新年会 兼
先日、1月18日 土曜日に、しゃぶしゃぶ&お鍋会が開催されました
社内でお昼の時間にみんなで食べました🤤
スタートはしゃぶしゃぶ。お肉かお魚です
鯛と鰤,牛と豚 🐮🐷🐟
沸いたお湯と食べる人の熱気で室内の湿気が.....
お肉!!!!!!(魚の写真を撮り忘れました・・・・・🤕)
(撮影者はインスタ映えなど言うものがよく解っていないため写真下手で魅力を伝え切れず。)
個人的に毎年楽しみなのは、レタス&餅しゃぶをゴマだれで食すことです
薄くスライスした大根とブリをポン酢で合わせても美味です(もはやブリ大根)
お肉が美味なのは勿論ですが…
しゃぶしゃぶの次はお鍋です
寄せ鍋とキムチ鍋
この、キムチ鍋が、うまい!!!!
味の秘密を教えてもらいました(作る様子も後ろで見てました)
写真では少し判りにくいかもしれませんが大鍋が2杯分😗
〆にうどんを投入・・・・
みんな食べ疲れちゃった…..
食後のデザート、アイスは別腹…? 😑
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.21_ジンバブエ
ジンバブエで罹ったA型肝炎 -上-
【A型肝炎への感染がわかる】
「ミスターマスイ。病名が分かった。A型肝炎だ。これで助かるぞ。でもここは救急病院なので24時間しか置いてやれない。ずっと面倒みるわけにいかないから、入院できる病院をすぐに捜す。」と医者が言った。私も妙に納得がいった。私はB型肝炎の予防注射は受けていたが、A型肝炎の予防注射は受けておらず、知識もなかったからA型肝炎とは気が付かなかった。もしその知識があれば自分でもっと早く気付いたはずなのに、わからなかったために危うく命を落とすところだった。
【感染の原因】
1999年9月のことだった。ジンバブエでの仕事のことは既に数回書いた。A型肝炎は、ここで森林調査をしている時に、発症した。この国第2の都市ブラワーヨからビクトリアの滝へ向かって20kmくらいに位置するホテルの一軒家を数軒借りて、同僚や雇っていた南アの技術者達と住んでいた。家のトイレは水洗だったが土への自然浸透で、広大だった庭の中に井戸があったから感染したのだろうと思う。しかし同居の後輩の同僚にも他のチームメンバーには感染しなかった。私のように昭和20年代生まれは子供の頃には肥料は人糞だったので、ほとんどの人はA型肝炎に感染し抗体を持っているはずだが、世の中が清潔になり抗体率が落ちてきたのだろう。話は違うが、南アの白人技術者の人種差別発言についても書きたいが、あまりにひどいので今後も書くことができないだろう。
【発症するまで】
それはそれとして、森林調査をしている時に一日毎に段々体がだるくなり、数日休んで横になっていた。ブラワーヨの病院に行き調べてもらったが、マラリアでもなく、何だかわからなかった。それでまた森林調査に行き、営林署でコーヒー色に近い尿がでた。この時に気が付くべきだった。このコーヒー色の尿がA型肝炎の特徴である。私は、疲れた時に出ると言われる血尿と思い、これくらいなら大したことはないと思った。そしてまた木金と横になっていた。まだ大丈夫だった。ところが土日になると益々具合が悪くなってきた。土日は病院が休みだった。食事は家政婦が作ってくれていたが食べられず4日間ジュースだけで過ごしていた。月曜になると起きるのもつらく、すぐにブラワーヨの救急病院に行った。車の中では普通に座っておられずに横になって車に揺られ、この30分が非常につらかった。チームには英語と日本語が完璧な外国人の同僚がいたので、付き添ってもらい病院では、すぐに点滴をしてくれるように頼んだ。
【救急病院】
