[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.12 名護城公園

森林紀行

 沖縄に行ったのを利用し、本年(2024年)2月26日(月)に、名護城公園の森林内の沢沿いの道を歩いてみた。少し歩いただけではあるが、この地域の特徴を表す樹木をいくつか紹介してみたい。

名護城公園の位置
 「名護城」は、「ナングスク」と発音され、名護城公園は、名護岳一帯を園地とし、頂上付近の展望台からは名護の市街地や東シナ海方面の海の景色を眺めることができる。この公園の地下には名護大北トンネルが通っている。長さは約2kmもあり、那覇市から名護市へ来るときにこのトンネルを通ったが、随分と長く感じた。

名護城公園の位置

林相
 名護市は年間を通じて寒暖の差が少なく、黒潮の影響を受け、湿潤亜熱帯気候だ。名護市の年平均気温は約22.6°Cで、真夏日(最高気温30°C以上)は112日間あり、熱帯夜(最低気温25°C以上)は115日間あるとのことだ。名護市は一年中雨量が多く、最も乾燥している時期でも雨量に大差はなく、年間降水量は約2020mmだ。特に5月~9月にかけて雨が多い。梅雨と台風だ。ということで年間を通じて湿度が高く、風が強いが、晴れの日が多く、本曇りや雨の日は比較的少ないということである。
 かつては、名護市より以北の沖縄本島北部(恩納村以北1市2町9村)のことを「ヤンバル」(山々が連なり、鬱蒼とした常緑広葉樹の森が広がる地域)と称したことだが、現在は名護市を含めた北が「ヤンバル」と称されるとのことである。ということから、この辺りは「ヤンバル」の南境辺りに位置する森林である。亜熱帯林に覆われており、現存植生は、主にリュウキュウアオキ-スダジイ群集で構成され、また、畑地雑草群落やリュウキュウマツ群落も混在しているのが特徴とのことである。

名護城公園の衛星写真

イルカンダ
 この公園の北口から車で登って行く途中の道沿いで見た「イルカンダ」が珍しいと思った。何となくこの「イルカンダ」という語呂が不思議な植物のような感じをかもし出している。「ウジルカンダ」とも呼ばれるとのことである。漢字で書くと「入間蘭」と「鬱蘭」だそうだ。
 「イルカンダ」の名前は、沖縄の方言で「色」を意味する「イル」とカズラ(蔦)を意味する「カンダ」から来ており、葉の色が赤く色付くことに由来しているとのことである。
 「ウルジカンダ」は、沖縄の方言で「ウルジ」とは「悪い」という意味で、花の匂いが「質の悪い合成ゴムっぽい匂い」を放つことから、その名前がついたらしいが、匂いは強かったが甘酸っぱく、変な匂いとは私は感じなかった。
 「イルカンダ」は沖縄を中心に分布し、本土では九州の大分県や鹿児島県でも自生しているとのことであるが、私は見たことがなかった。マメ科のトビカズラ属に属する蔓植物で、大型の蔓になり、大きな紫色の花を房状につける。いきなり花を見たので、良く咲く花かと思ったところ、花は、「幻の花」だそうで、「湿度が高く日陰を好む」ことから、自生する場所が限られていて、毎年咲くわけではなく「開花も不規則」だからだそうだ。
 学名はMucuna macrocarpaで、「Mucuna」はこの植物の属名のトビカズラ属を指し、「macrocarpa」は「大きな果実」を意味するとのことである。つまり、この植物は大きな果実を持つことを示している。

イルカンダの花
イルカンダの花

ヒカゲヘゴ
 この沢沿いにはヒカゲヘゴが沢山自生している。幹には楕円形の模様が多くついており、蛇のような柄をしているので、びっくりすることがある。
 ヒカゲヘゴは、漢字で書くと「日陰杪欏」だそうだ。大型の常緑木生シダで、日本では最大のシダ植物で、平均的な高さは5m〜6mで、最大で15mにもなるとのことである。葉柄から先だけでも2m以上の長さがあるものも存在するとのこと。新芽は幹の頂部から伸び、葉柄部から葉がゼンマイのような形状となった後に開いて成熟するとのことである。
 ヒカゲヘゴは、日本の南西諸島から台湾、フィリピンに分布しているとのことだが、沖縄本島から八重山諸島にかけての森林部でよく見られ、西表島では私もよく見た。
 学名は、Cyathea lepifera (J.Sm. ex Hook.) Copelで、Cyatheaは、ヘゴ科の多年生のシダ植物の属名で、この属名は、ギリシャ語の「kyatheion」から派生しており、「小さなカップ」を意味し、これは、葉の裏側にあるカップ状の胞子嚢(sori)を指しているとのことである。lepiferaは、ラテン語で「鱗片を持つ」という意味で、ヒカゲヘゴの葉跡が鱗片のように見えることから、この名前が付けられたとのことである。
 英名は、Flying Spider-monkey Tree Fern(空飛ぶクモザル木性シダ)とのこと。この名前は、新芽が開く際の姿勢が猿の腕に似ていることから派生しているとのことである。

