7月の駒ケ岳

いよいよ30℃を超える真夏日も多くなってきて、
そろそろ梅雨明け間近を感じています。
さて、今年は「エルニーニョ現象」が発生しているとの発表がありました。
エルニーニョ現象とは、
太平洋赤道域の日付変更線付近から南米沿岸にかけて海面水温が平年より高い状態が続く現象で、
逆に同じ海域での海面水温が平年より低くなる現象をラニーニャ現象というとのこと。
一般的にはエルニーニョ現象が起こると、
西日本の日本海側で降水量が多くなり【冷夏】の傾向となるといわれていますが、
今年はラニーニャからエルニーニョへの移行期間が短いためラニーニャの影響が残るなどして、
この夏は平年より高めの気温となるという予想もされています。
これから、いよいよ夏本番。
今年は、久しぶりに各地で夏まつりなども通常開催されるようです。
感染や熱中症に気を付けて過ごしましょう。

野沢温泉
環境調査の委託業務で、北信地域の現場に毎月2日間程行っております。
現場は新潟との県境に近く、早朝から調査を開始するため、日帰りは難しく宿泊です。
現場から比較的近い場所に野沢温泉村があるので、今月は温泉街の民宿に泊まってみることにしました。
野沢温泉村といえば、スキー場が有名なので冬の観光地というイメージがあります。冬は何度も来たことがありますが、グリーンシーズンはあまりないので密かに楽しみにしておりました。
平日ということもあり、観光客は少なめ。
夜散歩がてら足湯にいってきました。山の中を歩き回ったので癒されました。



散歩の途中でソフトクリームの看板を見つけたので、次の日現場が終わった後行ってみることに。
大盛りにしてくれました。
濃厚でとてもおいしかったです。
太っちょになりそうです。
今度は外湯を巡ってみたいです。
[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.7_沖縄-今帰仁村
今帰仁村の由来
今帰仁村(なきじんむら)とは、本土から行ったものにはどことなく沖縄らしく、少し変わった響きに聞こえる。「今」を「なき」と読むのは、沖縄方言での発音だそうだ。
今帰仁の語源は、「今来知り」という意味だそうで、これは、鎌倉時代末期に外来者(いまき)が侵入し、この地方を統治(じり)したことを示す言葉とのことだ。外来者とは、落ち武者か倭寇などらしいということだ。
琉球王国時代には、北山王国の首府となった城の名前が、今帰仁となったとのことだから、当時、本土からの落ち武者か倭寇の日本人か中国人かがこの周辺を支配し、統治し始めたということを示しているのだろうか?しかし、沖縄には琉球人と呼ばれる先住民族がいたのだろうから、外来者は排除されたかもしれないし、あるいは混血し融合したかもしれない?研究もせずに軽々しいことは言えない。
それはともかく、2023年5月25日(木)~5月29日(月)まで、5日ほどだったが、今帰仁村に行ったので、そのことについて書いてみたい。


