11月の駒ケ岳

社窓
2019年11月の中央アルプス
11月の駒ケ岳

紅葉が一気に麓まで広がりました。
それでも、例年に比べたらゆっくりとした秋の深まりのようです。

そろそろ、スタッドレスタイヤにいつ変えようか。
インフルエンザの予防接種はいつ受けようか。
そんなことが話題にあがるようになってきました。
冬に向けての準備が進んでいきます。

南アルプス

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.18_ブルキナ・ファソ

森林紀行

ブルキナ・ファソ―ロロペニの世界文化遺産を見た一日

【別ルートで首都へ帰る】

2011年10月26日、この日はバンフォラ(ブルキナ・ファソの南部コートジボワールに近い町)からワガドゥグ(首都)に上がる日だった。3月にクーデター未遂事件に巻き込まれ、恐怖の体験をしたことから、複数の避難ルートを確保しておくため、いつもとは別なルートでワガドゥグに戻ることにした。200kmくらい余分に走るが、途中のロロペニ(地名)にブルキナ・ファソで唯一の世界文化遺産があるので、それを見学した。

【出発】

いつもと同じ時間に朝食を取り、運転手のダウダが7時に家に来た。同僚と7時20分に家(ホテルの中の一軒家を借りメンバーでシェアハウス)を出発。ブヌナ村への曲がり角まで来る。普通はここから北へ真っすぐワガドゥグに向かって行くがここで、右(東)にまがりプロジェクトを行っているグアンドゥグやコングコ国有林方面に向かう。ここからシデラドゥグまでの道は舗装されているが、雨期で道路が痛み、水溜まりや穴ぼこが多い。車がそれらを避けるので、左右に揺れるし、時々、穴ぼこに落ちるのでガタンとする。9時にシデラドゥグに着く。森林官事務所前を通過し、10分ほど走ると道が狭くなる。溜池があるが、この辺りからは道路が広くなったり細くなったりする。

シデラドゥグを過ぎたあたりの大きな溜池

ロロペニの遺跡】

10時25分にロクソを通過し、10時35分にロロペニに着く。ここがブルキナ・ファソ唯一の世界文化遺産がある場所である。遺跡に着くと見学者は一人もいない。ガイドが1人いたので、案内を頼む。

ロロペニ遺跡のガイド

ここは昔、金の精錬が行われていたとのことで、千年以上の歴史があるとのことだった。以前の土壌分類だとラテライトだ。その鉄塊を積んで壁にしており、まるで要塞のように周囲を囲んでいる。いや要塞だったのだ。ところが、大部分の壁が壊れている。壁の高いところで5mほどだが、昔は12mはあったそうだ。ライオンやその他の動物から人間を守るためのものだったとのことだ。しかし、人間という最も恐ろしい敵もいたであろう。

鉄塊を積んだ擁壁

ブルキナ・ファソ政府には、この遺跡を保護するための資金もないのだろう。何の管理もなされていない。観光客がおらず、日本のように観光客だらけの世界遺産とは全く対照的である。そのため静かで、落ち着いてゆっくりと見学することができる。はるか遠い昔に戻ったような気分を味わえ、ざわついた日本の観光地よりもずっと良いと思った。そして見学が終わり、帰途につこうと思った時にフランス人らしき数人が見学に来た。説明板には次のように書いてあった。「世界文化自然遺産保護条約に従い、遺産資格を獲得したブルキナ・ファソのロロペニ遺跡は世界遺産リストに登録される。全人類の利益を確実に守るため、普遍的な価値を持つ文化あるいは自然がリストへ登録される。」 遺跡の中にはシアバターの木が沢山残されていた。自然に生えてきたシアバターの木は伐らずに残したものである。

遺跡の中はシアバターの木が沢山生えている

【ロロペニからワガドゥグへ】

我々はほぼ1時間ほどここにいた。このロロペニから西のガウアに出ないで、北に35kmほど走り、そこから更に西に30kmほど走ってブルンブルンに出る。ブルンブルンとは面白い響きの町の名だ。

ブルンブルン辺りにて

その後、ジブグエという町に午後1時に着く。そこで道路際の食堂で昼飯を食べる。ここもオープンスペースだ。外で起こした火の上で作っている鶏のスープが美味そうに見え、それを食べる。美味しかったが、量が少なかった。この道路際には普通並木道として植えられているカヤ・セネガレンシス(アフリカンマホガニーと呼ばれて大木に成長するセンダン科の木)ではないが、樹高が20mに達する立派な並木があった。2時前にブルンブルンを出発し、午後2時45分にパの町を通過する。ようやくいつもの道路に戻った。途中車がパンクした。下りて確かめると1本のタイヤが裂けてしまっている。これは危険だった。残りのタイヤを見ると皆すり減っている。取りあえずパンクしたタイヤを交換し残りはワガドゥグにいる間に新しいタイヤと付け替えることとする。午後5時過ぎにワガドゥグのホテルに到着する。長時間の車から解放され、夜はいつも行く近くの食堂で、シュワルマを食べる。相変わらず町中は暗いし、車は多いし、信号も少ないので、ホテルの前の大通りを横断するのは危ない。こうしてブルキナ・ファソでの一日は過ぎて行った。