 ヘゴ科の植物はシダ植物の中では比較的新しく、約1億年前に出現したものと言われているが、ヒカゲヘゴはその大きさから古生代に栄えた大型シダ植物を髣髴させ、その生き残りとも言われている。そこで古生代から中生代に繁栄したシダ植物を調べてみた。
 古生代の石炭紀(約3億5900万年〜約2億9900万年前)には、カラミテス(Calamites)が大群落を形成しており、これがモンスタープラントということである。高さは約20m、直径が2mにも及び、木質の強固な幹を備えていたということである。また、石炭紀後期からジュラ紀前期(約2億3900万〜約1億7500万年前)には、ネオカラミテス・メリアンイNeocalamites merianiiというシダ植物が繁茂していたとのことだ。これはカラミテスよりは小さく高さは約2mほどだが、直径は太かったとのことである。恐竜時代の大地に根を広げ、恐竜たちの栄養源となったと考えられている。

ヒカゲヘゴ
ゼンマイのような新芽
林内でヒカゲヘゴが多い場所

イジュ
 幹に樹木名板が張り付けられている大きなイジュの木を見た。イジュ(伊集)は、ツバキ科ヒメツバキ属の常緑樹で、樹高は5m~20mほどになり、花は白くて大きく開き、花径は約5cmほどで、梅雨時に咲くので沖縄では梅雨の花として親しまれているとのことだ。分布は、日本では小笠原諸島(硫黄諸島を除く)と、奄美以南の琉球列島に分布し、国外では東南アジアや東部ヒマラヤにも広く分布しているそうだ。葉は変異が多いそうだが、タブやカシにも似ており、間違えることも多々あるそうだ。私も葉を見た時は、カシの仲間ではないかと最初思った。
 名前の由来は魚の毒の説では、琉球の言葉で「魚毒(いゅどく)」を意味する「イユ」に由来しているとされており、かつてはイジュの樹皮から取れた毒で、魚を浮かせて捕る漁法があったそうである。別のサポニン説では、イジュの名前は、樹皮がサポニンを含み魚毒になるため、粉にしたものを川に流して魚を獲ることからきているとも言われているそうだ。

 イジュの学名は、Schima wallichii subsp. Noronhae である。Schimaは、ツバキ科(Theaceae)に属するヒメツバキの属名で、wallichiiは、ヒメツバキの種名である。どちらも学者の名前に由来しているようで、樹木の特徴は示していない。

イジュ
イジュ
イジュの葉

ビロードボタンズル
 ビロードボタンズルの実は初めて見た。実から白い綿毛が多数出ていた。花はもう少し早く咲き、黄色で枝先に釣り鐘型の花を1~5個つけるとのことである。葉の両面は茎とともに長毛があり、フカフカしていて、和名の由来であるビロードの触感がある。
 漢字では「天鵞絨牡丹蔓」で、キンポウゲ科のセンニンソウ族の蔓性半常緑樹である。センニンソウと言えば本土では良くみるツタであり花の形は大分違うが色は同じ白である。また、クレマティスと言えば、トケイソウやテッセンもそうである。
 ビロードボタンヅルは蔓植物のため、他の植物や物体に絡まって伸び、単独で立っている木のように高くなることはない。一般的には2m~5mほどの高さになる。蔓植物のため、幹の太さは他の植物に絡まっている部分に依存し、幹は細く、他の植物や支えに巻きついて成長する。
 学名は、Clematis leschenaultiana で、Clematisは属名で、「センニンソウ属」を示し、種名の leschenaultiana は、フランスの植物学者の名前とのことであり、やはり樹木の特性は示していない。分布は日本(南九州から琉球列島)、台湾、中国、インドシナ、マレーシアに及ぶとのことである。

ビロードボタンズルの実
実から白い綿毛が多数出ている

イタジイ
 沖縄ではイタジイ(板椎)と呼んでいるので、本土のスダジイとは別種だと思っていたが、同種である。スダジイといえば本土の暖温帯林の代表的樹種で、クライマックス樹種の一つといわれている。クライマックス樹種とは、生物群集の遷移の最終段階で平衡状態に達した時に優占する樹種である。極相(きょくそう)とも呼ばれ、森林生態系において、極相樹種は大規模で安定した状態を維持できるといわれている。
 沖縄ではオキナワジイとも呼ばれ、スダジイの亜種とする学者もいるが、違いは微妙で区別しないというのが、一般的である。沖縄ではイタジイの呼び名が一般的だ。