私の沖縄との関わり合い
私と沖縄とのかかわりは案外に深い。子供の頃(1960年代前半)に嘉手納出身の大学生の方が我が家に下宿をしており、その頃から沖縄には感心はあった。当時、沖縄はアメリカに占領統治されており、本土に来るのにパスポートを持たれていた。往復するのも列車と船で片道1週間以上かかるとのことで、大旅行だったようだ。因みに那覇空港が開港したのは1962年とのことである。
現在は、今帰仁村には私の甥が住んでおり、新型コロナウィルス出現以前には時々訪ねていたが、この3年間は訪ねることができず、最近、感染対策が緩和されたので、3年振りに訪ねたものである。
また、石垣島出身の友人がいて、家族で石垣島に旅行をしたり、また、2002年~2005年にセネガルでマングローブ林の持続的管理に関わる仕事をしていた関係で、琉球大の教授にマングローブ林に関して教えてもらったり、また、セネガル人の森林技術者を西表島に案内したりしており、沖縄には相当数行っている。
今帰仁村
冒頭に今帰仁村の由来を書いたが、今帰仁村は、沖縄県国頭郡にある村である。面積は39.25Km2で、人口は約8,000人。村のシンボルとしては、世界遺産に登録されている「今帰仁城跡」が有名で、石垣や門などが残っている。
名護市は、今帰仁村の南西に隣接する市で、市の面積は210.80Km2で、人口は約6万人。市の主な観光スポットとしては、「美ら海水族館(ちゅらうみすいぞくかん)」や「古宇利大橋(こうりおおはし)」などがあり、美ら海水族館は、世界最大級の水槽を持つ水族館で、ジンベエザメやマンタなどが見られる。古宇利大橋は、名護市と古宇利島を結ぶ全長1,960メートルの橋で、エメラルドグリーンの海を眺めることができる。
家から羽田空港へ
まずは、家から羽田空港へ行ったことから書き出すが、もよりの駅から羽田空港行きのバスの直行便が、コロナ感染防止対策でまだ半分ほど運休されており、一番都合の良いバスで行っても羽田空港で3時間ほど待たなければならないので、電車とモノレールを乗り継いで行った。10㎏ほどのスーツケースを転がし、ギターを担いで行ったので、駅まで歩くのが思ったより大変だった。
久しぶりに乗ったモノレールも小揺れを感じ、乗り心地はすこぶる悪かった。しかし、久しぶりに飛行機に乗るので何となく心は浮き浮きしていた。
羽田空港には出発1時間半くらい前に着き、空港内でお土産などを買い、広い空港を見学していたらあっという間に時間は過ぎ去った。これならバスで来て3時間待っていても大丈夫だったろうと思った。


出発
機内には14時40分頃に入ったが、出発したのは15時15分くらいだった。満席かと思ったが、2割くらいが空席だった。実質2時間15分くらい飛んで、17時半くらいに那覇空港に着いた。
那覇空港
那覇空港に着き、荷物を取った。預けたギターがソフトケースだったので、職員がクッションを巻き付け「壊れ物」扱いにしてくれていたこともあり、無事着いた。今まで何回もギターを飛行機に乗せているが、今までのところ全部無事に着いている。荷物を取り外に出たのはちょうど18時だった。




那覇空港の水槽
那覇空港の楽しみは到着ゲートを出たあたりにある水槽である。この中にはめずらしい魚が多く、見るのが楽しみである。名護行のバスの時間が18時半だったので、それまで水槽の魚を眺めていた。




那覇空港から名護バスターミナルへ
空港のバス亭で、待っている人に名護行かどうか尋ねてみると、皆親切に教えてくれる。名護行のバスは定刻18時半にぴったり出発する。運転手もとても親切である。都会じゃあ聞いてもぶっきらぼうで、ちゃんと答えてくれないのではないかという気持ちが先行して聞けなかったりするが、ここではどんなことだって親切に教えてくれるので安心して尋ねることができる。




名護市バスターミナル
ヤンバル急行バスを那覇空港から2時間弱乗って、名護市バスターミナル前で降りる。予定どおり20時18分着だった。甥がここで待っていてくれるはずだったが、どこがバスターミナルか分からず、甥もいない。周囲も暗く、どこにいるのか良くわからない。電話をすると名護市バスターミナルで待っているとのことだった。乗ったバスがヤンバル急行バスだったので、同じ名前のそのバスの停留所が名護市バスターミナルから約50mほど離れていたのだった。夜で暗く方向がわからずスマホの地図に案内させ、無事に会えた。
料金はここまで1,610円だったが、帰りの名護から那覇までは2,230円とかなり値段が高く、何故、往きと返りで、あるいはバス会社によって、値段がこんなにも違うのが不可解だった。
コマゲン
今帰仁村に居る間、泊まっていたのは、ずっと甥の家だったが、翌日5月26日(金)から丸三日間は、コマゲンという今帰仁村にできたアジアンレストランでほとんど過ごした。
オーナー
コマゲンのオーナーは、お若いご夫婦で、東京の青梅市から2才になる息子さん共々、数年前に移住してきたとのことである。青梅市では、どちらかというと居酒屋風の料理屋を、夜間を主体に営業していたとのことで、ここでの生活ほど健康的ではなかったとのことである。ここでは、アジアのエスニック料理を出し、二人は今帰仁の自然、人々などを気に入り、ここでの生活は大満足だとのことだ。レストランの建物も仲間達も手伝い、自分たちの手作りだそうだ。


