4月の駒ケ岳

令和4年度がスタートしました。
桜も全国的には満開のところが多くなってきて、
信州でも南から開花が進んできます。
3月中には飯田お練りまつりが開催されました。
4月から5月にかけて諏訪地方を中心に各地で御柱祭が行われていきます。
長野市の善光寺では御開帳が始まりました。
どれも数えで7年に一度の開催ということで、
地元住民の方や関係者の方などはこの時を心待ちにしていたことと思います。
コロナ禍での開催であり、
制約も多い中で、様々な対策を施しているとのこと。
無事に開催されて、多くの人が訪れたり、参加できることを願うところです。

令和3年度 長野県優良技術者表彰
この度、令和3年度長野県優良技術者表彰におきまして表彰を受けました。
発注者様をはじめ関係者の皆様に心より感謝申し上げます。 今回の受賞を励みとして、さらなる技術の向上に努めて参りたいと思います。
委託業務 一般部門
受賞者 森村浩之
業務名 令和2年度 経営体育成基盤整備事業 宮の前地区 確定測量業務
表彰式(オンライン開催)
委託業務 若手部門
受賞者 羽生健志
業務名 令和元年度 防災・安全交付金(火山砂防)(重点)事業に伴う測量業務
表彰授与式(諏訪建設事務所)
3月の駒ケ岳

いよいよ春到来。
今年は比較的穏やかに暖かくなり、桜の開花も平年並みか平年よりやや早いとの予想。
とは言え、まだまだ寒い日もあり、
体調の管理には十分気をつけたいところです。
一方、世の中に目を向けると、
長野県においては、新型コロナウイルス感染症のまん延防止等重点措置が解除となったものの、
まだまだ感染の拡大は続いています。
また、世界情勢も非常に不安定になっています。
早く平和な日々が訪れることを切に願います。

2月の駒ケ岳

暦の上では立春を迎えましたが、まだまだ寒い日が続きます。
今年はここ2、3年と比べてだいぶ気温の低い日が多かったこともあり、
諏訪湖では御神渡りが早くから期待されました。
しかし、残念ながら明けの海の宣言となってしまいました。
新型コロナウイルスによるまん延防止等重点措置が長野県でも発出されました。
もしかしたら神様も人出が多くなること心配して遠慮されたのかもしれません。
早く、新型コロナ感染も明けてくれることを切に願うところです。

[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.1_清流に感じた多摩川
【はじめに】
地域探訪の小さな旅として、最初に、2021年12月初旬に歩いた多摩川周辺散歩について書いてみたい。新型コロナが出現する以前は、主に低山を登っていたが、新型コロナ禍となった後は、感染を避けるため交通機関を使うのを止めて、家から歩いていける場所を目的地として長距離散歩をすることにした。地域探訪といっても身近な場所である。しかし、身近であっても初めて歩く道は、無数と言っても良いほどあり、そこには何らかの発見があり、とても興味深いことが分かった。その後、緊急事態宣言が発せられ、その間は家に閉じこもってこの長距離散歩もやめていた。ところが、昨年(2021年)10月くらいから東京も感染者が激減し、交通機関の利用も心配なくなったので、電車に乗って行ける場所へ目的地もシフトし、長距離散歩を再開したものである。しかし、2022年になり、またオミクロン株が流行し始め、今後どうなるかわからないが、最近歩いたこの多摩川周辺の散歩を最初の地域探訪の小さな旅として書いてみる。
【コース】
今回のコースは、南武線の久地駅からか神奈川県(川崎市)側の多摩川沿いに登戸方面まで歩き、水道橋を渡り東京都に入り、多摩川沿いに二子玉川駅まで(狛江市と世田谷区)である。

