分と態度が大きかった。年は私より少し若いくらいに思われたが、非常に尊大で高慢のような感じを受けた。今まで様々な国の偉い人達とも会食をしたことがあるが、常識的で尊大と感じたことはなかった。接待受けるのも仕事の一部と思っていたが、お客さんである私に対してまるで自分の部下であるかのような物言いだ。こんなひどい目にあう接待は受けたくもない。このような態度は、中国の政治体制が影響しているのだろうと思わざるを得なかった。
ここでも随分と白酒を飲まされた。ビールは相変わらずまずい。相手が悪いからよけいに不味く感じたのであろう。しかし、ここでも夕食は2時間くらいでピタッとお開きとなり、ほっとした。
街中
少し余裕ができたので町に出た。Shuさんが大きな瀬戸物の金魚蜂を以前に買って、明日行く承徳市の事務所に置いてあるとのことである。今回、それを日本に持ち帰りたく、機内持ち込みにしたいとのことだった。そのために布でくるんで割れないよう、大きな布袋を作ってもらうため、布屋に入った。私も中国風の布を少し買う。
そのあと中国式のマッサージ屋に行き、体をほぐしてもらった。45分で70元(約千円)だった。男の人だったのでかなりきつくもんで貰った。
つづく
5月の駒ケ岳

「3年ぶりの行動制限のない大型連休」ということで、
各地で多くの人出があったとのこと。
とはいえ、長野県の各地の警戒レベル4あるいは5がほとんど。
まだまだ、”どんどん出かけよう”とはならないところが、
なんとももどかしい限りです。
大型連休明けの感染者が増加しないことを祈りつつ、
今年は、コロナ禍前の生活に近づくことを期待しています。

環境美化活動
社屋、社員駐車場ならびに周辺道路の環境美化活動を実施しました。
小さな取り組みではありますが、今後も継続してまいります。

【増井 博明 森林紀行No.8 中国編】 No.2_山に樹木がなく少雨で道路が浸水
筆者紹介

7月24日(月)
ホテルでの朝食
朝8時半ぴったりに関係者全員で、ホテルのレストランの小部屋で食事をした。食事用の部屋が何部屋かある。おかゆ、肉まん、あんまん、ゆで卵、肉類やスープ類など、色々な種類の食事が出てくる。丸テーブルの上の台を回転させ好きなものを好きなだけ食べれば良い。さすがに朝からアルコールはでなかったのでほっとした。張家口市の林業局の担当者も朝早くから来てくれた。Koさんといった。
会議
食事の後、会議室に移動して、会議が始まる。中国側から最初になにか挨拶があって始まるのだろうと思っていたら、なにもかしこまった挨拶なしに、自然発生的に会議が始まってしまった。これが中国式なのか。進行が良くわからなく、これはまずいと思い、まず、成り行き任せの会議をストップさせた。それから私が挨拶をして、自己紹介や今までのお礼や経緯を述べ、今回の仕事の目的や調査内容などを説明した。

中国側は河北省のRiさんが責任者であるのだが、会議の司会もしないし、ほとんど発言もしない。そこで私がほとんど仕切ってしまった。
河北省では、ここにきている中ではNo.3の位置にいたFonさんがだいたいしゃべり、後は赤城県の担当者に説明させている。私は、初めてでわからないこともあるので、沢山質問をした。それから今回の調査が終わった後に提出してもらいたい書類などを頼んだ。そしてお互いが納得して、最後にまた私がまとめを述べて、このときの会議は終わった。
この時の中国側の関係者の年代は40代後半~50代前半で、私よりも少し若いくらいだった。
温泉源へ
午後から現地に行く予定となっていて、少し時間があるので、近くの温泉源を見に行こうということになり、皆で、徒歩で見に行った。道路に水が流れているのでどうしたのかなと思っていたが、先ほど降った雨が流出して道路を流れているのであった。大した雨でもないのにこれほど流出するとは、山に保水力がないか道路の側溝や下水道など排水施設が整ってないからだろう。ホテルから歩いて5分くらいのところにお寺があり、そこが温泉源となっている。


