旬の話題
就職して 山梨県で暮らす次男のアパートからは、先日 “世界遺産” に登録された ≪富士山≫ が見える・・・?
・・・見えるはずなのですが、この日はあいにくの曇り空で全然だめでした…。
【社窓】のパクリ『富士山バージョン』を目論んでいたのに、すっかり当てが外れてしまい、話題に窮しています。
仕方なく、何かネタはないか…と探して、無理やりの感がアリアリですが、我が家の「旬の話題」ということで…
・今年収穫した梅。 ・梅ジュース…仕込み中。 ・梅酒…完成品。
梅ジュース : 効能 ⇒ 夏バテ予防に最適!
梅酒 : 効能 ⇒ 疲労回復 ・ ストレス解消 ・ 血行促進 ・ 利尿作用 ・ 美肌・・・etc ( 注:適量の場合に限る )
N.A (^^)v
段ボールは便利
先日、テーブルを購入しました。
テーブルをくださる方がなかなか現れず、
やむをえず購入した次第です。
これです。
実に便利。
今日まで約3ヶ月・・・
段ボールをひっくり返して
テーブル替わりにしていた者にしか分らない感動!
これからの暑い夏に向け
すずやかな「和」を基調とした雰囲気にしてみました。
今や、テーブルのある生活が当たり前になりつつある今日この頃、
段ボールもなかなか便利でした。
掃除の時など移動が楽だし、
耐久性は劣りますが、すぐに新しいのに交換できます。
これで、脱! 段ボールと思いきや・・・
テレビ台は、こんな感じです。
すこし首を傾けてみるのがベスト。
話は変わりますが、食べ物ネタです。
先日、何年ぶりかに、寿司屋の寿司(回転寿司ではない寿司屋の寿司!)を食べに行ってきました。
(正確にはごちそうになったのですが・・・。)
伊那市にある「富久寿司」というお店。
さすがにネタが新鮮!
お店のご主人も従業員の方もとても感じよく
「ネギトロ」と「わさび巻き」はおすすめです。
かなりうまいです!
つづきまして、ここ数日暑い日が続いていますが、そんな日は、
ソフトクリームです。
左から伊那市の「Yoshiko(フランセ板屋のカフェ)」、諏訪の「たまごや工房」、「長門牧場」のソフトクリームです。
つづきまして、箕輪町の「パン茶房窯屋」のカツサンドです。
これはかなり美味しいです。
つづきまして、伊那市の「久良運」のもうもうシチューです。
スパゲティのうえにビーフシチューがかかっています。
これもなかなか美味しいです。
つづきまして、伊那市の「ぱいぷのけむり」のハンバーグカレーです。
これはふつうです。空腹時に食べたので胃がやられました。
さかまさ
【森林紀行No.1 7/18】「アマゾンの町ラゴ・アグリオへ」
ラテン気質の役所MAG
MAGでの出発の打合せ
MAGで先発隊が打合せ、現地ラゴ・アグリオへの出発は7月15日の月曜からと決まっていた。この日に調査団からは、私増井を含めて4名が現地に行き、団長は航空写真の撮影契約の署名などの関係で担当の2名とともにキトーに残ることになり、10日ほど遅れてラゴ・アグリオに入ることになった。
先発隊が打ち合わせていたところによると、MAGから運転手付きで車が2台が提供されることとなっていた。しかも運転手の支払いも燃料の支払いもMAGが行うから調査団は心配しなくとも良いと言うことだった。現地で雇う作業員などの費用だけを持ってくれれば良いということだったので、私はにわかには信じられなかったが、月曜日にMAGで朝7時に待ち合わせて、ラゴ・アグリオに向かうということになった。
またラゴ・アグリオにはヒメネスというナポ県の営林署長がおり、彼が作業員の手配などを全て行うので心配はいらないとのことだった。なんとMAGは良いところだろうと思わされた。
出発が一日遅れる
翌7月15日、月曜日の朝7時にホテルをチェックアウトして荷物を全部車に積んでMAGへ行くとMAGが提供すると言っていた車も運転手も来ていない。カウンターパートも来ていない。1時間ほど待つと運転手とモリーナが来た。運転手の話を聞くと出張旅費などもらってないし、すぐには出発できないと言う。