【久地駅で待ち合わせ】
前日は雨だったが、この日は快晴の良い天気で幸いだった。いつも散歩する友人と南武線の久地(くじ)駅で、10時に待ち合わせた。10時少し前にお互いに久地駅に着いた。
【途中駅で偶然の出会い】
久地駅に行く途中、偶然なことに、府中本町の駅で、私が、国分寺でギターを習っている先生とばったりと出会った。そこから久地駅まで一緒に行った。近所とは言え、府中本町駅でばったり出会うのは、かなり低い確率であろう。
【久地駅から多摩川へ】
久地駅で友人と出会い、そこから多摩川に向かう。駅のすぐそばに寺院があった。天台宗の青龍山龍源寺で、保育園が併設されていた。いつもは寺院も見学していくのだが、この日は裏側を素通りして多摩川に向かった。

【向の岡工業高校】
多摩川に向かって歩いていくと、多摩川の沿いに神奈川県立向の岡工業高校がある。高校も目的地の一つだ。そして目的の高校に向かって歩いている時に周辺にある神社仏閣や珍しいものなども訪れるのだ。この高校のかなり広い敷地は、多摩川沿いだから取れたのであろう。

【きれいになった多摩川】
向の岡工高沿いの道路を渡ると多摩川である。ここから上流に向かい、登戸方面に堤防道路を歩いた。この堤防道路を、この時一緒に散歩している友人とはるか昔の若い時、川崎からこの堤防道路が終わる府中まで往復約40㎞を走ったことがある。懐かしい思い出だ。この日の、多摩川沿いは風が強く、寒く感じた。川沿いを離れて街中を歩くと日差しが強く暖かく感じた。

多摩川は私が高校生だった半世紀以上前は下流の堰などでは、泡が飛び交う汚染された汚い川だった。処理されない下水などが流れ込んでいたのだ。その後、環境規制が徐々に厳しくなり、汚染水が流れなくなり、今はきれいになり清流のように見える。冬なので微生物や水生昆虫の活動も不活発なこともあり、とてもきれいにみえた。
【多摩川にかかる橋や河川敷の施設】
向の岡工高からすぐに東名高速の多摩川橋をくぐる。そこから上流に向かって堤防の上の道路を歩く。走っている人やサイクリングをしている人も少なからずいる。自転車がかなりのスピードで追い抜いたり、向かってきたりするので危ない。時々チャリンとベルを鳴らすものもいて、ここは歩行者優先なのにとんでもない野郎だなどと友人が言う。遠くに小田急線の橋もきれいに見える。

しばらく行くと河川敷にフットサル場もある。サッカースクールなども併設されているようだ。
【多摩高校】
このフットサル場の町側には神奈川県立多摩高校がある。多摩高校の周辺を一周する。この高校の敷地もかなり広い。やはり河川に近いのできっと創立当時に敷地が広く確保できたのであろう。
都立にも多摩高校という名の高校があり、それは青梅市にある。同じ地名を取った学校ではあるが、県立多摩高校は多摩川の中下流で都立多摩高校は上流にある。こことは随分と遠くに離れている。


【宿河原の堰】
多摩高校から上流に向かって歩く。河川敷には縄文時代の遺跡もあるようだ。しばらく歩くと宿河原の堰がある。ここには沢山のシラサギがいた。コサギかチュウサギだ。宿河原の堰から取水して、ここから二ヶ領用水(宿河原用水)がスタートするとのことだ。江戸時代初期に農地に水を引いたそうだ。


【船島稲荷大明神】
宿河原の堰とほぼ同じくらいの位置の河川敷に船島稲荷大明神があった。鳥居の名前には「正一位稲荷大明神」と書かれてあった。治水興能の守り神だ。


【水道橋】
それから小田急の橋をくぐる。ここは登戸駅のすぐそばだ。それから少し上流に行くと歩いても渡れる水道橋がある。ここを渡り川崎市側から東京都側の狛江市に入る。水道橋の中間には東京都と神奈川県との都県境の標識がある。
ここには昔は、「登戸の渡し」があったそうだが、1953年(昭和28年)に相模川の水を都心へと送る「導水管」の建設の際に、道路と水道管の併用橋として架橋され水道橋と名付けられたとのことだ。その後、交通量の増加や橋の老朽化により、新たな橋が2001年(平成13年)にかけられたそうだ。橋の長さは約360mだ。