温泉の近くには、何やら怪しげな看板もある。怪しげな看板は、どうやらカラオケ屋と按摩屋のようだ。

温泉の成分
温泉源には、温泉の成分が書かれた石板が沢山あった。中国も日本と同じように温泉の成分の薬理的効果により、病気治療などに利用している。

説明文「平泉。1分に0.05ⅿ3出水。36℃。pH5.1~7.8。この温泉には微量元素が多く含まれている。」

説明文「胃泉。1分間に0.083ⅿ3出水。58℃。pH4.9~7.8。温泉の成分から消化器系統の慢性胃炎や腸炎、神経性胃腸潰瘍等に効果がある。」

説明文「ゾングアン(主温泉)。1分に0.516ⅿ3出水。68℃。pH4.9~8.0。30種類以上の化学的成分と放射性物質を含む。Na,K,Ca等。100年の治療経験や最近の研究によりリュウマチ関節炎、神経性皮膚炎、脂漏性皮膚炎等に効果がある。治療効果は80%。」
お寺への登り口
温泉源の上にはお寺があり、山の中腹のお寺まで登る。




上の写真はちゃんとした像であるが、他の像をみて大ショックを受けた。多くの像は首が刎ねられていたのだ。文化大革命の負の遺産だ。政治闘争ではあるが、既成の一切の価値を変革するというところから文化遺産も破壊されたのだ。像とはいえ、その姿は無惨で、とても見られたものではなかった。
お寺の前の占い師
お寺への参道の途中に、占い師のおじさんがいた。しきりに占ってやると言うので、20元(約300円)を払い、占ってもらった。雨が少し降り出だしたので、少し上に登り、寺の軒下で占ってもらう。誕生日と生まれた時刻を聞かれ、筮竹を3本引く。それには数字が書いてあって、占い師のおじさんは数字と本と見比べている。そして左手の手相をじっと見る。Shuさんが通訳してくれているのだが、過去のことを言われると良く当たっている。「あなたは今年の春までここ何年か体調が悪かったが、これからは良くなり、快調になる。」と言われる。実際に49才の時にジンバブエで罹った肝炎で、その後5年くらいはずっと調子が悪く、ようやく良くなり酒も少し飲めるようになってきたくらいの時だったので、まあ、この言葉を信じようと思ったものである。
未来のことは、「今後6年間の間に事業を起こしても上手く行くし、今のままでも上手く行くし、全て上手く行く。あなたは管理職で、皆に尊敬される管理職となる。金運も付いてくるし、あなたの歳でも女性運も良くなる。全てが順調となり、幸福な人生で、88歳までは十分に生きられる。」と調子が良いことを占われる。本当かねと思ったけれど、良いことを言われれば気分は良くなるものである。私は簡単に騙されてしまう方でもある。
当たってなかったことは、「あなたの妻は私を中心に生きていて良く面倒をみてくれている。」と言われたが、実際は非常に独立心が強く、私の存在など必要なく、自分中心に生きていると思われる女性なので当たってない部分もあった。

私は、この時56才だったので、今思うと勤めを辞めて何か事業を起こした方が良かったのだろうかなとも思うが、そんなことはできなかっただろう。ちょうど、この6年後に今の会社(株)ゼンシンに入社させてもらい、とても感謝しているので、そのままで上手くいったということだろう。
金運や女性運は意識できるほど良いとは思えないので、当たったとは言えないが、普通なのであろう。
また、この時、88才までだとまだ32年もあり、結構長生きできるなあと思ったが、今72才になってみると、あとたった16年しかないなあと感じる。父は90才まで生き、母は96才でまだ健在だから二人とも長生きである。だから今思えば、百寿まで生きられると言ってくれれば良かったのになあと思う。それに全て良いという6年間はあっというまに過ぎ去ってしまった。欲張りであろうか?
帰国してから勤め先の中国人に聞いてみた
この時、帰国して、同じ勤めに中国出身の技術者がいたので、その方に中国の占い事情を聞いてみた。すると、中国の古いお寺の占い師は90%くらい良くあたると言われているとのことだった。占い師のおじさんの写真を見せたら、「こんな感じの人は良く当たるよ。」と言われて、我ながら単純すぎるが、改めて気を良くした。
まあ結構楽しませてくれた占い師で、旅にアクセントを付けてくれて感謝した。
昼食
それからホテルに戻り昼食となる。早くもビールと白酒を勧められる。例によって乾杯攻勢で、飲まないわけにはいかないので、少しは飲む。白酒はアルコール度が高いのでとてもおいしいが酔うので、できるだけ随意にし、飲む量は控えた。
現地へ
午後2時過ぎに現場に、これから植林を進めるという現場に行くという時に、少し雨が降ってきた。これはかなりの雨になりそうだとこちらの人が言っている。私は早く山を見たいので、それでも現場に行こうと、皆を連れ出し、車で出発する。
雨
しかし、雨は激しくなってきた。少し走って、未舗装の道路に出ると、山からどんどん水が流れて来て、道路が川のようになって来た。道に少し段差があるところを車で越えるのは難しいし、水かさが増してくると危ないので引き返すことにした。