仲間達
甥の仲間達は、那覇市や名護市などの音楽ライブレストランなどで演奏している仲間達とその友人達である。コマゲンも仲間達の一つの溜まり場だ。どちらかと言えば、社会のしがらみに縛られたくなく、好きなことをして自由に生活しているような仲間達である。音楽で生きていること自体が好きなことをして生きていると言える。コマゲンのコンセプトと同じく、環境・身体になるべく負荷の少ない物・事を選択しようという指向があり、そうしたことから、必ずしも物質的に豊かというわけではないようではあるが、精神的には豊かに見える。質素な生活をしているが、仲間達の絆は強いものがあり、何かをやろうと言えば仲間がすぐに集まり、皆が協力して行う。今回もキャンプをやろうと言えば、テントやバーベキュー用の肉や薪などを持ち寄り、それぞれ自分のできることをしながら、楽しくのんびりと過ごしている。アルコール類もそれほど飲むわけではない。
活動
音楽活動以外には、ボートを作ったり、ココヤシの葉で編んだ帽子を作ったり、衣服を染めたりし、様々な活動をしている。それら製作したものの一部はこのコマゲンで販売もしている。
コマゲンの姿
コマゲンの姿を写真で紹介すれば、次のような感じである。

環境・身体になるべく負荷の少ない物・事を選択







2階と1階の間に板の間があるから1階も涼しい



コマゲンでの昼飯
最初の日の昼飯は、ポークカレーと豆カレーの二種類のカレーが美味しかった。カレーの後に食べたチーズケーキも美味かった。翌日は春雨炒めを食べいずれも美味しかった。
テントでキャンプ
10畳くらいはありそうな大きなテントを張った。皆で協力して張ったのですぐに張れた。天井が高いので、とても広々としている。中は二つの部屋にわけることができ、子供たちが7~8人入って遊んでいても狭くは感じない。甥の家で飼っているメリーという名の犬もここまで付いてきて、テントの中で一緒に遊んでいる。子供は2泊、大人も泊まりたいものは2泊して行った。




美しかった星
5月26日の夜だったが、空の雲がきれた時は、澄んだ天空が半分ほど見えた。そこに北斗七星の七つの星が全て輝いて見えた。これほど大きく輝き、きれいな星を見たのは本当に久しぶりだった。というのは、東京周辺の夜は東京からの光が空に反射し、冬で空が完全に澄んだ日でさえも惑星以外の恒星は、ごくわずかしか見えないからだ。

今帰仁海辺のキャンプ場
コマゲンは海沿いの道路から30mほど上がったところにあるが、その道路沿いに、今帰仁海辺のキャンプ場がある。ここにはキャンピングカーで来て、キャンプを楽しむ人が多いようだ。


インドからの観光客
コマゲンにインドからの観光客が食事に来たのには驚いた。夕食を味わいに来たのだが、若い夫婦と10才くらいの男の子の3人連れだった。インドのムンバイから1週間の予定で東京、京都を巡り、沖縄の今帰仁村まで来たとのことだった。コマゲンのエスニック料理はWEBで知り、わざわざ食べに来たとのことだった。日本のカレーはインド人もびっくりするくらい美味しいと言っていた。
バーベキュー
毎晩、コマゲンの庭にあるオープンなカマドで火を起こし、キャンプファイアーを楽しみ、バーベキューを味わった。ただでさえ美味しいところ、仲間が集まりこういったエキゾチックな場所で味わうバーベキューは特別だった。肉は持ち寄ったもので、大きな牛肉のかたまりを小さく切って焼き、皆で味わった。