【都立狛江高校】
水道橋を渡った上流側には都立狛江高校があり、高校の周囲を回った。

【小田急線の和泉多摩川駅へ】
狛江高校から今度は下流へ向かって歩く。近くに小田急線の和泉多摩川駅があった。この駅の下のスーパーで昼食を買い、多摩川に出る。

【多摩川の河川敷で昼食】
多摩川の河川敷の緑地にベンチがあったので、そこでスーパーで買った昼飯を食べた。ここは多摩川緑地公園グラウンドだった。

【多摩川の川沿い】
天気が良いものの風が強いので、ゆっくりと川沿いを双子玉川駅まで歩いた。途中、警視庁の教育センター(白バイ訓練所)などがあった。
【駒沢大の玉川キャンパス】
東名高速の下をくぐりしばらく歩くと駒沢大学の玉川キャンパスがあった。相撲部という看板もあり運動場も見えたのでスポーツ専門の施設のように見えた。多摩川と玉川と二つの漢字があるが、その違いは、川を示す場合は多摩川で、この周辺は玉川という地名のようだ。


【双子玉川駅から帰宅】
その後、多摩川の河川敷には、ラグビー場や野球場など様々な運動施設があった。二子玉川駅に着いたらそこから溝の口駅まで歩く予定だったが、歩行数も3万歩も越えて、ここからの道路は交通量が多いので、この日の散歩はここで終わりにし、二子玉川駅から電車に乗り溝の口駅に出て、溝の口駅で友人と別れ、帰宅した。
【今回の小さな旅の感想】
今回一番印象に残ったのは、再発見ではあるが、多摩川がとてもきれいになったことである。多摩川がこれだけきれいになり下流の京浜工業地帯での大気も海も相当にきれいになっている。これならCO₂の排出も少なくなっているのではないかと感じるが、そうは問屋が卸さないのである。これは日本では巨大な火力発電所が石炭火力で動いていたり、車の総量が多いので、今のところはCO₂はなかなか減らせないのだ。日本も早く石炭使用から再生可能エネルギーへ、車もEVの製造過程ではCO₂排出を抑える方向でEV車へ早急にシフトすべきであろう。
これ以外に、東京は神奈川にも広々として気持ちよく散歩できる場所があることが発見できた。また、広い河川敷の土地利用には、様々な運動場やドライビングスクールなどもあることがわかった。
しかし、普段は穏やかな流れの多摩川ではあるが、2019年の台風19号では堤防を越水して洪水を起こしている。この洪水により下流のグラウンドや道路が被害を受け、復旧に1年以上も要し、時々参加していた月例川崎マラソンもその間、中止となった。
単純に考えても、普段、幅50ⅿで深さ1ⅿの流れが、洪水時には幅300ⅿ・深さ5mで、流速が10倍になれば、水量は普段の300倍にもなるのである。とてつもない暴れ川となる恐れがある。一部の地域では天井川になっているし、多摩川といえども、今後想定される地球温暖化による台風や豪雨が増加する影響下での治水は、より困難になるのではないかと思わされた。
【増井 博明 森林紀行No.7 アラカルト編】 No.40_ドミニカ共和国
筆者紹介

旅行-成田空港からサント・ドミンゴヘ(ドミニカ共和国)
はじめに
現在(2022年1月)、世界は依然としてコロナ禍にあり、自由に観光旅行はできない状況にある。昨年末には、デルタ株は一旦収まったかに見えたが、新たにオミクロン株が出現し、今後どのような状況になるか予断は許さないところである。現在でもビジネスなどで許可証持っている方は、旅行はできるだろうが、一般人の観光旅行は当分難しいであろう。私は仕事で海外に行っていたので、今では観光旅行を楽しみたい気分であるが、上に述べたようにいつになったら再開できるかは見通せない。そこで今回は、何回も往復した成田空港からドミニカ共和国の首都サント・ドミンゴヘの旅行を思い出し、旅行の楽しみ感や緊張感を書いてみたい。(カリブ海の国にはドミニカ共和国とドミニカ国があるが、以下ドミニカ共和国はドミニカと記す。)
今回書くのは、ドミニカへ2回目に行った時のことで、2007年6月2日(土)~3日(日)である。2011年の東日本大震災の4年前のことである。