 名護城公園の天上展望台から見渡すとイタジイの芽吹きが、まだ2月にもかかわらず沢山見られた。本土でのスダジイの芽吹きは5月~6月頃なので、さすが沖縄は暖かいので早い。雄花は新枝の下部から長さ約10cmの花序を垂下させ、淡黄色の小型の花を密につける。虫媒花のため、虫を呼ぶために強い香りを発し、青臭い異臭と感じられる。
 天気が悪かったので葉からの反射がなかったが、晴れていれば春の新緑の鮮やかさをかもしだしていただろう。
 学名はスダジイと同じく「Castanopsis sieboldii」で、ブナ科シイ属の常緑広葉高木で、「Castanopsis」は、ブナ科に属する植物の属名である。「Sieboldii」は、種名で、シーボルトが名付けたのでこの名がついたものであろう。何らかの特徴が示されていないのは、学名として面白みに欠けると思う。 イタジイの実は、あく抜きなしで食べられる数少ないドングリの一つで、縄文時代から人々の食料として重要だった。現在では、街路樹や公園樹としても植えられている。イタジイは寿命も長く、大木になるので、木材は家具や建材に使われ、シイタケのほだ木としても利用される。

イタジイの芽吹き

名護城公園の天上展望台から見た景色
 最初に記したが、天上展望台からは、東西南北どの方面を見ても素晴らしい展望が得られる。以下の写真に示す。
今回はわずか5つの樹木を紹介しただけだが、沖縄には今後も来る機会は多くあると思うので、次回は名護岳に登ろうと思う。また、その時は別な樹種を紹介したい。

真ん中が名護岳
名護岳から左の森林
イタジイが芽吹き、眼下に名護市を望む。
遠方は八重岳(453m)
東シナ海方面




つづく

プチ贅沢

ゼンシンの日々

素晴らしい旅行記の後で、アップするのも大変気が引けますが、

せっかく写真をとってきたので・・・

近場ですが温泉もお料理もとても良かったです。

写真の「林檎カクテル」

メニューにウォッカベースって書いてありましたが、

ウォッカがそんなに強いお酒だとも知らずに注文。

甘くて飲みやすくグビグビいってしまい、酔っぱらいました。

鎌倉の鶴岡八幡宮へ行ってきました

ゼンシンの日々

 この間、念願かなって神奈川県鎌倉市にある鶴岡八幡宮へ生まれて初めて行ってきました。

 鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府を築いた初代将軍である源頼朝ゆかりの神社として約800年の歴史があります。現在は観光スポットとしても人気があります。

 このような人気のある神社へ近づいて行くと、大きな朱塗りの鳥居が見えてきます。

大鳥居

この立派な鳥居を潜ると、鶴岡八幡宮と書いた立看板がありました。

鶴岡八幡宮と書いた立て看板

この立看板を過ぎると、鶴岡八幡宮とその近くに旗上げ弁財天社の由来を描いた看板がありました。

由緒書き看板 (鶴岡八幡宮)
由緒書き看板 (旗上げ弁財天社)】

 これらの由緒書き看板と歴史書によると鶴岡八幡宮の御祭神は、応神天皇・比売神・神功皇后の3柱の神様です。これらの神は、「武運の神」として武家に厚く信仰されていたことから、勝利祈願・必勝祈願に御利益があるそうです。また、仲哀天皇の皇后である神功皇后は、女傑としても有名で、自分が身籠っている時に戦さで朝鮮半島の新羅まで遠征して勝利しました。日本に凱旋した皇后は無事に皇子を出産したことから安産・子育てにも御利益があるそうです。ちなみにこの時に生まれた皇子が、後の応神天皇です。

 やがて時代は下り、源氏と平家の争乱を経て、1192年(建久3年)に源頼朝は朝廷から征夷大将軍に任じられ武家政権としての鎌倉幕府が成立します。初代将軍の頼朝は鎌倉の地を幕府として組織し、若宮大路を中心線として、その奥に八幡宮を遷座・勧請して、源氏の氏神・幕府の守護神として位置づけました。これが現在の鶴岡八幡宮にあたります。

 境内には、太鼓橋を挟んで源氏池と平家池がありますので、それらを見ながら、ご本殿に向かうために、広い境内の中をひたすら歩きました。

広い境内

       

 すると、大きな石段が見えてきました。この石段付近が、歴史の流れを変える大事件が発生した場所として知れ渡っています。その事件は、1219年(承久元年)1月に発生した 鎌倉幕府第3代将軍 源実朝 が、先代の第2代将軍 源頼家の遺児である公暁により暗殺された事件です。この事件は、令和3年のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」においても描かれており、私にとってはとても印象的なシーンの連続であり、今でも思い出されます。

 源実朝は、武家の統領であるとともに歌人としての才能もあり、和歌に優れ彼が編纂した金槐和歌集には多数の和歌が記されています。このような才能溢れる将軍が20代後半の若さでこの世を去らざるを得なかったことは、残念でなりません。このような思いを抱きながら、この大石段を一歩一歩と当時の歴史を噛みしめながら登って行きました。

大石段の全景

 大石段を登りきると、そこには御本殿がありました。その朱色で塗られた鮮やかな色彩と華麗な建築には、目を見張りました。唐獅子など豊かな色彩の装飾も施されています。さすがに、国の重要文化財に指定されているだけのことはあるなと、実感しました。   