エンジ色に染める基を作る。





音楽
子供たちはここに置いてあるドラムセットを適当に叩いたり、ピアノを適当に叩いたり、それが2才の子供が案外にリズムが良かったりで驚きだ。私も毎晩、ギターを弾き、リラックスしていたので、ようやく聴かせられるように弾けるようになったと思った。
驚きの子供
仲間内のフラメンコにはまっているというお母さんの一人の息子さんが、卓越していると思わされた。7才で小学2年生とのことだが、話すと子供ではなく、大人と話しているような感じを受けた。私がユニクロで買った、あまり気味が良くない絵が4つ描いてあるTシャツを着ていたら、その子が「オジサン、その絵は呪術廻戦のアニメの絵だよ。」と教えてくれ、アニメの内容まで説明してくれた。
髪を長く伸ばし、女の子の格好をしているので、女の子と思っていたが、お父さんが男の子だと教えてくれた。この子は自由に生きたいとのことで、自分の好きな恰好をし、学校には行きたいときだけ行き、ほとんど通っていないとのことだった。先生とも話し合いが付いており了解済とのことだった。ユーチューブを多く見ているとのことで、私の受けた印象では、ユーチューブから知識を吸収しているのだろう、知識は十分で、学校で教えることは、もう皆理解済みで、授業など退屈でじっとしていられないのだろうと思った。何より自分の意思で行動していることがすごい。小学生の間は、普通は親の意思に従って動くものだが、7才にして自分の意思で行動しているのだ。
何か才能があるのだろう。数学か?あるいは囲碁か将棋か?はたまた音楽か美術家?現代教育システムには適合できない子供の持っている才能を見出してやるのも親や周囲のおとなの責任であろう。順調に育つのだろうか?将来どのような大人になるのだろうか、あるいは20才過ぎればただの人になってしまうのであろうか?
しかし、言ってみれば全ての子供は天才なようなもので、徐々に学校教育や社会の枠組みにはめられて、才能がすり減っていくのだろう。とは言え、知識は増え社会に適合できるようになっていくのであおう。逆に何の教育も受けずに自由奔放にほっておかれれば、社会の枠組みからはずれてしまい、社会に適合できない場合もあろう。子供を育てるのは実に難しいと思う。
ヌカガに刺される
私もテントの中で横になり寝ていたが、編みが張ってあり、普通の蚊は入ってこないがヌカガに刺されてしまった。ヌカガは「糠粒のように小さい蚊」ということからそのような名前が付けられ、体長は1㎜~1.5㎜ほどの吸血昆虫である。私はまだ免疫がないので、刺されてから数日間はとてつもなく痒く、また、刺された痕が赤く腫れて、沢山刺されたので足がぶつぶつになってしまい、醜くてまいった。ただし、ここに住んでいる大人も子供も刺され慣れ免疫ができているのだろう、全く何ともないのだった。
台風の近づく海
台風が近づいている。この海は5月27日の海である。ここは穏やかな内海でいつもなぎ状態であるが、徐々に波だってきた。最初の予報では5月25日くらいに台風2号が襲来する予報であった。しかし、実際の襲来は1週間ほど遅れ、6月に入ってからこの辺りに襲来したようで、私は5月29日に帰京したので、今回は台風には会わずラッキーだった。


珍奇植物組合
甥の家のそばに珍奇植物組合というところがあり、珍しい植物を育てていた。見学に行ったが、沖縄の植物をあまり知らないので、ここに置いてある植物の名前もほとんどわからなかった。


この周辺で目に付いた植物
この周辺で目に付き、名前が分かった植物の写真を乗せる。沖縄は亜熱帯なので、この周辺の植物を研究しないと見分けられない。
















帰京
今回の沖縄往きは、今帰仁村のコマゲンでのんびり楽しく過ごしたことを書いたが、忙しく観光するのではなく、どちらかというと、欧米人が一ヵ所に留まり、のんびり過ごすスタイルであり、これはこれで良かった。私は、コロナ後に初めて飛行機に乗って遠出し、リラックスでき、楽しい五日間だったが、あっという間に過ぎ去り、5月29日に帰京した。