10月の駒ケ岳

社窓

この度の台風19号においては、東日本を中心に各地に甚大な被害をもたらしました。
被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、 一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。

中央アルプスは、台風が通過した後、22日に初冠雪となりました。
紅葉も一気に進んで、これから順に里へと降りてきます。

10月の南アルプス
[南アルプス]

ホームページをリニューアルいたしました。

お知らせ

株式会社ゼンシンのホームページをご覧いただきまして、誠にありがとうございます。
このたび、ホームページをリニューアルいたしました。

デザインを一新いたしました。

弊社の事業内容等を見やすくご紹介できるようになりました。

さらにお客様にご満足いただけるよう、品質向上に精進してまいります。
今後とも株式会社ゼンシンを、よろしくお願い申し上げます。

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.17_メキシコ

森林紀行

【徒歩でテポナクストラ村へ】

 天気は良く、村の西にあたる遠く離れた国道から山道に入り、約20km先のテポナクストラ村を目指して早朝に出発した。メンバーは、私とリーダー、女性隊員2名、それにメキシコの共同作業者と計5名だった。残りのメンバーは、別の村に向かった。1997年10月30日のことである。いつもは州都オアハカから約50km、車で約1時間のイクストランという小さな町を経て、東側の悪路の山道を約60km、6-7時間かけて行くのだった。

メキシコ.jpg

メキシコ

 しかし、この時は途中のブエナビスタ村を過ぎたあたりで、大雨のため土砂崩壊が起こり、車での通行ができなくなってしまった。村に行くには、反対側から山道を歩かざるを得なかったのだ。出発点は標高約800m、2,000mの尾根を越え、また1,000m下り、村までまた1,000m登るのだった。

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大雨で土砂崩壊 進めなくなった悪路の山道

【ケーキを持っていく】

 この日はリーダーの誕生日だったので、女性隊員が大きな箱入りのケーキを買ってきた。女性に持たせるわけにはいかないので、私が手持ちで歩き始めた。すぐにテポナクストラの村人に出会った。手持ちで運ぶのは大変だと思う間もなく、彼はロバを曳いていたので、自分の荷物をロバに乗せ、ケーキを背負って運んでくれることになった。全くラッキー。私は両手が空いたので楽になった。

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20kmの山道を歩いてテポナクストラ村へ。右の村人がケーキを担ぐ

 山は雄大で、緩やかな登り下りとくねくねとカーブが続いた。日差しは強く、夕方ようやく村に着くころにはかなり疲れていたが、皆強かった。着いたのが遅かったので、泊めてもらう民家を捜すのは難しく、最近できた病院が開業直前で、その病院に泊めてもらえることとなった。家に帰った村人がしばらくして訪ねてきた。もちろんケーキを食べるためだ。それにしてもこのケーキを食べた時の村人のうれしそうな顔は忘れられない。ケーキなどめったに食べられなかったからだろう。実際、疲れたこともあり、ケーキの甘さが五臓六腑に染みわたり、今でも忘れられない美味しさだった。女性二人はベッドのある部屋で、男三人は別な部屋の床に寝袋で寝た。翌日三人とも他の二人のいびきがうるさく眠れなかったと笑顔で言い合った。

【村の状況】

 この村は本当に山奥も山奥、スペイン人達の迫害から逃れて来たためだろう。おばあさん達はスペイン語が話せず、クイカテコと言う民族語しか話せない人が多かった。しかし、男の中にまれに英語が話せる者さえいた。それはほとんどの男は一度はアメリカへ出稼ぎに出るからだった。村人と山を回る時、彼らは必ず銃を持ってきた。アメリカで手に入れたものだ。現在アメリカで密入国が問題になっているがこんな山奥の先住民も多数、出稼ぎに行っていたのだ。アル中になり戻る者もいた。村には大きなマツが多く、マツを売っての生活である。

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村から搬出される大径のマツ材

 村は直接民主制で、つまり住民総会で全ての物事を決めて行く。農作業の後に疲れていても総会が開かれるのはいつも夜だ。総会中に時々、論文発表の時のようなチーンという鐘の音がする。聞けば寝ている住民を起こすためだという。村には上流域から村まで等高線に沿いわずかな傾斜をつけた水路があった。先人たちが作ったものだ。こういった水路はエコツーリズムで見せることができると思ったりもした。