御本殿(本宮)

 もっとじっくり見てみたいと思いつつも、この旅行は団体旅行で来ていますので、集合時間を守らなければいけません。なので、後ろ髪を引かれる思いを抱きながらも、この場所を後にしました。

 鶴岡八幡宮には、今回は時間切れで見学できなかった「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」や「鎌倉国宝館」「白旗神社」「丸山稲荷社」「神苑ぼたん庭園」等があります。

 次回は時間の制約のない旅行をして、ゆっくりとこれらを見学してみたいと思います。

令和5年度 長野県優良技術者表彰

お知らせ

令和5年度長野県優良技術者表彰 表彰式が、2月7日(水)に長野県庁講堂にて執り行われ、弊社より2名が表彰を受けました。   

発注者様をはじめ関係者の皆様に心より感謝申し上げます。                                                  
今回の受賞を励みとして、さらなる技術の向上に努めて参りたいと思います。

委託業務 一般部門

 受賞者 境澤昌志
 業務名 令和3年度 防災・安全交付金 火山砂防(加速化)事業に伴う測量設計業務
     (諏訪建設事務所)

 受賞者 原田東鶴
 業務名 令和3年度 国補道路メンテナンス(橋梁)(加速化)事業に伴う設計業務
     (飯田建設事務所)

3月の駒ケ岳

社窓
2024年3月の駒ケ岳

3月となり暦の上では春となりました。

3月は和風月名で「弥生」といいますが、
「弥」はますます・いよいよという意味があるそうで、
草木が目覚めて生い茂る月、
「木草(きくさ)弥(いや)生(お)ひ茂る月」
からきているという説が有力だそうです。

桜の開花予想なども出始めました。
まだまだ寒い日がありますが、徐々に暖かな春が近づいています。

2024年3月の南アルプス

冬の芸術祭

ゼンシンの日々

今年も行きました🚶🏻‍♂️

松本建築芸術祭 Vol.3 今年は2/23‐3/24の期間で開催されています。
私は雪の日に挟まれた3連休の真ん中に出かけたのですが、天気が良く、外を歩いていると汗をかいてくるような、そんな陽気でした。

今回のメイン会場は旧松本市立博物館です。

今年の会場 旧松本市立博物館(なぜビニールっぽい・・・)

この旧松本市立博物館は、昨年の10月にオープンした新築の博物館へ役割をバトンタッチし、この後は解体の予定にあるそうです。

新館の建物自体はしばらく前からできていたため、一昨年よりずっと入れるのを楽しみに待っていました。
が、その代わりに旧館は解体されてしまう、、、
無くなる頃になってようやく目が向くのも寂しいけど、ありがちなものだなぁと感じています。
移転前に一度博物館として利用してみたかったと思いました。

新松本市立博物館の中(吹き抜け) てまりモビール
内装は石や木で自然な感じ? 曲線で作られた階段でした(造るの大変そう)

話は戻り、松本建築芸術祭。
古い、歴史のある建物と芸術とを融合させたイベントです。
3回目の今年はメイン会場に芸術作品が集合していますが、
私は昨年の、街中に散らばる建物を巡るスタンプラリー形式の芸術祭もとても楽しくて好きでした。

その分今年は短時間で作品を見ることができたので、とても楽でした。

この建築芸術祭は、建物の中にアート(絵画、写真、立体物など)を展示するだけでなく、建物いっぱいに、空間を占領して表現しているような大胆な作品もあったりして、驚き圧倒されるものもあります。

今年は「作品を展示」がメインに感じましたが、前回と同様に
文化だったり伝統であったり、失われる物をテーマに見る人に対して考えさせ、訴えている作品が多いように感じました。

作品の全てが、見る人によって違う印象を持たせたり感情を生んでいるんだろうな、と違う視点からの意見も聞いてみたらとても楽しそうです。
松本建築芸術祭 是非、見に行ってみてほしいと思います。

会場の「ビニール」っぽさ・・・
実はこれも作品の一部でした(帰る時に、まだ作業中の人がいるのを発見!!🤓📸)


滅多に入れないような建物に潜入できる良い機会でもあるので、建物に興味があったり好きな人にはとても良いチャンスです!(今年はちょっと違うけど😑)

これは昨年の作品
茶室にまるまる敷き詰められた苔(イミテーション)の動物王国
とても好きでした🙂

2月の駒ケ岳

社窓
2024年2月の駒ケ岳

今シーズン初めての本格的な雪が大雪となりました。

雪かきに追われたり、早めに帰宅したり、リモート勤務に切り替えたり・・・。
例年であれば、これからが南岸低気圧による降雪が増えるところですが。

2月といえば、節分の豆まきですが、
皆さんは、豆まきしましたか?
最近は、集合住宅やご近所のこともあり、やらない家庭も多いとのこと。
世知がない世の中となったというか・・・。

