【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.6

森林紀行

熱帯多雨林と調査体制の確立

 

熱帯多雨林

 1978年11月24日初めて熱帯のジャングルに入った。夢にまでみたジャングル。正しく言えば熱帯多雨林だ。

 ノルマンの担当区なので、手前知ったる彼は、どんどんと進んでいく。早い。皆付いて行くのがやっとだ。セミが「ピージー。ピージー。」と陰気な声で鳴いている。道と言っても人が一人通れるくらいの山道だ。下はぬかるんでいてまるで、田圃の中を歩いているようだ。見上げると20m?30mくらい樹高がある木が天空を隠している。時々50mくらいの樹高がある巨大木もある。ビックリだ。

 日本でなら、山道を歩くのに航空写真を追って行けば、自分のいる位置はすぐに分かるのだが、今日は歩くのが早いせいもあり、航空写真を見る暇がないことと見晴らしが利かないので、容易に自分の位置がつかめない。

 私は、この日は風邪気味で、下痢をしており、付いて行くのが精一杯であった。それでも熱帯多雨林の状況はつかめた。この日午後からは激しい雨となった。

  

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熱帯多雨林の遠景

  

ココナツ

 帰り道、道路際で運転手のヒダヤがココナツを買ってくれた。下痢で飲む気はしなかったが、せっかくなので飲むと、サイダーに似た味で、とてもうまかった。

 

下痢

 日本でなら正露丸を少し飲めばほとんどの下痢は、簡単に治るのだが、ここではかなりの量の正露丸を飲んでも効かなかった。仕方がないので、もっと強力な下痢止めを飲んだらようやく治った。その後は、私はひどい下痢にはならなかった。この時の下痢は細菌性の下痢ではなく、水が変わったためになったのであろう。

 

流れる血

 その日、森林調査が終わってルブクリンガウのホテルに帰るとズボンの左脛が血で赤く染まっている。めくると真っ赤な血がドロドロと流れている。「なんだ。こりゃあ。大怪我をしたのかな?まずいぞ。」ズボンを脱いでまた驚いた。パンツが真っ赤である。「アレー。大変だ。一体どうしたというのか?」大事な物も大丈夫かと思い下半身を入念に点検すると、股の付け根にヒルが取りついている。ホッとしてヒルをそっと引っ張って取る。しかし、後に傷を残さないためにはタバコの火をあてるのが良く、ヒルがころりと落ちるのである。私はタバコを吸わないため引っ張って取った。

 ヒルは一旦山に入れば、片足10匹くらいは取りつく。スカラジャで雇った作業員達は平気で血を流していて、我々もすぐに慣れた。

 また、ある時森林調査をしている時に、後ろ首に汗が流れるので手でぬぐった。すると感触がヌルッとしている。手の平を見ると真っ赤である。ヒルが首すじに取り付き血を吸っていたのだ。

 

スカラジャの集落

 およその森林の状態もつかめ、11月25日はいよいよ本格調査の拠点となるスカラジャの集落へ向かった。スカラジャとは「スカは好き、ラジャは王という意味で、王に近づきたいという気持ちで付けられたのだろう。」とサガラは言う。

 現在の調査隊は、サドリがパレンバンに帰り、ルブクリンガウからタモリとノルマンが加わったので、全員で15名だ。スカラジャまでルブクリンガウから約60kmの道程をジープ3台に分乗して約3時間であった。

 スカラジャは11月25日から12月14日まで約3週間滞在した。スカラジャには約50軒の家が固まってあり、人口は約200?300人の集落である。

  

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スカラジャにて。使っていたジープの前で

  

  

スカラジャでの最初の仕事

 スカラジャでの我々の最初の仕事は、生活基盤の確保と調査体制の確立であった。我々の住む民家を借りる交渉をタモリと共に行った。

 借りた家は、ここの集落長の隣の家で、この辺りではかなり大きな家を借りることができた。集落長といっても私と同じまだ28才の青年である。彼は、我々の面倒を見るというよりもいかに金を儲けるかに頭があった。

  

タモリのピンハネ

 我々のいる間、この家の住民は、近所の親類の家に行っているという。我々は随分悪いことをしたと思ったが、この辺りではこのようなことは普通に行われているようで、何しろ物は持っていないので、住民も他人の家に移り住んでも大して困らないのだ。実際は、現金収入が少ないので、家を貸すということはかなりの収入になり、どちらかというと貸したがった家がかなりあった。