つづく
6月の駒ケ岳

春から夏となり、関東甲信地方も梅雨入り直前となりました。
今年は、非常に暖かな春であったとのことで、
駒ケ岳の残雪も、例年と比べて少ないように感じます。
6月になると同時に、台風と梅雨前線により全国的な大雨に見舞われました。
これから梅雨入りとなる中で、大雨への備えの大切さを改めて感じています。
事前の備え、正しい情報の入手、早めの避難を心がけて、
土砂災害や洪水等から身を守りましょう。

地籍調査の先進事例視察
5月22日より2日間、長野国土調査連絡協議会の講習会に参加しました。三重県名張市および津市にて実施した航測法による山間部の地籍調査手法を視察できました。


宿泊した旅館近くの景勝地「赤目四十八滝」を少し観光できました。


移動中の休憩にて立ち寄った、奈良県御杖村にある道の駅にて、行方不明中の「せんとくん」と再会

[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.6_要害山
要害山とは変わった名前だと思ったが、単に私が無学だけだったようだ。要害を大辞泉で引けば、①「地形が険しく守りに有利なこと、また、その場所」、②「戦略上、重要な場所に築いたとりで、要塞」、③「防御すること、用心すること」とある。
つまり、名前そのものから戦略上重要な場所に築かれた砦のことで、城のことである。 今回登った要害山は、山梨県上野原市にある標高536mの山である。鏡渡橋の上方に位置していて、山頂はお椀を伏せたような特徴的な形をしており、別名「オッパイ山」とも呼ばれているとのことである。

因みに私が持っている古い「日本山名辞典」(1979(昭和54)年三省堂発行)には、要害山は9山載っているが、残念ながら今回登った要害山は載っていない。山梨県では、甲府市にあり武田信虎が築城した要害山が有名である。今回登った要害山と同様に釣鐘状の形をしており、標高は770mで、武田信玄が誕生した地とのことである。
上野原駅へ
この日、2023年4月22日(土)は、8時33分に上野原駅に集合予定だったが、私は、山行は4月の最終週と思い込んでいて、仲間からのメールで山行の日だったことを思い出した。曇っているが、午後は天気も回復予報だったので、山行と知ったら急にウズウズしてきて、家でじっとして居られなく、すぐに家を飛び出した。家から遠かったのと電車の乗り継ぎが悪く、上野原駅に着いたのは、3時間遅れの11時半だった。仲間がいるから一人でも遅れても行く気になるものだ。



鏡渡橋まで歩く
上野原駅から要害山方面のバスは、朝は1本しかない。少し手前の新井というバス亭まで、1時間に1本くらいはあるが、要害山の登山口の鏡渡橋まで上野原駅から歩いて行くことにした。約6kmくらいだから、たいした距離ではない。ゆっくり歩いても1時半、午後1時には着くと思った。
上野原駅の北側にでて、中央道方面の坂を上る。上野原駅は、2018年に整備される前までは、この北側の狭い斜面に作った小さなバスロータリーがバス乗り場だった。今は駅の南側がきれいに整備されそちらにバス乗り場が移った。しかし、少し遠くなり、5階分くらいは下に降りなければならなくなったので不便になったような気がした。

北西に向かって歩く。すぐに中央道を渡る。地図を見つつスマホのグーグルマップの指示にも従って鏡渡橋を目指す。スマホのアプリには本当に便利なものがあるが、どちらかというと私には地図の方が、全体が見えるので分かり易い。

仲間にメールすると、既にコヤシロ山にいるとのことだった。私が鏡渡橋から登ってくればどこかで出会うだろうとのことだった。でももしかしたら皆が下り終わった鏡渡橋あたりで私がそこに着き、出会うのではないかとも思った。
中央道を渡り終えたあたりにはミズキがきれいに見える。