すると帰り道では舗装道路は、未舗装道路よりも、もっと川のようになり10cmも越えるような深さで水が流れているところもある。とは言え、ようやくホテルに戻りつくことができた。戻る決断が少し遅れていれば帰るのが難しかっただろう。
山に木がないので保水力がなく、すぐに雨が流出してしまうのである。それで現場に行くのは明日の午前中にしようと予定を遅らせた。空いた時間で、植林の計画作りを皆で練り上げるにはちょうどよかった。
夕食
夜の酒は、今度は茅台酒(マオタイ)である。昼はそれほど勧められなかったが、夕食時の乾杯、乾杯の攻勢はかなりのものだった。相当に飲まされ、少し酔った感じがした。マオタイも50度くらいあり、とても美味い。
しかし、1時間半くらい食事をしてパッと止むのが良い。その後、酒は全く飲まないのでそれも良い。
温泉プールへ
午後8時過ぎになり、近くの温泉プールに行こうと誘われた。ほとんど雨は止んでいる。男全員で行く。入り口で靴を預けてサンダルをもらい、海水パンツも新品のをもらい中に入る。たぶん誰かが買ってくれていたのだろう。タオル、シャンプーが入ったビニール袋をくれ、着替える。
「メガネを取ると良く見えないよ。」と言ったら新品の度付の水中メガネを誰かがもってきてくれた。少し度が強過ぎるけれど見えないよりは良い。水中メガネを付け、左側の長さを調節しようとするとゴムが切れてしまった。さすがに中国製で粗悪だと思ったが、幸い余っているゴムひもを少し伸ばして使うことができた。
中には3つほどプールがあり、2つは普通の水温に近く、1つは温水プールであった。ここは標高1,000mくらいで寒いので温水プールで温まる。温泉に入っている感じだ。奥の方へ行くと少しぬるぬるしている。
それから普通のプールに行き泳ぐ。長さは25mくらいだ。Koさんが片道の競争をしようというので、競争したら私が勝った。次に運転手が挑戦してきて、私は負けてしまった。勝ったり負けたり引き分けで良かった。
皆、腹がぽっこりと出ていて、私だけが年でも締まっていて腹筋が割れて見えるのに皆、驚いていた。この頃は、ジンバブエで陥った肝炎からの体力の回復のため、腕立て伏せと腹筋運動を毎日100回くらいやっていたのだ。
上がってシャワーでシャンプーをしながら、頭を洗ったが、皆、人前で裸になるのは平気だし、まったく隠したりしない。これは中国のトイレ事情など考えれば、恥ずかしいという感情などないからなのだろうと思った。
プール代は誰が払ったかわからなかったが、私が自分の分は払うと言っても、私には払わせない。かなり飲んだ後だったが、十分な運動をしたので、二日酔いにはならなかった。
つづく
4月も終わりです
新年度を迎え、4月も終わろうとしています。
4月は中旬ごろに急激に気温が上昇し、桜も満開から散るまでが早く、花見の時期を逃してしまった方も多いのではないでしょうか。私もその一人です。
毎年、満開から少し経った後に花見をしていたのですが、あっという間に散ってしまったため花見ができませんでした。来年の楽しみにしたいと思います。

