[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.9 鷹取山(神奈川県相模原市)

森林紀行

鷹取山
 鷹取山は、中央線の藤野駅や上野原駅から歩いて登ることができる標高472mの低山で、里山ハイキングにぴったりのコースである。てっきり山梨県の山と思っていたが、ここは、神奈川県の相模原市緑区の佐野川地区が山梨県に入り込んでいるような地域で神奈川県の丹沢山系の端にある山である。

鷹取山地図

 2023(令和5年)9月23日(土)藤野駅から歩いて鷹取山の頂上までを往復した。歩行距離は、往復約15km、5時間の歩きであった。
 鷹取山は、明るい林相で自然を感じながら歩けるコースで、天気の良い日だったら楽勝の山である。しかし、この日は天気が悪かったのがわざわいした。低山は脇道が多く迷い易いと言われているとおり、実際に下山時にメンバーがバラバラとなってしまったのが原因で、道に迷ったものもいた。幸い脇道から主要道まで近く、全員無事下山した。午後3時くらいから雨も本降りとなり、低山といえども油断はならず、多くの反省点のある山行だった。

家からもより駅へ
 前日の晩から雨が降っていて、予報では夜中に止むとのことだった。だから私は行く予定にしていた。しかし、朝になっても小雨が降っていたので、行くのを迷った。とはいえ何人かのメンバーは来るだろうと思い行くことにした。雨に備え、ゴアテックスの雨具と傘も持って行った。もより駅まで自転車で行ったので早速ゴアテックスが役立った。

藤野駅
 藤野駅に9時30分集合だった。5名が集まった。メンバーはフランス人2名、アメリカ人1名、日本人が私ともう1人で、合計5名であった。藤野駅ではまだ霧雨が降っている。

藤野神社へ
 9時40分頃、藤野駅からまずは藤野神社に向かって歩き始める。すぐに中央線の下をくぐる短いトンネルがある。くぐって10分ほど歩くともう藤野神社だ。この頃には雨は上がって、ほっとした。
 今までの猛暑とは打って変って、この日は天気が悪いせいもあり涼しく快調に歩けた。湿度は高かったが涼しいので蒸し暑さも感じなかった。しかし、湿気ているので汗はかなりかいた。

藤野神社
 神社の手前の土手にはヒガンバナが沢山咲いている。そしてユズが植えられている斜面もある。アメリカ人のソフィーさんが初めて見るようで珍しがっていた。フランス人のルイさんが、日本の山里にはユズは多いのだよといろいろと説明している。ソフィーさんは英語とスペイン語を話し、ルイさんはフランス語と英語と日本語を話す。

ヒガンバナ
藤野神社手前のユズ
藤野神社への階段

岩戸山へ向かう
 神社へは登らず、横道を上に登って行く。しばらく登ると道沿いに小さな祠があった。これ以降もこの道沿いには小さな祠が沢山あった。

山道沿いにあった祠

水源の森
 すぐに伐採や間伐を行った森林となった。私はここは山梨県とてっきり思っていたが、神奈川県の水源の森だった。前述したように、神奈川県の相模原市の丹沢山系の端っこが山梨県に入り込んでいるような場所だった。

神奈川県の水源の森
杉林を通して対岸をみる
スギ林を進む
東電の高圧線も山中に通っている
対岸の山と上野原の町
コナラ
ヤマザクラ

岩戸山
 歩き始めて約40分。10時20分頃に岩戸山に着く。ここで小休止。藤野駅の標高が219mで岩戸山が377mだから158m登ったこととなる。
 ソフィーさんが半ズボンで来たのでスネを蚊やブヨに沢山刺されてしまった。「誰か防虫剤を持っていないか?」と尋ねるが、あいにく誰もそれを持っていなかった。それで「我慢してね。」ということになり、ソフィーさんは、「大丈夫。大丈夫。」と言いつつ帽子で盛んにスネのあたりを払い、虫を追い払う。

岩戸山頂上

小淵山へ向かう
 ここから小淵山まではかなり緩やかなアップダウンで楽な道だった。このあたりの林相の上層を見るとかなり密な状況でコナラとヤマザクラであった。

上層はコナラとヤマザクラが優占する林相

小淵山
 小淵山に着いたのは11時だから岩戸山からわずか15分くらいだった。標高は350mだから岩戸山より27m低い。ここで写真を撮った時に頂上の標識に杖を立てかけ、ここに忘れてしまったのだ。この杖を忘れたことが下山時に皆がバラバラとなってしまった原因となる。
 猛暑がこの日は吹き飛び、涼しさが続くが、湿度が高く速乾のTシャツを着ていたが、汗ビッショリだった。

小淵山の標識
小淵山頂上

鷹取山へ向かう
 小淵山から下り始めると、すぐに杉林に入り、杉の木そのものに手すり代わりのロープが張られているほど、相当に急な下りがある。もちろん逆に登れば相当な登りである。昨日からの雨で道が濡れているので、湿っているロープを掴んで、その助けを借りないと滑ってしまう。ソフィーさんがスポーツシューズで来たのでここを降りるのにも苦労している。この辺りから色々な種類のキノコが沢山生えているのが目に付く。