上野原市役所の横を通り、新井のバス亭に近づく。近くの山も見え、フジが綺麗に咲いている家もある。


新井に着く
バス停の新井だ。ここまで約1時間歩いた。ここから鏡渡橋までは、あと15分くらいだ。

鏡渡橋に着く
ここに着いたのは、12時45分くらいだった。橋には石のモニュメントがある。一方は鏡渡橋、もう一方には鵜川と書いてある。鵜が沢山いるのだろう。




鏡渡橋から登り始める
登ると言っても最初は、舗装道路だ。まだ人家もポツポツとある。道路沿いには植えたものと思われるヤエザクラがあった。


仲間と会う。
しばらく登って行くと、上から降りてきた仲間と会った。13時半くらいだった。登り始めて民家が無くなったあたりだから、まだ歩き始めてわずかだ
皆は、尾続山→展望所→実成山→コヤシロ山→風の神→要害山→山神社とグルッと一周回ってきたとのことだった。ここで、しばらく話した後、皆は下って行き、私は要害山まで行くことにした。

山神社
しばらく登ると山神社があった。ここには大きなモミとヒノキがあった。神社なのでヒノキは植えたものと思われるが、モミは天然のものだろう。


上へ上っていく
しばらくすると民家の小屋があり、そのそばにカシワがあった。植えたものと思うが、自然にあったカシワを残しておいたものかもしれない。



途中の木を観察
大きなコナラやクヌギがあるので、写真を取りながら登った。すると下草にもホタルカズラやジュウニヒトエがあるのにも気が付いた。いつもは、皆と一緒で早く登るので気が付かないが、ゆっくり登るといろいろなものに気が付く。










頂上のすぐ手前の開けた場所
頂上のすぐ手前にはヤマツツジが沢山咲いていて、上木がない場所では、南向きの陽当りの良い斜面ではワラビが沢山生えていた。しかし、ワラビを採るには少し時期が遅かった。大きくなりすぎているのと、既に先にきた登山者により採られていて、食べられるような大きなワラビはなかった。


要害山頂上
頂上で昼飯のおにぎりを食べた。標高は536mである。しばらく休んでから降り始めた。



降り始めて気が付いた木の花
登ってくるときは上をなかなか見られなかったが、降りる時は上から下を見下ろすので、木の花が沢山目についた。












鏡渡橋まで下る
頂上から鏡渡橋まで下ると晴れてきた。鏡渡橋から新井まで歩く。約15分だった。ここで10分ほど待ってバスが来る。


(クレマティス)
待っていると能岳、八重山方面から降りてきた人が沢山いた。年配者ばかりで10人ほどいた。聞けば立川の山のグループのことだ。毎週近隣の山の登山をしているとのこと。熱心なグループがいるものだ。
ここから上野原駅まで戻り、帰宅した。今回は、遅れて行ったため一人でゆっくりと山を登りじっくりと植物を観察できて良かった。皆で行くと楽しいが、もっと自然観察をしながら山歩きをしたいと思っている。
つづく。
会社パンフレットを更新しました。
5月の駒ケ岳

出かけるのには一番良い気候となってくるこの時期。
コロナ禍の間中止が続いていた行事やイベントが制限なしで開催されるなど、
以前の賑わいが少しづつ戻ってきています。
新型コロナウイルス感染症の感染症法上の位置づけが現在の2類から5類に移行するとのこと。
何が変わるのか?
・一般的な医療機関での診療・診察が可能。
・検査、治療、入院費用等の医療費の自己負担あり。
・陽性の場合の法律に基づく外出の自粛は求められない。
(ただし、発症翌日から5日間かつ症状軽快後24時間が経過するまでの外出を控えることを推奨)
・濃厚接触者としての特定、法律の基づく外出等の自粛は求められない。
・感染者数の把握が全数把握から定点把握へ。死亡者数の発表は終了。
などで、基本的には季節性インフルエンザと概ね同様の扱いとなるようです。
とは言え、季節性インフルエンザでも、
感染しないように、また、周りにうつさないように注意を払うわけで、
これまでと変わらず、体調管理に気を付けていきたいところです。

現場で遭遇したモノたち
新年度になって弊社にも新たな顔が何人か増えました。
新人の姿勢に刺激を受けます。いい感じです。
本人たちはわからないことだらけで大変だろうけど、いい影響がある気がします。
さて、今回は現場に出たときに遭遇する生き物を紹介します。