 家賃は1日1万ルピア(約2,000円)で話がまとまった。少々高いようであるが、大部分がタモリにかすめとられ、また集落長にもかすめとられ、家主に渡ったのはこのうちわずかであったようだ。

  

借家

 この家は、この辺りでは一般的な高床式である。気温が高く、湿気が高いからである。半地下の下階と上階に分かれていて、普段下階は、倉庫として使っているが、板塀で囲ってあり、3部屋くらいある。上階は30畳くらいの大部屋と6畳くらいの小部屋が2つと台所がある。

 

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借家 

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借家の内部

 

集落の人々

 我々が荷物を運びこんでいると、集落中の人々が集まってきてジーと見つめている。これは日本でも引っ越して来たりすると何者だろうかと探っているのと同じである。

 こんなに小さい集落に、外国人が住んだなどということは未だかつてなかったのであろうと思っていた。しかし、戦争中に日本軍が入り込んでいたのであろう。ここの人々と交流するうちに、「見よ、東海の空明けて、・・・」と我々を歓迎する意味で日本語で軍歌を歌い出す老人がいたのだ。あるいは日本軍のために働いたか?

 

部屋割

 さて、我々日本からの一行7名とサガラ、ジョコが上の部屋を使い、下に運転手のヒダヤ、ナナ、ローカニ、それにノルマン、タモリ、フォージーとが入った。

 

 

雇用

 次は炊事と洗濯等、家事一切の世話を焼く人を捜すことと道案内の作業員を雇うことであった。これは簡単に見つかった。隣の集落長の家で一切の家事を引き受けてくれた。というよりも向こうから家事をやらせてくれと頼んできた。

 しかし、法外な金額を要求してきたので、食糧は我々が仕入れる、洗濯はシャツ一枚につき50ルピア(約10円)というように細かく値段を決めた。

 この辺りの人々は現金収入が少ないので、多くの人々が作業員として雇ってくれと集まった。しかし、我々は1パーティーで2人ずつ、2パーティーで、計4人の案内人がいれば十分であった。一人は、集落長の叔父のヌルがどうしても雇ってくれと頑張るので、住民の力関係なども考慮して雇うことにした。ヌルは48才で、我がチームの団長のIさんと同年齢であるが、白髪が多くIさんよりもずっと老けて見えた。残り3人は強そうで良く働きそうな者を選んだ。ディン27才、やせて

はいるが、口髭が長く、精悍に見える。アミール24才、背丈は普通だが、筋肉質で強そう。アルパン30才、樹木の名前をほとんど知っていて、人が良さそう。こうしてひととおりの生活条件と調査体制が整った。

 

焼畑で減少していく熱帯多雨林.jpg

焼畑で減少していく熱帯多雨林

 

 

                                                                                                                                  続く

 

【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.5

森林紀行

ラハットにて

 ラハットでは、陸軍の宿泊施設に泊まった。ヤモリが沢山いて、「キュ、キュ」と鳴いている。ここのコーヒーはうまかった。インドネシア語の達人のメンバーが「コピーマシアダカ?(コーヒーはまだあるか?)」と尋ねた。これは日本語とほとんど同じで簡単なフレーズだからすぐに覚えた。次から私もコーヒーの有る無しにかかわらず、「コピーマシアダカ?」と尋ねることにした。すると何らかの会話に発展するのである。そしてインドネシア側のカウンターパート(共同作業技術者)が言うインドネシア語をノートに書きとり、意味を辞書で調べたり聞いたりし、そのフレーズを同じ場面で言ってみる。上達するのが自分でもわかるようだった。若くてエネルギーがあったからできたことで、年齢を重ねるに連れてそうはいかなくなったが、まことに外国語の習得は、まずは人のオウム返しからである。

 

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宿泊した施設

 

ルブクリンガウへ

 11月22日は、ラハット郡庁に挨拶。役所の長の部屋には必ずスハルト大統領とアダムマリク副大統領の大きな肖像画が掛けてあった。挨拶後、ルブクリンガウへ向かった。

  

途中で出会った人々.jpg

途中で出会った人々

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途中で出会った子供達

 