シロオニタケ
サルノコシカケ
ヤブラン
シラヤマギク
コウヤボウキ
ハンモックサラグモの巣

林相
 先に密な場所の上層はコナラとヤマザクラが優占していると書いたが、樹木の密度が多少疎になり、光が入り明るくなると上層はコナラとアカマツが優占する。

上層はアカマツとコナラ

始めて人に出会う
 途中、初めて、前期高齢者に思える3人組に会った。今日は生藤山に登る予定だったそうだが、雨模様なので予定を変えて鷹取山に登って来たそうだ。これから降りて町で一杯やるそうだ。ここから鷹取山までどれくらいかかるか聞くと、30分以上はかかるだろうということだった。我々はここから約40分で鷹取山の頂上に着いた。

鷹取山
 12時10分だった。鷹取山の頂上には、鐘楼堂の跡や烽火台跡があった。鐘撞堂からは、武田家所領の時代に軍の陣場へ大鐘を掛けて合図をしたそうだ。また烽火台からは、のろし火をあげて上野原鶴島の御前山砦や大月の岩殿山砦へ合図をしたということだ。天気が良ければ360度のパノラマビューが楽しめ、陣馬山や富士山も見えるとのことだったが、生憎の曇り空で対面の山並みとその下の町しか眺めることができなかった。
 ここで昼飯を食べおしゃべりを楽しみ1時間ほど休んだ。それから下りだしたが、全く同じ道を下る。ソフィーさんは若干くたびれ気味で近くの上野原駅に降りたいことだったが、予定通り来た道を戻り、藤野駅に戻ることにした。ここでもソフィーさんの様子を見て、彼女の疲れ具合から、少しでも近い上野原駅に降りるべきだったと今になって思う。

鷹取山頂上
頂上から上野原方面
同上

ソフィーさんが膝をすりむく
 小淵山へ巻道がある分岐の前でソフィーさんがスニーカーのため滑り膝をすりむく。かなり急斜面だったが、若干くたびれてきて道は濡れて小石が多かったので滑ってしまったのだ。ここでルイさんらが膝を拭いたりするのを手伝っていたので、この分岐から私は一人で、「小淵山にもう一度登り、杖を捜しに行く。」と言って、一人で小淵山方面へ向かった。
 するとすぐにハナさんが、「私も行く。」と言い、すぐに私を追い越し前を歩き始め、小淵山へ一緒に向かった。
 残りの3人は、レオさんを先頭に巻道を行った。時々上と下とで声を掛け合いながら行ったが、しばらくしてレオさんの声が聞こえなくなった。

3人の状況
 後で3人組の状況を聞くと、レオさんが先に行き過ぎたため、後のルイさんとソフィーさんの2人がレオさんを見失なったとのことだ。レオさんはレオさんで、横道が多いので、一人で道に迷ってしまったとのことだった。

小淵山
 私とハナさんは小淵山に着いた。案の定、杖は小淵山の頂上を表す杭に立てかけてあった。私は杖が見つかりほっとした。

ルイさんから電話
 そこにルイさんからハナさんに電話があった。ルイさんとソフィーさんの2人は道に迷っているとのこと。レオさんとはぐれたとのことだった。
 私は、たいして困ったとは思わなかった。というのは、この山の、ほぼ東西に通る尾根はおおむね400m~200mくらいの高さで、尾根に沿って走る南北の舗装道路に降りるのは30分~1時間くらいで降りられるからだ。
 ハナさんが近くの道標があるところで待つようにルイさんに指示してハナさんと私も今来た道を一緒に戻る。しかし、しばらく歩き私は体力がないので、ハナさんに付いていけないので、一人で岩戸山から藤野駅に戻ることにして、ハナさんには二人が見つかったら私のスマホに連絡をくれるよう頼んで私は一人で戻る。歳を取り、体力がないということは何と情けないことかと思ったものである。

小淵山で見つけた杖とともに

岩戸山
 15時頃からかなり雨が降り出した。本降りとなった。私はゴアテックスを持っていたが、まだこれを着ないでも風がないので傘でしのぐことができた。既に山はかなり暗い。雨が降っていて山の中だと真っ暗という表現でもおかしくない。ヘッドライトを持っていれば良かったと思った。

岩戸山を示す道標
再び岩戸山頂上
林芙美子の読んだ歌が岩戸山にある

ハナさんから電話
 ちょうど、その時ハナさんから連絡があり、2人を無事発見し、小淵山、岩戸山から藤野駅に戻るとの連絡があった。ハナさん情報だとレオさんからも連絡があり、14時半頃、藤野駅に着いているとのこと。私は、藤野神社を通り、15時半頃、藤野駅に到着した。

