【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.1
インドネシア国ムシ河上流地域森林調査紀行概要
湿地林の恐怖
調査プロットに向かって歩いているが、林内は水浸しである。標高の高い方へ進んでいるのに段々と水位が増してくる。水は膝より上まで上がってくる。ようやく目的地に着き、調査を始める。30m程も樹高がある木が林立している。水は腰まできた。水に浮いている訳の分からない昆虫が人の体を陸だと思って沢山這い上がって来る。不気味な生物が水中から浮き上がってきそうだ。プロットを設定するだけでも相当な時間がかかる。
先頭でけん縄を引っ張っている作業員の1人が「もう行けない。」と言う。それを私が「行け。行け。」と行かせる。彼は首まで水に浸かって泳いで行く。これは大変であった。仕事どころではなく、ここで引き返すべきであった。
はじめに
インドネシアは、私が最初に行った外国である。1978年のことで、年が明け2014年となった今から36年前のことである。私も若く、最初の海外の仕事ということで、この時の経験は強烈に焼き付いている。仕事はインドネシアのスマトラ島のムシ河上流域での森林資源調査であった。まだ、多くの原生林が残っており、測樹した樹木の中で最も樹高が高いものは70mもあり、樹高が50mを越える大木が林立し、まさに圧巻であった。

インドネシア国地図
調査地域

スマトラ島パレンバン、ラハト、ルブクリンガウ、
ムワラルピット、スルラングン周辺地図(移動ルート)
我々が調査したそのような原生林も10数年後に調査したチームによれば、ほとんどの森林が伐採されてしまったとのことである。また、我々が滞在した農村地域にも舗装された幹線道路が通り、開発が進み当時の面影はないという。その後20年程度も経っているので、現在はどのような状態に変化しているか、できれば見てみたいものである。
さて、我々はその地域の森林を守るべく森林管理計画を作成したのであるが、それが伐採されてしまったということで、結果的に調査は、意味が無かったかも知れない。当時は、コンセッションというシステムがあり、(今でもあるが)これが森林を保全するどころか、森林の開発を進めたのではないかと思われる。コンセッションとは、政府が木材会社などへ樹木の伐採権を売り与え政府が利益を得て、木材会社は樹木を伐採し売った代金で利益を得るというシステムである。これが大規模な森林破壊の元凶であることは間違いない。はっきりとはわからないが、それらの利益は各階層の役人達の懐へ消えてしまっただろう。インドネシアの役人達がクリーンであれば、調査結果を利用して森林を保護し、森林破壊のスピードはもっと遅かったかもしれない。