 ルブクリンガウまでは、154Kmである。道は悪くてもの凄い埃が舞い上がる。髪は、ポマードを塗りたくり、スプレーで固定したようになった。途中、滝のようなスコールにも出会い、ようやくルブクリンガウに着いた。ここはこの辺りの最後の町らしき町である。

 

途中で見た田植え風景.jpg

途中で見た田植え風景

鉄道も通っていた.jpg

鉄道も通っていた

 

 人口は数万人と言ったところか。相当に田舎に来たという感じだ。日本では今では都会も田舎も生活水準にそれほど大きな差は無くなったが、ここでは月とスッポンである。

 まず、一般の家庭には電気は来ておらず、ランプを使っている。町にも、ちゃんとした下水がなく、家庭排水が自然の側溝となって流れているようなところは実に不潔である。

 通りにはベチャと呼ばれる人力三輪車が数多く走っている。ヤギに荷物を引かせた人も通る。私には物珍しく、いくら見ていても見飽きない。

 

1978年当時のルブクリンガウの町.jpg

1978年当時のルブクリンガウの町

 

 ここでは、リンタンスマトラというホテルに泊まった。最近建てられたらしく、真新しい。電気も有るし、なかなか住み心地は良かった。夕食は外に食べに行くが、連日のパダン料理で、ほとんどのメンバーが食欲を失っている。すべてのものが、唐辛子で味付けられていて強烈に辛く、油はヤシ油で匂いが非常にきつい。米はパサパサで、日本のどんな不味い米よりも不味いと感じる。私はどちらかといえば辛党なので、ヤシ油の匂いには閉口したが、美味い美味いと言って食べていた。

 

病院

 11月23日。今日からいよいよ予備調査だ。ここから更に奥地のスカラジャというカンポン(部落)に入るまでの2日間だ。メンバーの一人が、ジンマシンが出たと言って、病院へ行った。「お尻に注射を打たれた。」と言って帰って来た。この辺りの病院ははたして清潔で、腕は確かなのであろうか?

 

C/P(インドネシア側共同作業技術者)

 ルブクリンガウからは、ここの郡庁の役人タモリンと森林官のノルマンが同行した。タモリンとは愉快な名だ。我々はタモリ、タモリと呼んだ。しかし、我々はまたしてもこの下っ端の小役人にしょっちゅう腹を立たされるはめになったのだった。

 

航空写真の判読誤り

 さて、いよいよ森林へ向かった。もちろん、周囲は、ほとんど森林である。日本での準備期間に予備判読しておいた航空写真を持ち、まずは入り易すそうな森林に向かった。しかし、行ってみるとそこはゴムのプランテーションであった。最初から判読間違いである。しかし、ゴム園の映り方のパターンは分かった。

 

ゴム園

 ゴムを採取するには、ゴムの幹にラセン状に溝を掘り、上から流れ出してくる白い樹液を下の皿で受け止め溜めるのである。物資が無いのであろう、その受け皿の多くは、木の葉を巻いて作ったものである。これでは流れ出てしまう分も相当に多い。

 とにかく、我々の調査は天然林であるから、航空写真上では、ゴム園のパターンは除かなければならなかった。

 

ゴムの木の幹への溝掘り.jpg

ゴムの木の幹への溝掘り

 

 

続く

3月の駒ケ岳

社窓


3月の駒ケ岳

いよいよ春間近の弥生。

 

先月は、記録的な大雪に見舞われました。

今月の社窓の写真をよくよく見ると、

大雪の影響でしょうか、千畳敷カールで雪崩が起こっています。

わかりますか?

 

それでも、街のあちこち山のようになっていた雪の山は随分小さくなりました。

梅や桜の便りももうすぐ聞こえてきそうですね。

 

[南アルプス]

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こだわり派

ゼンシンの日々

社会人になってからコーヒーを飲む機会が増えました。

しかしながら、ふと思ったのです。

 

「美味しいコーヒーってなんだ?」と。

 

自販機に並ぶたくさんの缶コーヒー。コンビニでは挽きたて・淹れたてのコーヒーが飲める時代です。

しかしどれを飲んでもみんな同じ味に思える…。美味しいもマズいもわからん!(ある意味、それはそれで幸せなことですが)

 

で、”違いの分かる男になりたい!”と、買ったのがコレ↓

 

 

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コーヒーメーカー!!

しかもエスプレッソ!!!

