駒ケ根市より災害対応に対して感謝状をいただきました。

お知らせ

令和3年8月12日から15日にかけての大雨による災害対応に対して、
駒ヶ根市(伊藤祐三市長)より感謝状をいただきました。

被災した駒ヶ根市道新春日街道線(農道)に架かる新大田切橋について、
被災直後よりUAVも活用しながら被災の状況を確認し、
洗掘による橋梁への影響の有無を調査・記録するための緊急点検を実施しました。

当社は今後も、地域に根差した総合建設コンサルタントとして、
快適で安心・安全な暮らしに貢献してまいります。

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.39_アルゼンチン

森林紀行

筆者紹介




南米6ヵ国訪問(アルゼンチン)

【チリのサンティアゴからアルゼンチンのブエノス・アイレスへ】
 チリの首都サンティアゴでの仕事が終わり、次はアルゼンチンのブエノス・アイレスへ向かった。アルゼンチンへはパラグアイの調査をしている時に行ったことがあった。パラグアイに隣接するアルゼンチンのミシオネス州は当時(1980年以前)から植林や林産業も進んでいたので、パラグアイと土地条件が似たミシオネス州の森林や林産業の状況を調査することにより、パラグアイにも応用できるだろうと調査したものだった。パラグアイ側のエンカルナシオンという町から対岸のアルゼンチンのポサーダスという町にフェリーで渡り、アルゼンチンに入国したのだった。これについては、以前、この紀行文の「パラグアイ-造林計画編」で書いた。そういう訳で、アルゼンチンには既に足を踏みいれていたため、ブエノス・アイレスは初めて訪れるというものの、初めての土地という気はしなかった。

【機内からみたアンデス山脈】
 1987年4月10日に、サンティアゴをPA209便にて14:00に出発し、ブエノス・アイエスに15:30に到着した。この間の距離は1,140kmで時差はないので、1時間半のフライトだった。
 アンデス山脈を越えるときには、幾重にも重なった山並みが連なって見えた。地図でみるとこのルートの下には6,000m級~5,000m級の山がかなりある。例えばトゥプンガート山(6,570m)、プロモ山(5,430m)、マルモレホ山(6,108m)、マイボ山(5,323m)、ネバド・ピケネス(6,019m)などだ。氷河で削られた大きな谷のカール地形も見えた。このあたりの山はヒマラヤよりは2,000mほど低いが、同じく荒々しい。しかし、登山者はヒマラヤよりは少ないようで、登頂した人もきっと少ないだろうから登りがいはあるだろう。

手前の谷は大きく削られたカール地形
幾重にも山並みが連なるアンデス山脈

【着陸前の景色】
 アンデス山脈を越えたら、さすがにアルゼンチンの大草原、パンパが続いた。パンパがずっと続いていたが、着陸前のブエノス・アイレスに近い場所では農場である。防風林らしき植林地も見えた。

着陸前。パンパから農場へ。ブエノス・アイレス空港の近郊
ブエノス・アイレス空港の着陸前に見えた防風林らしき植林

【既にパタゴニアに行っていた同僚】
 さて、当時の私と同じ職場で、私より数年先輩の方が、その当時30才前後だったが、専門家としてアルゼンチンに派遣されたことがあった。我々は若かったが、その方は優秀だったので、その若さで、アルゼンチンの森林研究所に林業技術の指導のために派遣されたのだった。帰国後の話では、その方は、その時パタゴニアの森林も調査していた。残念。先を越されたと思った。前回のチリの調査でも書いたが、私は学生の時に「パタゴニア会」を作り、いつかパタゴニアに行きたいと思っていたからだ。その時、私はまだ専門家として派遣されるほどの実力を備えていなかったので仕方がないことだった。しかし、いつかパタゴニアに行こう、きっといけるだろうと思っていた。実際には今でも実現はしていないが。