調査地域の森林、多くの焼畑地が見られる
世界のどの地域でも共通であるが、守るべき森林は、政府の強烈な保護政策がなければ守るのは難しい。森林が再生可能といってもインドネシアのような熱帯の太陽が強烈な国では、一旦森林が伐採されてしまえば、元の天然林に再生させるのは途方もない年月が必要である。生態系の条件から現世においては不可能に近いくらい難しい。
結局、利益を求め、現世の自分の利益だけしか考えない人間に、元はと言えば誰の所有物でも無い自然資源はいとも簡単に食い物となってしまうのだ。
それはともかく、インドネシアの林業局の技術者との共同作業や、地元に住む人々との人的交流などを通した異文化交流では何らかの貢献をできたのではないかと思っている。当時は日本も森林・林業面の技術的な国際協力を始めた直後で、調査や計画作りの経験もほとんどなかった。そのため、オールジャパンで仕事をして行こうという意識を強く感じた。そしてインドネシア側の言い分も良く聞き、そういった面から、より相手国が望むような仕事ができたのではないかと思う。
当時、私はまだ調査団の一団員で、若く積極的にインドネシア側技術者とも地元民との交流もできた。その経験について年月を経たが、紀行文としてこのホームページに掲載することとした。
インドネシアに行った期間
1978年11月13日?1979年1月11日の60日間(2ヵ月)
この紀行文の概要
おそらく、多くの方は、熱帯のジャングルなどへは、足を踏み入れたことがないだろう。森林調査で入ったものだが、調査というよりはむしろ探検的要素が強かった。困難であればあるほど楽しさも大きい。そのような調査であった。
ジャカルタからスマトラ島に渡り、徐々に奥地に入って行った。奥地に入るほどに素朴な人間。圧倒的な自然。だが、そこには大きな落とし穴も待っていた。湿地林での遭難騒ぎ、あるいは栄養不足と疲労から水虫のようなものに取りつかれ化膿して行く足。
そこで出会った人と自然は、現代の喧騒に生きる私には、遠く忘れていたものを取り戻すような思いであった。自然への回帰という意味では理想郷の様だった。
奥地の部落の人々との交流では、人の心の暖かさを味わった。本来的に人が持っている心の暖かさは、国や地域が変わっても同じだと思わされた。最も奥地の人々は完全に自給自足の生活である。粗末な掘立小屋に住み、夜は野獣の脅威や孤独と戦いながら生きなければならない人達だったのである。
一方、都会での生活や役所との対応は、うんざりさせられるものがあった。当時はそのような社会であったのだろうが、役人達は人から金をせびることばかりに頭があった。
このような私の体験であるが、非常に珍しい体験だったので、仕事で作成した技術的・研究的な報告書以外の文化面や生活面などを紀行文風に記述した。続きをお楽しみに。
1月の駒ヶ岳
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1月の駒ヶ岳
新年明けましておめでとうございます。
皆様にとって佳き年となりますようお祈り申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。
さて、今年は、
ご存じの通り楽しみなスポーツベントがあります。
2月7日から2月23日 第22回オリンピック冬季競技大会 ソチオリンピック
3月7日から3月16日 第11回パラリンピック冬季競技大会 ソチパラリンピック
6月12日から7月13日 2014 FIFAワールドカップ ブラジル大会
天体ショーもあります。
4月15日 皆既月食(関西以東で、食の後半の部分月食が観測できます。)
10月8日 皆既月食(こちらは、全国で全行程が観測できます。)
毎月写真を撮っている南アルプスは、
6月1日 南アルプス国立公園制定50周年
この他にもイベントや記念日、周年など沢山あります。楽しい1年となりますように。
[南アルプス]
NGなこと
【賀正】や【迎春】などの2文字の言葉は、実は正式な賀詞ではなく略語になるので、
目上の人に対してはNGなワードなので、【謹賀新年】や【恭賀新年】などの4文字の
賀詞を使いましょう。という記事を先日、銀行のウェルカムボード(でいいのかな?)で見ました。
「 うん。うん。知ってる ♪ 」とちょっと自慢げに鼻の穴を膨らませてみましたが、
それを知ったのは1、2年前なので、以前の年賀状には普通に使ってしまっていたかも…(汗)
これから年賀状を用意するという方は、よかったら参考にしてください。
私的なNGなことは、昨日、車検が切れました…
明日からの通勤に困ります…
夫からは約5kmの道のりを 『歩いて通え。』
といわれております (–;
・・・・むり ・・・・ 軽トラ貸してください。