モリーナにどうなっているのか確かめさせた。車もMAGでは出せないということだ。一体どうなっているのだ。森林局側の言っていたのは体のいい繕いだけだったのか。いずれにせよこれでは今日出発するのは無理だ。
ホテルにすぐ電話しチェックアウトを取り消してもらい予約を1泊延長した。分かったのは、MAGから車も人も出せるものではないことだった。だったらはっきり最初からそう言ってくれと。そうすれば、我々はそのように手配したのに。そこのラテン気質を私はまだ分かっていなかった。
人に後で大迷惑をかけるのであるが、その時は迷惑をかけてはまずいと思うのか、あるいは、人の喜ぶ顔がみたいからだろうか、できないこともできると言いたいのだろうか?ラテン気質の気楽さである。そんなことからやはり先発隊で来るのだったと思うのだった。海外では行き違いのないように、念には念を入れて確認してもなお予定通り行かないことだらけだから人には任せておけないという気持ちだった。怒り心頭に達したが、それは顔に出さずに冷静に、では一日遅れだが、明日の出発を次の手として考え、モリーナとマンティージャを巻き込んだ。
今使っているレンタカー会社に確かめさせると明日ラゴ・アグリオまで送るだけならジープタイプの車は1台確保でき、その後別の車を2台すぐに確保できラゴ・アグリオに送ることができるというので、取り敢えずラゴ・アグリオに行くのに1台はレンタカーを使うことにした。もう1台はMAGの中から手配するようもう一度捜させると、ちょうどラゴ・アグリオから来ているヒメネスがジープタイプのランドクルーザーで帰るので、それに半分のメンバーが分乗すれば明日出発できることが分かった。
そんなことで翌日運転手付きのレンタカー1台とヒメネスの運転するジープと計2台でラゴ・アグリオに出発できることになった。その後は後から来るレンタカーを使い、運転手の給料やガソリン代は我々が出すことにした。言ってみれば、費用は当初の想定通り日本側が全て持つことになったのだが、MAG側の見栄やプライドの高さといったラテン気質が混乱を招いたのだ。
ラゴ・アグリオへ。
1985年7月16日(火)キトーからラゴ・アグリオに向かって2台の車で出発した。レンタカーの1台は大型のジープタイプのシボレー社製の車だ。シボレー(Chevrolet)のことをここではチェブロレットと発音しているのが何となく陽気な響きに聞こえた。
7時20分にキトーを出発する。7時の予定が20分遅れただけなんて、この国では完璧に時間ぴったりだ。一日遅れではあるが。アンデス山脈を越えるのに最初はキトーから山を登って行く。私は何故か緊張していた。たぶんレンタカーの運転手が往復だけではあるが、アマゾン川の流域に行くというので緊張していたのでそれが移ったのだろう。さすがに地元民でもアマゾンに行くと言えば身構えるのであろう。
赤道直下の雪
頂上の少し手前から雪が降り出した。ここは赤道上の熱帯ではないのか?この寒さは何だ。気温は0度以下だろう。長袖や薄手のジャンバーなどを重ね着するが、防寒着でないので震えるほど寒い。とうとう峠の頂上に着く。ここは標高約4,000mだ。キトーが2,800mだから約1,200mも上がったことになる。
アンデス山脈を峠に向い登る。赤道直下の雪
峠。標高約4,000m。薄着で震えあがる。
それから下り出す。下るにつれて今度は段々と暑くなる。寒帯から熱帯へだ。10時半にバエサ(Baeza)に着く。ここは標高は約800mで、もう気温は30度もあろうというくらいで、Tシャツである。
苗畑
バエサには苗畑があり、しばらく苗畑を見学する。マメ科植物の苗木が多かった。
バエサの苗畑
マメ科の木が多い
伐採木の検問所
