9月の駒ヶ岳

社窓


9月の駒ヶ岳

お盆から続いた梅雨のような天気も一段落。

今年は、夏らしい天気があまり無いまま、秋を迎えてしまった感じがしています。

米の作況などは少々心配されるところです。

 

気象庁発表の3か月予報では、

9月 平年に比べ曇りや雨の日が多い

10月 平年に比べ晴れの日が多い

11月 平年に比べ晴れの日が多い

となっています。

 

秋は、運動会、文化祭、秋祭りなどイベントが沢山あり、野外での活動にはちょうど良い気候となってきます。

夏らしい夏でなかった分をこの秋に取り戻したいところです。

 

[南アルプス]

20140906minami.jpg

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.5

森林紀行

様々な情報

様々な情報

日本の原発事故への反応

フランスのテレビのニュースでは相変わらず、日本の原発の状況ばかり流している。爆発したときの映像は、これでもかこれでもかと何回も流されている。世界を震撼させた大事故だから当然と言えば当然である。

原発事故情報は、私だけでなく、Mさんも知人などから続々とメールで送られてくる。空からヘリコプターで水をかけたとか。まさに「2階から目薬」ということが、実際にあるということを証明してくれた。そして大はしご車や消防の決死隊による水かけなど、外からみていると日本沈没というような感じを受けた。そしてMさんはホテルの女子従業員から、日本はまた世界を放射能汚染させたと文句を言われたとのことだ。

ブルキナ・ファソ5-1.jpg

ホテルの借家から

コートジボワールの内戦

原発事故からしばらくして、隣国のコートジボワールが内戦状態となり、フランス軍が介入したので、ニュースの主体は原発事故からコートジボワールの内戦に移った。おかげで、おかしなことながら原発事故からは多少は目がそれてややほっとした。しかし、コートジボワールの国境まではここバンフォラからは60kmくらいである。内戦は実質の首都のアビジャンだから、ここからは600km以上は離れているので影響はないと思ったが、コートジボワール人の多くが国境を超えてブルキナ側に来ているということだった。それで、治安にはいくら慎重になってもなり過ぎることはないと思った。

このコートジボワールの内戦では前大統領のバグボ側は、フランス軍などの攻撃を受け2011年4月5日に戦闘停止を表明し、バグボは降伏したが、その後の投降を拒否した。そうしたことから4月6日に現大統領のワタラ側の部隊が、バグボが潜んでいるとみられる大統領公邸を急襲した。この日にはアビジャンにある日本大使公邸もバグボ側から襲撃される事件も発生し、日本の大使らは、地下室に隠れフランス軍に救出された。その後ワタラが正式に大統領となり、今のところ平和的に安定しているようである。

団長は、この日本大使と面識があり、アビジャンの日本大使公邸襲撃事件を非常に心配していた。

また、後に述べるが、コートジボワールの前大統領のバグボが引きまわされている合成写真を、辺鄙な村の村人までが持っていたことに驚かされた。

事務所での最初の仕事

Mさんから仕事の引き継ぎ

我々日本人スタッフはプロジェクトを運営管理していくのが仕事であった。事務所での最初の仕事は、プロジェクトの資金管理や地元のNGOや技術者と契約する仕事であり、Mさんからそれを引き継いだ。例えばシアバター製造の研修を村人に行うような場合、ブルキナの経験豊かな人を研修講師として雇い、その人と契約するための事務である。プロジェクトの運営資金の管理も重要であり、その管理方法を引き継ぐことであった。それはMさんが帰国するからであった。

ブルキナ人の技術スタッフを3人、秘書1人、運転手2名、それに10人ほどの村での活動をモニタリングする技術者を雇っていたので、それらのスタッフへの給料の支払いなどいろいろと細かいことを引き継ぐ。

これらは仕事を行う上で必ず発生する事務で日本では分担業務がなされているが、プロジェクトでは日本人メンバーは何でもこなさなければならないオールラウンドプレーヤである。事務は事務として、またプロジェクトが目的とする住民自身にどのように森林を管理してもらうか、あるいは住民や森林官の能力を向上させるには、どのような活動を行っていけばよいかアイデアを出して行かなくてはならず、現在までの活動状況をMさんから詳しく聞き、今後の方向を打ち合わせる。

ブルキナ・ファソ5-2.jpg

プロジェクト事務所前にて

団長のグッドアイデア

そしてこれは団長のアイデアで予算化できたものだが、ブルキナ側の公務員である森林官は給料がとても安いということもあり、ブルキナ側では我々の活動に参加させる費用がないということだった。技術移転の対象者であり、彼らの森林管理の能力の向上を図るには、活動に参加させるしか方法はないのである。しかし、日本側も公務員であるカウンターパート(共同作業技術者)に支払う資金は予算化ができないのであった。そうは言っても食べるのに精一杯で、バイクのガソリン代などの交通費も自前で払えないという状況であれば、何がしかの参加費を支払わなければ参加できないのは当然であった。