【IFONA】
 ブエノス・アイレスで訪問したのはIFONAである。IFONAとはInstituto Forestal Nacional で森林研究所のことである。ここは、上述した同僚が派遣されていた研究所であり、その方と常時一緒に仕事をしていた女性の技術者がいた。その方は日本に研修にも来ていたことがあり、私も日本で会っていたので、ここアルゼンチンで再会できてとても歓迎してくれた。そこで、ここでの話は非常にやりやすかった。
 私にこの研究所の上席の研究者を紹介してくれた。この方にアルゼンチンの森林や林業の状況を聞き込んだが、この方の話によるとアルゼンチンにしてもこの当時はまだ森林の基礎的調査が全てできているわけではなく、森林分布や資源量といったものが、地域により把握されていないところがあるとのことだった。特にパラグアイと接する地域はチャコ地域と呼ばれ乾燥地帯であるが、未調査地域だった。この地域だけで、日本の森林面積と同程度の面積の森林があるが、森林内容は把握されていなかった。ここにはケブラーチョやアガローボという名の有用樹があるが、その資源量をアルゼンチン側としては把握したいとのことだった。その土地所有のほぼ1/3は国有地で、2/3が民有地とのことだった。この国有地の中にも農民が無許可でどんどん入植し、森林を伐採し、牧場へ転換しているとのことで、森林消失の圧力は相当に高いということだった。

【「ガウチョ(カーボーイ)」ツアー】
 日曜日に休日の牧場へ気晴らしに行った。ホテルで行っているツアーの一つで、昼にはアサード(焼肉)も食べられるし、ガウチョ(カウボーイ)と遊べることとのことで、きっと楽しいと思い選んだのだった。ところが、牧場の一か所でじっとして過ごしているだけで、退屈で面白くなく、やはりいろいろ動き回って沢山見学したいと思い、私も日本人としての習性が染みついていると思ったものである。しかし、この面白くなかったということが、印象に強く残り、34年経った今でも、鮮明に思い出せるのだ。面白くなかったことのご利益だ。
 朝9時にホテルを出発し、2時間ほどバスに乗り、郊外の牧場に着いた。ブエノス・アイレスの中心地からそんなに遠くに行かなくとも牧場は広がっているのに、何故かかなり遠くまで行った。100km以上は中心街から離れていただろう。
 着いてから、あとはすることがなく、昼食でアサードを食べたり、食べている間に、テントを張った野外舞台でのダンスを見たりして過ごし、その後はカウボーイが馬に乗ってのパン食い競争のようなものを見たり、自分で馬にのって庭を散歩したりであった。すぐに飽きてしまい、ただボーと牧場内で昼寝をしているような状態だった。これがこちらの人には、それがリラックスできて良いのだろう。私は牧場風景もパラグアイの仕事で見飽きていた。それでも忙しく動き回っている日々から解放され、良いリラックスだった。午後4時頃再びバスに乗り、6時ごろにホテルに戻った。しかし、今思い出しても退屈なツアーだった。

ツアーで行った牧場
牧場内で他のツアー客と
牧場の野外テントの中で昼食を食べながら見学したダンス
ガウチョ(カウボーイ)が馬に乗ってのパン食い競争

【ブエノス・アイレスの町】
 ブエノス・アイレスは南米のパリだと言われていた。確かに、古いオペラ劇場(コロン劇場)などがある通りの外観などはそのような雰囲気を醸し出しているようだった。しかし、近代的な街に変身しているように思われた。

ブエノス・アイレスの町
イングリッシュタワー

 写真はブエノス・アイレスの町で見たイングリッシュタワーという名の時計塔である。これはアルゼンチンで起きた1810年の5月革命の100周年を記念してアルゼンチンのイギリス人コミュニティから送られたものとのことだ。しかし、1982年にアルゼンチンとイギリスはフォークランドで戦争に突入したので、それ以来イングリッシュタワーと言う名は変更され、単に記念塔と呼ばれているとのことだった。
 アルゼンチンの5月革命とは、南米のリオ・デ・ラ・プラタ副王領(首都はブエノス・アイレス)で起きた革命とのことで、この革命によりスペインから派遣される上流貴族の副王は廃止され、リオ・デ・ラプラタ革命政府が樹立され、アルゼンチンの独立の契機となったということだ。