 

美味しい上、味が22種類もあって飽きない。

これで私も”違いの分かる大人”になれる!!

 

―ただ、ひとつ問題が…。

夕食後に飲むので、毎日寝不足です。寝る前にカフェインはダメですね(苦笑)

 

written by 鯉

雪かき

ゼンシンの日々

きっと明日は筋肉痛です。

でも先延ばしにしていたこのブログを書くきっかけにはなったので、マイナスなことばかりじゃないですね。

関係ないんですが、ご飯がうまくないなと思い炊飯器を買い替えました。まあまあのヤツに。

さぞうまい飯が炊けるだろうと思ったらゼンゼンでした。普段は無洗米を炊いていたのですが、試しに普通の研いで

炊く米にかえたら美味しかったです。

犯人は無洗米でした。

だったら炊飯器買った意味あんまり無かったわ。

なんか書いているうちに炊飯器がメインになりました。

 

 

habu

【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.4

森林紀行

パレンバンからラハットへ

 パレンバン到着

 さあ、いよいよスマトラだ。ジャカルタに到着したのは夜だったから上空からの景色は、見えなかったが、今大きく眼下にスマトラ島が広がっている。大きな河が蛇行を繰り返し、流れている。ムシ河の河口だろう。緑一色だ。河口では茶色の水が相当遠くまで海を汚している。

 パレンバンの空港には、団長が迎えに来てくれた。パレンバンではここでの最高級ホテルサンジャヤに泊まった。ホテルまでの道の両側にはココナツをつけたヤシの木が、沢山植わっている。

 団長が、「増井君、ここはもう水だよ。」と言う。何のことかと思っていると、ホテルのバスルームに入ると紙がないのである。「ははーん。そうか。」ここでは、早くも水と左手である。そして、シャワーもお湯もでない。一体最高級とは?

    

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ホテルサンジャヤにて。ラハットへ出発時。

 

 

ラハットへ出発

 翌日の11月21日、パレンバンからラハットに向かう。ホテルの前で荷物をジープに積み込んでいると、どこからともなく子供達が集まってくる。

 「アパナマニャ?(名前はなんていうの?)」と聞いてみる。5才くらいの子供が一丁前にタバコを吹かしている。それが板についている。指輪をしている子供に「アパイニ?(これは何?)」と尋ねると「イニチンチン(これは指輪だ)」と答える。チンチンは日本ではここだよと指さすと、キャーキャー騒いで笑っている。この子等は、半ズボンにビーチサンダル、有り合わせの着物だ。

 

パレンバンからの同行者

 パレンバンからは、ここの営林局の部長のSad氏、C/PのJyo氏、運転手のローカニが加わった。ボゴールの林業総局からC/PのSag氏とFo氏、ジープの運転手のヒダヤとナナを入れると総勢14名の大部隊となった。ラハットまでの192Kmをジープは簡易舗装の道を進んだ。

 

途中で見えた景色。先端が槍のように尖った山.jpg

途中で見えた景色。先端が槍のように尖った山

 

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同上。近景

 

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道路際の家で裁縫の商売をしている人。ミシンで裁縫をしているのは男性が多かった

 

途中の標識.jpg

途中の標識

 

 途中からジャリ道に変わり、揺れが一段と激しくなった。ところどころぬかるんだ悪路にも苦労した。

 

パレンバンからラハットへ。途中ぬかるんだ悪路.jpg

パレンバンからラハットへ。途中ぬかるんだ悪路

 

横転しているトラックもあった.jpg

横転しているトラックもあった

 

 

C/PのFo氏とSag氏

 Fo氏はインドネシア人には珍しく、太って下腹が突き出ていて大柄である。横柄で、顔つきはいかにも怠け者といった小役人と見てとれた。これでも技官なのかと疑いたくなる体形である。

 全員がある程度の距離を走った後に、ジープの席を前後に入れ替わるのに、この男は一番座り心地の良い助手席にデンと構えて決して動こうとはしない。

 一方、Sag氏は非常に良く気が付く男である。悪い発音の英語でひっきりなしに良くしゃべる。「あそこに見える草原はラダンと言って、焼畑の結果、草原になったのだ。昔は森林だったのだ。」あるいは「あの牛は、セブウシだ。」とか、言わなくとも、だいたい分る周りの風景でも一々説明してくれる。しかし、わからないこともあり、いろいろ説明してくれるのは、退屈しのぎにもなり、ありがたかった。

