たがやす
だいぶ日があいてしまいましたが、先々週くらいに、畑を作りました。
My(共同)はたけ!!! なんだかすごいぞ。(^ω^)
学生の頃は、友人が畑を借りて野菜を作ると意気込んでいたのを、
(よくやるなぁ…..)○。 _(:3 」∠)_
と思って見ていたものですが、もとはと言えば私は植物が勉強したくて農学部に入ったのでした。
そうでした。 (結果、ぜんぜん違う分野を学ぶことになったのは別の話・・・)
というわけで、自分も畑をお借りして野菜作りに挑むことになったのですが、 、、、、
腕イタイ!!!(;ω;)
土を耕して畝を作って、マルチをかけて、苗を植えて、固定して、水をやって・・・
・・・やることいっぱい!!!!!
最近、野菜を余すことなく食べることについて知る機会ができたこともあり、食べ物のありがたみというか
感じることがあったのですが、ますます大切に食べないといけないなと思うようになりました。
畑を作るのにも一苦労で、どの苗はどうやって植えるのか調べてもらって、
最終的には畑作りをも手伝ってもらって・・・
感謝することがたくさん!!!ありがとうございます!!!
ずいぶんと広い畑をお借りしたのが・・・
(手前のほう)
びふぉあ
あふたー
うーん。。。
今回選ばれたのは、奥から
サツマイモ、かぼちゃ、ねぎ、ズッキーニ、オクラ、なす、ピーマン、トマト、とうもろこし、枝豆、きゅうり さんです!!!
(手前のスペースは、Sさんのハーブ園になる予定。)
どこに何があるのやら、いろいろあるぞ。(^ω^)
個人的には、ものすごく迷って選んだサツマイモが楽しみ・・・
でも、全部立派に収穫できるまで育ってくれるのが一番いいなぁ。(・ё・)
たぁぼ
ゼンシン花壇&菜園2013
さあ、今年もやってきました花壇づくり。
その1-基本となる土づくり (^_^;)
その2-みんなで植栽 (^_^)
その3-水やりして完成!! (^_^)v
そして、昨年に引き続き 『ぜんしん菜園』 もスタート。
今年もトマトとキュウリです。
今年は、ネットも張って準備万端!!
「おいしい野菜」 と 「緑のカーテン」 に期待してます P(^_^)q
6月の駒ヶ岳
【森林紀行No.1 6/18】「キトーでの仕事」
資金の管理
当時十分な情報が取れなかったこともあり、キトーに事務所を持っていたある商社にも世話になった。到着翌日、エクアドルの事情はさっぱり分からなかったので、早速、銀行口座を開くのを手伝ってもらった。
キトー市内 (1985年、2階バスも走っていた)
銀行口座を作る
キトーにはCiti Bankがあり、Citi Bankですぐに口座を開くことができ、業務費を預けることができた。これで日本から送金もできるようになり、また大量の費用を持ち歩かなくとも良くなった。そして業務費の一部をスクレに換金した。
小切手を作る
数日後、調査地周辺で、作業員らに支払うのも小切手の方が良いのだろうと現地ラゴ・アグリオにも支店がある地元の銀行(Banco Internacional:国際銀行)にも口座を作り小切手の発行を依頼した。
午前中に頼み、その日の午後にできるというので午後取りに行くと小切手ができていて受け取ることができた。当時は気がつかなかったが、今考えると小切手の作成を頼んだその日の内にできるなんていうことは信じられないくらい早い。
というのは2011年にアフリカのブルキナ・ファソの銀行で小切手を作ったが、できるのに2週間程度かかると言われて、実際できるのに2ヵ月近くかかったからである。また、ブルキナ・ファソでインターネット・バンキングをする手続きを開通させるのも数週間かかると言われ、その後何回も催促してようやく3カ月後に開通した経験と比べると四半世紀前のエクアドルの方がアフリカのブルキナ・ファソよりも、銀行の仕事効率は何十倍も良かったということだろう。ブルキナ・ファソもこんな状態でいるのでは、すぐに最貧国から抜け出すのは困難であろう。
それはそれとして、銀行の手続きに関しては、エクアドルは早かったが、その他のことに関しては、こんなに遅いのかと思わされることばかりだった。
現地では作業員などは小切手をもらっても、いちいち銀行に換金に行かなければならず面倒に感じていたようで、現金のほうが好まれた。