私はしゃべるのもつらかったがすぐに点滴を始めてもらい助かった。点滴でかなり元気を回復した。ここで血液検査をしたが、まだ病名はわからなかった。ジンバブエで見てもらった医者は、当然ながら皆黒人であるが、イギリスに留学しており、腕も良さそうだし、日本の医者と決定的に違うのは親身で、まず人の体を丁寧に観察することだと感じた。ただ、最初の医者は血液検査でほんのわずかだがサルモネラに反応があったとのことで、点滴の中に抗生物質を入れた。親身ではあるがいかにも自信たっぷりで、これが誤診だったので余計に体を弱めたかもしれない。 この病院の施設は大層立派に思えたが、大部屋にいて、網戸を潜り抜けた蚊がかなりいたのが嫌だった。マラリアになるのではないかと不安になったりした。そして夜になり、別の医者が来て、「ミスターマスイ。わかったぞ。A型肝炎だ。」と冒頭の言葉となったのだった。この医者は大柄だが、こんなに優しく親身な人はいないと思われるくらいに親身で、大きな手で触診をしてくれ、これまで黄疸がはっきりと出ていなかったのだが、このころから黄疸が出始め、はっきりと肝炎とわかった。この肝炎への触診は転院するハラレの病院の医者も帰国して日本の医者も全く同じで、全世界共通なのだと妙な安心感を持った。その後、感染症なので受け入れてくれる病院がないからもう少し捜すからと言われ、感染症だから病院は受け入れなければならないはずだのに受け入れてくれなければ皆死んでしまうだろうと妙に腹が立った。結局、翌日になり入院して24時間ぎりぎりになるところで転院先の病院が決まった。
【転院したブラワーヨの病院】
次の病院は同じブラワーヨの市内であるが、かなり大きな病院で施設も素晴らしかった。ここには4日いた。A型肝炎の治療薬はなく、ただ横になって体力が回復するのを待つだけである。この時は本当につらかった。チームメンバーが見舞いにきてくれるのだが、自分の意識ははっきりしているのだが、人の気配を感じるだけでつらかった。雇っていた運転手が、とても良い人で運転手だから、同僚を連れてきて部屋の片隅に座っているのだが、時々喉がいがらっぽいのか喉を鳴らす音さえ、ダンゴ虫のように丸く横になっている私の気分に響くので折角だが、皆さんにはすぐに退室してもらっていた。 病院食も少し食べられるようになり、点滴で少しずつ回復はしているようだった。シャワーの時間になるとジンバブエの若い女性の看護士がシャワーに入れてくれた。その時私はやせ細り、黄疸が出て黄色い体で、私のソノモノも極端に縮こまり、裸になったときに日本の男子とはこのように弱々しいものかと思われるのが妙に恥ずかしかった。相手は見慣れているしテキパキときちんと仕事をしてくれた。
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.20_コロンビア
コロンビア-アンデスの山守の美少女-
コロンビアの森林は崩壊地だらけと前回のコロンビア編で書いたが、その他コロンビアと聞けば皆さんは何を思い起こすだろうか?コーヒーか、サッカーか、美女か?あるいは治安の悪さや麻薬などだろうか?
コロンビアを走るアンデス山脈は3つの支脈に分れており、その中の中央山脈に位置するマニサレスという町を基地として私は調査を行っていた。マニサレスからさらに奥地に入った村、村名はペンシルバニアと言い、アメリカの州の名前と同じだが、ペンシルバニアの人工林の山守をしていたのがアデリータだった。アデリータと言えばスペインの作曲家でギタリストが作曲したアデリータが有名である。アデリータの正式名はアデーラだが「ちゃん」づけすると「アデーラちゃん」がスペイン語だとアデリータになるのである。
マニサレスからペンシルバニアまで、道路に沿って100㎞くらいの距離ではあるが、くねくねとまたアップダウンを繰り返すので、時速は20kmも出せず、6時間くらい車に揺られてペンシルバニアに着くとくたくたで、本当に山奥に来たという思いになる。しかし、ここペンシルバニアの若い女性は美人しかいないと思われるほどの美人だらけである。それで疲れも吹っ飛ぶのである。日本でも山奥の平家の落人の集落がそうであったりするのと似ている。
1990年の2月にペンシルバニアに着いた我々のチームは顔なじみの村長や営林署長などに挨拶や調査の説明などをした後、村の中心にある広場に面したカフェテリアに入った。広場のもう一方には大きな教会があった。まさにコロンビアコーヒーを飲みながら調査の打合せなどをしていると山の上の方からカウボーイハットをかぶった少年らしき二人が馬に乗りゆっくりと降りて来た。そこで顔を始めて合わせた一人がアデリータであった。17才くらいの少年と思ったが、二十歳の女性だった。アデリータも村の女性に勝るとも劣らない美人の上、知的で澄んだ目をしていて思わず引き込まれそうな感じを受けたが、そこでは挨拶をしただけだった。