伐採木の税金を取る検問所もある。1立方当たり25スクレ(約50円)取るとのことだった。
伐採木を積んだトラック
伐採が進んでいるのだろう。バエサで昼飯を食べてから出発。
ドイツの協力プロジェクトを見学
午後3時頃ドイツミッションに出会った。近くでドイツが協力しているプロジェクトがあるという。そこでドイツの協力プロジェクトを見せてもらう。主に製材をしている。木材の加工技術の向上を目指しているのだ。
ドイツの援助で作った製材所
セイケ(Seyke)、カネロ(Canelo)、セドロ(Cedro)という名の樹種から質の良い木材が取れ、長持ちするとの説明を受ける。
ここの名前はAssociacion Carpinteros Lumbaqui:ルンバッキ大工協会と言うそうだ。このプロジェクトスタッフとして働いていたのは、3人のスペイン人だった。ドイツの援助下でスペイン人が働いているのは言葉が通じるから雇ったのであろう。10cm×30cm×2.4mの材が普通材の倍の厚さで、セイケが240ドル(当時の円換算で約5万円)、セドロが400ドル(9万円)で売れると言っていたので、当時のエクアドルの物価水準からすると相当に儲かりそうに思えた。
ヒメネスの車がエンスト
そこを出発して、まもなくしてヒメネスの車がエンストして動かなくなる。直すのに大分時間がかかったがどうやら動くようになった。
エンストしたヒメネスの車
アンデス山脈を下ってなだらかになり始めるあたり。石油のパイプラインが並走している
ラゴ・アグリオの手前にて
ラゴ・アグリオに入る手前にはかなり長い橋がかかっていたが、この橋は2年後に起きた地震で落ちたとのことだった。
ラゴ・アグリオに入る手前の橋
道路の途中にあった食堂に寄るとチョウのコレクションが飾ってあり、その種類の多さに驚いた。また体の大きさだけでも10cm以上はあり、角までいれると20cmもあるカブトムシの標本が飾ってあり、これまたその大きさに驚ろかされた。アマゾン源流域の生物多様性の高さを最初から感じさせられた。同じ種類の昆虫でも体が大きくなるものは、日本のものとはこれほども違うのかと印象深かった。
途中の食堂の壁にかけてあった蝶のコレクション
いろいろあった一日であったが、夜の8時過ぎにようやくラゴ・アグリオに到着した。
つづく
狩人
8時ちょうどの-
あずさ2号で-
の、狩人ではないのですが・・・
先日、狩りに行ってきました。
ちなみにモンスターでもありません。
すこし脚を伸ばして甲州まで
この時期の甲州といえば、
サクランボです!!
まいうーでした。
一年分は食べたかな。
あまりに食べ過ぎて・・・
おなかがこわれちゃいました。
食べ過ぎ注意です!!
A.H
たがやす
だいぶ日があいてしまいましたが、先々週くらいに、畑を作りました。
My(共同)はたけ!!! なんだかすごいぞ。(^ω^)
学生の頃は、友人が畑を借りて野菜を作ると意気込んでいたのを、
(よくやるなぁ…..)○。 _(:3 」∠)_
と思って見ていたものですが、もとはと言えば私は植物が勉強したくて農学部に入ったのでした。
そうでした。 (結果、ぜんぜん違う分野を学ぶことになったのは別の話・・・)
というわけで、自分も畑をお借りして野菜作りに挑むことになったのですが、 、、、、
腕イタイ!!!(;ω;)
土を耕して畝を作って、マルチをかけて、苗を植えて、固定して、水をやって・・・
・・・やることいっぱい!!!!!
最近、野菜を余すことなく食べることについて知る機会ができたこともあり、食べ物のありがたみというか
感じることがあったのですが、ますます大切に食べないといけないなと思うようになりました。
畑を作るのにも一苦労で、どの苗はどうやって植えるのか調べてもらって、
最終的には畑作りをも手伝ってもらって・・・
感謝することがたくさん!!!ありがとうございます!!!