経緯
ドミニカでのプロジェクトの団長をしていた同僚が、ドミニカの現地、パドレ・ラス・カサスという町の奥のペリーキート村という場所で、突然、不幸にも心不全で亡くなったため、急遽、私が派遣され、同僚をサント・ドミンゴで荼毘に付し、遺骨を持ち帰ったのが5月19日(土)だった。その後日本での葬儀を5月26日(土)に行った。プロジェクトの団長は、私が引き継ぐことになり、葬儀の手配や団長交代の手続きなどで、2週間があっという間に過ぎ去った。そして、早くもドミニカへの出発の日の6月2日(土)となったのである。このころはしょっちゅう海外出張だったので、海外用の荷物は、帰国したら衣類は洗濯をして、海外用の荷物として保管していた。そのため、同僚が亡くなった時も、翌日にドミニカに飛ばなければならなかったが、いつでも準備はできていたので、用意は楽だった。
成田空港へ
6月2日は、朝食後7時15分に家を出た。私の娘は勤めていたが、土曜日なので仕事が休みで、自転車の荷台に私のショルダーバッグを乗せて、自転車を押しながら歩いて駅まで見送ってくれた。そして最寄り駅から南浦和駅、上野駅を経て、京成上野駅からスカイライナーに乗り成田空港へ向かった。JALでニューヨークまで向かうので成田空港の第2ターミナルで降りた。着いたのは8時40分くらいだった。
前日家から送ってあった荷物を宅配のABCのカウンターで受け取り、すぐにチェックインした。大きなスーツケースを2つも持って行った。1つは自分のもの、もう1つは仕事用である。2週間前に行った時より空港は、大分すいていた。前回はできるだけ早くサント・ドミンゴに行くため、アメリカで一泊しなくとも行けるシカゴ経由で行ったが、今回はニューヨーク周りで行く。ニューヨーク周りだとニューヨークで一泊でき休めるので、体への負担は少なくなり、翌日から仕事をする上でも一泊していったほうが効率的で、楽だった。
成田空港の土産物売り場で、ドニニカの仕事先のお偉いさんやカウンターパート(共同作業技術者)用に沢山のお土産を買いこんだ。それで空のリックサックが一杯になった。通関してアメリカンエアラインのラウンジに入った。この時は、JALのラウンジがリニューアルの最中で使えなかったため、アメリカンエアラインのラウンジが代わりに使えたのだ。なにしろこの頃は、沢山の仕事を持っていたので、ラウンジに入ってすぐに勤め先に電話し打ち合わせをしたり、家族に電話をかけているうちに11時半になってしまい、飛行機に乗るようにとのアナウンスがあった。
ラウンジでコーヒーを飲んだり雑誌を見たりする暇がなく、あわただしく、観光旅行とはかなり違うかなというところだった。ただし、わずか2週間前であるが、前回行ったときは、亡くなった同僚の家族を引率しての重い気持ちを引きずりながらの旅だったので、その大変さを思い出すと、この時のフライトは、かなり落ち着いて行くことができた。