領収書
上述のように、銀行口座などを開くのも会計役の仕事であるが、私はこのころから会計役も行うようになった。現地で使用した業務費はすべて領収書が必要である。当たり前ではあるが、団員は誰でも業務費であれば、いかに細かいものでも領収書を取ることを忘れないように気を使う必要があった。私はそれらの領収書を整理保管し、帰国後精算報告書を作ったりもしていた。
不思議なことに、領収書をもらうことなどは日本では無意識に行っていて、何も気疲れなど無いが、外国だとまず当然のことながら日本語でないので、中身は何と書いてあるのか、きちんと書いてあるか、数量と単価はあっているかとか確かめなければならず、数字でも読めないことが多々あり、領収書をくれないこともあり、さらには、そのようなものを書いたことさえないという売り手がいたりするので、領収書一つ取るのにかなり気を使うのだった。そして数ヵ月も滞在すると領収書の数は膨大になるのだった。
準備作業
機材の購入
日本から持ってきた森林調査道具以外に、今回の調査では木を伐倒するので、歯渡り70cmの大きなチェンソーを2台買った。その他細々としたものを購入した。
当時のキトー市内には、今の日本の郊外にある大きなスーパーマーケットのような、セントロ・コメルシアル・エル・ボスケ(Centoro Comercial el Bosque:エル・ボスケ(森林)ショッピングセンター)というのがあり、そこでほとんどものを入手することができた。
IGMで地図など購入
IGMというのはInstituto Geográfico Militar(インスティトゥート・ヘオグラフィココ・ミリタール)といって軍地理院である。ここに航空写真の撮影を委託するのであるが、撮影が予定どおり進まずやきもきさせられるのであるが、その話しは後述する。そこでは各種の地形図、過去に撮影された航空写真、自然関係の資料等を販売しており、それらの資料を大量に購入した。
クリルセン
当時エクアドルにはランドサットの電波受信局があり、IGMの下部組織のCLIRSEN(Centro de Levantamientos Integrados de Recursos Naturales por Sensores Remotos : リモートセンシングによる自然資源総合分析センター)という施設で受信していた。我々はランドサットデータは日本で手に入れていたが、そこでの解析状況なども調査した。
クリルセンの入口
車の購入
調査用の車は、購入された新車が2台調査団に貸与され、調査終了後にエクアドルの森林局に供与されることになっていたが、購入の手続きが間に合わず、開始時点ではレンタカーで行うこととなった。そのため車の借り上げ用の予算がついていた。しかし、車の購入は、調査団がエクアドルで購入するか、あるいは日本から輸入するかを決め、またそれらの手続きについて調べなさいとの指示が出されていた。
調べると当時エクアドルでトヨタのランドクルーザーや三菱のパジェロのような日本製の4輪駆動の車を当時販売している代理店もなく、購入できないことがわかった。
いろいろ調べて、エクアドル国内でトゥローパというジープタイプの車が買えることが分かった。しかし、その車は調査用には小型で、その割に高かった。我々はランドクルーザーのステーションワゴンタイプのようなやや大型でないと多くの人といろいろな機材を乗せられないので調査用にトゥローパを使うの難しかった。トゥローパを購入すれば手続きは、それほど面倒ではなかったが、やはり後の調査のことを考えトヨタのステーションワゴンを日本から輸入することを第一に、その手続きを詳しく調べることにした。
どのような手続きが必要なのかをいくつかの代理店で、詳しく聞き込んでもすぐに理解するのが困難であった。例えば、日本から車を送った場合には、エクアドル側で車を引き出す通関業務は誰が行うのか、MAGに業者を捜させるのか、その費用は誰が持つのか、また、税関から出るまでどれくらいの期間がかかり、保管料は誰が払うのか等々。また、車を引き出す時にどの機関の名義にするのかによっても手続きが違うので、頭を悩ませた。