ずいぶんと広い畑をお借りしたのが・・・
(手前のほう)
びふぉあ
あふたー
うーん。。。
今回選ばれたのは、奥から
サツマイモ、かぼちゃ、ねぎ、ズッキーニ、オクラ、なす、ピーマン、トマト、とうもろこし、枝豆、きゅうり さんです!!!
(手前のスペースは、Sさんのハーブ園になる予定。)
どこに何があるのやら、いろいろあるぞ。(^ω^)
個人的には、ものすごく迷って選んだサツマイモが楽しみ・・・
でも、全部立派に収穫できるまで育ってくれるのが一番いいなぁ。(・ё・)
たぁぼ
ゼンシン花壇&菜園2013
さあ、今年もやってきました花壇づくり。
その1-基本となる土づくり (^_^;)
その2-みんなで植栽 (^_^)
その3-水やりして完成!! (^_^)v
そして、昨年に引き続き 『ぜんしん菜園』 もスタート。
今年もトマトとキュウリです。
今年は、ネットも張って準備万端!!
「おいしい野菜」 と 「緑のカーテン」 に期待してます P(^_^)q
6月の駒ヶ岳
【森林紀行No.1 6/18】「キトーでの仕事」
資金の管理
当時十分な情報が取れなかったこともあり、キトーに事務所を持っていたある商社にも世話になった。到着翌日、エクアドルの事情はさっぱり分からなかったので、早速、銀行口座を開くのを手伝ってもらった。
キトー市内 (1985年、2階バスも走っていた)
銀行口座を作る
キトーにはCiti Bankがあり、Citi Bankですぐに口座を開くことができ、業務費を預けることができた。これで日本から送金もできるようになり、また大量の費用を持ち歩かなくとも良くなった。そして業務費の一部をスクレに換金した。
小切手を作る
数日後、調査地周辺で、作業員らに支払うのも小切手の方が良いのだろうと現地ラゴ・アグリオにも支店がある地元の銀行(Banco Internacional:国際銀行)にも口座を作り小切手の発行を依頼した。
午前中に頼み、その日の午後にできるというので午後取りに行くと小切手ができていて受け取ることができた。当時は気がつかなかったが、今考えると小切手の作成を頼んだその日の内にできるなんていうことは信じられないくらい早い。
というのは2011年にアフリカのブルキナ・ファソの銀行で小切手を作ったが、できるのに2週間程度かかると言われて、実際できるのに2ヵ月近くかかったからである。また、ブルキナ・ファソでインターネット・バンキングをする手続きを開通させるのも数週間かかると言われ、その後何回も催促してようやく3カ月後に開通した経験と比べると四半世紀前のエクアドルの方がアフリカのブルキナ・ファソよりも、銀行の仕事効率は何十倍も良かったということだろう。ブルキナ・ファソもこんな状態でいるのでは、すぐに最貧国から抜け出すのは困難であろう。
それはそれとして、銀行の手続きに関しては、エクアドルは早かったが、その他のことに関しては、こんなに遅いのかと思わされることばかりだった。
現地では作業員などは小切手をもらっても、いちいち銀行に換金に行かなければならず面倒に感じていたようで、現金のほうが好まれた。
領収書
上述のように、銀行口座などを開くのも会計役の仕事であるが、私はこのころから会計役も行うようになった。現地で使用した業務費はすべて領収書が必要である。当たり前ではあるが、団員は誰でも業務費であれば、いかに細かいものでも領収書を取ることを忘れないように気を使う必要があった。私はそれらの領収書を整理保管し、帰国後精算報告書を作ったりもしていた。
不思議なことに、領収書をもらうことなどは日本では無意識に行っていて、何も気疲れなど無いが、外国だとまず当然のことながら日本語でないので、中身は何と書いてあるのか、きちんと書いてあるか、数量と単価はあっているかとか確かめなければならず、数字でも読めないことが多々あり、領収書をくれないこともあり、さらには、そのようなものを書いたことさえないという売り手がいたりするので、領収書一つ取るのにかなり気を使うのだった。そして数ヵ月も滞在すると領収書の数は膨大になるのだった。