レオさんの話
 レオさんは登った尾根道ではなく、北側の谷沿いから広い舗装道路に降りてしまい、近くの農民に道を聞き、藤野駅に戻ったとのこと。

全員合流
 ハナさん達3人は16時頃藤野駅に到着。ソフィーさんも駅で缶ジューズを飲んで、元気を取り戻した。また、皆何事もなかったかのように話に夢中になった。

雨雲。藤野駅方面
藤野駅
藤野駅から帰宅へ

帰宅
 16時過ぎの中央線で藤野駅から、帰宅した。このころには雨は上がっていた。
 今回の山行は、様々な反省点があった。低山ほどいろいろな巻き道、横道が多く、迷いやすいので、全員がそれぞれ地図を持つことは必須と思った。他のメンバーに頼らず、一人でも歩けるように事前に地図を見て、必ず持って行かなければならない。メンバー間ではスマホで連絡できるようにしておく。グループラインがあるので、全員それに入っておく。簡単な山登りでも装備はきちんとし、例えば、登山靴、雨具、ヘッドライトは必須。半ズボン、半そでは避け、長ズボン、長袖。できれば山行の保険に入るなどである。
 しかし、最も簡単で安全な対策は、雨模様の時は山に行かないことである。好天であれば、全く問題はなく、もっと楽しい山行であっただろうと思うのである。



つづく

10月の駒ケ岳

社窓
10月の駒ケ岳 初冠雪

暑すぎる9月が終わったと思っていたら、
駒ケ岳では初冠雪。夏から秋を通り越して冬への入り口を感じる季節となりました。
10月に入ってから秋らしい晴れの空がみられるようになってきました。

やっと秋らしくなってきましたが、
この夏の猛暑のためなのか、秋の味覚にも影響があるようです。

信州の味覚といえば「きのこ」
暑さの影響でいまのところ不作の様相。
これからの気温の低下や降雨の状況に期待するとのことです。

秋の食卓にならぶ「秋刀魚」
こちらも暑さによる潮流の変化などがあり、不漁とのこと。

一方でぶどうの王様「シャインマスカット」
こちらは、例年に比べて豊作で、価格もかなり安いとの報道もありました。
ただ、ぶどうについては暑さの影響で身が割れてしまうものも多かったとのお話も聞きました。


夏の雨が少なく品等が下がった、逆に天候に恵まれ豊作になった、
台風の影響で収穫量に影響があった、逆に台風の影響が無く過去最高の収穫量になった、
など、品目や地域によっても差があるようです。

短い秋となりそうですが、しっかりと楽しみたいです。

2023年10月の南アルプス

9月の駒ケ岳

社窓
2023年9月の駒ケ岳

9月になっても真夏日が続く厳しい残暑となっています。
とは言え、信州では、朝晩は涼しく心地よい風が吹くようになってきました。

先月に引き続き、社屋の外壁等の改修工事で足場が組まれていますが、
両アルプスは、連日真夏日となるものの秋晴れとはならず、雲に隠れていることが大半です。

さて、最近はスポーツの話題が豊富です。

FIFA 女子ワールドカップオーストラリア・ニュージーランドでは、
女子サッカー日本代表(なでしこジャパン)が、
宮澤選手が得点王に輝くなど素晴らしい試合を見せてくれました。

世界陸上2023 ブダペストは、
日本人選手メダル2、入賞11という素晴らしい成績で幕を閉じました。

FIBA バスケットボール ワールドカップ2023では、
バスケットボール男子日本代表(AKATSUKI JAPAN)が
パリ オリンピック2024 への出場権を掴み、大いに盛り上がりました。

続いて、ラグビーW杯2023フランスが開幕し、
日本代表(BRAVE BLOSSOMS)の戦いも楽しみなところです。

また、FIVB ワールドカップバレー2023が日本で開幕します。
こちらもパリ五輪の予選を兼ねており、
女子日本代表(火の鳥NIPPON)、男子日本代表(龍神NIPPON)
ともに、躍進が期待されるところです。

さらに、プロ野球セントラルリーグでは、
阪神タイガースが18年ぶりに『あれ』改めリーグ優勝を決めました。

これから、スポーツの秋がやってきます。
まだまだ楽しみが続きそうです。

現場で出会う生き物

ゼンシンの日々

入社して4,5か月が経ちました。

社会人になってから時間がとても速いです!

さて、現場に出て作業していると様々な生き物に出会いますが、今回は山梨県北杜市で見かけた生き物の痕跡をご紹介します。

まずはこちら。山中の作業にて発見。

これは「キツネの巣穴」です!

私はキツネなんて馴染みがないので、びっくりです!

昼間はこの中で寝ているそうですが、起こして襲われるのが怖かったのでそっと覗いておくだけにしました(笑)

続いては、こちら。

やぶを切り開いて作った場所なんですが、後日訪れるとぼこぼこにされていました…

イノシシだ!と思ったのですが、違いました(笑) なんだかわかりますか??

これは「シカの寝床」だそうです!