【銀行の支店長等との会食】
 ある晩、当時ブエノス・アイレスに支店を持っていた日本の有名な銀行の支店長と商社の方達など6~7人で会食をしたことがあった。とても印象に残った会食だった。会食はこの支店長の方が全般的に話の流れを仕切っていた。私が感心したのは、この支店長の方の話がとても上手な上に、参加している皆さん夫々に上手に話題を振り分け、それぞれから話を引き出すのが非常に上手だったことだ。
 私はどちらかというと遠慮がちにしゃべるよりも聞き役に回っていたが、この時は、私にも上手に話を振ってくれ、皆さんと同じようにいろいろとしゃべることができ、皆さんも熱心に聞いてくれた。会食とはいえ、洗練されたその采配が大変に勉強になったことが強く印象に残っている。
 これ以後、私も大勢で会食をする時は、皆に気を配り、一人でかってにしゃべるばかりの人も時にはおとなしく聞き役にも回ってもらうよう、また遠慮がちの人にはうまく話しを引き出すよう、話を振り分けることが上手になったと思う。

【カミニート】
 せっかくブエノス・アイレスまで来たので、タンゴの発祥地カミニートに行ってみた。スペイン語でカミーノが「道」という意味で、カミニートはその縮小辞で「小道」という意味だ。ここはボカ地区というところにある。ボカは口という意味で、「河口」ということだ。ここはラプラタ河の河口だ。中高生の頃は何故か南米に憧れを持っていた。ラプラタと聞いただけで、心躍る思いがしたものである。実際にこのラプラタ側の上流地域のパラグアイで調査できたことは、ある種の夢を実現できたことであり、このことは既にこの紀行文で書いた通りである。
 さて、この河口は、ヨーロッパからの移民の到着地だったとのことで、この港町は、新天地を求めて来た移民者がひしめき、雑然とした港町だったとのことである。様々な国の人種が共存したため、いろいろな軋轢が生じ、そのフラストレーションのはけ口として、最初は男同士が酒場で荒々しく踊ったのが、タンゴの始まりとのことである。しかし、次第に男は女を求め娼婦を相手に踊るようになり、男女で踊るタンゴの原型が出来て行ったそうである。そしてボカ地区は、船乗り、移民者に加え労働者なども夜な夜な集まり、安酒場でタンゴを踊るようになったとのことである。
 ある晩、この一角にある有名なタンゴレストランに行ってみた。哀愁を帯びたバンドネオンの音、そしてその独特のリズムと踊り、女性は独特のスリットの入ったスカートを着て、足を振り上げたり、あたかも床に着く寸前まで体を倒しそれを支える男の踊り手など、とても印象に残っている。

カミニートの入り口のカフェー・バー
河沿いの店
壁に描かれた絵画、その前で売られている絵画
ボカ地区のラプラタ河の河口
ここで釣れた魚

【アルゼンチンのカフェー・バー】
 また、ある晩、まだ宵の口だったが飲みに行った時に、できるだけ安全で健全そうな店を選んでカフェー・バーに入った。中にはテーブル席とカウンター席があり、カウンター席に座った。カウンター内では数人のウエイトレスが働いていた。その中の一人が「あなたどこから来たの?(ちゃんとした意味は、どこの出身なの?)」と聞かれ、私は「チリから来たよ。」と言った。相手は、「チリ人だよ。」と解釈したはずである。だから「違うね。あんたはチリ人じゃあないね。あんたにはチリ人のなまりがないもの。たぶんボリビア人だと思うね。あたっているでしょ?」と言われた。「残念でした。違うよ。私は、本当は日本人だよ。今回は仕事で、東京を出発してから南米の各国を回って、最近チリからアルゼンチンに来たんだよ。」と、私は、この時、初めて自分のスペイン語がネイティブと間違えられるくらいうまくしゃべれるようになったんだなとうれしく思った。ボリビアは先住民の比率が高いので、祖先がアジア系で日本人に似たような顔の人も多いのだ。そんなことがあり、話が弾んだ。この一晩で私のスペイン語は随分とレベルアップしたと感じたものだった。