我々の活動は村人の能力を向上させ、村人が自ら指定林(国有林)を管理できるようになるということを目標にしていたから、森林官には村で様々な研修、例えば苗木作り、植林、放牧管理などの講師をしてもらうことにして、講師料を支払うという形で予算化ができ、これで彼らもプロジェクトに参加することが可能となり、この問題が解決できたのだ。これでプロジェクトがスムーズに動き始めた。これは団長のグッドアイデアであった。

暑さ

ここの暑さにはまいる。直射日光は刺すような厳しさだ。昼飯を銀行などがある地区の「カムー」という食堂に、初めてMさんに連れて行ってもらった時に、ブルキナの今と日本の夏とどちらが暑いかという話になった。日本の夏も暑い日は40℃近くある。しかし、ここでは40℃をかなり超えているのではないかと感じる。日本は湿気が高いが、ここは少し湿気があるが、日本ほどではなく乾燥しているので、焼けるような暑さである。それに食堂「カムー」のトタン板から熱気が降りて来て、めまいがしそうなほどである。そんなことで日本は湿気の不快さでまいるのであって、結局、暑さはブルキナの方が暑いだろうという結論となった。

ブルキナ・ファソ5-3.jpg

事務所の前の道をゆっくりと歩く人々

兵士の反乱事件

一旦バンフォラからワガドゥグへ戻る

共同作業を行う技術者達とうまくやっていけそうだと思えたのと事務所の状況やプロジェクトの内容も概ねつかめ、また自分の生活基盤も確かめられたので最初のバンフォラ行きはとても良かった。

そして、一緒にブルキナに来る予定だった団長は、地震の影響で仕事道具が成田空港に間にあわず、一旦飛行機をキャンセルすると今度は原発事故の影響でフランスへ避難する日本国内の多くの外国人の予約が殺到し、飛行機のチケットがなかなか取れずにいた。しかし、ようやく席が確保でき3月22日(火)にワガドゥグに到着となった。

私は打ち合わせや出迎えのためワガドゥグに戻った。今度は運転手のダウダと一緒だ。3月22日、朝7時半にダウダと二人でバンフォラを出発し、途中ボロモで遅い昼食を取り、ワガドゥグには2時半に到着した。食事を1時間として約6時間かかったから平均時速は約70kmだ。ホテル・クルバにいるSさんとまず、打ち合わせる。Sさんは苗木のプロジェクトで、この日はこれから北部の町にでかけ、今晩はそちらで泊まり、明日の夜帰るとのことである。

ブルキナ・ファソ5-4.jpg

バンフォラとワガドゥグ間にあるボボジュラッソの踏切。

手動で遮断機を移動する

嵐の前の静けさ

不幸中の幸い

何が幸いするかわからない。これから起こる軍の兵士の反乱事件にメンバーの女性達が巻き込まれなくて良かった。Sさんは地方出張ということとMさんはバンフォラに残って仕事をしていて、ワガドゥグにいなかったことは何はともあれ幸いであった。Mさんは団長との交代で日本に帰国する予定であるが、仕事の関係で、ワガドゥグに上がるのは一日遅れとしたのだ。本当にこれは不幸中の幸いだった。

ワガドゥグの空港に出迎えに

3月22日午後6時頃に空港に団長を出迎えに行った。いつものように飛行機は1時間ほど遅れ、午後7時にワガドゥグに無事到着した。団長が空港ビルから出てくると、ほんの数ヵ月日本に帰国していただけなのに、何年か振りかで会ったかのようにダウダが喜んだ。空港からホテル・クルバまでは、車で5分ほどですぐ近くだ。団長がホテルにチェックインした後、打合せを兼ねて一緒に夕飯を食べに行った。何しろとてつもなく暑い。湿度は日本より少し低いくらいで、夜でも気温は40°だ。

夕食に外出

ホテルから歩いて2分くらいのところのいつもの地元料理屋に行った。あまり清潔とは言えない。我々からするとかなり不潔に見えるが、歩いていけるところにはこの程度の食堂しかない。少し遠くなると歩くのは危険度が増すから、車がない場合できるだけ近いところにしか行かない。

地元料理のリーグラを食べる。リーグラとはフランス語であり、リーは米、グラが油で、ご飯を油で炊き、その上に多少の肉か魚、場合によっては野菜が乗っている料理とも言えないような料理である。だが、西アフリカでは後に紹介するスンバラという調味料を使っているので、やや酸っぱく、独特の風味を引き出している。私はセネガルで似たような味のチェブジェンをいつも食べていたので懐かしい味である。

それを食べながら仕事の話をした。団長も長旅で疲れているのでホテルに早々に引き揚げた。9時ちょっと前くらいだった。

ホテル・クルバ

ホテルの部屋はブルキナ(フランス)方式でいうと2階であるが、日本でいうと3階である。団長は常連であるので、ホテル側が大通りと横道とが見えるスイートの一番良い部屋を用意していてくれた。一番良い部屋といっても先進国の一流ホテルと比べると作りは格段に落ちる。作りは三流でも値段は一流いったホテルである。しかし、ブルキナではこれでも1.5流くらいのホテルである。経営者はレバノン人で、一階は受付けで2階からが部屋となっている。今日はいつも団長が泊まるキッチン付きの部屋が満員で取れなかったのである。