シカも寝床を作って寝るんですね、知らなかったです。

作業現場からの風景               

他にもサルやカエル、トンボ、マムシなどたくさんの生き物をみかけました。

作業の合間にこういう楽しみ方ができるとリフレッシュにもなりますね。

まだ暑い日が続きそうですが、体調管理に気を付けて頑張っていきたいです!

インターンシップ

お知らせ

7月31日から8月4日までの間、
本年度ならびに令和6年度卒業予定の学生さん2名の
インターンシップ受け入れを行いました。

まずは、社内にて弊社ならびに測量・建設コンサルタント業界の紹介、
測量、調査、設計など業務の内容について説明をし、
その後、周辺の砂防施設を巡ってりました。
現地では施設の意味や必要性、
ここでの私たちの会社が担う役割などについて理解を深めていただきました。

UAVの飛行実習では、弊社の技術者が操縦方法などレクチャーした後、
学生さんに実際に小型のUAVを操縦していただき、写真の撮影まで行いました。

また、測量の現場では基準点測量を行い、実際に器機の設置や観測の作業を、
流量観測の現場では、担当者から観測の必要性や作業の内容などを説明し、
間近で観測作業の様子を見てもらいました。

学生の皆さんには、私たちの仕事の一部ではありますが体験をしていただきました。
ありがとうございました。

弊社では、今後も随時、インターンシップ、仕事体験など受け付けております。
仕事体験につきましては会社見学と合わせて1日からでも可能です。
ご希望する方は下記の連絡先までお気軽にお問い合わせください。

株式会社ゼンシン 採用担当
    TEL 0265-83-4865
    FAX 0265-83-9728
    E-mail : saiyou@k-zensin.co.jp

8月の駒ケ岳

社窓
2023年8月の駒ケ岳

連日猛暑が続いています。
今年の7月は日本のみならず、世界的に記録的な猛暑となったようです。
長期予報では、これからも平均より気温の高い日が多くなるとのことで、
厳しい夏の日、また厳しい残暑となりそうです。

現在、社屋の外壁等の改修工事で足場が組まれており、
社窓から景色が望めなくなっているため、
駒ケ岳の写真は、社屋周辺で見える場所を探して撮影しました。

連日の猛暑の中で作業をしていただいており、
職人の皆さんには本当に感謝です。

過ごしやすいといわれるここ信州でも、
熱中症警戒アラートが発表される日が多くなっています。
くれぐれも体調に気を付けてお過ごしください。

ジオツアー「遠山川の赤色チャートの追跡!」

ゼンシンの日々

伊那谷自然友の会で飯田市南信濃の遠山川流域を巡りました。

午前中の上流域は日陰もあり、心地良い時間を過ごせました・・・が、

午後の下流域は酷暑で、さすがは南信濃という感じでした(汗)

数m級の転石がゴロゴロする上流域には、海底に堆積した放散虫の殻を起源とする赤色チャートがあちこちに。
これが赤石山脈の名の由来となったそうです。

令和5年度 国土交通省天竜川上流河川事務所 優良工事等表彰

お知らせ

この度、国土交通省天竜川上流河川事務所 優良工事等表彰におきまして、優良業務並びに優良業務技術者表彰を受けました。

発注者様はじめ、関係の皆様には、心より感謝を申し上げます。 今回の受賞を励みとし、こころを新たに、さらなる技術やコンピテンシーの向上に努めて参ります。

優良業務表彰
受賞者 株式会社ゼンシン
業務名 令和4年度天竜川上流河川管理施設等監理検討業務
    (国土交通省中部地方建設局天竜川上流河川事務所発注)


優良業務技術者表彰
受賞者 中島 一郎(管理技術者)
業務名 令和4年度天竜川上流河川管理施設等監理検討業務
    (国土交通省中部地方建設局天竜川上流河川事務所発注)

夏が来ました!

ゼンシンの日々

ここのところ暑い日が続いてます。

体がまだ暑さに慣れていないせいか余計に暑い気がします。

ですが、長野県に越してきて思うのは、湿度が低く、

外にいても日陰に行けば涼しいので、比較的過ごしやすいです。

それでも暑いものは暑いのでついつい涼しいところに行きがちですが

子どもはそんなのお構いなし!

週末はお散歩に連れ出されました。

とても良い天気で気持ちがいいですね。

我が子に感謝です。

あまりいい写真は撮れませんでしたが、天気の良さくらいは伝われば幸いです。

[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.8_大阪-岸和田市、吹田市、大阪城

森林紀行

大阪へ
 昨年亡くなった友人宅へ弔問のため、大阪へ出かけた。岸和田市に住む友人が、昨年(2022)の11月にがんで亡くなり、その時にコロナ感染が拡大しており葬式に行けなかったため、現在(2023年6月)、コロナ感染対策が緩和されているので、改めて友人の奥様にお悔やみを述べに行ったものである。弔問したのは2023年6月21日で、日帰りは大変なので一泊した。折角、大阪に来たので、この機会を利用し、その晩は、岸和田に近い関空に勤める従弟に会い、翌日、吹田市の介護施設にいる友人を見舞い、その後、大阪城を見学したものである。今回、多少重いテーマを扱ったので、辛抱して読んでいただければ幸いである。