機内
飛行機は定刻の12時15分に飛び立った。ニューヨークには時差の関係で同日の11時半に着く。約13時間のフライトだ。出発した時刻よりも早い時刻に着くので、時差がなければ過去への旅となる。帰りは偏西風の関係で約14時間半かかる。これは未来の1日を失う旅だ。この路線がフライト時間は一番長いであろう。この機内での半日の間は仕事を忘れて一番リラックスできる時間だった。ニューヨークから先のフライトは、目的地が近づくので、つい仕事を考えてしまうからだ。
乗ってしばらくすると飲み物のサービスがあり、それから食事となる。缶ビールを1本か2本飲んで、ワインを飲みながら食事をする。昔は和食を食べていたが、この頃はだいたい洋食で魚よりも肉系を好んで食べていた。それは色々食べて肉系が私には一番おいしく感じられたからだった。
その昔は、映画も大きなスクリーンで皆で見ていたので食事の時は、隣の人との会話も楽しんだものだが、映画も個別に見るようになってからは、イヤホーンをしている人が多く、話しかけられなくなり、会話も楽しめず、フライトでの面白みが一つ減った。
機内を前から後ろまで、エコノミークラス症候群にならないように、時々歩き回った。ジュースやスナックなどが置いてある場所では、そこにいる人と良く話をした。アメリカへ向かうのでアメリカ人も多く、英語慣らしに良い準備ともなり、頭は日本語から英語もOKに切り替わる。英語の客室乗務員には、休んでいる時に、水やビールをもらう時の英語も、最初のころは「Water, please.」と言っていたが、だんだん丁寧になり、「Can I have water?」とか「May I have another beer?」とか言うようになっていった。
13時間のフライトはかなり長く、映画を見たり本を読んだりだった。最初の食事をとった後にすぐに眠れて、次の着陸前の食事の時に起こされるくらいの時はとても調子が良いが、眠れないと着いてから余計に眠いので、できるだけ眠れるのが良かった。
ニューヨークへ到着
さてこの時は、ニューヨークにも予定どおりに同日の11時半に着いた。この時は、降りてからはラッキーだった。前の便の到着客がいなく、すぐに通関できた。到着便が多いと入国審査でパスポートチェックなどに手間取り、多くの人が列をなして待っており、ひどいと2時間も待たされることがあったからだ。荷物を取って、予約してあるホテル・ヒルトンニューガーデンへ行く。ここへ行くには空港内を回る電車で二駅くらい乗ったところにホテルのシャトルバスが付く場所があり、そこで待っていると15分~30分おきくらいにシャトルバスが来る。
ここは前回泊まったホテルと同じだったから気が楽だったが、一人で旅をしていると、時々これで良いのか不安になったりする。それに大きなスーツケースを2つも持っていて一人だと、トイレに行くのにも容易ではない。この時は昼間だったから良いが、夜で真っ暗であたりが見えなく、初めての場所だと、シャトルバスがちゃんとくるかなとか不安になる。幸いにも何のトラブルもなくホテルに着いた。

ホテルにて
前回の帰りに泊まったホテルである。ホテルには午後1時くらいにチェックインできた。同僚と一緒に来ていればマンハッタンあたりまで行って、見学しても良いが、一人で行って何かあると嫌だし、日本から出発して徹夜状態なので、眠いけれどビールを飲んでからぐっすり眠ろうと、ホテルの売店で小瓶のビールを1本買ったら7ドル(840円:この当時の円ドルレートは120円)もし、あまりに高いのでびっくりした。
それでビールを飲んで、うつらうつらしながらベッドに横になったら、ブレザーもズボンのそのままで眠ってしまい、気が付いたらもう午後の8時だった。起きていた方が良かったかもしれなかったが、それからレストランに行き食事して、戻ってからまた眠ってしまった。時差で気持ち良く眠れた。出発前の2週間が、ずっと忙しかったので、これで疲れも取れるだろうと思った。
JFK空港へ
翌6月3日(日)は、午前6時に朝食を取った。12時間くらい寝たので、目覚めはばっちりだった。7時30分のシャトルバスで空港ヘ向かう。バスに乗ってからスーツケースに巻くベルトをホテルに忘れたことに気がついた。前回、帰国時に同じホテルに泊まり、ホテルからJALの乗り場まではシャトルバスで5分ほどと近かったので取りに戻ろうと思ったが、今回はJALの乗り場も過ぎ、次々と色々な国のエアラインの乗り場を止まって行く。アメリカン航空までシャトルバスで30分もかかったので、取りに行ったら乗り遅れる可能性もあるので、取りに行くのはあきらめた。