もともと「節分」とは、年4回訪れる立春、立夏、立秋、立冬の前日を指していたが、
現在では、一年の始まりである立春の前日を「節分」といいます。
季節の変わり目には病気や天災などが起こりやすいことから、
「一年間健康に過ごせるように」という願いを込めて、
節分に豆まきをして、鬼を追い払うとのことです。

インフルエンザやコロナの流行も続いているようです。
暖冬とはいえ、まだまだ寒い日が続くと思われます。
体調に気をつけてお過ごしください。

2024年2月の南アルプス


とうとう降りました

ゼンシンの日々
そうです 22㎝も積もりました。 
道路は、大渋滞でいつもなら30分あれば大丈夫な通勤時間も、3時間30分も掛かってしまいました😂
昨年の秋に家の近所で見つけたこの虫は、昔の日本髪を結った女性の顔に見えませんか❓
虫の名が分かる方は教えてください🤗

昨年近くの現場へ行ったついでに、初めて詣でた小諸市の「布引観音」です。
岩盤をくり抜いて建築されています。

辰年

ゼンシンの日々

新年のご挨拶を申し上げるには、やや間延びした感がありますが・・・
今年もよろしくお願いいたします。

先日、銀行に行き、手続きを待つ間、店内にある案内のボードを見ていたら
「辰年」のことが書かれていました。そのままパクリですみませんが

【竜は天に昇る様子が成功や発展の象徴とされ、
この辺で「竜」といえば天竜川。
諏訪湖から太平洋まで213kmあり、日本で9位の長さとのこと!】

会社では天竜川に関連する仕事もいただいているし、
竜にあやかって上昇の良い年にしたいと思います。

[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.11 高水三山

森林紀行

冬の山歩き
 奥多摩の高水山を目的に、2023年12月16日(土)に登った。青梅線の御嶽(みたけ)駅から登り始め、グルッと回るような形で軍畑(いくさばた)駅に降りた。ここは、惣岳山(そうがくさん756m)、岩茸石山(いわたけいしやま793m)、高水山(たかみずさん759m)の三山が高水三山として有名である。この日は冬の山とは思えない暖かさで、山歩きをおおいに楽しんだ一日であった。

高水三山の地図

家を出発
 家を7時半頃出たが、今回も出発時には、暗い雲が空を覆い、またしても雨が降りそうだった。実際、高水山方面は雨だった。雨に備え、折り畳み傘とゴアテックスの雨具を持ち、登山用の杖を1本持った。しかし、天気予報では、朝の曇天は段々と晴れてきてで、気温は23℃まで上がり、冬とは思えない暖かさになるとのことだった。

集合
 集合は青梅線の御嶽駅に9時37分だったが、少し早く着いたのでひとしきり駅で皆を待っていた。駅へ来る間に、段々と晴れ間も出てきて、安心した。今回のメンバーは、リーダーはいつものレオさん。集まったのは合計10人だった。外国人3名、日本人7名。男女5名ずつだった。

朝の青梅駅。ここで乗り換え御嶽駅へ
御嶽駅、段々と晴れ間が見えてきた

御嶽駅
 御嶽駅では駅前に登山ルートの看板があった。この看板は左側が北を指している。

駅前の看板
同上
晴れ間が広がってきた

登り口を間違える
 上の地図に従い、御嶽駅を右側におり、軍畑駅方面に上に向かって歩いたが、御嶽駅を過ぎたらすぐに左側に入り、踏切を渡り、神社を通って山道に入るはずが、その左側の入り口が分からず川に沿ってしばらく上方向(下流)に行ってしまった。道路と川がカーブする場所まで来て入り口を通り過ぎたことが分かり引き返した。ほんの5分ほど、往復10分ほどのロスである。
 引き返し、踏切を渡る登り口を見つけ、踏切を渡った後に神社に入っていった。慈恩寺である。ここで、あまりに暑く、もう汗をかき始めたので、私は、夏用の速乾吸湿のTシャツに着かえた。ところがそれがまた間違いのもと、そこに置いた杖を忘れてしまったのだ。

慈恩寺へ
 慈恩寺の中を通り上へ登って行く。ここから412mのピークまで尾根を直登だ。御嶽駅が標高約250mだから約160mの直登だ。
 慈恩寺の上には寺には良く植えられるナンテンやマンリョウなど赤い実が付く木が植えられ、いかにも寺院らしい。お寺の庭に、ナンテン(南天)やマンリョウ(万両)が植えられるのは、南天は「難転じて福となす」という縁起物として、鬼門や裏鬼門に植えられ、万両は「万事成就」ということで、やはり縁起物として植えられるとのことである。
 私は、半袖のTシャツに着替えたとはいえ、暑くて汗が噴き出す。