【帰国】
 この時は予定していた6ヵ国の訪問が終わり目的も達成できたので、帰国することにした。この当時、日本はバブルの最中であり、世の中全体に余裕があったようで、私も自由に動かせてもらいとても良い経験となった。この後バブルがはじけて日本全体が大変な状況に陥ったのではあるが。
 帰国は1987年4月16日にブエノス・アイレスを20:00にAR332便にて出発し、ニューヨークに向かった。途中リオデジャネイロとマイアミでトランジットで降りたので、空港でお土産を買ったり、コーヒーを飲んだりしてリラッックスできた。ニューヨークには翌日4月17日の午前11時に到着した。一人だったので、ニューヨーク市内も何回か見学しているので、一泊せずにそのままJL005便に乗り継いだ。ニューヨークを13時半に出発し、翌日4月18日の16時半に成田空港に着いた。やはりブエノス・アイレスから成田まで3回のトランジットはあったものの出発してから24時間以上のフライトはとても長かった。余裕があったのだから一泊しニューヨークで疲れを取っていけば良かったと後で思った。とにかく仕事も終わり、無事帰国できた。これで南米6ヵ国訪問の話は終わる。


つづく

11月の駒ケ岳

社窓
2021年11月の駒ケ岳

紅葉真っ只中!!
前回10月21日の社窓の写真と比べると、一気に秋が深まったのがわかります。

新型コロナウイルス感染症の拡大も止まり、落ち着きをみせてきている中、
紅葉が見頃を迎えています。
まだまだ油断はできませんので、しっかり対策をしつつ出かけたいと思うところです。

紅葉がすすむと、今度は冬がやってきます。
スタッドレスなど冬への備えも万全に。

2021年11月の南アルプス


2021年の初冠雪

社窓
2021年10月 初冠雪の駒ケ岳

中央アルプス、南アルプスともに、10月20日に初冠雪となりました。

昨年より2日ほど遅いものの、ほぼ平年並みとのことです。

先週までは25℃近い、夏のような気温でしたが、
一転、一桁台の冬の様相となりました。

これから、里の秋も深まっていきます。

2021年10月 初冠雪の南アルプス

10月の駒ケ岳

社窓
2021年10月の駒ケ岳

中央アルプスの紅葉もすすみ、山肌も紅く色づいてきました。

さて、全国に発出されていた緊急事態宣言、まん延防止等重点措置が一斉に解除となりました。
これで感染拡大前と同様というわけではありませんが、
少しは気分が晴れる気がしています。

とはいうものの、これまでも解除して2週間しないうちにリバウンドして再拡大となりました。

今年の東京都の緊急事態宣言をみると、
1月 8日発出 → 3月21日解除
4月25日発出 → 6月20日解除
7月21日発出 → 9月30日解除
(緊急事態宣言と緊急事態宣言の間はまん延防止等重点措置)
ホッとしたのも束の間、1か月で逆戻りとなっています。

引き続き感染対策に努めながら、
今回こそ、感染増加とならないことを祈ります。

2021年10月の南アルプス



出来上がり

ゼンシンの日々

知人にとても立派な栗をいただいたので頑張って【渋皮煮】を作りました。

できあがり1

もうひとつの出来上がり(注:栗のせいだけではありません!)