ブルキナ・ファソ5-5.jpg

ホテルの前の横道の通り。店屋が多く並び、にぎやか

若い兵士の反乱

銃声

それは、夜の11時過ぎであった。遠くで銃声のような音がする。耳を澄ませて聞くとどうも多数の機関銃が発砲されているようである。私は、これは大変なことが起きているのに違いないと思った。銃声は段々とホテルの方に近づいてくる。こちらにこないことを祈りつつ、非常な恐怖感を持った。万一流れ玉が窓から入ってきても当たらないように、ベッドから下りて、ベッドを盾にするような形で床に横になった。

つづく

8月の駒ヶ岳

社窓


8月の駒ヶ岳

8月になり、台風11号が日本列島を横断し、その後台風一過で晴れるかと思いきや、

お盆中は梅雨のような空模様。

中央アルプスも稜線付近を見られる時もあまりなく、毎日がこんな感じ・・・・・

20140820koma2.jpg

お盆が明けて、やっと青空の下で姿をみせてくれました(^^;)

 

[南アルプス]

20140820minami.jpg

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.4

森林紀行

事務所にて

事務所

事務所へ

3月17日(水)は初めてプロジェクト事務所に行く。朝はイスフともう一人の運転手ダウダの2人が7時過ぎにホテルに来るので、車の鍵を渡し、それから事務所に出勤することになっている。6時に起き、6時半頃、Mさんが家の近くの屋台のような店屋で売っている長いフランスパンを買って来る。それをコーヒーで食べる。

ブルキナファソ4-1.jpg

事務所に行く時に通る道路

 事務所にて

家から事務所までは距離にして約3km、車で10分ほどである。メーンストリートの国道だけが舗装されていて、その他は未舗装の道路だ。時々ハルマッタン(乾期に吹く北東の貿易風、日本の黄砂のような感じ)がサハラ砂漠から微砂を飛ばして来るので、遠くがかすみ視界が悪くなる。

事務所は、環境省のカスカード州の州局とコモエ県の県局の中にあり、このなかに森林局の地方事務所もあり、プロジェクトの事務所はその一つの建物を借りている。

ブルキナファソ4-2.jpg

環境省州局の入口の看板。この中に県局もあり、プロジェクト事務所もある

ブルキナファソ4-3.jpg

事務所の庭

 4年前にプロジェクトが始まった時は、プロジェクト事務所も決まっておらず、団長はこの建物を確保するだけでも大変に苦労したそうで、その後、建物の修理費の予算を確保したり、苦労の連続だった。私はその当時勤め先の国際関係の仕事をする部の責任者だったので、それらの報告をいつも受けていた。私は最後の段階になり参加したので、その苦労はしなくとも済んだ。私も数々のプロジェクトを行っており、どんなプロジェクトでも最初の立ち上げのときは、事前交渉の行き違い、文化や考え方の違い、コミュニケーション不足などから多くの「ゆき違い」が発生し、大変な苦労があることは良く分かっている。それを一つ一つ解決していき、お互いにバランスがとれたところに落ち着かせるのが団長の腕の見せ所である。プロジェクトによっては、ずっと落ち着かない場合もあるのではあるが。

ブルキナファソ4-4.jpg

事務所の入口

事務所に入るといきなり部屋になっており、その部屋には、プロジェクトで雇っている現地技術スタッフのカッソン、ママドゥ、ドゥニーズがいる。カッソンとママドゥが男性でドゥニーズが女性である。それに秘書のマリーがいる。Mさんはドゥニーズの隣の机で仕事をしている。それに協力隊員のIさんの机がスタッフと同じ部屋にある。そして、その部屋の奥にもう一つ部屋があり、そこにブルキナ側のプロジェクトの責任者のキニーの机がある。その部屋に団長の机もあり、そこがチーフ部屋になっている。私は、団長と一緒に来る予定であったが、地震の影響で彼が遅れてくるのでひとまず、キニーの机のあるチーフ部屋に入り、団長の机に座る。

ブルキナファソ4-5.jpg

州局内に苗畑がある

ブルキナファソ4-6.jpg

森林局内に炭も運び込まれていた。炭は指定されたもののみが作れるシステムである

事務所のトイレ

ブルキナ・ファソに限らず、セネガルやジンバブエなど発展途上国全体に言えることだが、主にはアフリカの国が多いが、なぜ物を大事に扱えないのか不思議である。

物が少なく、修理もできない(しない?)のに物を丁寧に扱わないのである。特に公共のものとか共同使用のものはだめである。これはまさにコモンズの悲劇(共有資源は乱獲されるということから)と言える。ここではトイレがそうだったが、ほんの少し、丁寧に使うとか掃除をすれば清潔に使えるのが、そのように使えないのである。例えばドアにしてもそうだ、静かに丁寧に閉めれば長持ちし、ずれたりしないのであるが、力任せに閉めるのですぐにピッタリと閉まらなくなり、ドアノブも緩んでしまう。それに電球が切れたら、電球のストックがあっても誰も取り変えない。使用した後、汚してしまったら便器を拭いてきれいにしようという気がないのでいつまでたっても汚いままである。