慈恩寺の入り口
慈恩寺
ナンテン
慈恩寺の上を登っていく

慈恩寺の入り口に杖を忘れ取りに戻る
 しばらく登り、標高で約50mくらい登ったところで、杖を持っていないことに気づいた。本当にもうボケが始まっている。神社の入り口に杖を置いたことを思い出した。皆に「杖を取りに行ってくるから先に行っていてくれ。」と言って、急いで杖を取りに戻る。これにより皆より30分は遅れ、その上、自分の体力も消耗するはめとなる。

最初に引き返したところまで戻る
 神社の入り口まで戻って杖を捜すが、杖が見つからない。「何故だ?おかしい。」何回も良く捜すが見つからない。「おかしいなあ。誰かが持って行ってしまったのかなあ?変だなあ?」と思いながら、仕方がないので、最初に駅から下った道と川がカーブし、皆で引き返した所まで戻ってみるが杖は見つからない。途中、登山道具のアウトレットの店があったので、そこに杖を届けてくれた人はいないか聞いてみるが、「いない。」と言われ、仕方がないので、杖はあきらめ、皆に追いつこうと踏切を渡り、慈恩寺の入り口まで来る。

杖が見つかる
 そこで、上方向をみると、杖があるではないか?「やあ、良かった。」とホットした。上から見る角度と下から見る角度が違うので、見つからなかったのだろうか?それにしても最初にあれほど捜しても見つからなかったのはキツネにつままれたようであった。
 とにかく良かった。この杖は中国の大連のデカスロンの店で買ったフランス製である。思い出があるので、失いたくなかったのである。

ヒノキの人工林
ヒノキの人工林

最初の鉄塔
 しばらく登ると東電の高圧線の鉄塔がある。これが尾根上にあり、地図に合わせると標高375mくらいだ。あと35mくらい登れば尾根上に出る。すぐだ。

最初の東電の鉄塔

412mのピーク
 そしてしばらく登って412mのピークに出た。ここからの眺めが良い。この周辺は森林再生事業で枝打ちをしている。

412mのピークの表示
枝打ちの表示板
標高412mのピークからの眺め

二本目の鉄塔
 ここからは尾根上の平坦な道で、歩くのは楽だった。歩いているこの道は、関東ふれあいの道である。二本目の鉄塔が出て来た。これも地図で合わせると390mくらいだからピークから30mほど下ったことになり、楽な道だったはずだ。

2本目の東電の鉄塔
関東ふれあいの道の標識石
途中の道標

何人もの登山者とすれ違う
 私が登って行くと下って来る人に沢山会った。最初に会った人は10時半過ぎだった。朝6時頃軍畑駅を出発したとのことだった。朝は土砂降りでその中を歩いたので大変だったとのことだ。途中で雨は止み、今はすっかり晴れて良い天気になり、ほっとしたとのことだった。前に行った10人ほどのグループとすれ違ったか聞いたとこころ10分前くらいにすれ違ったとのことだった。往復で20分前くらいにいるのだなと思い、追いつくよう急いだ。
 それから一人、二人連れ、グループなど何人かの人とすれ違い、その都度前のグループがどれくらい前にいるか聞いて行ったが、いずれも10分~15分前くらいだということだった。いろいろ周りを見ながら歩いていたので、結局、惣岳山の頂上まで追いつけなかった。

分収林の看板
 分収林契約地があった。土地所有者が「青渭神社」で、管理者が(公財)東京都農林水産振興財団と書いてある。
 分収林とは、地主と造林者(造林と植林は同じような用語に思えるが、植林は植栽のみを示し、造林にはその後の除伐や間伐などの手入れも含む)で契約し、伐採した後に立木を売って得た収益を分配する森林のことである。
 だからここの森林は、神社の土地に財団が資金を出し、造林し、伐採時の立ち木の販売収入をあらかじめの契約に戻づいて分配する森林ということである。

分収林契約地の看板

 私は、林学を専門に習っているので分かるがが、最初にこの言葉を聞いた時に、分からない用語だなあと思ったものだ。分収林でなく収分林なら多少は分かり易いかなと思ったものである。英語をみると「profit sharing forest」である。「収入を分ける森林」という意味で、日本語よりずっと分かり易い。
 林学というのは、明治時代の初期にドイツ語から入った用語を訳し、それも難しい言葉として訳すのが学問として当たり前と思われていたのだろうから分かりにくい。「収入分配林」とか林学会が主導して、名前を変えたらどうかなとも思うが、一旦、定着した用語を変えるのは難しいのだろう。
 他にも林学用語は非常に難しいものが多い。例えば、「法正林」、「林分」、「森林施業」、「施業団」、「作業級」などと聞いても、どのような概念なのかすぐには分からないのではないかと思う。最後に書いた「施業団」と「作業級」がほぼ同じ概念を表すものと言ってもこの言葉からはさっぱりわからないのではないかと思う。「同一作業実施森林群」とでも訳せば言葉と内容が少しは分かるのではないかと思う。
 しかし、一旦概念が分かってしまえば、内容はそれほど難しいものではないと思う。