 

 

ドリアン

 途中、道端で果物を売っている露店が沢山ある。Sad氏がドリアンを買いに行った。ドリアンはキングオブフルーツである。私は、これを食べるのを大いに楽しみにしていた。ところがSad氏が買って戻ってくると、ジープ一台の後ろの荷台のスペース分どっさりとドリアンだ。ここにも2人が座っていたのだ。このおかげで、前の座席を詰めて座らなければなくなり、一人分のスペースが益々狭くなった。インドネシア人は一体に適度といったことや車のスペースというものを知っているのだろうか。

 

露店で売っているドリアン.jpg

露店で売っているドリアン

 

 ドリアンは強烈な匂いがする。「最初は、臭くて食べにくいが、食べる程、中毒的に美味くなる。」というのがSag氏の説明である。最初は臭くて私は期待はずれであったが、なるほど食べる程に美味くなり、やめられなくなるのを感じた。同僚のI氏などは、最初から「美味い。美味い。」と言って食べている。皆もの凄い量を食べるので、ジープ一杯買って来たのも頷ける。数日してドリアンが減って来ると、Sag氏は、「このドリアンは熟れ過ぎたようで、不味くなって来た。増井は食べない方が良いよ。」と言うのだ。と言いつつ「お前が食べないから、不味いドリアンを俺が食べてやる。」と言って相変わらずドリアンを食べるのである。なかなか面白い男だ。

 パレンバンから出発したこの日は、悪路に悪戦苦闘の上、宿泊予定地ラハトに着いた。 

 

バリサン山脈最高峰のデンポ火山(3,173m)と思われる.jpg

バリサン山脈最高峰のデンポ火山(3,173m)と思われる

 

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バリサン山脈

 

 

                                                                                                                      つづく

2月の駒ヶ岳

社窓


2月の駒ヶ岳

2月。まだまだ寒い日が続きます.

さて、なぜ他の月は30日や31日まであるのに、なぜ2月だけ28日までしかないのだろうか?

インターネットを駆使して調べてみました(^_^;)

その中の1説です。

 

その1 その昔、一年365日は3月から始まって2月で終わることになっていた。

その2 奇数月を31日、偶数月を30日とするが、

一年は365日であるため、年末の2月から1日を引いて29日としていた。

その3 その後1年の始まりが3月から1月に変わる。

その4 ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時に、

「自分の生まれた月が他の月より日数が少ないのは気に入らない」ということで

8月(August)が31日となる。

その5 31日の月が続くので9月以降を、30日、31日、30日、31日と入れ替えれる。

その6 1日不足する分を、昔の名残で2月から拝借して28日となった。

 

ただ、この説もあくまで諸説あるうちの一つ。

皇帝のくだり以降は後から付けられてもので、それ以前にすでに28日であったという説も・・・・・・。

 

ともあれ、年度末の1日は貴重です。


[南アルプス]
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【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.3

森林紀行

スマトラへの出発前のひと悶着

 

林業総局にて

 到着の翌日11月15日はボゴールにある林業総局へ最初の挨拶(表敬)に行った。ここでの会議はすんなりとはいかなかった。話し合いは、まず英語で始まった。インドネシア側はほとんどが欧米留学の経験がありそうで、英語は上手そうだった。インドネシア側は、最初から「今回の協力事業の継続として、日本人技術者を3年くらい派遣して、指導を続けて欲しい。」と言って来た。今思えばだめもとで、何でも要求してやれという態度だったのであるが、まだ調査も始めてもない段階なのに、その後の継続の話である。

 しかし、インドネシア側にしても英語では細かい話はしにくいのであろう。話が込み合ってくると林業総局次長がインドネシア語でしゃべりだした。そこで、こちらもインドネシア語が得意なメンバーがインドネシア語で応対することにした。すると私には何を話しているのか、話しの内容がさっぱりわからなくなった。ときどき通訳してくれる内容を聞いているだけだった。

 とにかく、今回は予定通り仕事をし、今後引き続き技術者を派遣するかどうかは検討するということで話はまとまった。そして、今回の仕事の段取り、誰がインドネシア側のカウンターパート(C/P、共同作業技術者)として同行するかなどもまとまり、さあ明日はいよいよスマトラに出発となった。