これから暑さが増してきますが、皆様お気をつけてお過ごしください。
下伊那の桜の花見
4月9日(土)、完全週休2日制導入で今年から全ての土曜日が休みになりました。その休日を利用して、下伊那地域の花見に行きました。
飯田市坐光寺麻績の舞台桜、飯田市大宮通りの桜、飯田美術博物館の安富桜、飯田市山本杵原(旧山本中学校舎)の桜、いずれも満開もしくは、散り始めの見頃でした。春の日差しの下での花見は最高です。
飯田市坐光寺麻績の舞台桜 飯田市大宮通りの桜 飯田美術博物館の安富桜 飯田市山本杵原(旧山本中学校舎)の桜
今年の春のおしらせ
今年の「社窓」桜の報告は4月11日
昨年の桜HP更新は3月31日でした。
ここ数日は天気がとても良く、この土日にはお花見に出かける方も多かったかと思います。
気温も春というより夏に近く、朝方の気温とはギャップが激しいため体調管理に注意が必要です。





今年も玄関横に並べてもらいました

これからどんどんと草木が芽吹き、花の季節になります。楽しみですね。
こもりがちな運動不足も散歩やジョギングで解消+花や緑を楽しむ絶好の季節が来ます🐱🏍
代表取締役人事に関するお知らせ
この度、弊社 田中洋治 が代表取締役社長退任し、取締役会長に就任するとともに、
取締役 境澤昌志 が代表取締役社長に就任いたしましたことをご報告申し上げます。
代表取締役社長 境澤昌志
取締役会長 田中洋治
【代表取締役社長就任のご挨拶】
謹啓 時下ますますご清栄のこととお慶び申し上げます。
このたび田中洋治の後任として代表取締役社長に選任され就任いたしました。
新たな体制の下、社員一同さらなる成長を目指してまいります。
今後とも変わらぬご支援ご厚情を賜りますようお願い申し上げます。
略儀ながらホームページでの公開をもちまして御挨拶申し上げます。
謹白
株式会社ゼンシン
代表取締役社長 境澤昌志
【増井 博明 森林紀行No.8 中国編】 No.1_河北省張家口市赤城県へ
筆者紹介

7月23日(日)
この紀行文は、中国で北京オリンピックが開催されている真っ最中(2022年2月前半)に書いたものである。オリンピックのスキー会場は張家口ゾーンである。そこで張家口市のことを思い出したのだ。今から16年前の2006年の7月に、この周辺の森林を調査したことがあり、広大な中国のごく一部ではあるが、今回はその時のことを書いてみたい。例により日記風な紀行文である。
出発(家から成田空港へ)
2006年7月23日(日)のことである。京成上野駅発10時40分発の成田空港行に乗るつもりで家を出発したが、わずかの差で乗り遅れた。次のスカイライナーは11時20分であった。駅でコーヒーを飲んで時間をつぶしていたらあっという間に時間が過ぎ、次の11時20分のスカイライナーに乗った。12時20分頃に第2ターミナルに着いた。
出発ロビーに上がると今回の同行者のShuさんは既にロビーで待っていた。Shuさんは同じ部で働いており、台湾出身で母国語が中国語なので、中国関係の仕事を受け持っており、今回は私の通訳兼秘書兼助手だった。つまりは、仕事の同僚との出張ということだ。
私は宅配のabcのカウンターに行き、スーツケースを受け取って、すぐに二人で登場手続きをする。中華航空のビジネスだ。エコノミークラスの受付は多くの人が列を成していたがビジネスだったのですぐに搭乗手続きは終わった。
パスポート審査を受け、中に入り、コンコースDへモノレールに乗って行く。当時、成田空港にはこのモノレールがあったが、今は廃線となっている。あまりに短く、必要性がなく、不便で不評だったからだろう。
ラウンジに入る前にお土産用にタバコを買う。この頃、中国ではまだタバコがかなり吸われているとのことだった。ピースとセブンスターを2カートンずつ、計4カートン買う。
ビジネスのラウンジには、色々食べ物もあり、昼飯として食べることができた。私が中国へ行くのは、この時が初めてだったが、Shuさんはこの仕事に長年関わってきたので、今までの経緯を色々とおさらいさせてもらった。そして、この旅を気楽に行こうとビールで乾杯。
離陸
14時55分発が1時間近く遅れて、日本を発ったのは16時くらいだった。北京時間の午後3時だ。東京と北京の時差は1時間だ。席は3Aと3B。すぐに機内食がでて、ビールも頼む。ドイツビールで美味かった。食事は鮨、まずくはなかったが、うまくもなかった。機内での鮨は今一だ。少し眠ったらもう北京に着陸とのアナウンスがかかった。正味3時間ちょっとである。
到着
荷物を取り、通関し、空港の自動換金機で100ドルを換金しようとしたが、うまく通らなかったので、あきらめて人のいる窓口で換金した。当時、円だと1元15円くらいだった。