大阪府の地図

新幹線の切符購入
 新幹線に乗るのは、2017年以来、6年振りである。その時も大阪に行ったので、その機会を利用し、亡くなった友人にも会っている。
 事前にみどりの窓口で切符を買ったが、今年1月一杯で、最寄り駅のみどりの窓口が廃止されたので、別駅で買わざるを得なくなった。話せる指定席券売機で別列車の特急券を買ったこともあるが、時間がかかり、後ろで待っている人に文句を言われ、暴力を振るわれそうになったことがある。不快で危ない思いをさせられた。前の人が終るまでは、順番で待たなければならないという世の中の基本的ルールが守ることができずに、イライラする人が益々増えているような世の中なので、年配者はより気をつけなければならない。長距離切符の販売は、年配者には対面で対応してくれることが一番ありがたいので、みどりの窓口は是非復活させてもらいたいと思う。

大阪へ
 東京駅から7時3分発のひかり号に乗ったが、朝は一般の電車の本数が少なく、余裕を持って東京駅に着くため家を5時過ぎに出た。東京駅には発車30分以上前に着いたが、あせることなく余裕があり、安心できた。
 予定通り発車し、品川、新横浜と止まり、乗客も増えてきた。友人と二人で弔問することにしていて、その友人が静岡駅から乗ってきた。予め隣席を予約しており、そのとおり合流できた。その友人は、グループラインの仲間で、しょっちゅうメールをし、時々電話でも話していたが、会うのは久しぶりだったので、積もる話をしつつあっという間の感じで、新大阪駅に9時57分に着いた。

品川付近の再開発
多摩川付近
武蔵小杉付近のタワーマンションと高層ビル群
静岡付近、中央付近に見える頂上に
少し雪が残る富士山が薄く写っている

新大阪駅から岸和田方面へ
 新大阪駅に降りると、エスカレーターの乗り方が東京とは逆なので、早速、大阪に来たなあとの思いを強くする。歩かない人は右側に乗り、左側は歩く人用となっているのだ。
 友人宅が岸和田市だったので、新大阪駅から、岸和田市方面に向かった。新大阪駅から1時間以上かかり、私は大阪の土地勘がないので、意外に遠く感じた。大阪も案外に広いのだ。

タクシーの運転手
 最寄り駅から友人宅まで、タクシーを使ったが、往きの運転手さんは年配の方で、いかにも大阪人という感じがして、良くしゃべってくれた。良くしゃべってくれるので、私が明日行くつもりの大阪城の見学はどうかと聞くと、今は何々展をしているから是非行くべきだ、天守閣も登るべきだし、しゃちほこも見ることができると教えてくれた。とても好感が持てる方だった。
 しかし、帰りに友人宅から駅まで乗ったタクシーの運転手は、多少若かったが、無愛想で何もしゃべらず、運転も荒く、好感は持てなかった。

友人宅
 友人宅では奥さんが待っていてくれた。早速仏壇に手を合わせ、お線香を上げさせてもらった。その後、積もる思い出話を延々とさせてもらった。奥さんも友人に代わって昔からの友人のような感じがした。沢山しゃべってくれ、良い慰問になったと思う。しかし、沢山ごちそうにもなり恐縮した。私も一緒に訪問した友人も若い時に、この友人宅に泊めさせてもらったことがあるのだったが、その時のことについてはよく思い出せなかった。
 息子さんの家から持ってきてもらったギターで、讃美歌の星の界などを弾かせてもらい、友人に捧げた。また、今日弔問に来られなかったライングループの友人が歌い録音してくれた、同じく、星の界、雪山に消えたあいつ、喜びも悲しみも幾歳月を改めて聞き、皆でしんみりとした。また、息子さん達が編集した友人の元気な頃のビデオを見て、亡くなった友人を偲んだ。

友人のがんの経緯
 友人は、昨年(2022年)の始めまで、小学校の先生をしていた。定年後の再雇用も終了し、その後は、ベテランの味を乞われて臨時の先生として学級崩壊しそうなクラスの理科を任されて苦労していたのだった。ずっと働き詰めであったが、マラソンや卓球などスポーツも続けていたし、体はいたって丈夫なはずだった。つい最近まで実際のマラソンの距離(42.195km)の市民レースなどにも出場していたのだった。
 それが昨年(2022年)2月に体調に少し異変を感じたことで、勤めを辞め、病院で検査をしたところ、がんと分かり、3月から直ちに大阪市大病院で抗がん治療を始めたのだった。抗がん治療によりがんを小さくしてから手術をしてがんを取り除くという方針で、最初は6月くらいの手術を予定していたが、「コロナ」の感染拡大などの影響で手術は8月に伸びた。
 この間、抗がん治療は上手く行き、徐々にがんは小さくなってきているとのことだった。ただし、抗がん剤の副作用で最初は元気で何ともなかったのが、治療を重ねるごとに、徐々に体が弱まってきているとのことだった。
 そして8月の手術は成功した。これで友人の家族も私も他の友人も一安心だった。しかし、その後、しばらくして熱が出て、なかなか安定した状態にならなかった。何らかの感染症に罹ったようで、効く抗生物質を捜し、いろいろ変えて試していたが、上手くいかず、とうとう様々な合併症を発症し、結局、昨年11月にこの世を去って行った。