最後はNGではなく、きれいな話題を。
駒ヶ根駅前のイルミネーションです。
駒ヶ根市の花 鈴蘭 がきれいですね。
v(^^)v N.A
12月の駒ヶ岳
車のカギ
「ものわすれがひどい。」
出勤のとき、
駐車場に来て車のカギを持っていないことに気が付く。
しかたがないので、カギを取りに戻る。
これくらいの忘れ物なら、たまにはあると思われるかもしれないが、
これをほぼ毎日繰り返しているヤツがいる。
「今日こそは忘れまい」と直前までは覚えているのに、
気が付けばカギを持たないまま駐車場へ。
さすがに何度も続くと、カギを取りに戻っている自分に嫌気がさす。
が、なかなかなおらない。何かい方法はないものか。
これは、「物忘れ」がひどくなったのか、脳にガタがきたのか。
車もパソコンも毎日使わないとガタがくる(気がする)。
脳も使わないとガタがくるのか?
いつ使うか?「いっ・・・。」
ちなみに、脳(記憶力)がよくなる食べ物に
チョコ、コーヒー、アボガド、イワシ、ホウレンソウ、暗記パン
等があるそうですが、
頭を使わないといくら食べても効果はないそうです。
SAK
【森林紀行No.1 18/18】「帰国」
航空写真の撮影契約
進まない契約交渉
この仕事では航空写真の撮影があり、IGM(軍地理院)との間で調査対象地域100万ha(青森県や秋田県くらいの面積)の撮影契約が、すぐに行われる予定であった。しかし、IGM側は事前調査団との交渉段階では航空写真の日本への持ち出しは許可すると言っていたのが、いざ契約段階に来て、それらの国外(日本)への持ち出しは許可しないと言いだした。このことで契約交渉が進まず、団長が帰国する前までに契約ができなかった。
そしてNさんがずっと交渉を重ねた結果、日本へ航空写真を持ち出す時は、エクアドル側からセキュリティーオフィサー(航空写真管理官)を付ければ持ち出してもよいというところまできた。
すると今度は、その管理官の費用はエクアドル側が持つのか、日本側が持つのかで話しが進まなくなった。エクアドル側は当然のことながらその費用を日本側が持つなら航空写真は持ち出しても良いと言った。日本大使館では、そんな話しは受け入れられるわけがない、エクアドル側がごねているだけだとカンカンに怒っている。

キトー市(1985年)
しかし、いつまで経っても議論は平行線で、結局エクアドルの管理官の費用は日本側で持つということで予算をつけることとなり、日本側が折れた。そしてようやく決着が着き、そのことを契約書に書きこむことでエクアドル側は納得した。
実際に翌年航空写真の判読を日本で行ったのだが、私の勤めに写真の保管庫を設置し、その時来た管理官に鍵を預け、彼が毎日9時に保管庫を開け、我々が写真を判読し、5時に写真をしまって保管庫を閉めるということを行った。その管理官の面倒も良く見てやったものだった。
Nさんが一人残る
結局、航空写真の撮影の契約書にNさんとIGMの長官がサインしたのは9月2日で、我々の帰国前日で、その時不在だったMAG大臣は9月5日にサインした。
さて、それから撮影が開始され、Nさんが予定を延長して一人残って撮影監督をしていたのだが、撮影できるような晴天の日が少なく、撮影がなかなか進まなかった。
我々がアマゾン川源流域にいる時は、毎晩空を眺めると満天の星空で天の川もこれほどきれいな天の川はめったにないと言うほどきれいに見えた。これで明日は天気が良くて航空写真が撮れるかなと思って、翌朝起きると必ずどんよりした一面の雲である。これでは航空写真を撮影するのは難しいのではないかと思ったものである。その後時々撮影できた日があり、全部の撮影が終了するのは翌年の7月で1年もかかったのである。
この間Nさんはキトーに11月まで滞在した。撮影を開始し約1ヵ月で15%程撮影でき、Nさんが帰国する11月までに、約50%の撮影が終わったが、一旦日本に帰国し、翌年またキトーに長期間滞在することになった。