そして輸入許可書は中央銀行から発行してもらうことが必要で、MAG大臣から企画省、産業省、大蔵省でそれぞれ許可を取った書面が中央銀行まで行くことが必要なことなどがわかってきた。しかし、すぐに対処する時間がなかったので、それは現地での調査が終わってから対処することにした。
郊外の山の中腹ではグライダーやパラグライダーが楽しまれていた
旧市街。先住民の子孫も多かった
カヤンベ山(5,790m)
つづく
萌ゆ
【森林紀行No.1 5/18】「共同作業機関と共同作業技術者など」
共同作業機関(カウンターパート機関)のMAG(農牧省)
我々のカウンターパート機関(共同作業機関)はMAG(Ministerio de Agricultura y Ganadería : 農牧省)の中の一つの局であるDirección Forestal(森林局)であった。
翌日まずMAGへ挨拶と打合せに行った。既に先発隊がいろいろと打合せをしていたので、後発隊は主に、森林局で実際に一緒に仕事をするカウンターパート(共同作業技術者)との顔合わせであった。
この時強く印象に残っているのが、森林管理部長をしていたフアン・サリーナス氏である。(Ing. Juan Salinas ; Ing.はIngeniero。技師という意味だが大卒者への敬称)この仕事が終わるころには、彼は国際関係部長に移っていた。私にはこの方はメスティッソ(スペイン人とインディオの混血)のようには見えず、先住民の顔立ちに見えた。いかにも先住民の顔立ちで、それも威厳のある堂々とした大酋長のような印象を受けた。サリーナス氏は調査地域にはほとんど入らなかったが、キトーで様々に協力してくれた。また、サリーナス氏は住民の反対運動で調査地に入れないときに、調査団は太平洋岸を調査したが、その時には現場を案内してくれた。
左からモリーナ氏、サリーナス氏、ヴィヴァンコ氏
その他、時々現場も来たが、主にキトーでいろいろ情報提供をしてくれた森林経営部の次長のオスワルド・ヴィヴァンコ(Ing. Oswaldo Vivanco)、実際に現場に良く来た森林経営課長のオスワルド・マンティージャ(Ing. Oswaldo Mantilla)、それに常時現場で一緒に働いたフアン・モリーナ(Agr. Juan Molina Agrは農業技士への敬称。)に挨拶をした。モリーナは専門学校卒でIng.ではなく、Ing.より地位が低い様な扱いを受けているように感じた。つまり日本以上の学歴社会が存在しているようだった。
共同作業技術者(カウンターパート)
キトーの森林局の本部から、この調査に最も多く参加したのは前述したように最初に挨拶した次の3人で、全員がスペイン系か、わずかにメスティソなのだろうかといったような顔立ちだった。
1.オスワルド・ヴィヴァンコ(Ing. Oswaldo Vivanco、共同作業技術者の実質のチーフ)
2.オスワルド・マンティージャ(Ing.Oswaldo Mantilla、ヴィヴァンコの下)
3. ファン・モリーナ(Agr. Juan Molina、現場の責任者)
左からマンティージャ、モリーナ、ヴィヴァンコ
3人の中で最も若いが、最も地位が高かったのがヴィヴァンコで当時40代の前半だった。モリーナが40代半ば、一番の年上がマンティージャで50才前後だったろう。
ヴィヴァンコは非常に頭が良いと感じた。仕事のことに関しては、あらゆることについて、ヴィヴァンコに聞かなければ、はっきりしないのが実情だった。だからMAGの事務所に朝行ったらまずヴィヴァンコを捉まえなければ仕事が始まらないのであった。彼がすべて知っているので、当時MAGには、国際協力で、アメリカ、フランス、スペイン、ドイツなどの技術者が出入りしており、どのチームもヴィヴァンコ以外は当てにしていない状態だったので、朝ヴィヴァンコを捉まえるのが競争だった。
マンティージャはかなり小柄であったが、アゴ髭をヤギのように生やし、ゆっくりと話をし、とても気の良いおじさんだった。マンティージャがゆっくり話すものだから私にも彼のスペイン語は良くわかった。
マンティージャと私
マンティージャは調査の終わるころに日本に研修に来たのであるが、その時に大層疲弊した。カルチャーショックに耐えられなかったのであろう。大変に残念なことであったが、帰国後まもなく心臓マヒ(と奥さんから聞いた)で亡くなられた。