準備作業
機材の購入
日本から持ってきた森林調査道具以外に、今回の調査では木を伐倒するので、歯渡り70cmの大きなチェンソーを2台買った。その他細々としたものを購入した。
当時のキトー市内には、今の日本の郊外にある大きなスーパーマーケットのような、セントロ・コメルシアル・エル・ボスケ(Centoro Comercial el Bosque:エル・ボスケ(森林)ショッピングセンター)というのがあり、そこでほとんどものを入手することができた。
IGMで地図など購入
IGMというのはInstituto Geográfico Militar(インスティトゥート・ヘオグラフィココ・ミリタール)といって軍地理院である。ここに航空写真の撮影を委託するのであるが、撮影が予定どおり進まずやきもきさせられるのであるが、その話しは後述する。そこでは各種の地形図、過去に撮影された航空写真、自然関係の資料等を販売しており、それらの資料を大量に購入した。
クリルセン
当時エクアドルにはランドサットの電波受信局があり、IGMの下部組織のCLIRSEN(Centro de Levantamientos Integrados de Recursos Naturales por Sensores Remotos : リモートセンシングによる自然資源総合分析センター)という施設で受信していた。我々はランドサットデータは日本で手に入れていたが、そこでの解析状況なども調査した。
クリルセンの入口
車の購入
調査用の車は、購入された新車が2台調査団に貸与され、調査終了後にエクアドルの森林局に供与されることになっていたが、購入の手続きが間に合わず、開始時点ではレンタカーで行うこととなった。そのため車の借り上げ用の予算がついていた。しかし、車の購入は、調査団がエクアドルで購入するか、あるいは日本から輸入するかを決め、またそれらの手続きについて調べなさいとの指示が出されていた。
調べると当時エクアドルでトヨタのランドクルーザーや三菱のパジェロのような日本製の4輪駆動の車を当時販売している代理店もなく、購入できないことがわかった。
いろいろ調べて、エクアドル国内でトゥローパというジープタイプの車が買えることが分かった。しかし、その車は調査用には小型で、その割に高かった。我々はランドクルーザーのステーションワゴンタイプのようなやや大型でないと多くの人といろいろな機材を乗せられないので調査用にトゥローパを使うの難しかった。トゥローパを購入すれば手続きは、それほど面倒ではなかったが、やはり後の調査のことを考えトヨタのステーションワゴンを日本から輸入することを第一に、その手続きを詳しく調べることにした。
どのような手続きが必要なのかをいくつかの代理店で、詳しく聞き込んでもすぐに理解するのが困難であった。例えば、日本から車を送った場合には、エクアドル側で車を引き出す通関業務は誰が行うのか、MAGに業者を捜させるのか、その費用は誰が持つのか、また、税関から出るまでどれくらいの期間がかかり、保管料は誰が払うのか等々。また、車を引き出す時にどの機関の名義にするのかによっても手続きが違うので、頭を悩ませた。
そして輸入許可書は中央銀行から発行してもらうことが必要で、MAG大臣から企画省、産業省、大蔵省でそれぞれ許可を取った書面が中央銀行まで行くことが必要なことなどがわかってきた。しかし、すぐに対処する時間がなかったので、それは現地での調査が終わってから対処することにした。
郊外の山の中腹ではグライダーやパラグライダーが楽しまれていた
旧市街。先住民の子孫も多かった
カヤンベ山(5,790m)
つづく
萌ゆ
【森林紀行No.1 5/18】「共同作業機関と共同作業技術者など」
共同作業機関(カウンターパート機関)のMAG(農牧省)