仲間のライングループ
 「コロナ」が流行し始めたころに、大学時のクラブの友人達、私とその友人を含め4人でラインのグループを作り、メールをしたり、時々オンラインで飲み会をしたりしていた。この友人ががんとわかった頃からは、毎日のように頻繁にメールのやり取りをするようになり、励ましたり、逆に励まされたりしていた。

がんは思考を深めてくれる病気
 ある友人は、がんは生き方が問われる病気と言ったが、確かにがんは、死に直面し、治る場合もあろうし、治らなくとも直ちに死ぬわけではなく、それまでにかなりの時間がある。そのため、がんは、人生の終わりを確かめる時間を与えてくれる、つまり、思考を深めてくれる病気と思う。
 がんは、治療の進歩によって、完治することもあれば、長期間にわたって治療を続けることもある。がんの種類や進行度、治療法などによって、予後や生存期間は異なり、また、がんの治療は、効果だけでなく副作用や資金面、家族などの負担も伴う。がんになった人は、医師から説明を受けたり、自分で情報を集めたりして、納得のいく治療を選択しようとするだろう。しかし、治療の結果や将来の見通しは不確実である。いずれにせよ、残されたと思われる時間の中で、自分の価値観や目標を見つめ直したり、大切な人との関係を深めたりすることで、より充実した時間を過ごすことができるかもしれないのである。つまり、自分の生き方や死に方について考える時間が増えるのである。それは必ずしもネガティブなことではなく、充実した時間ともなり得るのである。

友人とのメールのやり取り
 友人ががんとわかってからは、友人は「死」と向き合った。私と健常の友人達も最初は「死」という言葉は避けて、あえて使わなかった。しかし、メールをやり取りしていて、「死」という言葉を使ってももう友人も大丈夫、いや、むしろ使うべきだと思った時点からグループの仲間は皆「死」という言葉を使いだし、皆が死と向き合った。その後は、人は健常者でも病人でも死ぬまでは生きているのだから、生きている限りは病人も回復の可能性はあるし、何らかの思考ができるのだから充実した時間にすることもできるだろうし、他にもいろいろな可能性はまだあるだろうと言ったやり取りをしていた。

友人の悟り
 友人は、大学に入ってから知り合ったのであるが、高校の時にはインターハイにも出場し、スポーツでは活躍していた。ただし、大学に入学以降は、思索を深め、民主的な思想の持ち主として育っていった。特にそのように考えが育っていったのは、この友人が学生時代に休学し、世界放浪の旅をしたことにあると思う。友人は、「個人レベルで付き合えば、どこの国の人も家族、隣人を大切にするし、そこには国境という線引きはない。」と常々語っていた。
 私も海外の仕事をしていたので、この言葉は良く理解できる。だから旅から帰り復学した後は、学部の自治会の役員も行っていた。卒業後は、小学校の先生となり、未来を担う子供達を育て、地域活動も積極的に行っていた。
 そして、「がん」を宣告された時に、こう語った。「命の時間を否応なしにカウントすることになりました。でももし、命を拾えたら大切にしよう。もしダメでもそれはそれでいいではないか。できなかったことは次に生まれかわったときに置いておこう。というのが率直な受け止めで、本当に落ち込んだり、へこんだりはしませんでした。自分ではこの状況と日々の生活に精一杯向きあおうと思いました。」このようにガンになっても決してへこたれずに、今までと同じように日常生活を続けるという強い意志が感じられた。
 それで、私は、友人が死や俗事をも超越し、悟りの境地に達したと感じたので、私が彼に、「達観したね。」との趣旨のメールを送ったら、その後に返ってきた彼の言葉は、次のようなものだった。
 「これまでの数々の失敗や取り返しのつかない間違いを思うと「達観など許さない」というと自分の声が聞こえてくる。ロシアのウクライナ侵攻、日本の中国やアジア諸国への侵略、沖縄問題、日本人のあり様などを思うにつけ、「生きる」とは自らの思いやこれまでの経験、積み上げてきたことに「こだわり続けること」、「KEEP ON」すること。「現実の矛盾に悶え続け、学び続けること」ではないか、というのが今の私の到達点です。」
 まさにこれこそが、この時点で彼が到達した悟りの境地と思った。彼は、自身の状態を「迷悟一如」と言った。「迷悟一如」の意味は「迷うことと悟ることは一体である。」とのことである。しかし、彼の言葉を読めば、彼は「迷い」から脱却し、悟りの境地に達したと感じた。その悟りは到達点ではなくて、人生の途上にあり、命の続く限り、より上位の所まで、そしてその上位の所は、到達点ではなくて、そこに到達したら、さらに上位の所を目指す、そういうことに気づいたのが「今の悟り」ということだと思った。
 つまり、彼は、「現実の矛盾→学び→実践→ある到達点→さらなる現実の矛盾→」とスパイラル回転して上に向かっているということだったのだ。このように彼は、ずっと上を目指していた。
 彼は、達観など許さないと言いつつも、やはり達観した境地に到達していたのだ。だから天国へと旅立って行けたのだ。それだけ密度の濃い生き方をしたのである。