まずはカモシカです。山の現場に行くとたまーに会います。
こいつはのんびりしてるので、かなり近づかないと気づきません。
なので良く観察できる特別天然記念物です。

次はトビです。トビとノスリが分かると猛禽類が区別でき始めて見るのが楽しくなります。
なんか飛んでるな、は大体こいつ。



橋の下にはムササビがたまに巣を作っています。
ちょうど飛び立つ瞬間が見られました。
カメラ待っててくれてありがとう。
生物相手だとなかなか狙った成果を出すのは難しいですが、いい写真が撮れた時は喜びが大きいです。
なのに環境調査の仕事じゃない現場で希少種を見つけることも割と多く、そんなこと無いのにもったいない気がしてきます。
弊社の環境調査の仕事は数多くあるわけではないですが、それぞれ興味深いものが多いのでコンスタントにあるとうれしいです。
[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.5_小仏峠から高尾山
2023年(令和5)年4月1日の土曜日、小仏峠から高尾山を登った。今はヤマレコという歩いたルートを記録してくれる便利なアプリもある。一緒に歩いたメンバーが記録していたのが、次のルートである。歩いた時間は約5時間。歩行距離は7.2km、累積の登りは587mだからたいしたことはないように思えるが、実際はもっと長距離を歩いたようだ。記録上は7.2kmだが、10km以上は歩いたと思う。山道はアップダウンが多く、クネクネだから地図上の距離よりももっと長いだろう。だからヤマレコも歩行距離については改良の余地があろう。天気が良く4月にしては強い日差しにあたったからだろうかあるいは私が年を取ったからだろうか翌日は少しだが疲労感が残った。
高尾山から小仏城山を通り相模湖へ抜けるルートは、昔何回か歩いたことがある。今回は小仏峠から高尾山への逆ルートだ。

メンバー
いつも一緒に行っているフランス人の神父さんのグループでの山登りである。今回は女性が10人、男性が5人ほどである。今回もカメルーン人の方が参加している。いろいろな種類の体を動かす活動があるが、少し歳が行くとどのような活動でもほぼ女性の参加者の方が圧倒的に多いようである。例えばマラソン、ヨガ、ピラティスなどもそうである。精神活動でも趣味としての語学なども女性の方が相当に多いと思う。
JR高尾駅に集合
高尾駅から9時12分発の小仏峠行のバスに間に合うように集合せよとのことだった。しかし、9時頃までに高尾駅に着いていたのは私ともう1人の方のみで、多くの参加者はギリギリか少し遅れて来た。幸い天気が良く、登山客が多いのでバスが増発され、9時20分過ぎに高尾駅を出発したため遅れてきたものも間に合った。
小仏峠バス亭から登り始める
終点でバスを降りた。すると目の前を中央道が通っていて、すぐに小仏トンネルに入る場所だった。天気が良く、サクラも満開で絶好の登山日和だった。


景信山への分岐
歩き始めて、わずか20分くらいで景信山への分岐の道標がある。景信山もすぐ近くだ。
植物観察をしている集団を追い抜く
しばらく歩くと10人ずつくらいのグループに分かれて植物を観察している人達を追い抜いた。聞けば、東京都の森林インストラクターがリーダーとなり、一般人を募集した植物観察会とのことだ。全員で60名ほど参加しているとのこと。行きは植物観察で帰りはゴミ拾いのボランティアとのことだった。それで全員が大きなポリ袋を持っているのだ。とっても良いことだ。多くの花が咲き始めた早春のため、植物観察会の方が面白そうだった。我々のグループのメンバーにも色々な花を観察するのは面白いから見るように勧めるのだが今一つ興味がわかないようだった。歩くだけで回りを観察しないのは多くの楽しみを失っていると思うのだが。