キトー市旧市街
帰国
我々は9月3日にキトーを発ち、多くの資料を積み込み日本に向かった。帰りはキトーからグアヤキルに一旦降り、その後メキシコシティーに降りた。それからロスアンゼルに向かい、ロスアンゼルスには夜の9時15分に着いた。この日はロスアンゼルに泊まり、翌日ロスアンゼルスを午後1時に発ち、9月5日の4時過ぎに日本に到着した。
第1回調査帰国後
私はデータを整理し、当時のコンピュータ言語のBASICでプログラムを組んで、材積表を作成した。材積式というのは木の形に合わせて、多くの式があり、それらを一つ一つ解いて、最も誤差の少ない材積式を選定した。
1本1本のデータを入れて、その後は異常データを棄却する統計処理の検定プログラムも組み入れ、その後最終的に材積式が算出されるプログラムを組んだ。
今ならエクセルなどに組み込んである関数で何も考えずに解けてしまうが、当時は何千行もあるプログラムを組み、プログラムに間違いがないかチェックしたり、短期間に良くできたと思う。
こういうプログラムも集中しないとできないもので、3日くらい同じことをずっと考え続け、集中力が持続すると、より少ないプログラム量でできることがひらめいたり、そのような時はプログラミングも面白いと思ったものである。そのプログラムは、今では完全に時代送れとなり、そのようなものを使う人はどこにもいないであろう。
その後、次回以降に供与するコンピュータを何にするかなど検討をしていた。当時NECのPC9800シリーズがでた直後であり、それに決めたが、今のパソコンから見るとおもちゃみたいなものだが、それでも相当に高価なものであった。
その後
この第1回の材積表作成調査は何とか終了したが、この後、第2回、第3回・・・と調査は続いた。特に第3回目の調査の時には、住民の反対運動にあい、中途で仕事を中断させなければならなかった。それらの経緯については、機会があれば、将来このホームページに載せてもらいたいと思っているところである。
終わりに
この調査を通じて最も強く感じたことは、森林破壊の凄まじさである。アマゾン川源流域の大森林がいとも簡単に破壊されて行くというのは驚くべきことである。森林破壊は地球温暖化のような気候変動にも影響を与えているだろう。その影響へは化石燃料の使用が最も大きいだろうが、炭素を蓄積した樹木が大面積に伐採、焼却されて放出される二酸化炭素も膨大であり、この影響も膨大だろう。
エクアドルのアマゾン川源流域の森林破壊を見ると、最初は石油開発が起因となっている。政府が石油開発権を売るのであろうが、原生林状態の中から産出される石油開発権を買った会社が、原生林を切り開き石油開発のための道路を作設するのである。

アマゾン源流域で開発されていた油田
道路が作設されるとそれに沿って貧しい農民達が入植してしまう。この地域がエクアドル政府の管理も及ばない誰でも入れるオープンアクセスの状態だったこともあるが、もともとは先住民が住んでいたのである。この調査の翌年からエクアドル政府はこの土地に日本の政府が明治時代に行ったような官民有地区分のような国有林と民有地を区別する事業に着手した。それにより先住民地域も決まったが、管理は十分にできなかったであろう。先住民にとっては、国有林も農民が入植する民有地も、もともとは彼らが自由に使っていたのである。
森林は石油開発の道路が作設されるとそれだけで多くの木が伐採され、大径木は販売されていった。大規模な商業用伐採ではないが、起因は経済的利益の追求であり、それにより森林が犠牲になったのである。その後道路に沿って住民が入植すると森林を伐採し、販売できる木は販売するが、多くは焼かれ農地へ変換されるのである。