マンティージャと親しくなってからマンティージャは、「MAGはエレファンテ(象)と呼ばれている。」と私に言った。「どういう意味だ?」と聞くと「大きいばかりで何の役にもたっていない。」と答えた。
最初はそんなものかと思っていたが、実態を知れば知るほど、マンティージャの言う通りだと実感するようになったものだ。MAGの建物は新市街のはずれに位置し、白い十数階の大きな建物で、近隣に大きな建物が少なかったので目立ち、図体ばかり大きいエレファンテといったところだったのだろう。
そして、マンティージャはこう言った。「MAGの職員が働くのは週に1日、水曜日くらいなものだ。」と。一体なぜなのか尋ねると、「土日は、飲んだくれて夜中まで遊ぶのが当たり前だから、月曜日は疲れていて仕事にならない。火曜日もまだ疲れていて似たようなものだ。ようやく疲れのとれた水曜日に働ける。木曜日は週末の遊びを考えるのに忙しい。金曜日はそれでそわそわして仕事ができない。」と言うことであった。まさに実態を現していた。
私がマンティージャやモリーナの部屋で仕事をしていると別の部屋の職員が入ってきておしゃべりを始めるのであった。ひとしきりしゃべっていると別の職員が入ってきて、交代するか一緒になってしゃべっている。誰もこないと彼らが別な部屋に行っておしゃべりをしている。観察しているとだいたい勤務時間の大半がおしゃべりに費やされ、1日が暮れるのであった。
それでも秘書のマリアさんは、おしゃべりに時間を費やすこともなく、真面目に良く働いてくれた。とても陽気な方だった。
MAG森林局の秘書 主婦でもあったSra. マリアさん
ヴィヴァンコはモリーナを馬鹿にしていたように見える。いつもきつい態度で接していた。モリーナはヴィヴァンコに頭が上がらず、いつもヴァイヴァンコに気を使っていた。人間関係の難しさはいずこも同じと感じた。
モリーナは現場の責任者になるのだが、ラテン気質そのもので、私から見れば全てにいい加減のように思え、最初は波長が合わなくていつもイライラさせられていた。しかし、だんだんと彼にしこまれていき、私もモリーナとは良い友人となった。
私はモリーナにいつもこう言われていた。「マスイ。急ぐな。そんなに仕事ばかりやるな。人生は仕事だけじゃあない。イライラしたときのしかめっつらはやめろ。仕事も楽しく行え。楽しく生きろ。最後は全てうまくいく。ウワハッハッ。」と最後はやや甲高い声で大きく笑うのであった。
そして彼らの「明日できることは今日するな。」、「明日は明日の風が吹く。」といった生き方にだんだんと染まっていき、これこそがストレスを感じない生き方だと思うようになったのである。
モリーナと私
MAGでの通訳
このとき、キトーの市内での通訳をしてくれた方は、結婚後キトーに住んでいる方だった。この方は日本の大学のスペイン語科在学中、東京のエクアドル大使館でアルバイトをしていた時に、大使館に勤務していたご主人に捉まり、結婚し、キトーに住むことになったとのことだった。
当時、10歳前後のお子さんがいた。日本の男の子よりもませているようで、お母さんにデートの相談などをしていた。通訳の方のしゃべるスペイン語はとても美しい響きがあり、エクアドル人よりも上手ではないかと思わされた。書いたりすると、実際向こうの人より、はるかに正確だった。
材積表
さて、作成する材積表はS/W(Scope of Work : 調査の枠組み ; 調査の内容を決め、最初に二国間で結ぶ協定書)調査団が概ね打ち合わせていたが、決まったものではなかった。そこで先発隊がエクアドル側と詳しく打ち合わせ、現在調査地域内で伐採利用されていて、かつ大木となる樹種6種とその他の樹種に分けて、2つの材積表を樹皮付きのものと樹皮無しのものと合計4種類のものを作成することとなった。その樹種はエクアドルではチュンチョ(Chuncho)、グアランゴ(Guarango)、イゲロン(Higueron)、グアパ(Guapa)、サンデ(Sande)、サポーテ(Zapote)と呼ばれている樹種だった。これは重要な決定だったので、その経緯を知っているべきで、私はやはり、これらの打合せの時には先発隊でいるべきだったと思った。
どこまでも続くアマゾンの原生林
原生林の上空から
つづく
今年もまたやって来ました!