外へでると河北省と張家口市赤城県の関係者と運転手もいれて合計で、6人もの人が出迎えに来てくれていた。熱烈大歓迎である。地下の駐車場へ行き、車に荷物を積む。車は2台ともランドクルーザーのようなタイプの車だ。
北京市から張家口市赤城県へ
この日は、北京市には泊まらずに、これから仕事をする河北省張家口市赤城県に向かった。張家口市は河北省内の北西部にある。中国の行政区は市の下に県があり、市の方が大きくて、県の方が小さいのは日本とは逆だ。そこまでは北京から約100㎞で、車で2時間ほどとのことだ。ちなみに河北省には今回の調査対象の北京市、張家口市、承徳市が含まれている。

外にでると、早速汚染された空気の匂いを感じた。さて、これから一緒に仕事をする仲間がここからずっと北京に戻るまで一緒に過ごすとのことだった。えっ。そんなことは思ってもいなかった。確かに熱烈大歓迎だったけれど、いつも一緒の行動では、自由がない。まあ、歓迎を装って自由に行動できないように見張っているということなのだろう。こちらには何もやましいことも悪いこともしてはいないのだからどうということはない。ただし、彼らには国家機密というほど大げさなものではないが、援助を受けている植林は必ず成功しており、上手くいっていない場所などは見せられない、だから我々が案内するのだ、といったことがあるのかもしれないと想像させられた。
とは言うものの、それまで仕事をした中南米やアフリカの国とは違い、また東南アジアの国とも違い、外国にきたという感じがなく、強い親近感を抱いた。単に顔立ちが同じだからだろうか?これは、日本人だって元をただせば、中国大陸から朝鮮半島を渡ってきた渡来人だろうし、元を正せば同根というところから来ているのだろうか?
そこで、中国、韓国とは戦争というひどい過去はあったが、聖徳太子の時代には中国、朝鮮の文化が日本に持ち込まれたのだから、そういったものを乗り越えて、よりわかりあえるのではないかと到着したこの瞬間には思わされた。これから徐々にカルチャーショックを受けるのではあったが、まずは親近感を覚えるというポジティブな軽いカルチャーショックである。
最初にみた北京の街並みの印象
北京の町並みはどのようだろうか。空港を出発した後、古い建物(家屋)は見えるのだろうかと思っていたところ、素晴らしく幅広の高速道路の連続で、超高層のビルが余裕を持って林立しているのが見えるだけで、古い建物は見られなかった。東京では近代的なビルの谷間に古い民家が残っているのが見られるのだが。早くも自分のイメージと違った軽いショックを受けた。
かつての中国は、ニュース映像などでは、自転車があふれているという印象もあったが、もう町には自転車は見られなくなっていた。GDPで日本を追い越したのは2011年のことだったが、この2006年も中国は急速な経済成長を続けていたのだった。
しばらくすると雷が鳴り始め雨が降り始めた。段々と雨が激しくなる。7月は雨期なのだ。夜と雨ではっきりは見えないものの、「スケールが東京とは違い過ぎる。でかすぎる。」とまた軽いショックを受ける。
河北省のRiさんが助手席に乗り、Shuさんと私が後ろの座席でShuさんが通訳してくれる。Riさんに今までの経緯のお礼や今回の調査を改めて頼み、丁寧なアテンドのお礼などを言う。雨が降っていたせいか、半袖では寒い。薄いジャンバーを羽織る。日本も天気が悪かったが北京も雨だった。
途中のレストラン
1時間ほど、午後8時くらいまで走って、途中の町のレストランに入る。Riさんが沢山の料理を頼み、早くも接待攻勢を受けているという感じだった。日本からの援助で植林が進んでいるということへの感謝の気持ちを表しているのだろうが、以後の役所がらみの接待ではより多くの援助金を引き出したいという目論見が透けて見えることも多かった。