ところどころに設置されている案内板

追い抜っていた人
 しばらく歩いて行くと、後ろから遠くに聞こえていたクマよけの鈴の音が、段々と近づいてくる。そして中年の女性が私を追い抜いて行った。聞けば、登山口がわからず、慈恩寺の境内を通り抜ける道もわからず、その辺りをウロウロして1時間もロスしてしまったとのことである。きっと我々グループと同じくらいの時間に登り始めたのだろう。しばらく付いて行ったが、私よりペースが早く、付けば消耗が激しくなるので、マイペースで行くことにした。
 クマと言えば、今年はクマが町周辺に出没し、被害が多いとのことである。今年の冬のようにこんなに暖かくてはクマも冬眠もできないだろうし、ドングリの成りも良くなく、目を覚まし続けていればその分食料もいるので、町周辺に出没するのだろう。

所々に生育している巨木
 仲間が発見した大きなアカマツである。根がとぐろを巻いているように見える。
 谷間にあったスギである。胸高直径は1ⅿ近くあり、樹高は30m以上はあるだろう。

途中にあったアカマツの大木
惣岳山の下の谷間の大きなスギ

惣岳山の下の真名井神社
 惣岳山にかなり近づいたところで、皆からどこにいるのだというメールがあり、惣岳山の下の「青渭の井戸」にいると返信する。皆は惣岳山頂上にいて、昼飯を食べているという。「早く上がって来い。」というが、こここそが「青渭神社」の名前の発祥の地である「青渭の井戸」がある場所なので、「青渭の井戸」を拝み、しばらく眺めていた。「青渭の井戸」はこの谷間に出る湧水で「真名井」と呼ばれているそうで、神聖な水とされている。ここにある祠(ほこら)は真名井神社とのことである。
 また、この周りにも大きなものは、胸高直径1ⅿ程度、樹高は30m以上はあるスギの大木が沢山あり、壮観だった。

末社の真名井神社。「青渭の井戸」

惣岳山
 真名井神社のすぐ上が奥宮であり、惣岳山の頂上だった。ここで皆と合流した。30分遅れだった。途中で私の名前を3回も呼んでくれた方もいたが、残念ながら聞こえなかった。
 皆が昼飯をほとんど食べ終わるころだったので、私もコンビニで買ったおにぎりを食べようとしたところ、自家製ハムとチーズなどを持ってきてくれた方がそれを挟んだパンをくれ、とても美味しかった。その後に急いで自分の持ってきたものも食べた。
 下界は23℃と冬とは思えない暖かさだったが、頂上は風も少しあり、さすがに寒く、おそらく10℃くらいだったろう。Tシャツの私を見て、皆がすぐに何か着た方が良いというので、ウインドブレーカーを着込んだ。汗も引いてきて、着込んでちょうど良かった。
 惣岳山の頂上には青渭神社の社殿があり、そこには、弘化三年再建と書いてあるので、火災にあい、再建されたのだろう。因みに弘化三年は1846年なので、今から177年前のことである。この青渭神社は、平安時代の記録「延期式」に記載されている青渭(あおい)神社だそうだ。神域では昔から樹木が大切にされ、伐採が禁じられたので、今でも大木が残っているのであろう。

惣岳山頂
山頂の本社(奥宮)社殿
ここに弘化三年再建と書いてある

スギとヒノキの植林地
 ここから先もずっとスギとヒノキの植林地であったが、開けた場所にでた。また、ここも見渡す限りスギとヒノキの植林地であった。

スギとヒノキの植林地

滑りやすい岩場
 この辺りの岩場はとても滑りやすい。節理が見られ、火山岩でないので堆積岩で砂岩、泥岩、頁岩の類と思われる。昔は海の中にあり隆起したものだろう。ただ、チャートがところどころ貫入しているようだ。チャートは、珪質(二酸化ケイ素を多く含む)で細かい石英からなる硬い岩石で、乳白色であることが多く、放散虫や珪質海綿・珪藻などが深海底に集積してできたものと考えられている。いずれにせよこの辺りの山地は海底から隆起してできたのだ。

岩に節理がみられる
急な岩場
岩茸石山を望む
振り返り惣岳山を望む

岩茸石山の頂上
 13時20分くらいに岩茸石山の頂上に着いた。「岩茸石山」の名前の由来は、かつてこの山で採れた「イワタケ」というキノコにあるとのことだ。イワタケは、岩の上に生え、岩茸石山のような岩の多い山地に生息しているため、このキノコにちなんで「岩茸石山」と名付けられたとされている。
 イワタケ(岩茸・石茸、Umbilicaria esculenta)は、地衣類で、中国、朝鮮、日本の温帯に分布し山菜、生薬として利用するそうだが、食べたことがない。

岩茸山山頂

 岩茸石山の山頂には神社はなかったが、ここにある青謂神社は、惣岳山の青渭神社とは異なり、「延喜式」には「岩茸石山青謂神社」と記載されているとのことである。「青謂」と「青渭」の字が違う。

高水山に向かう
 岩茸石山の後に、高水山に向かったが、高水山に登ったのは私とあと2人、計3人だけだった。残りの7人は頂上を巻いて行く楽な道で行くという。「高水山に登りに来たのに何故高水山の頂上まで行かないの?まあ、それならそれでいいでしょう。高水山を下りたところで会いましょう。」と、3人で頂上へ向かった。私としては、今回の山行の目的地は高水山だったのに、この山頂に行かないわけにはいかない。他の人達は、レオさんに従って、何故いかないのか不思議であった。くたびれていたのだろうか?