森を歩いている時に.jpg

森を歩いている時に、村人が銃で撃ったヘビ

 村にはバスケットボールコートがあるが、犬の糞を避けてドリブルするのは難しく、不潔だったがそれでうまくなるのだろう。ただし、夜の野良犬は徒党を組み怖かった。その後、行くたびに異なる民家に、それぞれ長期に泊めてもらった。

 トルティージャ(トウモロコシの粉をペースト状にして焼いたもの)が中心の貧しい食事だった。しかし、村人の心は暖かく、標高2,000mの夜は冷えたが、日干し煉瓦の家は温もりがあり居心地が良かった。ここで見た澄んだ夜空に輝いていた満天の銀河も忘れられない。

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村の風景。日干し煉瓦の家は温もりがある

 我々が歩いた道は、拡張工事をしていて、何年か後には車が通れる道となるということだった。グーグルアースで見ると、開通しているようだが、実際はどうだろうか。確かめも兼ねてもう一度村を訪ねてみたいものである。

つづく

9月の駒ケ岳

社窓


9月の駒ケ岳
猛暑の盛夏が過ぎ、残暑厳しい晩夏へと移ってきました。
とはいうものの、

朝晩はめっきり気温も下がり、秋の気配も感じられるようになりました。

9月1日の防災の日に合わせて、各地区で防災訓練が行われたことと思います。
また、8日から9日かけて首都圏を台風15号が直撃し、大きな被害をもたらしています。

改めて防災への備えの大切さを強く感じています。
皆さんの備えは万全ですか?

[南アルプス]

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.16_ホンジュラス

森林紀行

 最近のホンジュラスは、人口当たりの殺人事件の発生件数が世界一のため、世界一治安の悪い国と言われている。それはホンジュラスにギャングの拠点があることらしいが、警察も政府も脆弱のためギャングを強く取り締まることができないため、犯罪が起きているとのことだ。私が仕事をしていた時も治安は悪いと言われていたが、差し迫った危険は感じなかった。また、ドミニカ共和国で一緒に仕事をしていた職員が、数年前に青少年教育のためホンジュラスのグラシアス・レンピーラという町に2年ほど滞在していたが、高官達の別荘が多い地域なので、治安は悪くはなかったとのことである。

ホンジュラスの位置.jpg

ホンジュラスの位置

 それはさておき、ホンジュラスでは奇遇とも言えるような出会いがいくつかあった。一つは大使館付きの医者が兄の友人だったことである。私が目にものもらいができ、その医者の世話になったことがあったが、その方はホンジュラスに来る前はタンザニアの大使館付きの医者だった。私の兄がタンザニアでチンパンジーの研究をしている時に兄と友人となっていた方だった。

  また、私の娘の友人にも会った。娘が高校生の時に家の近くの教会のバイブルクラスに通っていて、そのクラスにいた男子が、たまたまホンジュラスに留学し、テグシガルパの下宿を訪ねて励ましたことがあった。

  今回の話は、私の友人夫婦の奥さんがホンジュラスのある子どものフォスターマザー(養母という意味であるが、日本の支援団体を通じて発展途上国の貧しい子 供に援助金を送るシステムで、たまたまホンジュラスの子となった)になっていたので、私がその子の家を訪ねて行った時の話である。

 さて、クリスマスも近づいた1995年の12月16日の土曜日に、一緒に仕事をしていたホンジュラスの林野庁の技術者にお願いし、そのフォスターチルドレンの家に同行してもらった。ダンリから首都のテグシガルパを通過し、そこからその子の住んでいる家に向かったので車で片道3時間くらいかかった。

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訪ねた家族が住んでいた家の周り

 お土産には何がいいか相談すると、貧しいだろうから米とか食料品がいいだろうというので、それらとチョコレートなどクリスマスプレゼントを大量に買って持って行った。

その村につくと目的の家はすぐに見つかり、子供と母親に会うことができた。

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家の中

   子供は小学校高学年、お母さんは30代半ばに見えた。やはり貧しかった。雑木林を切り開いたような所の掘立小屋に住んでいた。と言ってもブロック積みの家であったが。クリスマスプレゼントを渡したら一番喜んだのは母親だった。多少の生活のたしになると思ったからだろう。家の中にはハンモックがあり、小さな子供が寝ていた。部屋の仕切りは汚れた薄いカーテンだった。調理には薪を用いていた。子供は5人ほどおり、旦那とは離婚したばかりだと言っていたが、実際は良く分からなかった。