増えたのであろう
この周辺の植生
この辺りの代表的な自然植生帯は、常緑広葉樹林帯から夏緑(落葉)広葉樹林帯の境界にあたる。多少標高が高いのでどちらかと言えば、夏緑広葉樹林が多い。しかし、スギの人工林の中にもアオキ、シロダモ、ヒサカキなどの低木の常緑広葉樹が多く見られる。スギがなければ、高木はカシ林やシイ林ももっと現れるであろう。だが、スギ、ヒノキなどの人工林以外の自然林では、コナラ、クヌギの類が圧倒的に多い。これも昔の薪炭林の影響と思われる。ブナはこの辺では標高の低い所に現れるイヌブナである。カエデやヤマザクラも多い。針葉樹では尾根沿いにモミやアカマツが多い。

尾根沿いには時々大きなモミもある
小仏峠
1時間ほど歩いて、小仏峠につく。バス亭から2.8kmとのことだ。ここまでは比較的緩やかな登りだった。ここで一休みだ。




城山で昼飯
小仏峠から30分ほど歩いて(小仏)城山の頂上である。標高は670mだ。高尾山が599mだから高尾山よりも70m高い。城山の頂上には城山茶屋があり、長椅子やテーブルも沢山あるので、15人がまとまって昼飯を食べた。天気も良くおしゃべりタイムでもある。茶屋でみそ汁を買って味わっているものもいる。この日はエープリールフールだったので、ここから高尾山まではあと4時間は歩くよと言ってみたりすると、すかさずウソでしょうと返事がくる。実際は1時間半ほどで着くのだが。ここで、大ウソの言い合いを楽しんだ。




城山から高尾山へ
ここから登山客がグッと増えた。行列までは行かないとまでも人がとぎれることがない。




高尾山山頂
午後1時40分頃に高尾山山頂に着く。歩き始めてから4時間後だ。4月1日にしては暑い。山頂の自動販売機でジュースなど買って飲んでいるものもいる。ただし、値段は低地よりもかなり高い。しばらく休憩して高尾山口駅を目指して下ることにする。

薬王院
下り始めてしばらくして薬王院に着く。薬王院は、真言宗智山派の関東三大本山の一つだそうだ。天平16年(744年)に聖武天皇の勅命により東国鎮護の祈願寺として、行基菩薩により開山されたそうであり、その際、本尊として薬師如来が安置されたことから薬王院と称しているとのことである。



薬王院の下のスギの巨樹並木
このスギ並木や内側に広がるスギ林には、高いものは45mほどの樹高があるとのことである。胸高直径は2m程度ある。50mを超えるスギは日本にもめったにないので、この周辺のスギは日本でもかなり高いスギである。しばらく下るとタコスギがあるが、タコスギの樹高は37mとのことである。

1号路を下る
ここからも少し下るとケーブルカーとリフトがあり、くたびれたメンバーはそれらを使って下り、元気な者は1号路を歩って下ろうということになった。ケーブルカーよりリフトの方が面白いからと少しのメンバーがリフトで降りた。しかし、いずれも乗り場は行列でかなりの時間を待たないと乗れない状態だった。



1号路はほぼ舗装されているが、かなりの急斜面である。ブレーキを掛けながら降りるので太ももの筋肉にひびく。逆向きで下ると太ももにひびかないので楽だ。明日は筋肉痛か?下って沢沿いに出ると道の傾斜も緩やかになる。この沢沿いのスギの樹高は相当に高い。胸高直径は1ⅿまではいかないが高さは45m程度はありそうだ。ひょっとすると薬王院下のスギ並木のスギよりも高いかもしれない。

ケーブルカーの終点に着く
午後3時半くらいにケーブルカーの終点に着いた。ここからもう少し京王線の高尾山口駅まで歩き、ここで解散となった。天気が良く、最高の登山日和だった。
東京周辺で最も手ごろな登山地としては何といっても高尾山だろう。都心から約1時間でアクセスでき、かなりの登山気分、森林浴を味わえる。まだ、4月初めだったからひしめきあうほどの人でなく良かったもののゴールデンウィークは相当な行列になると思われる。特に今年は、コロナ対策のマスクを付けるのは個人の自由に緩和されたから例年に増してごったがえすと思われる。
私は高尾山には数えくれないくらい登っているが、一度は登る価値はあると思うので、登ってない方は、是非登ってみて下さい。

つづく