ここのトイレも汚かった。そこでイスフとマーケットに行って掃除道具を一式買ってきて、すぐに便所掃除である。きれいになって皆気持が良いようだが、その後誰も便所掃除をしないので、いつも私がするようになった。それを見ていたイスフが手伝うようになったので、イスフに任せたが、しばらくするとまたしなくなるのである。習慣が定着しないというのもこの辺りの特徴であろうか。

きっと、きれいとか汚いとかの感覚のレベルが違うのであろう。私が汚いと思っている汚いはこの辺りでは決して汚くなく、だから汚くとも平気なのだ。ドアも壊れているのが普通で、ちゃんとしていると安心できないのであろう。

 

事務所のスタッフ 

事務所には前に述べた我々の雇用した技術スタッフと共に他の職員もいた。

 

環境省州(カスカード(Cascades)州)局長

先入観を持って人を見てしまうのは、問題であるが、アフリカの多くの国の公務員の幹部は汚職まみれであるというのが、今までつきあってきた人達から受ける私の印象である。ブルキナ・ファソとは現地語で「高潔な人」とか「誠実な人」と言った意味であるが、一般的に公務員から受ける印象はその対極に位置しているのではないかというものである。だからブルキナ・ファソ「高潔な人」になりたいのだろうという印象を州局長からも受けた。これは他のプロジェクトメンバーから聞いていた先入観がなせるわざであろう。私は交代した副総括として新たに参加することになり、国際協力の仕事では長年の経験があると言うと大歓迎してくれた。

 

コモエ県局長 

県局長は女性であった。印象としては、州局長と同じ様に、ブルキナ・ファソが表す現地語の意味からは対極にいるのではないかと思わされた。私の感覚は正しくないかもしれないが、どうしても先入観がそうさせてしまうのであった。とはいえ、コモエ県局長も大歓迎してくれた。

 

技術スタッフ

キニー

キニーは前年日本に研修に来た時に事務所で会っていた。私はその時、部の責任者だったので、各国のプロジェクト関係者が日本に研修などで訪れたときは、責任者として面会するので面識があったのである。体は大きくがっちりしているが、どちらかというと人当たりの良い方だった。私が今度このプロジェクトに参加することを歓迎してくれた。ただ、キニーにしてもクリーンということはないということを他のメンバーから聞いていた。

しかし、先入観とは別に、ここで会った州局長、県局長それにキニーなどは汚れているかもしれないが、根は良い人だと思わせるものがあった。きっとそうに違いない。私が多くの国で仕事をしてきた中で、他国では、もっと悪に染まったような人達とは違う純粋さも見て取れた。もし、汚れている部分があるとすればそれは外部からのもの、例えば援助のようなものがそうしているのかもしれないと思う部分もあったのである。

 

技術者

普通のプロジェクトでは、技術者は協力対象とする機関、ブルキナの場合であれば、政府環境省の森林官がカウンターパート(共同作業技術者)として、つまりは技術移転の対象者として、プロジェクトの仕事にあたるのであるが、ここではプロジェクト責任者のキニーのみが公務員で、直接のカウンターパートとなっているだけである。あとのプロジェクト運営の技術者はプロジェクトのファッシリテーター(プロジェクトを円滑に進める役目の技術者)として我々プロジェクトが雇っているのであった。3人のファッシリテーターがいて、いずれも優秀だった。このようなシステムを構築するのも最初の段階で、団長は大変に苦労した。

 

カッソン

カッソンは私が来て、すぐに4月6日に結婚した。後にタバスキ(ラマダン(断食月)が明けて1ヶ月と10日後、イスラム暦の11月10日に行われる祭り)の日、2011年11月に家に招待してくれた。奥さんは先進的活動を行っているNGOに勤めており、インテリである。カッソンは英語をしゃべるので、私には非常に助かった。英語は国境を接するガーナで覚えたとのことだったが、現地語とフランス語がネイティブなので、英語の習得は容易だったようだ。このプロジェクトが始まる前の調査段階では英仏の通訳として活動していた。

 

ママドゥ 

ママドゥは、奥さん2人に愛人が2人いると言っていた。とつとつとしゃべるのが特徴である。イスラム教なので、奥さんは4人まで持っても大丈夫だと言う。アフリカはNGO産業が盛んなので、いろいろなプロジェクトを渡り歩いているとのことであった。援助が続く限り、このようにキャリアがある人は食べるのには困らないだろうと思わされた。

 

ドゥニーズ

ドゥニーズは女性の技術者であった。彼女は未亡人で、だんなさんは数年前に肝臓を痛めて亡くなったと言っていた。黄疸と言っていたから肝炎であろう。9歳のお子さんがいた。月から金まではバンフォラで働き、土日はボボジュラッソに帰ると言っていた。子供さんは、彼女のお母さんが育てていて、単身でバンフォラに住んでいた。彼女はブルキナの政治や社会には愛想をつかしており、アメリカで生活したいと言っていた。