 

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ボゴールの林業総局前にて

 

 

出発前のひと悶着

 いざ、出発だ。ということになって、ひと悶着である。スマトラ島での通行許可書がおりていないというのだ。言ってみれば昔の通行手形だ。我々が来ると分かっていながらインドネシア側がさぼっていたのだ。そんなものすぐに取れるだろうと高をくくっていると、5日後の11月20日までかかるという。どうも信じがたいが、いくら言っても埒が明かない。どこの国でも役所の事務手続きは遅いらしいが、この国は更に特別であるらしい。

 仕方がないので急遽予定を変更し、私一人がジャカルタに残り、通行許可書を取った後、スマトラのパレンバンで落ち合うこととした。私なら役所の人間とは英語で通じるし、一人で残しておいても適当にできると判断された。

 他のメンバーは、空路で先に行く者が、パレンバンの営林局で打合せ、様々な手配をし、残りが陸路ジープで行くこととした。

  

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ジャカルタ市内(1978年)

 

 

大騒動の換金

 そんなトラブルで、その日に換金する予定が、できなかった。しかし、何が幸いするかわからない。その11月15日にルピアのレートが一挙に1.5倍にも引き下げられたのである。1ドル400ルピアだったものが、600ルピアになった。まったくインドネシア政府は、恐ろしいことをするものだ。円だって、今は円高だとは言え、1ドル360円が200円近くになるのに何年もかかったではないか。それとは逆であり、性質は違うが、こんな無茶をすると政情不安になるのではないかと思った。しかし、我々にとっては全く幸運にも損をしなくてよかった。1.5倍も儲かったような気分になった。

 ところが、ホテルの売店では、直ちに正札を1.5倍に書き換えていた。

 16日に銀行に行くと、大騒ぎで、全く換金停止である、団長が東京銀行支店で掛け合って、ようやく1,000ドルだけ換金できた。全くまいった。後は、パレンバンで換金しようということにして現地に赴くこととした。しかし、パレンバンの銀行はずっと取引停止で、調査中に団長がわざわざジャカルタまで換金に引き返さなければならなかった。なんともトラブルが多く、これから先が思いやられる思いであった。

 

 

一人ジャカルタに残る

 さて、11月17日に皆がパレンバンに出発してしまうと私一人が残された。最初は、インドネシア語は、全く通じないので困ったが、いろいろ冒険できて面白かった。「スラマトパギー(おはようございます。)」とボーイに挨拶されるが、「スラマトパギー」とすぐには出てこない。しかし、それも一日だけで、すぐに慣れた。

 食事も最初はホテルで全く言葉が通じなくてまいったが、身振り手振りで悪戦苦闘の上、「イニ、イニ(これ、これ)」と指差すだけで十分に分かってもらえることが分かった。あとは、「テレマカシー(ありがとう)」だけで通じてしまう。

 それからジャカルタの町を沢山散歩できたのは物珍しく面白かった。しかし、治安や迷子になることに気をつけて、常に大通りだけを歩いた。店屋でシャツを買ったり、絵葉書を買って日本へ出したりした。

 

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ジャカルタ市内(1978年)

 

 

農業省へ

 20日になり、農業省へ通行許可書を取りに行った。タクシーはぼられると聞いていたが、どうということはなかった。それよりインドネシア語を試してみた。「バガイマナ?(どうだい?)、ハリイニパナス(今日は暑いねえ)」と言うと、運ちゃんは後ろを向いて「ヤーヤー、パナススカリ(暑すぎる)」と言った。実はそれだけが聞き取れた言葉である。後は、運ちゃんが一人でひっきりなしにしゃべっている。適当に相槌を打っていると、時々後ろを振り返りながら、猛スピードで飛ばして行くものだから恐ろしかった。タクシーはほとんどがトヨタと日産のお古だ。バスやトラックは、シボレーのお古だ。

 

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ジャカルタ市内(1978年)

 

 

農業省でのひと悶着

 午前9時に農業省に行き、担当者にまず挨拶。ここで、この小賢しい小役人に随分と迷惑を蒙らされた。

 この日こそは、すぐに許可書を渡してくれると思っていたが、局長クラスの人に挨拶した後、1時間以上も待たされた。あげくのはてに、「今日は、できない。明日来てくれ。」という。冗談じゃあない。一体何日待たされているというのだ。そして、この日の午後5時のパレンバン行きの航空券に変更してあるのだ。3時までにどうしてもホテルに戻らなければならない。