チェックイン
8時過ぎに直ぐにチェックインできた。大きなスーツケースを2つ持っていても規定内の大きさと重さで超過料金も取られることはなかった。アメリカはこういう点は厳しくチェックされる。ここでもアメリカンエアラインのラウンジで休むことができた。ここに入っていれば何かと安心で、リラックスできた。
機内にて
飛行機は午前10時前に離陸した。飛行時間は3時間半ほどだった。機内はスペイン語が飛び交いすっかりドミニカの雰囲気だ。スペイン語慣らしに隣の席の人話をする。頭は英語からスペイン語もOKに切り替わる。
ここでもしばらくして食事がでる。いつも中継地から目的の国までの飛行の時は、アルコールは飲まない。到着した時に、何かトラブルがあった場合に頭が働かないと困るからだ。数え上げれば切りがない。荷物が着かなかったこと、日本から持ってきた機器が通関できず保税倉庫行きになったこと、お土産も取り上げられたことなどだ。その都度、どうやって取り戻すか頭を悩ましながら交渉しなくてはならない。
食事が終われば、自然と頭は仕事で、一杯になってしまう。明日のアポイント先の面会予定者ごとに話す内容を反芻し、こういう質問にはこう返すと言った想定問答も繰り返している。その後の予定はどうなっているか資料を引っ張りだし、読み返す。資料は日本語だが、それを訳したスペイン語も読んでいる。段々とプレッシャーがかかってくる。いや、自分でプレッシャーをかけ過ぎていたのだろう。
さて、飛行中、今までも何回も上空を横切り、降りたことはないキューバを見た。南米に行くときは、続いて、今回の目的地のドミニカやハイチを見ることもあった。午後1時半に予定通りサント・ドミンゴの空港へ着陸した。
到着
やっとサント・ドミンゴの空港だ。日本を出発してから丸1日以上経過しているからかなり長時間のフライトだった。幸いこの時は何のトラブルもなく通関できた。荷物を持って外に出るとプロジェクトのメンバーと運転手との2人が出迎えてくれた。

海岸線の通り
強烈な太陽だった。空港から街中のホテルまでは約30分かかり、海岸線を走った。夜は、治安が悪い場所だと言われているが、昼間は大丈夫だ。前回は余裕がなかったが、今回は、周りをよく見れば、強烈な太陽の下、真っ青の海が見え、とても風光明媚で、カリブ海の景色は素晴らしいところだなと思った。



別な時期の夕方
ホテルや街
サント・ドミンゴの街に入り、この辺りでは、やや高級なホテル・サント・ドミンゴへチェックインする。前回も泊まったホテルで、その後もサント・ドミンゴでは常泊としていたホテルだ。建物は古いが、一人でいるには部屋はかなり広く居心地が良い。



この日は、日曜日。ホテルで落ち着いてからしばらくして、近くのスーパーマーケットに買い物に出かけた。暑くて外に出ると汗が噴き出る感じだった。ただし、ホテルの周りでも治安が悪いので、出かける時はいつも車だ。もちろん運転手が待っている。行った先は、巨大なショッピングセンターで、ここで必要なものは何でも手に入るのだった。ホテルに戻ってから、同僚に仕事の状況はどうなっているか、ずっと説明を受け、明日の月曜日からの仕事に備え、急ピッチで準備を進めるのであった。
観光旅行気分を味わおうと往きの旅行時のことを書いてみたが、書いてみるとやはり仕事の旅行になってしまい、開放感が味わえないなあと思ったが、致し方がなくご容赦願いたい。
つづく
1月の駒ケ岳