できあがり2

食欲の秋ですが、食べ過ぎに注意しましょう(- -;)

9月の駒ケ岳

社窓
2021年9月の駒ケ岳

東京オリンピック2020、東京パラリンピック2020も賛否あるなか閉幕を迎え、
季節は晩夏から秋へと向かいはじめました。

果物やキノコなど秋の味覚の出足もまずまずとのこと。
楽しみな季節となってきます。

さて、お盆には梅雨の終わりのような形での大雨があり、各地に災害をもたらしましたが、
台風や秋雨前線による降雨がこれから予想されます。

コロナ禍による緊急事態宣言により例年行われる防災訓練が中止となった自治体も多いようです。
各家庭でいざという時の行動をどうするか確認をしておきたいところです。

2021年9月の南アルプス

【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.38_チリ

森林紀行

筆者紹介




南米6ヵ国訪問(チリ)

 パラグアイの仕事が終わり、次はチリに向かった。チリは始めて訪問する国だったのでいささかワクワクしていた。どんな国でもそうだが、初めて訪問する国はワクワクするものだ。初めていった国で実際に自分の目で見た印象は、事前に調べていたことや人から聞いていたこととは、全く違うことが多かった。そこでここでも中学校で習った英語の「Seeing is believing.」を思い出していた。「見ることは信ずることだ。」が直訳だが、ことわざとしての「百聞は一見にしかず。」に相当する訳は、今ではなんとなく分かるにしても、中学のころは百聞という文章が入っていない文章をなぜそう訳せるのか分からなかったことも思い出していた。白紙の状態で、自分の目で見て、その国の印象を受け止めるのが自分なりの正しい評価を得られると経験上思うようになってきたころである。まさに「Seeing is believing.」である。
 さて、アスンシオンのホテル内山田を9時に出発して、空港に9時半に着いた。チリ行きの便はAF209で、11時15分発だった。わずかに遅れて11時25分に出発し、チリの首都サンティアゴに予定通り14時25分に着いた。

アコンカグア
 アスンシオンからアンデス山脈を越えるときには雪をかぶった山が良く見えた。このルートはアスンシオンから南西に向かって飛ぶが、サンティアゴの北北東のアルゼンチン側には南米の最高峰アコンカグア(6,960ⅿ)が見えるのではないかと思っていた。私が若いころまでは地図には7,000ⅿをわずかに超える高さが表記されていたが、その後正確に再測量され正確な標高6,960mとなったのだろう。南米には7,000ⅿを越える山があるのだ、一体どんなところだろうか、ヒマラヤと変わらないのだろうか、いつか登ってみたいものだと高校生くらいの時は思っていた。因みにアコンカグアとは先住民の言語で、「雪の山」という意味と「岩の番人」と言う意味があるとのことである。種族により同じ発音で意味が違うのであろう。
 7,000ⅿを下回ってしまったのは残念だったけれど、学生の時にも、岩波新書の「パタゴニア探検記」を読んでパタゴニアに行きたい、アコンカグアに登りたいと思い、友人達と「パタゴニア会」を作ったりしたものだった。どちらも実現する前に老いぼれてしまったようだ。しかし、この時はアコンカグアの頂上と5kmくらいまでには最接近しただろうし、パタゴニアには自分なりにはかなり近づいたと思った。コロナ禍が収まれば、パタゴニアツアーなどには参加できないとも限らないからパタゴニアに行く機会はまだあるかもしれない。この夢は強い意思を持てば、物理的にはかなえられる夢であるが、この種の夢をいくつか叶えてきた今となっては、夢は夢としてずっと持ち続けている方が楽しいと思う今日この頃である。
 それはそれとして、ちょうどアンデス山脈の上空を飛んだ時に撮った写真は、ネットの画像などと比較して、アコンカグアだと思われる。