 英語で事情を説明するが、どうも許可書はでそうもない。JICAの担当者に電話するが、いない。再び電話をするが繋がらない。その後は、何度電話しても繋がらない。回線が少ないのだ。仕方がないので、「もう行かなければならない。もし、今日出ないなら明日また来る。」と担当者に言ってから事務所を出ようとした。すると「ちょっと待て。」という。彼は、自室に戻ると「今できた。」と書類を持って来た。

 何ということはない。書類はもうとっくに、エライさんのサインはしてあったのだ。彼らは要するに袖の下を要求していたのだ。ところが、私にはそれが通じないものだから諦めて、ようやく出したのだ。まともに交渉するとこういうことになる。

 彼にして見れば、「何て頭の悪い奴なのだ、いくらか掴ませてくれればすぐに渡せるのに何時間待たせてもわからない奴だ。」ということだったのだ。言ってみればチップのようなものだが、習慣として、世の中を動かすには、あらゆる事柄に袖の下が必要だったのだ。しかし、袖の下で物事が動くと知っていたとしても、当時の私の性格からして袖の下は許せず、使えなかっただろうと思う。

 後で考えると最初に打ち合わせたときに、通行許可書ができていないのもおかしい。こんな簡単なものはすぐに作れるはずである。どこかで誰かが袖の下を出す必要があったのであろう。そうすれば、今日も5時間も無駄に過ごすことはなかった。腹立つこと甚だしかったが、ともかく通行許可書は取れたのでホッとした。

 けちな小役人根性にだいぶ暇を取らされたが、その日のうちにようやくパレンバンに飛ぶことができた。

 

つづく

 

【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.2

森林紀行

出発から到着まで

 

空港での第一印象

 ジャカルタに到着。空港のビルの内部に入ると、一種独特のタバコの匂いが鼻についた。グダンガラム(インドネシアのタバコ)である。それにすえたような熱帯のフルーツの匂いが混じりあったインドネシア独特の匂い。湿っぽい空気、それでいて日本の梅雨とは違う。ここは確実に日本ではないと、全身が感じていた。

 

出発前準備

 ここジャカルタに着くまで、なんともせわしなかった。インドネシアには、スマトラ島のムシ河上流域の調査地域に、どれだけの森林資源量があるかを調査し、流域の管理計画を作成する仕事の1人のメンバーとして行くこととなった。

 私にとっては初めての海外だ。観光旅行では絶対に行くことがない、熱帯多雨林を調査するのだ。ハリマオ(トラ)も生息する地域をライフジャケットなども着て、ボートで遡ったりして調査するのだ。ワクワクし、胸はずむ思いであった。

 メンバーに選ばれてから出発まで準備期間はわずか2ヵ月であった。あわててインドネシア語の参考書を買い、往復の電車の中で勉強した。職場ではその時抱えていた仕事を片付けるとともにインドネシアでの調査方法などを頭にいれるのに大忙しであった。

  

出発

 出発前日の1978年11月13日は朝から雨が降っていた。出発が午前中であったのと私は新婚だったので、妻と成田に宿泊した。相当に興奮していたのか、雨に打たれたかのせいで、頭に電気がかかっているようでボッーとし、あまり頭が働かない感じであった。成田空港は開港したてで、警戒が物々しかった。既に、身重になっていた妻が出発まで見送ってくれた。

  

機内

 航空会社はキャセイパシフィックで、香港、シンガポールと途中立ち寄り、ジャカルタに向かった。機内で隣の席だった団長は、もともとおしゃべり(失礼)ではあるのだが、興奮もしているせいか、ひっきりなしにしゃべっていて、あらゆることを講釈してくれた。その講釈が面白く、ずっと笑いころげていた。

  

当時の搭乗券 カードにタイプされたものだった.jpg

当時の搭乗券 カードにタイプされたものだった

 

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途中経由した香港の旧空港。2時間ほど待機していた。

 