新年あけましておめでとうございます。
皆様にとって本年が佳き年となりますようお祈り申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。
本年の十二支は寅(虎)、 干支は「 壬寅 」 。
「寅」という字は「家の中で矢をまっすぐに伸ばす様子」表したものであることから、
“まっすぐに伸ばす、引っ張る”の意味から“動き始め、胎動”を意味するようになり、
そこから転じて、
昨年の「丑」の「種子の中で 曲がった芽が 殻を破ろうとしている状態」から、
今年の「寅」は「根や茎が生じて成長する、草木が伸び始める状態」を意味しているともいわれています。
「壬」は「妊→生まれる」の意味、
また、十干の9番目にあたり、次の命を育む準備の時期を表すともいわれています。
二つの組み合わせである「壬寅」は、
正に、「生まれたものが成長する」「新しく立ち上がる」といったことを表しているといえます。
コロナ禍の厳しい冬を超え、新たな成長の年となることを切に願うところです。

東山ブルー
本格的に雪が降り積もる前でCOVID‑19〈δandο〉の状況を鑑み、「東山魁夷 唐招提寺御影堂障壁画展」観覧に長野県立美術館〔NAM〕(旧信濃美術館)に出掛けました。 二十数年前の1998年6月に奈良を訪れた際、思いも寄らず唐招提寺「鑑真和上特別開扉」で御影堂を拝観する機会を得て、そこで目にした障壁画を再び長野で観られる事と、改築なったNAMの見学を目当てに長野市に向かいました。

Part1 障壁画展は御影堂の内部を部分的に再現し、全68面の障壁画が公開されているとの事です。以前に観た時は、混雑するなか畳上から立った姿勢での目線でしたが、今回は正座して観る目線の高さに展示されています。再現した“宸殿の間”にある「濤声(とうせい)」は印象深く、波が大きく打ち寄せる海景のスケールは圧巻で、画伯の静謐な“青”とは違った、穏やかな“緑青”の世界に魅了されます。鑑賞後は、二十数年前の記憶の欠落部分が補完されたような安堵感も漂いました。

Part2 NAMは長野県信濃美術館が改築され、2021年4月にオープンしました。旧館は建築家 林 昌二氏(日建設計)が手掛けた双曲放物面シェル構造が特徴的な建築でした。新館は建築家 宮崎 浩氏(プランツアソシエイツ)がプロポーザルにより選出されました。(安曇野高橋節郎記念美術館が同氏の作品です)また、NAMに先立ちリニューアルされた東山魁夷館は、世界で最も美しい美術館をつくる建築家と言われている谷口吉生氏(谷口建築設計研究所)によります。

現在、高台にある城山公園が臨時駐車場であるため、施設へのアプローチは3階からとなりました。3階エントランスの「風テラス」からは、善光寺を望む絶好の眺望が楽しめます。周辺一帯も整備され、善光寺との回遊性も増し、明るく開放感のある建物となっています。

Part3 館内スタッフユニフォームは深いブルーで、「マメクロゴウチ」の黒河内真衣子氏(伊那市出身のパリコレデザイナー)の手によるものとの事です。似合う人もいましたが・・・。
という事で、暗くなる前に当地を後にして家路につきました。
12月の駒ケ岳

今年もあと残すところ僅かとなりました。
一旦は終息への気配を見せており、
徐々に外出なども増えつつあったところへ、
新たな変異株による感染拡大が世界中で報告されてきている昨今。
昨年と変わらずコロナウィルスに振り回されています。
さて、毎年、公益財団法人 日本漢字能力検定協会が発表している「今年の漢字」。
いくつか予想をしてみました。
金・・・オリンピック開催年恒例。今年はイメージが薄いか。
災・・・コロナ禍が続く。災害等のあった年の定番。
変・・・変異株。コロナ禍での生活様式の変化。
禍・・・コロナウイルスが流行るまではほとんど使うことが無かった字。
なんか、あまり良い字が思い浮かびませんでした。
もっと前向きな漢字が思い浮かぶような世相となることを期待します。

現場にて

日に日に寒くなってきましたが、
深まる秋の景色を楽しみながらの現場です。

橋の部材(高欄)の状況を撮影した写真なのですが、
バックの紅葉の主張がかなり強いです。
紅葉をみて癒しを感じる齢になりました。