今年もまた自宅の玄関にツバメが巣作りを始めました。これで3年連続になります。(ちなみに去年は2回も掛けました。)
ただし今年は少々複雑な気分ではあります。
というのも我が家も築10数年が経過し、屋根と外壁が大分劣化してきたため思い切って3月に屋根と外壁を塗装したのですが、工事が完了して1か月少々しか経っていないのに、もう玄関周りが泥と糞で汚れだしたからです。(家族中ブーブー言ってますが、皆半ばあきらめてます。)
この間ラジオで言っていたのですが、最近は糞害から巣を撤去してしまうところが多いらしく、ツバメの巣が減っているみたいです。
写真上:4月末頃 写真下:現在
4月末頃から通い始めて、現在巣は完成していますので、これから卵を産んで、雛が孵って、成長し巣立っていくまでの間、また掃除が大変ですが、これも縁起物ですし、我が家ではもう少し我慢することにします。
myst
5月の駒ヶ岳
【森林紀行No.1 4/18】「キトーにて」
到着
キトーの空港では先発隊が借りあげていたレンタカーで出迎えてくれ、予約してあったホテルアラメダに向かう。ホテルアラメダはキトーでは高級なホテルだった。
チェエクインした後に町を散歩する。まだ、キトーの町がどのようなものだが皆目わからなかったが新市街と旧市街とに分かれているキトーで、ホテルアラメダは新市街外の中心にあったからまずは新市街を散歩した。日本でいうと銀座通りにあたるカジェ・アマソーナス(Calle Amazonas:アマゾン通り)に行ってみた。
何と乾いて澄んだ空気だろうか、何と深い空だろうか。キトーは標高2,800mの高地だ。それでこんなに空がきれいなのだろう。ペルーから続いたインカ帝国に来たような気分がした。実際、エクアドルは15世紀にはインカ帝国の領土だった。心は高揚し、何と素晴らしいところだというのが、キトーの第一印象だった。
しかし、どことなく暗い、それは強い光の中でサングラスをかけて見ているような感じだった。空気が乾燥しひんやりしており、夕方でビルの影が長くなってきて、光の強度が落ちて来たためだったのだろうか。赤道直下の高地だからコントラスが強いのであろう。
キトー市、先住民も多かった
町で見つけたカンビオ(Cambio:両替商)で早速、当面必要な自分の費用をドルからスクレ(Sucre:当時のエクアドルの通貨)に変える。この当時1ドルが約110スクレだった。円は1ドル約250円だった。
町で物売りをする先住民
MAGからキトー市内を望む(1985.7.11)
キトーから見える山ではピチンチャ山(4839m)が最高峰。中央のとがったところ
翌朝の不思議な頭痛
翌日起きると二日酔いのように頭が痛い。おかしいな?昨晩はアルコールは一滴も飲まなかったのに。時差で眠くてしょうがなくすぐに寝てしまったからだ。何だろうかと思っていた。しかし、朝食を食べ終わった頃には頭痛はなくなっていた。「そうだ。高山病だ。そうに違いない。」キトーの標高は2,800mもあり空気が薄いのだ。その後どこへ行っても階段を上ると息が切れるのがわかった。その後キトーに着くたびに翌日は同じ様な頭痛が起こった。
メンバー全員合流
前述したが今回の調査の目的は、2つに分かれていて、立木材積表作成調査グループと航空写真の撮影グループだった。メンバー全員が合流して、先発隊のMAG(農牧省)森林局での打合せ内容、準備作業の状況、今後の調査方針などを打ち合わせる。
ホテル
ホテルアラメダ
最初キトーで滞在したホテルは、既に述べたアラメダであった。値段は一流であり、部屋はまあまあ良かったが、全体としては一流半と言ったところであった。アラメダの長期滞在は経済的にちょっと大変だったので、そのときキトーに事務所を持っていた商社にも世話になっていたので、商社の方に紹介してもらい、もっと手頃なエンバシーというホテルに翌日7月10日に移った。ただ、アラメダのロビーは使い易かったので、人との面会や打合せに良く使わせてもらった。
ホテル アラメダの案内の女性
ホテルでキトー市内の地図を買ったり、絵葉書を買ったりした。
ホテルアラメダのインフォーメーションに座っていた女性は感じが悪かった。何かを聞いた時に、彼女が何と答えたか私には良くわかったのだが、スペイン語の練習のつもりで「Perdón. Otra vez, por favor? すみません。もう一度お願いします。」と言ったところ、「うるさい。あっち行け。」と言われた。まだこのときは、このような女性をなだめるほどスペイン語はうまくなかった。これでホテルアラメダの印象がすっかり悪くなった。
ホテル エンバシー
エンバシーは普通のホテルのスタイルの部屋とアパート形式のホテルがあり、アパート形式では、中に入ると大きな居間と2?4部屋くらいに分かれているタイプがあり、打ち合わせや、作業を行う関係もあり、アパート形式の部屋を借りることが多かった。値段が手ごろで居心地も良かった。
ホテル エンバシー
つづく
麦草峠
小海町の調査の帰りに、昨日4月18日(木)午前11時に冬期間の通行止めが解除された、茅野市と小海町を結ぶ国道299号(通称メルヘン街道)にある「麦草峠」標高2,127mを通ってきました。
道路の周りは、雪景色で除雪された雪の壁が1.5m位あったかと思います。
おりしも今日19日は、気温も低くすごく寒かったです。歩いていた人も冬支度でした。
夏の避暑や秋の紅葉の時期に訪れて見るのもいいかもしれません。・・・・NK