我々のカウンターパート機関(共同作業機関)はMAG(Ministerio de Agricultura y Ganadería : 農牧省)の中の一つの局であるDirección Forestal(森林局)であった。
翌日まずMAGへ挨拶と打合せに行った。既に先発隊がいろいろと打合せをしていたので、後発隊は主に、森林局で実際に一緒に仕事をするカウンターパート(共同作業技術者)との顔合わせであった。
この時強く印象に残っているのが、森林管理部長をしていたフアン・サリーナス氏である。(Ing. Juan Salinas ; Ing.はIngeniero。技師という意味だが大卒者への敬称)この仕事が終わるころには、彼は国際関係部長に移っていた。私にはこの方はメスティッソ(スペイン人とインディオの混血)のようには見えず、先住民の顔立ちに見えた。いかにも先住民の顔立ちで、それも威厳のある堂々とした大酋長のような印象を受けた。サリーナス氏は調査地域にはほとんど入らなかったが、キトーで様々に協力してくれた。また、サリーナス氏は住民の反対運動で調査地に入れないときに、調査団は太平洋岸を調査したが、その時には現場を案内してくれた。
左からモリーナ氏、サリーナス氏、ヴィヴァンコ氏
その他、時々現場も来たが、主にキトーでいろいろ情報提供をしてくれた森林経営部の次長のオスワルド・ヴィヴァンコ(Ing. Oswaldo Vivanco)、実際に現場に良く来た森林経営課長のオスワルド・マンティージャ(Ing. Oswaldo Mantilla)、それに常時現場で一緒に働いたフアン・モリーナ(Agr. Juan Molina Agrは農業技士への敬称。)に挨拶をした。モリーナは専門学校卒でIng.ではなく、Ing.より地位が低い様な扱いを受けているように感じた。つまり日本以上の学歴社会が存在しているようだった。
共同作業技術者(カウンターパート)
キトーの森林局の本部から、この調査に最も多く参加したのは前述したように最初に挨拶した次の3人で、全員がスペイン系か、わずかにメスティソなのだろうかといったような顔立ちだった。
1.オスワルド・ヴィヴァンコ(Ing. Oswaldo Vivanco、共同作業技術者の実質のチーフ)
2.オスワルド・マンティージャ(Ing.Oswaldo Mantilla、ヴィヴァンコの下)
3. ファン・モリーナ(Agr. Juan Molina、現場の責任者)
左からマンティージャ、モリーナ、ヴィヴァンコ
3人の中で最も若いが、最も地位が高かったのがヴィヴァンコで当時40代の前半だった。モリーナが40代半ば、一番の年上がマンティージャで50才前後だったろう。
ヴィヴァンコは非常に頭が良いと感じた。仕事のことに関しては、あらゆることについて、ヴィヴァンコに聞かなければ、はっきりしないのが実情だった。だからMAGの事務所に朝行ったらまずヴィヴァンコを捉まえなければ仕事が始まらないのであった。彼がすべて知っているので、当時MAGには、国際協力で、アメリカ、フランス、スペイン、ドイツなどの技術者が出入りしており、どのチームもヴィヴァンコ以外は当てにしていない状態だったので、朝ヴィヴァンコを捉まえるのが競争だった。
マンティージャはかなり小柄であったが、アゴ髭をヤギのように生やし、ゆっくりと話をし、とても気の良いおじさんだった。マンティージャがゆっくり話すものだから私にも彼のスペイン語は良くわかった。
マンティージャと私
マンティージャは調査の終わるころに日本に研修に来たのであるが、その時に大層疲弊した。カルチャーショックに耐えられなかったのであろう。大変に残念なことであったが、帰国後まもなく心臓マヒ(と奥さんから聞いた)で亡くなられた。
マンティージャと親しくなってからマンティージャは、「MAGはエレファンテ(象)と呼ばれている。」と私に言った。「どういう意味だ?」と聞くと「大きいばかりで何の役にもたっていない。」と答えた。