道路沿いに入植していく農民

原生林が農地へと変換されていく
また、アクセスが容易になり、大規模なアブラヤシ園への変換も容易になり、生物多様性は失われていくのである。

大規模なアブラヤシ園

原生林からアブラヤシ園へ(生物多様性が失われて行く)
ブラジルのマットグロッソ州はアマゾン川の最上流域にあたるが、衛星画像を見ると今は、森林はほとんどない。マットグロッソとは大森林という意味なのにであるが。私はこのエクアドルの調査の前にマットグロッソドスル(南のマットグロッソ)州に続くパラグアイの森林を調査したが、その消失した過程から数十年前まではマットグロッソ州には大森林が広がっていたはずである。それが今では牧場や農地に変換されている。ヨーロッパの森林もすべて伐採されて再生された歴史を持つ。アマゾン川流域の平坦地の森林はいずれ全て伐採される運命にあるのかもしれない。
今なお残るアマゾン川流域の熱帯林は、生物多様性の高い天然資源であり、ここでの保護は重要であるが、その保護は危機的状態にある。
今国連で盛んに議論されているREDD (Reduced Emissions from Deforestation and forest Degradation:森林減少・劣化からの温室効果ガス排出削減) の考えを敷衍すると、残された熱帯林を政府がコンセッション(伐採権)を民間業者に与えて両者が儲けるような場合、その収益に当たる分まで経済的支援を与え、伐採を阻止するという考えにまで至らなければならないだろう。そしてその考えをもっと推し進めると、残された天然林は買い上げて国際機関の管理下に置くということにまでなるであろう。そこまでしないと熱帯林の保護は難しいであろう。
この調査地域の近隣には有名なヤスニ国立公園がある。エクアドル政府は石油開発権よりも多くの資金を集めることで、ここの石油開発は行わないこととしたが、資金が十分に集まらなかったので、ここの石油開発を行うよう政策を変更した。ここは生物多様性が高いことで有名であるが、これではヤスニ国立公園も私が調査したこの地域のように成ってしまうであろう。再度資金を集め森林保護への政策転換を望むものである。非常な虚しさを感じつつ、この紀行文はこれでひとまず終わりとしたい。
次回からの予告
次回は来春からとしたいが、私が最初に海外調査を行ったインドネシアのスマトラ島での紀行文を書きたいと思っている。
流行りもの
朝夕一際冷え込むころ、流行ものが好きな自分は、風邪をひいてしまいました。
くしゃみ、鼻水と典型的な風邪の症状・・・みなさんお気を付けください。
ほかにも流行のというか、旬のものが好きな自分はこんなものを買ってみました。

ボジョレーヌーヴォー
今年のは・・・
おいしいんじゃないかな!
(普段ワインあまり飲まないので)
他にも旬といえば、リンゴ!!(サンふじ)毎年、松川町の知人農家で購入しています。
他の品種が食べられなくなるくらいおいしいので、是非お勧め。
A.H
【森林紀行No.1 17/18】「キトーに戻る」
キトーにて
ホテル・エンバシー
キトーに到着し、予約してあったホテル・エンバシーに向かう。この時、ホテル・エンバシーがこれほどきれいだったのかと、世の中にこれほどきれいな場所があったのかと感動した。これはパラグアイの調査でも経験したことだが、山中で長いキャンプ生活を続け、町のホテルに戻った時に感じたことである。あまりに汚いところに長くいたためだろう。きれいな部屋に白いシーツ、澄んだお湯が出るシャワー、こういったものがあるのが信じられない思いであった。まるで天国のように感じた。
キトーでの車の調査
日本からランドクルーザーのステーションワゴンを持ち込む手続きは、最初はさっぱりわからなかったが、段々と多くの煩雑な手続きとその内容も分かって来た。
日本から輸入した車は最初太平洋岸の都市のグアヤキルに到着し、保税倉庫に入れられるとのことで、その間に通関業者が通関手続きをする。その間の保管料については支払わなければならず、エクアドルの国内の様々な手続きが必要である。それで、エクアドルにあった車両関係の日本の商社とコンタクトを取り、手続きを依頼することにした。エクアドル国内での役所間の手続きもわかったので、それらはMAGに任せた。更に、輸入できないことも想定し、トゥローパの見積もりもエクアドルの販売会社2社から取った。

ある代理店に飾ってあったトゥローパ
パーティー
モリーナとマンティージャは彼らの家に、たびたび招待してくれ、パーティーを開いてくれた。最初の調査で、今回の仕事の打ち上げということもあり、この時は大歓待してくれた。
マンティージャの家でのパーティー
マンティージャの家では、お手伝いさんがいたのだろう。あるいはこの時だけ雇ったのかもしれないが豪華な食事が用意されていた。そして奥さんが立派な挨拶もしてくれた。