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訪ねた家族とホンジュラスの技術者と私

  この辺の主食のトルティージャ(水でこねたトウモロコシの粉を、鉄板の上焼いたもの)とフリホーレス(ペースト状にした豆)は十分に食べて行けるように思え安心した。貧しいながらもラテン系の例にもれず母親の性質は明るく、また子供の目もキラキラ輝いていたのが救いだった。とても賢そうに見えた子供で、よく勉強するよう励ました。今は35歳くらいになっているはずである。

 アメリカへ向かってのキャラバンの参加者は、町の治安の悪さから町に住む人々が中心と思うが、このように田舎に住んでいた人たちはどうなっているか、とても気になっているところである

 以前に書いたように、1998年ハリケーンミッチーに襲われ甚大な被害を蒙り,多くの国の援助が入り焼け太りし,建物も近代化し,2001年に訪問した時には,随分とアメリカナイズされたなと思わされたものだが、発展したと見せかけられたのはほんの一瞬だったのだろうか?

【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.15_ブルキナ・ファソ

森林紀行

 TBSからこの紀行文に載せているネレの木やそれから作る調味料のスンバラの写真を使用してよいか許可を求めてきた。良く捜すものだと思ったが、ネットサーフィンの時代、捜すのは簡単だっただろう。放映の3日前だったが、OKした。その番組は2019年3月14日23時56分からの「世界くらべてみたら」という番組で、国分太一や渡辺直美がご飯のお供にはどんなものが良いか、世界各国のご飯のお供を比較したもので、なかなか楽しい番組だった。その番組ではコートジボアールの代表としてスンバラが取り上げられていた。

 以下は、既にブルキナ・ファソ編で載せている紀行文であるが、再読していただければ幸いである。

 スンバラとは西アフリカの料理には欠かすことのできない発酵食品の調味料である。フランス語では「ネレ」と呼ばれるマメ科の樹木の種子から製造する。ネレの木は樹高が10~15m(最大では20m程度)までに成長する。私が住民の生活向上を支援をしていた地域はブルキナ・ファソで、コートジボアールの国境まで約60㎞くらいと近かった。「シアバターの木」の方が有名で、この木と共に「ネレの木」もこの地域では、点々と農地の中に存在している。重要な木は昔から住民は残しておいたのだ。これがこの地域の独特の景観を形成している。

 「スンバラ」は、このネレの木の種子の果肉を発酵させたもので、納豆菌と同じ仲間の菌である。そのため独特の香りがし、酸っぱく、これを調味料として用いるのが、西アフリカ料理の特徴である。

 種子が取れるのは4月~6月で、収穫後は軒に干してから、種子と果肉を採取する。残った莢は、粉末にし、水に溶かして防水材として壁に塗ったりするということである。スンバラは村の女性の貴重な現金収入源ともなっていて、プロジェクトでは森林管理グループの生計向上支援の一つとして、スンバラの加工方法の改善指導を行っていたのである。

  私はスンバラ自体は好んで食べたいとは思わなかったが、ご飯にふりかけて食べたりはした。また、セネガルやブルキナ・ファソの主食であるチェブジェン(洗面器のような大きな器を用い、魚の煮汁でご飯を炊き、炊いたご飯の上にその魚を載せて食べる)の調味料は、スンバラというからいつもスンバラを味わっていたようなものだ。酸味があり、独特の香りでチェブジェンは食べずにいられなくなるものだった。

ネレの木の莢.jpg

ネレの木の莢

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莢の中身。黄色の果肉の中に種子がある

果肉の中から種子を取り出し.jpg

果肉の中から種子を取り出し、乾燥させてから発酵させる

独特の風味がある.jpg

独特の風味がある

8月の駒ケ岳

社窓

8月の駒ケ岳

梅雨が明けて、いよいよ夏本番。

一気に酷暑がやってきた感じがしています。

梅雨の間見られなかった中央アルプスもすっかり夏山の装いです。

急に暑くなったことで身体が暑さに慣れておらず、

熱中症になるリスクも大きくなっているようです。

体調に十分気を付けてこの夏も乗り切っていきましょう。

[南アルプス]

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ゼンシンBBQ

ゼンシンの日々

先週ようやく梅雨が明け、連日猛暑が続いていますね。
そんな中本日は、毎年恒例のBBQ!!

全員で準備開始、まずは火起こし!暑い!

準備が終わったら乾杯。
最初に焼くのは社長秘伝のたれに漬け込んだラム肉!毎年楽しみにしています。

次はメインの牛肉!どんどん焼いていきます。


締めの焼きそばを完食し、全員満腹でした。また来年も楽しみにしたいと思います。

お盆にも友人や家族とBBQの予定があるのでしっかりスタミナをつけて

この夏を乗り切りたいと思います。

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