シャブシャブのようなスタイルで薄い羊肉を沸騰したタレに入れて食べる。タレはトオガラシの効いた辛い方がおいしいが、辛すぎるので、私は、ゴマタレの方を多く食べた。それから沢山の炒め物が出る。
料理の種類や量はやたら多いが大味で、繊細な料理といった感じは受けず、少しがっかりした。
酒は、ここの地酒の蒸留酒(白酒:パイチュウ)をRiさんが頼む。すぐに乾杯(カンペイ)となるが、乾杯だと本当に一気に飲み干さなくてはならないのだ。何しろ飲むときに自分一人で、手酌のように飲んではならず、飲むときは、誰かと一緒に必ず乾杯か随意(スイイ)と言って飲むのだ。スイイであれば人に強要されることなく、好きなだけ飲めば良い。皆が乾杯、乾杯といってくるので、これではすぐに酔っ払ってしまう。小さいチョコではあるが、私には無理なので随意(スイイ)でお願いする。
最初は、少し飲んだだけでむせてしまった。度数を見ると58度であった。むせるはずである。口の中でアルコールがサット広がるのだ。飲めないはずである。しかし、これだけ強い酒だととてもおいしい。
河北省のFonさんというのが陽気で色々と話をしてきて面白かった。Fonさんを見ていると、白酒(パイチュウ)を飲んだらすぐに何かを食べるか、お茶を飲むかビールを飲んで一挙に酔っ払わないようにしていた。これを見習わないとすぐに酔っぱらってしまうなと思い、良い参考になった。ビールは燕京ビールといい、アルコール分が薄いのは良いが、とても不味く感じた。しかし、酔わないためにはビールを水代わりに飲むのは良いのだろう。今は燕京ビールもきっともっとうまくなっていると思う。因みに燕京は北京の古称とのことだった。
夜9時半くらいに食事が終わり赤城県に向かう。
赤城県のホテルに到着
赤城県に着いたのは夜中に近い、午後11時過ぎだった。温泉地である。宿泊は温泉賓館というホテルだった。赤城県の職員の女性2名が夜遅いのにもかかわらず、待っていてくれた。年頃は30代と40代くらいに見えた。若い方は、美人だったが、話しかけても全く愛想がなく、「接客業とは言っても日本のようなサービス精神はないのだ、さすが中国。」と妙に感心した。
温泉賓館
用意していてくれていた温泉賓館は赤城県のゲストハウスで、結構大きく立派で、7階立てで、全部で100室くらいはありそうだった。しかし、室内の設備の作りは悪かった。温泉なので湯船に湯を溜めて入れば良いといわれたが、お湯を入れると栓が緩くお湯が漏れてしまう。湯船からのお湯は排水溝に直接繋がっておらず、風呂床にお湯があふれた。大したことはなかったが、遅いので風呂に入るのは止めてシャワーのみにした。
電話もついているのだが、内線のみで、市内も市外も通ぜず、インターネットはできないことがわかった。
空港で待っていてくれて、北京から一緒に来た河北省と赤城県の関係者全員が、同じホテルに泊まった。明日の朝は8時半に朝食とのこと。ここでは関係者一同朝から晩まで同一行動とのことと念を押され再度びっくりした。
つづく
4月の駒ケ岳

令和4年度がスタートしました。
桜も全国的には満開のところが多くなってきて、
信州でも南から開花が進んできます。
3月中には飯田お練りまつりが開催されました。
4月から5月にかけて諏訪地方を中心に各地で御柱祭が行われていきます。
長野市の善光寺では御開帳が始まりました。
どれも数えで7年に一度の開催ということで、
地元住民の方や関係者の方などはこの時を心待ちにしていたことと思います。
コロナ禍での開催であり、
制約も多い中で、様々な対策を施しているとのこと。
無事に開催されて、多くの人が訪れたり、参加できることを願うところです。