最初はそんなものかと思っていたが、実態を知れば知るほど、マンティージャの言う通りだと実感するようになったものだ。MAGの建物は新市街のはずれに位置し、白い十数階の大きな建物で、近隣に大きな建物が少なかったので目立ち、図体ばかり大きいエレファンテといったところだったのだろう。
そして、マンティージャはこう言った。「MAGの職員が働くのは週に1日、水曜日くらいなものだ。」と。一体なぜなのか尋ねると、「土日は、飲んだくれて夜中まで遊ぶのが当たり前だから、月曜日は疲れていて仕事にならない。火曜日もまだ疲れていて似たようなものだ。ようやく疲れのとれた水曜日に働ける。木曜日は週末の遊びを考えるのに忙しい。金曜日はそれでそわそわして仕事ができない。」と言うことであった。まさに実態を現していた。
私がマンティージャやモリーナの部屋で仕事をしていると別の部屋の職員が入ってきておしゃべりを始めるのであった。ひとしきりしゃべっていると別の職員が入ってきて、交代するか一緒になってしゃべっている。誰もこないと彼らが別な部屋に行っておしゃべりをしている。観察しているとだいたい勤務時間の大半がおしゃべりに費やされ、1日が暮れるのであった。
それでも秘書のマリアさんは、おしゃべりに時間を費やすこともなく、真面目に良く働いてくれた。とても陽気な方だった。
MAG森林局の秘書 主婦でもあったSra. マリアさん
ヴィヴァンコはモリーナを馬鹿にしていたように見える。いつもきつい態度で接していた。モリーナはヴィヴァンコに頭が上がらず、いつもヴァイヴァンコに気を使っていた。人間関係の難しさはいずこも同じと感じた。
モリーナは現場の責任者になるのだが、ラテン気質そのもので、私から見れば全てにいい加減のように思え、最初は波長が合わなくていつもイライラさせられていた。しかし、だんだんと彼にしこまれていき、私もモリーナとは良い友人となった。
私はモリーナにいつもこう言われていた。「マスイ。急ぐな。そんなに仕事ばかりやるな。人生は仕事だけじゃあない。イライラしたときのしかめっつらはやめろ。仕事も楽しく行え。楽しく生きろ。最後は全てうまくいく。ウワハッハッ。」と最後はやや甲高い声で大きく笑うのであった。
そして彼らの「明日できることは今日するな。」、「明日は明日の風が吹く。」といった生き方にだんだんと染まっていき、これこそがストレスを感じない生き方だと思うようになったのである。
モリーナと私
MAGでの通訳
このとき、キトーの市内での通訳をしてくれた方は、結婚後キトーに住んでいる方だった。この方は日本の大学のスペイン語科在学中、東京のエクアドル大使館でアルバイトをしていた時に、大使館に勤務していたご主人に捉まり、結婚し、キトーに住むことになったとのことだった。
当時、10歳前後のお子さんがいた。日本の男の子よりもませているようで、お母さんにデートの相談などをしていた。通訳の方のしゃべるスペイン語はとても美しい響きがあり、エクアドル人よりも上手ではないかと思わされた。書いたりすると、実際向こうの人より、はるかに正確だった。
材積表
さて、作成する材積表はS/W(Scope of Work : 調査の枠組み ; 調査の内容を決め、最初に二国間で結ぶ協定書)調査団が概ね打ち合わせていたが、決まったものではなかった。そこで先発隊がエクアドル側と詳しく打ち合わせ、現在調査地域内で伐採利用されていて、かつ大木となる樹種6種とその他の樹種に分けて、2つの材積表を樹皮付きのものと樹皮無しのものと合計4種類のものを作成することとなった。その樹種はエクアドルではチュンチョ(Chuncho)、グアランゴ(Guarango)、イゲロン(Higueron)、グアパ(Guapa)、サンデ(Sande)、サポーテ(Zapote)と呼ばれている樹種だった。これは重要な決定だったので、その経緯を知っているべきで、私はやはり、これらの打合せの時には先発隊でいるべきだったと思った。
どこまでも続くアマゾンの原生林
原生林の上空から
つづく