34年前のアコンカグア
アンデス山脈

チリの関係機関
 サンティアゴに着き、翌日から関係機関を訪問し、様々な調査を行った。当時チリの森林は、農業省の下部組織のCONAF (Corporación Nacional Forestal国有林公社)という公社が管理し、それとともにもう一つ経済省の下部機関のINFOR(Instituto Forestal 森林研究所)が森林に関する研究機関とのことだった。現在はどちらも農業省の下部組織のようである。森林計画作りに関してはINFORが中心に行っていたので、まずは、INFORを訪ねた。森林情報をどの程度把握しているのか、どの程度の調査の能力があるかを探った。

INFOR(森林研究所)
 直接訪ねて行ったが、当時のINFORのDirector(所長)に面会でき、所長はチリの森林状況を説明してくれた。1987年当時のことであるが、それによるとチリには造林地が120万haあり、そのうちラジアータ松が90~95%とのことだった。2021年現在は造林地は拡大し、倍以上の250万ha程度存在するようである。たとえ人工林であろうとこの地球温暖化の時代、CO2の吸収源としての森林が増えることはうれしいことである。
 ところで、林地はすべて民有地で、国有林は国立公園だけであるとのことだった。そしてその管理はINFORが行っているとのことだった。INFORの主な仕事は国立公園の森林の管理だった。ただし、造林地は民有地であるけれども、その施業指導などは行っており、また、民有地では入植地での森林伐採問題があるとのことだった。実際に、様々な森林調査も行っていた。
 所長も最初は、我々が何のためにチリ国の森林の状況を調査に来たのかわからなくて、日本と一緒に仕事をしようなどということは考えたこともなかったようで、あまりやる気は感じられなかった。

日を改めての議論
 しばらく話しているうちに私が日本の森林や林業の状況などを説明し、人工林の管理としては、人工林密度管理図や収穫予想用なども作り、収穫時にはどの程度の材がとれるかどうかなども予想している、あるいは造林適地区分図なども作成されているというようなことを説明していると急に目が輝いてきて、「それは面白い話だ。私の国ではまだそこまで進んでいないし、私一人で話していてはもったいないし、理解できないこともあるので、専門の技術者を集めるので彼らと議論してもらいたい。」ということになり、3日後の木曜日に、日を改めて意見交換をしようということになった。
 そして木曜日になり、チリの技術者5人が集められ彼らを相手に様々な議論をした。チリは国土が南北に細長く、北から南に向かい14の州に分かれていて、やや南の州での天然林の再生の問題や入植地での森林管理の問題などがあることがわかってきた。
 天然林の再生問題は南緯35度~44度程度(日本でいうと東日本~北海道くらいの緯度)にはブナ科のNotofagusという優占樹種があり、これが有用樹なので、これらの分布や林分構造、特徴を把握し、Notofagusを中心とした天然林森林管理計画を作成したいという意向があった。ただし、民有林なので、政府としては補助金を出し、天然林の再生指導を進めたいとのことだった。
 入植地の問題は南緯45度付近であるが、この地区は人口が少ないので8年前から入植政策を取り、国有地を入植者に払い下げているとのことだった。森林を農地に転換させているので、より具体的に森林と農地の土地利用区分をはっきりさせ森林管理計画を作成しなければならないとのことだった。様々な問題が明らかになってきて、私もチリの森林問題が少しはわかってきた。
 最後に、チリの技術者の実力がみたいと思い、今日の議論の結果をレポートとしてまとめてくれるように頼んだところ、翌日、きちんとした、まとまりのある文章として提出されてきたので、チリの技術者の実力は高いと感じたものである。その当時一緒に仕事をしていた他のラテンアメリカの国では、いつになってもレポートなどは出てこないのが常だったので、きちんとしたINFORの対応に驚いたのである。
 しかし、その後実際に仕事をしたチームの話によると、INFORは研究機関のため共同作業技術者達は皆頭でっかちで、何をするにも議論、議論で体が動かず、現場調査がはかどらず、苦労したとのことだった。私もモロッコで同じような経験があり、これは異文化のぶつかり合いで、折り合いをつけるには、やはり議論をつくさなければならないが、いつまでも平行線になるので、結局、現地調査をしつつお互いのやり方を見ながら双方が納得し、頭の中で考えた方法を現地調査で解決していかなければならないだろうというのが私の今の結論である。しかし、チリ側にしても日本側も議論には妥協せずに頑固な技術者ばかりだなあと思ったことだろう。