 

秘書のマリー

秘書のマリーは、ドゥニーズと同じくらいの年の男のお子さんがいた。そしてこの時2人目を妊娠しており、10月に出産予定とのことだった。彼女はプロジェクトの資金管理や書類管理を行っており、きちんとしていてしっかりしているので、彼女が抜けたらプロジェクトは動かないような存在になってしまうだろうと気がかりだった。肝っ玉母さんのように落ち着いていた。

 

運転手

ダウダ 

ダウダは、運転もうまいし、全てのことに自信満々のような態度に見えた。それは、かつて軍隊の車両兵站部門にいたことがあることからきているのだろう。軍の上層部とも繋がりがあり、ブルキナの軍人たちの気質についてもよく知っていた。それで、これから起きる軍のクーデター未遂事件の時には、ダウダから情報を得て、随分と助かった。

 

イスフ

イスフはまだ若く、茶目っけがあった。彼はぶっきらぼうではあるが、運転は信頼が置けた。少し飛ばし過ぎることがあるので、スピードは押さえろといつも言っていた。毎朝彼と車に乗って行くと早口で何を言っているか良くわからないからゆっくりしゃべろといっても早口はなおらない。しかし、ある日彼の言っていることが全てわかる日があった。耳が慣れてきたのである。それから段々と聞き取れるようになった。

協力隊のIさん

部屋には協力隊員のIさんがいた。Iさんは村落開発隊員で、このバンフォラに来ており、後にプロジェクトのメンバーとしてくるK君の後任である。この事務所で苗木作りをしたり、村に行って村人と共に働いている。協力隊員としては非常に素直で、すれているところがなく、真面目で優秀という印象を受けた。 

ブルキナファソ4-7.jpg

事務室、左からKasson、Denise、Mamadou、私

つづく

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.3

森林紀行

初めてのバンフォラ


バンフォラにて

ホテルなど 

プロジェクトで借りていた家

  バンフォラにはいくつかホテルがあったが、外国人が泊まれるような大きく安全だと思われるホテルは郊外と町中にほんの少しあるだけだった。小さく小汚い地元民が利用するようなホテルはいくつかあった。町中で州局内にあるプロジェクト事務所まで近いホテルは、ホテル・カンナ・スクレ(Canne à sucre サトウキビという意味)というホテルだけであった。このホテルには、観光で来る外国人も泊まっており、警備もきちんとされ安全だった。プロジェクトではホテルの敷地内に建つ一軒家を借りていた。ホテルにはレストランもあった。レストランと言えるようなきちんとした食事場は町中ではここだけと言っても良く、その他は小さな食堂といった程度のものだった。そのレストランといくつかの部屋が連なっている建物とその前を通る幅20mくらいの道路を挟んで向かい側に、我々の借家と宿泊客用のブルキナスタイルの小屋がいくつか大きな庭の中に点在している。

 

借家の入り口。鉄のトビラが付いている。手前は仕事用テーブル.jpg

借家の入り口。鉄のトビラが付いている。手前は仕事用テーブル

 

借家内の庭に車を保管.jpg

借家内の庭に車を保管

 

宿泊客用のブルキナスタイルの小屋が庭の中に点在.jpg

宿泊客用のブルキナスタイルの小屋が庭の中に点在

 

水道があり、この辺で洗濯.jpg

水道があり、この辺で洗濯

 

 

  家は決してきれいとは言えないが、中には6畳程度の部屋が3つあり、それに台所とバス・トイレ、もう一つ結構広い居間があった。私はこのブルキナのプロジェクトの前にはドミニカ共和国でプロジェクトを行っており、その時にもやはり家を借りていたが、その家は、広くきれいで清潔でもっと大きな家を借りていたので、かなりのレベルダウンと感じた。しかし、これでもこの辺りでは最高級の家の部類に入るだろう。居間の壁沿いには、不在のメンバーの荷物などが沢山おいてあり、ソファーやテレビもあり雑然としていた。台所には冷蔵庫とガスがあった。それに日本から持ってきた食材が沢山あった。私も持って来た食材を全て出して共有した。1つの部屋は他のメンバーが使っており、私は開いている2つの部屋のうち、居心地のよさそうなやや大きい方に入った。部屋の中には傾きかけ、ちゃんと戸が閉まらず、あまりきれいとは言えない衣装ダンスがあった。タンスの中にはしきりも何もない。

  我々メンバーはまさにシェアハウスで生活していたのである。しかし、これも住めば都、不思議なことに案外に居心地が良く、すぐに我が家という感覚になるのである。

 

借家内の居間.jpg

借家内の居間

私の使用した部屋。同様な部屋が3部屋ある.jpg

私の使用した部屋。同様な部屋が3部屋ある

 

 

 

  バンフォラに着いた3月16日(水)のその晩は、ホテルのレストランでメンバーのMさんと夕食を取りながら、いままでの経緯を聞き、いろいろと打ち合わせをしたり、バンフォラの事情を聞いたりした。そして日本の地震のことについて話題に出すとMさんは神戸の地震の時に中心地付近にいて恐怖の経験をしており、それが相当のトラウマとして残っていたので、地震の話はやめた。日本から持参した地震のニュースが載っている新聞もMさんは読むことができなかった。