東岸和田駅へ
 メールでこのようなとても重い話のやり取りをしていたが、奥様とはとりあえずは、元気だったころの思い出話を中心に話をしていたのである。奥様とはいくら話していても話は尽きなかったが、夕方近くになったので、友人宅をお暇した。一緒に訪問した友人は、日帰りのため新大阪駅へ向かい、私は東岸和田駅へ向かった。この日は東岸和田駅近くのルートインホテルに予約しておいたのだ。私の従弟が関空に勤めており、夜は岸和田で飲もうということにしていたのだ。

大阪環状線

東岸和田のルートインへ
 ルートインホテルは駅を降りたらそのままホテルに入れるくらい駅から近かった。チェックイン時に、東側には線路を挟んで大きな建物があるので、岸和田駅の先に海が見えるかもしれない西側方面の部屋にしてくれと頼んだところ、普通サイズの部屋が空いてなかったのか、多少広い部屋にしてくれた。いつも駒ヶ根のルートインホテルに泊まっていたけれど、その部屋よりも若干広く、それだけでも多少楽に感じた。

岸和田駅へ
 従弟との待ち合わせが、岸和田駅だったので、東岸和田から岸和田駅まで歩いて行った。ホテルのフロントで聞くと、岸和田駅までは道路が直線でわかりやすいが、歩けば20~30分かかると言われたが、待ち合わせ時間まで余裕があったので、ゆっくりと歩いて行った。やはり30分ほどかかった。途中、府立和泉高校などがあった。

大阪府立和泉高校
南海 岸和田駅

岸和田で飲む。
 予定通り、岸和田駅で従弟と会い、下の写真の左側に写っている居酒屋で飲んだ。今年の2月に私の母が97才で、残念ながらコロナに感染して亡くなり、コロナのため家族葬とせざるを得なかったが、その葬式に遠路大阪から来てくれた。それで会ったのは、4ヵ月ぶりだった。水ナスが上手いというので、これはとても美味しく感じた。私よりも大分若く年が離れた従弟だが、もう還暦に近い。子供の時一緒に遊んだわけではないが、齢が行ってから会う機会が増えたというところである。従弟が話し上手で、話がはずみ楽しかった。

岸和田駅前の居酒屋で飲む

再び東岸和田のルートインへ
 岸和田からの帰りはタクシーでルートインホテルに帰った。ここのルートインの建物は駒ヶ根のものよりだいぶ大きく、部屋数もかなり多そうだ。階下の大風呂も、駒ヶ根のものより3~4倍程度は広く、温泉のようで、とてもリラックスできた。部屋も多少広いだけで過ごしやすかった。

東岸和田駅

吹田市へ
 翌日6月22日(木)は、東岸和田駅から大阪駅に向かい、大阪駅で乗り換え、別の友人が入っている介護施設に向かった。東岸和田駅から大阪駅まで走っている電車は、JR阪和線で左側一列一人座りの椅子と右側二人座りの椅子だった。朝8時半くらいに乗ったので東岸和田駅からは座れなかった。1時間近く立っているのは大変だなあと思っていたところ、しばらくして座れたのでほっとした。友人の入っている施設の近くに、巨大な建物の吹田市民病院があった。

吹田市民病院

友人を見舞う。
 見舞った友人は大学時の同学科の同級生で、学生時代には山岳部にも入り、頑丈な体を持っていた。事前に今度大阪に行くから、食事でもしながら積もる話をしようとのつもりで電話をかけたところ、2年前から体調を崩し、施設に入っているというのでびっくりしたのである。それなら見舞に行くよといって見舞に行ったものである。
 残念ながら友人は腎臓を悪くしていた。週に3回、透析を行っているとのことで、施設と病院を往復しているとのことだった。コロナ感染予防で面会時間は30分と制限され、この日10時からと指定されていた。5年ほど前に、学生寮に入っていた仲間数人と名古屋で会ったが、その時はとても元気だったので、信じられない思いであった。あっという間に面会時間は過ぎ、積もる話もほんの少ししかできなかったのは、残念だった。前述した友人はがんで亡くなるし、この目の前にいる友人は体調不良であるし、自分の健康も考えざるを得なかった。健康は個人差が大きいものの私も平均の健康寿命が終るころであり、誰でも寄る歳の波には勝てないであろう。結局、どう生きるかはその時の健康状態次第であるので、私は、今のところ健康で、先に逝ったり、健康でない友人には申し訳ないが、先のことを考える状態ではないので、今はできるだけ同じ生活を続け、残された人生を楽しもうと思うのであった。