首都サンティアゴ
 さて、首都のサンティアゴであるが、訪問した時はあまり天気が良くなく暗い感じで、明るい感じは受けなかった。また、南半球の4月は日本でいえば10月で、これから冬に向かう時期だったかもしれない。

サン・クリストーバルの丘
サンティアゴの市内
サンティアゴの市内
サン・フランシスコ教会

 サンティアゴの町にはサンタ・ルシアの丘とサン・クリストーバルの丘がある。この時にサンタ・ルシアの丘に行ったのだろうと思うが、サンチャゴの町が一望できた。見晴らし台のベンチには、若い男女がいちゃついていて、雇っていた車の40 代くらいの運転手が「ああいうのは、我々には関係のない若者の特権ですな。」と言っていたのを思い出す。私は当時37才だったが、私もそういう齢になってきたのだなあと残念な思いを自覚したのを思い出す。そしてチリの仕事が終わった後はアルゼンチンのブエノスアイレスに向かったのだった。



つづく

令和3年度優良業務ならびに優良技術者表彰

お知らせ

この度、
令和3年度 国土交通省中部地方整備局 優良技術者ならびに優良業務局長表彰
令和2年度 国土交通省中部地方整備局 天竜川上流河川事務所 優良業務所長表彰
をいただきました。

発注者様はじめ関係者の皆様に心より感謝申し上げます。
この受賞を励みとして、さらなる技術の向上に努めてまりたいと思います。

国土交通省中部地方整備局 優良業務技術者ならびに優良業務局長表彰

受賞技術者:原田東鶴
業 務 名:令和2年度天竜川水系7月豪雨災害緊急調査業務

表 彰 理 由:
災害発生に伴う緊急的な調査であったが、業務の目的をよく理解し、UAVを用いて適
切かつ迅速に、精度の高い測量を実施し、優れた成果をあげた。(天竜川上流河川事務所資料より)


天竜川上流河川事務所 優良業務所長表彰

受 賞 者:令和2年度 天竜川上流河川管理施設等監理検討業務PCKK・ゼンシン設計共同体
業 務 名:令和2年度天竜川上流河川管理施設等監理検討業務

表 彰 理 由:
河床洗堀の進行が推測される河床を対象に、3Dレーザースキャナーやナローマルチ計測などの技術を活用するなど、入念に現地調査を実施し、状況をしっかりと把握したうえで適切に評価を行い、良好な成果を取りまとめた。(天竜川上流河川事務所資料より)

長野県SDGs推進企業登録制度

お知らせ

この度、長野県SDGs推進企業登録制度に登録されました。
SDGsの達成に貢献できるよう、企業活動を通じて取り組んでまいります。

長野県SDGs_02-01山岳高原横

SDGs達成に向けた経営方針等

「知力の可能性、知能の発展性、知性の継続性をもって、卓越した技術力を結集したプロフェッショナル集団として常に社会に貢献し続けること」の経営理念のもと、社員一人ひとりが活躍できる場を創出し、その技術・知識を地域社会の発展のために提供していくことで、持続可能な社会の実現に貢献してまいります。

SDGs達成に向けた重点的な取組み

  • ICT技術を活用し、生産性の向上を図るとともに、高度技術を地域の発展のために提供してまいります。
  • ライフスタイルに合わせた働き方ができる体制を構築してまいります。
  • 環境の向上と保全に取り組むことで、地域のために貢献してまいります。
長野県SDGs推進企業登録証
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