ジャカルタ着

 深夜11時過ぎにジャカルタ空港に到着した。インドネシアでは役人の権力が、想像以上に強そうだ。税関の通過時に出迎えた方が、検査官に何やら話して便宜を図ってくれている。するとそこのボスらしき人が出てきて、我々のトランクの一つを開けさせ、一瞥し、「オーケー」と叫ぶと、その後全員フリーパスとなった。当時パスポートがオフィシャルで緑色だったということもあろうが、赤色のパスポートの民間人はしつこく調べられていた。

 当時商社からインドネシアに派遣されていた友人は、「少し掴ませれば、税関はすぐに通してくれるよ。」と言っていたが、早くも退廃した部分を見たような気がした。

 

空港を出て

 手続きを終わり、空港の外に出たとたん、ポーター達がドッと集まり、人の荷物をどんどん勝手に運んで行こうとする。そして金をくれと手を差し出す。慣れていないせいもあり、また、荷物を持っていかれないようにしっかりと荷物から手を離さず、相当に緊張していた。

 

ホテル

 ジャカルタでは、当時JALと提携していたプレジテントホテルに向かう。夜の闇で周りの景色ははっきりとは見えないが、相当に緑が多そうだ。

 

1978年当時のジャカルタ。プレジデントホテルから.jpg

1978年当時のジャカルタ。プレジデントホテルから

 

 仕事にせよ観光にせよ、何しろ始めての海外旅行である。見るもの聴くもの何でも珍しい思いがして興奮していたが、夜中であったがホテルに入ってようやく緊張感も取れて来て、明日からの仕事が楽しみであった。  続く。

 

 

 

板金

ゼンシンの日々

寒い日々が続きますが皆様いかがお過ごしでしょうか。

 

さて、ブログの更新が遅くなってしまいすみません。

ネタ作りに時間がかかってしまいました。m(_ _)m

 

今回のネタは「自動車の板金」です。

 

年末に義理の母が自動車をぶつけてしまい、修理代が約9万円!!

どうにか安く直せないかと言われたので、自分が板金することにしました。

 

 まず、自分で直せないテールランプをディーラーにお願いして交換してもらいました。

 

 

 

1.作業前の写真です。ヘコミが2箇所とスリキズがあります。

 

  スリキズ(塗料)はコンパウンドで磨き上げます。

  ひたすら手作業で磨きます。かなり疲れます。

 

 

 

 

 

2.磨き終わったのがこの写真です。

 

すでに作業が嫌になっています。(笑

 

 

 

 

 

 

板金3.jpg

3.次にテールランプを外しパテでヘコミを埋めます。

 

  写真はパテで埋めた後ですが、ヘコミ周辺をサンドペーパーで

削っておきます。

この作業を「あし付け」と言います。 

パテがはがれないようにするのと、サビ等の除去が目的です。

 

 

 

 

 

板金4.jpg

4.気温が10℃以上ないとパテが固まらないのです(汗

 

  この12月の気温はめったに10℃以上になんかなりません。

  息子にお手伝いを頼みドライヤーで温度を上げます。

  しかし、なかなか固まりません。(怒

 

 

 

 

 

 

板金5.jpg

5.パテ埋めした箇所を紙ヤスリで削ります。

 

手作業で削っても良いのですが、かなり疲れる作業なので、実家から電動サンダーと言う機械を借りてきて紙ヤスリをセットし削りました。

 

手作業だと30分ほど掛けて削るのですが、電動サンダーを使うと5分ほどで削れます。

文明の利器ってすばらしい。

 

 

 

3?5の作業をヘコミが無くなるまで繰り返します。

今回は4回ほど繰り返しました。

 

 

板金6.jpg

6.次は塗装です。

 

マスキングをしプラサフ(下地)を吹きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

板金7.jpg

7.車と同じカラーの塗料を吹きます。

 

車自体が色あせてきているため、色が合いませんでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

板金8.jpg

8.最後にコンパウンドでひたすら磨いて完成です。

 

温度が上がらずパテの硬化が悪かったのと、素人の作業というところで、出来映えは100点満点中の30点といったところです。(涙

 

 

 

 

 

 

ざっと駆け足で作業を説明しましたが、完成までに3日ほどかかってしまいました。

 

連続で作業出来なかったうえに途中で家族全員(自分を除く)が風邪でノックアウト。

 

年末の掃除、年始のおせち料理の買い出し等でなかなか作業が出来ずブログのアップが遅れてしまいました。

 

皆さんも、事故と風邪には気を付けましょう。

 

By oza

 

 

 

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