高水山への道標

高水山頂上
 高水山山頂のやや手前には祠(ほこら)があった。この祠を過ぎたらすぐに山頂だった。山頂には何かあるというわけではなく、ここを下りるとすぐに常福院不動堂だった。皆とここで合流した。

高水山山頂直下にある祠
高水山山頂
高水山山頂

 皆と合流した後に、私はもう一度言った。「高水山にきて高水山に登らないのはもったいない、頂上はすぐそこだから行ってきた方が良いよ。」そうしたら数人が駆け出して頂上まで行ってきた。高水山を目標に登ってきたのだから、これで登った人は満足だろう。まあ、頂上まで行かなかった人は、特に頂上にこだわっているわけでもなく、冬の山の自然を歩いて楽しんでいるのだからそれはそれで良かったのであろう。

高水山頂上まで走って登る

常福院不動堂
 ここにあった常福院不動堂は、青渭神社とは異なるとのことだ。常福院不動堂は、真言宗豊山派の寺院で、高水山不動堂の本堂であったとされているとのことである。源平・鎌倉時代の有力な御家人である畠山重忠が、この地に深く帰依し、不動明王を祀ったもので、数度にわたる山火事のため焼失し、現在の不動堂は1822年に再建されたものとのことである。

常福院不動堂
同上
不動堂の前の狛犬。犬か狼か?

 不動堂前の左右に鎮座する狛犬は、和犬の石像に見える。どうみても犬だが、オオカミのような感じも受ける。オオカミが絶滅する前には、この辺りにはオオカミが沢山いたので、オオカミにも見えるようにも作ったのであろう。

軍畑(いくさばた)駅に向かって降りる
 常福院から軍畑駅に向かって降り始めたところは、緩やかな下りでモミジなどの葉が厚く積もり、ふかふかしてこれを踏みしめながら歩くのはとても気持ちが良かった。

常福院の下の道標
落ち葉を踏みしめて歩く

途中メンバーの一人を待つ
 半分のメンバーが先に降り、残りのメンバーが少し遅れており始めたが、その時後ろのグループの内の一人の女性が、先に行っててくれというので、先に降り始めた。しかし、参道と思われるが、歩きにくい階段状の道が続き、また、まだ午後2時半というのに、山道は薄暗くなってきた。一人で、後から追うのは良くないということで、しばらく歩いてからそのメンバーを待つことにした。止まったところで大声を張り上げると、そんなに遠くでなく声が返ってきたので、安心した。しばらく待ち、後発メンバーが一緒になり降り始めると先発メンバーも案外に近いところで待っていた。全員がまとまり、安心した。

急斜面が続く
 この後、ある程度平らになるところまで急斜面が続き、所々にある階段の段差がとても高い所もあり、膝が笑うようであった。

急斜面が続く

舗装道路手前の砂防ダム
 ようやく下りきったところに大きな砂防ダムがあった。平溝川砂防ダムだそうだ。
 東京都が平成4年から6年間を要し土砂災害から守るために設置した砂防ダムとのことだ。約30年前だ。この堰堤は、堤高19m、堤長32mと西多摩地域でも大きな構造とのことで、20,000㎥の貯砂量に対してまだかなり余裕があるように見えた。

貯砂量には余裕がある
19mの高さがある堰堤

スズメバチの巣
 堰堤に大きなスズメバチの巣が作られていた。オオスズメバチかキイロスズメバチの巣かわからなかったが、巣は一年しか使わないとされているので、再利用はないだろう。この巣からの危険はないだろうが、この周辺にはスズメバチが沢山いるだろうから来年の8月~9月くらいには活発に動くので、ここを歩くには注意が必要だろう。とはいえ、巣や蜂自体に刺激を与えなければ攻撃してくることはほとんどないので、刺激を与えなければ大丈夫だろう。私のことを言えば、キイロスズメバチとオオスズメバチと一回ずつ刺され、その他のハチには相当回刺されているので気をつけないといけない。

スズメバチの巣
下からみた堰堤
堰堤の下部にはヤマメの釣り堀もある

舗装道路を歩き軍畑駅へ
 ここから舗装道路を軍畑駅まで歩いた。山道から降りると舗装道路は歩きにくいものだと感じたものである。

舗装道路に降りた

軍畑駅には下山した沢山の人が電車を待っていた。16時20分の電車に乗り家路についた。 師走の冬とは思えない暖かい日で絶好の山歩き日だった。



つづく

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