  テレビを見ると、ここではフランスからの衛星放送を流している。日本では私が出発した後に原発がもう一基が爆発したとのことでフランスの国内放送が、一日中原発のニュースを流している。日本は大変な状況になっており、このような時に私が日本にいないのは、もし放射能が降り注ぐような場合には私自身はブルキナにいるので被害はないが、万一東京周辺が避難せざるを得なくなった場合には、家族はどこにどう避難するのだろうかと、気が気ではなかった。

  Mさんとは、セネガルのマングローブのプロジェクトでずっと一緒に働いていたので、気心は良く知れていた。国際協力を専門に勉強し、セネガルで村落開発の協力隊員としてのキャリアもあり、落ち着いていて仕事が良くできた。

 

女子協力隊員の両親と食事

  バンフォラに着いて5日目の日曜日の晩、3月20日のことだが、協力隊の隊員達と共にホテルのレストランで食事をした。この時は、バンフォラから約200kmくらい離れていて、ボボジュラソよりももっと北で、国道から西に何10kmも入った僻地で活動している女性の協力隊員の御両親が我が子の活動振りを見学に来たので、周辺の協力隊員が集まってきて、一緒に食事をして歓迎することになったのだった。活動地からバンフォラまでは相当な遠距離であるが、ご両親はワガドゥグやバンフォラ周辺の観光も兼ねていたのである。

  食事をしながらいろいろ話していると、日本の大震災直後のショックをかなり引きずっているように見られた。ご両親は、千葉県からとのことであった。地震の後ではあったが、本人達は被害を受けなかったし、ずっと前に大枚をはたいて予約してあったので、決心して出発してきたと言っていたが、やはり娘さんの様子を見たいとの思いが強かったのであろう。お父さんは私より少し若く50代半ばくらいに見え、娘さんとお父さんの顔立ちはそっくりだった。友人の協力隊員も女性が多く、今では全体に女性隊員の方がだいぶ多い。皆日本の状況を思うと心が重くなるのであるが、一時それを忘れ楽しい晩であった。

  確かにこの御両親もこの時にブルキナに来てよかったと思う。その後起こる事件により1ヵ月後には、協力隊員は全員日本に緊急避難帰国をさせられ、別な国に再派遣させられたりしたからである。

 

つづく

野菜

ゼンシンの日々

今年はいろいろな夏野菜を作っています。

といっても、自分は収穫専門で、種をまいた後は、ほぼお任せ状態です(^_^;)

野菜畑003.jpg

トマト、キュウリ、ナス、カボチャ、トウモロコシ、スナップエンドウ、スティックセニョールなどなど・・・

いろいろ作りましたが、

中でも珍しいのは白いナス(やわらかくて甘い)です。

白いナス01.jpg
白いナス02.jpg

トウモロコシにも白いものがあります。

トウモロコシ白003.jpg

トウモロコシは色々な種類を蒔きました。8月中旬頃には120本ほど採れる予定です。

MA-SAK

知らないうちに…

ゼンシンの日々

皆さん、缶詰って食べますか?

私は正直なところ、シー●キンくらいしか食べませんし、特に興味もありませんでした。

 

しかし、この間スーパーに寄ってふと缶詰コーナーを見てみると沢山の種類の缶詰が…。

定番のツナ缶・焼き鳥・サンマ缶からオイルサーディン・タイカレー・イナゴ…。知らないうちにこんなにも増えていたんですね。

 

そんな中で私がおすすめしたい激ウマ缶詰がコレです!

 

 

 

sava缶.jpeg

 

ずばり、サバのオリーブオイル漬け、その名も”サヴァ缶”です。

 

1缶に170gとたっぷりのサヴァ。結構お腹いっぱいになります。

ご飯のお供、お酒のお供なんでもイケます。

そのままでも十分美味しいのですが、大根おろしやスライスオニオンなんかと食べると一層美味しくいただけるかと思います。

ぜひご賞味ください!

 

written by 鯉

 

【森林紀行No.3 ブルキナ・ファソ編】 No.2

森林紀行

初めてのワガドゥグ

ホテルや両替商

ホテル・クルバ

ホテル・クルバは、我々プロジェクトメンバーがワガドゥグで常宿としているホテルであった。空港からすぐ近くにあり、車で5分程である。ワガドゥグの中心街の東側である。3階建てで概観はやや古い建物に感じたが、それほど古くないのかもしれない。道路幅が30mから40mほどの大通り(Av. de l’Aéroport : 空港通り)側と、道幅が5mから6mの細い道路側とに面し、L字型のホテルである。1階にロビーとカフェテリアがある。1階の大通りに面した側にはテナントが入り、客室は2階と3階である。私はシングルの客室に入る。部屋の建て付けは悪く、クロゼットのドアもきちんとかみ合わない。清潔ではあるが、私にはあまりきれいとは思われないホテルであった。