大阪城へ
 友人の見舞いを終え、大阪駅に向かった。大阪駅で乗り換え森ノ宮駅で降り、大阪城公園を歩いて城まで行き、天守閣に登ることにした。

大阪城公園 矢印の線に沿って歩き、
極楽橋を渡り森の宮に戻った

大阪城
 大阪城公園は広い。100ha以上はあるとのことだ。秀吉が築城した時の、大阪城の惣構(そうがまえ、城下町の外側に堀や土塁を築き、町ごとぐるりと取り囲んだ防衛ライン)は、約420haもあったとのことである。豊臣期の大坂城天守は地上から約49mとのことで、現在の再建された大坂城天守は約42mとのことだから、今よりも7mも高かったのである。
 あまりに広いので、江戸城より大きかったのではと思ったが、実際は江戸城の方が大きいとのことである。江戸城は、徳川秀忠が築城した当時は、内郭(内濠に囲まれた区域で、本丸・二ノ丸・三ノ丸などがある)だけで約420haもあったとのことで、これは大阪城とほぼ同じである。しかし、外郭(外濠に囲まれた区域で、大名や幕臣の屋敷、御殿や寺社などがあった)を含めると約2,100haもあったとのことである。だから豊臣期の大坂城の惣構までの広さが、江戸城の内郭とほぼ同じであり、外郭を含めると江戸城は大坂城の約5倍以上の広さであったとのことである。
 それに徳川期の江戸城天守は地上から約68m、現在、天守は残ってないが、代わりに建てられた皇居二重橋付近の富士見櫓は約25.5mだそうだ。しかし、現在、江戸城は再建されてないし、皇居ないも見学できないので、現在は大阪城が一番大きな城だろう。

森の宮の大阪城公園への入口
お堀から見える高層ビル
空堀
桜門
外国人の観光客が多い

天守閣に登る
 天守閣に登った。入場料は600円だった。入場券を買うのに多くの人が行列を作り待っている。ほとんどが外国人だった。コロナ対策が緩和され多くの外国の観光客が来ている。やはり多いのは中国人、マレーシアなどのアジア系の人。私の前に二人づれの白人の若者が待っていたので、話しかけてみるとフランス人だった。日本は3回目だと言っていた。これから京都に行くとのことだった。待っている間しばらく話をしていたが、一人の若者はフランス語のみしか話せなかったが、もう一人の若者は、英仏西と三ヵ国語を自在に喋れるのだった。私は長く海外で働いていたので、だいたい喋れるので三ヵ国語チャンポン会話だった。ヨーロッパ言語は、似ている言葉が多いから自在に何ヵ国後もしゃべれる人は案外多くいるのだ。日本に観光にきた外国人に、母国語でしゃべりかける日本人がいると、彼らは驚いたりうれしかったりするものだ。私も海外で、日本語でしゃべりかけてくれる現地の人がいると驚き、うれしかったことを思い出す。私がその若者に何でそんなに色々な言葉が話せるのか聞くと、スペイン語はフランスの学校で習い、英語はオーストラリアにいたので、話せるとのことだった。
 その後、天守閣に登ったらスペイン語が聞こえてきたので、話しかけてみるとスペイン人とアルゼンチン人だった。その方々は前の若者より一層うれしそうな顔をして、びっくりしていた。最近の世の中の情勢ではたとえ海外からの観光客で知らない人であっても、たわいもない話で収めておくのが無難と思った。昔、海外で話しかけられた人の中には不審な感じの人もいたので、逆に私が不審な人に思われないためにも、その程度が良いのではないかと思った。残念なことではあるが。

黄金の鯱と伏虎

 内部は、エレベータで5階まで上がれ、8階が展望台となっている。全体に、お土産屋が多く、そのほか資料の展示物が多い。「黄金の鯱と伏虎」は、金ぴかで、これはすごいものだと感じた。7階には秀吉の金ぴかの居室があるとのことだが、見学はできない。全体に、秀吉の権力の巨大さを改めて感じた次第である。

展望台からは大阪全体が眺望できる。
金のしゃちほこ
お堀巡りの遊覧船
極楽橋

新大阪駅へ
 森ノ宮駅に戻り、駅近くで昼飯を食べ、大阪駅で乗り換え、新大阪駅に戻った。帰りのひかり号が15時48分発だったので、余裕を持って少し前に新大阪駅に着いた。

新大阪駅の待合室

東京駅へ
 東京駅までは約3時間かかった。大阪駅で乗った時は空いていたが、次の京都駅あたりから混みだして、途中はほとんど満席だった。スピードがあるので小揺れし、乗り心地は良くなく本も読めず、眠ることもできず、往きと違い一人でしゃべる相手もいないので、随分と長く感じた。

つづく


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