マンティージャの家に招待される。挨拶する奥さん。
驚いたことに食事中に3人組みの楽団が入ってきて生演奏をしてくれた。バイオリンにギターにアコーデオンである。歌も歌ってくれ、ステレオからの機械音でなく、本物の音楽を間近に聞けるなんて、彼らの方が我々よりはるかに豊かな生活を送っているのではないかと思わされた。マンティージャのホスピタリティー(おもてなし)に感謝した。
モリーナの家でのパーティー
モリーナの家でのパーティーはより庶民的な感じだった。日本人とはどんな種類の人間なのか興味を持っている近所の人も交じっての大パーティーである。しばらく食べて飲んだらダンスである。南米の人はダンスがなければ生きていけない。飲んでしゃべってばかりいるだけの日本のパーティーとは違って、アルコールも適度に止められて、二日酔いにもならないし、南米の家庭パーティーは楽しく健康にも良い。

家庭でダンスをするモリーナ夫妻
モリーナには息子が二人いて、現場にも来た子供達である。下の子は10才くらいだったろうか、私にいつもまとわりついていた。あまりにうるさくまとわりつくので、「皆と遊びなさい。」と言っていたのだが、そんなことは聞かずに、ずっとまとわりつくので、「マル・クリアード(mal criado:育ちが悪い)」と私が彼に言った。すると、その男の子が、お母さんに「ぼくは、マル・クリアードじゃあないよ。」とワット泣きだし、隣の部屋に閉じこもってしまった。私は軽い気持ちで言ったので、その反応に驚いてしまった。「増井はまだスペイン語をちゃんと話せるわけではないから、使い方を間違ってしまったのだ。」とか、「本当に育ちが悪いと言ったのではなくて、もっと軽い意味で言ったのだよ。」と皆でなだめて、部屋から出すのに1時間以上もかかってしまった。
スペイン語が少しはしゃべれるようになってきても、微妙なニュアンスは難しく、それが完全に分かるわけではなかったので、子供をすっかり傷つけてしまった。言葉は感情を伴なうので、その後も似たようなことは時々あり、そして今でもあるのだが、外国語を使いこなすのは実に難しいと思う。

泣かしてしまったモリーナの息子
キトーでの見学
赤道の石碑
休日に今度は、赤道の碑に行ってみた。これはスペイン語でラ・ミター・デル・ムンド(La mitad del munco : 世界の真ん中)と呼ばれていた。普通はエクアドールが赤道を意味するが、国名がエクアドルなので、それは使わないで、このような表記がなされたのではないかと思った。

赤道の石碑
旧市街
旧市街にも行ってみた。今度は多少慣れていたのであまり違和感は、感じなかった。狭い通りが続き、昔のスペインの町並みもこのようでなかったのではないかと思った。

旧市街
そして厳しく印象深かった仕事も終わり、間もなく帰国となるのである。
11月の駒ヶ岳(冠雪)
今年も!!!
この時期が近づいてきたぜ!!

それ、去年やったじゃん。
と、思いきや・・・
じゃじゃーん!!

なんだこの筒は!!
これを下からのぞくと・・・
こう見える・・・
(あまりうまく撮れない・・・)
そう、これは”カレイドスコープ”なるもの、
いわゆる『万華鏡』です。
スノードームがついて万華鏡!!!
2度おいしい!!!(^ω^)☆
ちなみに、中で見えるものもツリーや雪だるまといったクリスマスにちなんだものばかり。
きらきらー(*^ω^*)
最近の休日は飛びまわってばかりだったし、
せっかくだから今度の休日は、ゆっくり、じっくり、ながめる時間を作ろうかな。
もうひとつ。

こっちは先端にガラス球だけ付いたもの。
筒の長さや大きさによって見える模様が大きく、小さく、立体的に見えるそうです。
これは比較的細かく見えるもの。
シンプルではありますが、これもまた違った良さがあります。
テレビなんか付けっ放しで覗いているととっても楽しい!!!
まったく飽きない・・・
(-v-)。o○
たぁぼ