ブルキナファソ2-1.jpg

ホテル・クルバのロビー

ベッドには蚊よけのカヤがついており、マラリアに対して、少しは安心できるので、これは良かった。部屋により新しいタイプのエアコンもあり、新しいものの音は静かだが、古いタイプのエアコンでは相当な騒音が出る部屋もある。高級ホテルには程遠いが、ブルキナでは高級の部類に入るのであろう。Sさんは長期滞在者用のキッチン付きの部屋に入っている。キッチン付きの一室で以前、電気が漏電し、ぼや騒ぎがあったとのことで、幸い大事には至らず消し止めたということだったから、こういうホテルでは安心できない。

日本を出る前から、ワガドゥグでは学生のデモがあったり、ブルキナの治安状況は悪化してきているとは聞いていたが、着いた時点では落ち着いており、この10日後くらいに、このホテルで経験する生きた心地がしない大変な事件に遭遇するとは想像だにできなかった。

 

両替商

現地に着いてまず必要なのは現地通貨である。両替商は、携帯電話会社や食堂などと並んだ道路際にあり、ホテル・クルバからも歩いてすぐのところであったが、歩くのはひったくりなどの危険があるのでいつも車で行くのであった。最初に行ったときは当面自分の必要分だけを換金した。1ユーロが656FCAF(シェファーフラン)でホテルよりも1良かったが、ホテルでも換金率はほとんど変わらないので、ホテルは意外に良心的だと思った。しかし、ホテルでは少額しか替えられないので、大きい額を換金する必要があるときは両替商か銀行に行かなければならない。

両替商の換金窓口でユーロのトラベラーズチェックとパスポートを出すと中に持って行ってパスポートのコピーを取るので、早くパスポートを返してもらい、金をもらわないと気が気でない。現地通貨をもらうと周りの人に見られないように金をさっとカバンにいれる。ここで数えると回りに金をさらす時間が長くなり危険度が増すからである。札束の数だけ数え、100枚は信用することにするしかない。ホテルに帰ってから数えて、もし足りなくとももう返してくれることはないだろうが、今まで各国の銀行で間違えていたことは一度もないのは幸運だったのだろうか。何しろ海外での換金はいくら注意してもし過ぎることはないので、安全を優先しているのだ。

 

関係機関

JICA

翌日(2011年3月14日(月))は、Sさんと共に、最初にJICA事務所に挨拶に行く。担当は若い方であるが、東京では海外からの研修生の受け入れなどで世話になっていたので旧知である。いつものように、今回のプロジェクトの活動内容や日程を説明し、細かい打ち合わせをする。

打ち合わせの後に、治安関係について説明を受けた。現在学生がストライキを計画中で、明日(3/15)はワガドゥグ で大きな集会があるので気をつけよとのこと。地方でも小中高の学校が今は全て臨時休校となっているとのことである。1ヵ月前くらいにクドゥグというブルキナ第3の都市で学生が警察の取り調べを受けた後に死亡した事件があり、それは警察官の暴行と言われており、その後学生と警察の衝突が激化しているとのことである。その他北部では「イスラム・マグレブ諸国のアルカイダ」による誘拐リスクがあるとのことである。我々のプロジェクトは南部であるので、多少は安心だが、苗木の案件をもっているSさんはやや北部までも行かなければならないので細心の注意が必要だ。その他一般犯罪や交通事故、これらは日本よりもはるかに多いとのことである。

ブルキナはアフリカにおいて近隣諸国と比べても、とても治安の良い国だと言われていた。アラブの春がちょうどチュニジアで始まったばかりで、すぐにエジプトやリビア、コートジボアールなどアフリカの多くの国に波及し、情勢不安な状態の中でも、2010年の11月にあった大統領選も大きな混乱が起こることもなかったのだが、ブルキナの治安も段々と悪くなってきたのだった。

 

森林局

その後森林局に行く。局長が不在だったので、Sさんが行っている苗木案件のプロジェクトの部屋に行き、スタッフに挨拶をする。苗木プロジェクトの団長さんも不在であった。英語をしゃべれるスタッフを2人雇っていたので、話はしやすかった。

使用している車のフロントガラスにひびが入っており換えなければならないこともあり、もう一日森林局で仕事をした。発展途上国では舗装をしてあっても小石が跳ねてフロントガラスにひびが入る場合が非常に多いので、気をつけねばならない。

ブルキナファソ2-2.jpg

森林局の前の通り

 

その間に地図局に行き、地図を買ったり、ブルキナやアフリカの地勢に関する本などを買って、プロジェクト地域周辺の自然条件を改めておさらいをした。

ブルキナファソ2-3.jpg

森林局(Difor)の入り口の看板

 

ブルキナファソ2-4.jpg

森林局

 

ブルキナファソ2-5.jpg

森林局の庭

 

ワガドゥグの町

ワガドゥグの町をイスフ(運転手)の運転で走っていると車は多いし、荒い運転が多いので、日本以上に気をつけないといけない。バイクも非常に多く、特に女性は子供を背負って運転している人も多く、本当に気をつけないといけない。最初にイスフに「気をつけろ。」とは言ったもののあまり言うのも運転がしにくいだろうし、運転手はワガドゥグでの運転にも慣れているのであまり気をつけろというのは控えていた。それにしても非常に埃っぽい。セネガルのダカールも非常に埃っぽかったが、ワガドゥグの方がもっと埃っぽい感じである。サハラ砂漠から飛んで来る微砂がいつも舞っているのだ。

ブルキナファソ2-6.jpg

ワガドゥグの町。サハラからの微砂で埃っぽい

 

ブルキナファソ2-7.jpg

バイクの2人乗りが非常に多い

コンピュータもカバーを付けないとすぐに故障するとのことである。キーボードカバーが絶対に必要とのことから、それを日本から用意してきた。

 

バンフォラへ

2011年3月16日(水)にワガドゥグからプロジェクト事務所のあるバンフォラに向かった。ワガドゥグからバンフォラまでは約430Kmである。車で6時間ほどだ。ワガドゥグで食糧の肉類などをマリーナマーケットというスーパーマーケットで買い込み9時過ぎにワガドゥグを発つ。道路の舗装状態はまあまあ良い部類なので、時速約100Kmで飛ばしていける。しかし、平均時速は70?80kmくらいだ。

Sさんは、今は苗木プロジェクトの担当となっているためワガドゥグに残る。運転手のイスフと二人でバンフォラに向かう。バンフォラでは、別のプロジェクトスタッフのMさんが仕事をしている。運転手のイスフには交通事故には十分に気をつけさせないといけない。あまり言わないがやはりスピードの出し過ぎに注意する。

ワガドゥグから約180km行ったボロモという町に12時近くに着き、ここで昼食を取る。レストランというほど立派ではないが、ここは外国人の多くが立ち寄り食事をするようだ。

 

途中の樹木の状況

国道沿いには大きなカヤ・セネガレンシス(Khaya senegalensisセネガル原産のセンダン科で高木に成長する樹木)の並木がある場所が多い。大きい木だと樹高は20m以上もあり、胸高直径は80cmくらいもある。これはフランスが統治していたときに地元民に植えさせたとのことだが、これは宗主国が行ったほんのわずかの良い行いの部類だったろう。畑の中にも随分と木が残っている。これはあとでわかったが、シアバターの木だった。私がシアバターの木を見るのは初めてだった。

ブルキナファソ2-8.jpg

ワガドゥグからバンフォラへ。すぐに都市から畑作地滞へ

 

ブルキナファソ2-9.jpg

地元民の伝統的なわら葺きの小さな家が見える

 

私はセネガル、モロッコ、ジンバブエといった乾燥地帯のアフリカで主に仕事をしてきたので、このような大木があったり、樹木が多い場所を見るのは珍しく、ここで植生回復のプロジェクトなどを行えば回復の可能性は非常に高いと思った。

 

ボボジュラッソを通過

バンフォラへあと80kmくらいの所に位置し、ワガドゥグからは手前に在るボボジュラッソの町に午後5時頃に着く。ここはワガドゥグに次いでブルキナでは2番目に大きな町だ。イスフにガソリンを入れていかないのかと聞くと、まだバンフォラまで行けるし、バンフォラにガソリンスタンドがあるので心配ないと言う。まだイスフは私に打ち解けてないので、かなり無口で、ぶっきらぼうである。

 

バンフォラに到着

バンフォラに着いたのは午後6時半くらいだった。フランス人が経営しているカンナ・スクレというホテルに着く。バンフォラはやはり随分と埃っぽい町だと感じた。しかし、セネガルの町に比べて緑が多いのでビックリだ。

 

つづく

7月の駒ヶ岳

社窓


7月の駒ヶ岳

7月のなって、毎日雲に隠れていましたが、やっと顔をだしてくれました(^_^;)

千畳敷カール付近にあった残雪も僅かとなっています。

久々の晴天。梅雨明けまでもう少しでしょうか。

 

さて、全国的には2016年から8月11日を「山の日」と定め祝日となることが決まりましたが、

長野県では本年より7月第4日曜日を「信州 山の日」とし、

前後して各地で様々な催しが行われます。

いよいよ本格的な夏山シーズンの到来です。

 

[南アルプス]

20140715minami.jpg

Korea-ソウルへ

ゼンシンの日々

6月に初めての韓国-ソウルへ行ってきました・・・・・

 

成田.jpgのサムネール画像
成田からソウル仁川国際空港へ向けテイクオフ===市内.jpgのサムネール画像
韓国の首都ソウルは流石に大都会路地.jpgのサムネール画像
でも裏路地は、東京のアメ横を思わせる雰囲気です店.jpgのサムネール画像

1日目の夕食に入ったお店です。人気があって時間帯によっては地元の人や観光客で行列ができるようです。

メインは参鶏湯(サムゲタン)鳥を洗面器のような鍋で煮こみ、トウガラシに効いた味噌につけ、少し甘めの焼酎でおいしくいただきました。(><)!  by  N.k参鶏湯.jpgのサムネール画像

 

Page Top