翌日、山に入るのに営林署長に案内人を頼んでいたが、その案内人としてきたのがアデリータだったのでびっくりした。「あなたは昨日会った方ではないですか。この山の管理をしているのですか?」「そうです。私はこの山のグアルダーボスケ(山守)です。」と答えるではないか。「メデジンに住んでいましたが、この村の森で勉強も兼ねて森の管理人として働いているのです。」とのことだった。
我々はこの村のマツとサイプレス(ヒノキの仲間)の人工林を中心に調べていたが、アデリータが「マツの人工林でナナフシが大量発生していて困っている。」というので、現場に行って調査すると、まさに様々の種類のナナフシが大量に発生していて、マツの葉を食べている。枯れ枝と全く同じ形をしたナナフシもいて、ナナフシを見ると進化の不思議を感じざるを得ない。たまたま色や形が変わり、鳥に食べられることなく生き残ったナナフシが進化に進化を重ねて枯れ枝のように進化したというような説明だけで皆さんは納得できるだろうか?コノハチョウや目玉の文様があるチョウなどを見ても何か目的を持って進化してきたのではないかとつい思ってしまう。獲得形質は遺伝しないことになっているが、本当だろうかとも思ってしまう。
それはさておき、アデリータはいろいろ対策をたてていた。殺虫剤を木の根元に塗ってみたが、能率が上がらず、腰が痛いなどという。そこで私は「ナナフシが食べるのは葉だから、塗る位置が根元でも胸高でも効果は変わらないだろうから、作業効率や健康面から立って塗れる位置に塗ったら良い。」また、林内が暗いので、「間伐して光を入れてみたらどうだろうか。」といったことをアドバイスした。
それからしばらくして、「実験的に間伐をしてみたらその林からナナフシがいなくなった。」とアデリータは言う。「良かった。良かった。人工林は除伐や間伐を定期的に行い、光を入れて健全に育てなければだめだよね。」と私。そうしてペンシルバニアの森林を調査する時は、アデリータに手伝ってもらった。アデリータが森の隅々まで知っているので、調査はおおいにはかどり助かった。まさに山の守だった。しかし、それから1年ほど経ってアデリータは自分の郷のメデジンに戻って行った。
我々はその後も調査を継続してこの周辺の森林の管理計画を作成してこの仕事は終えた。その後アデリータとは何の連絡もなく忘れ去っていたが、一昨年フェイスブックで友達リクエストがあり、驚いた。本当にアデリータなのだろうか。すぐにOKして近況が分った。あれから30年、母親となり50才となったアデリータと連絡できるとは。SNSの力は不思議なものだ。今はアンティオキア州の環境省に勤め、環境保護の先頭に立って活躍している。 アデリータだけでなく、その後もモロッコやドミニカ共和国で一緒に働いていた男性の技術者などからもリクエストが続々とあり、改めでSNSの力に驚いている。
1月の駒ケ岳
新年あけましておめでとうございます。
皆様にとって佳き年となりますようお祈り申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。
本年の十二支は子(鼠)、 干支は「庚子」 。
“子”は 本来は「孳」という字で、
「新しい生命が種子の中に萌(きざ)し始める状態」
を表しているとわれています。
また、ねずみは繁殖力が強いことから
「子孫繁栄」の象徴とも言われています。
今年は、いよいよ2020東京オリンピック・パラリンピックが開催されます。
この祭典を存分に楽しむととともに、
様々な分野における発展や成長のきっかけとなればと願うところです。
12月の駒ケ岳
昨年に引き続き、比較的緩やかな冬の訪れとなっています。
令和元年もあと僅かとなりました。
今年は新しい元号となり、区切りの一年となりました。
また、ラグビーワールドカップが大いに盛り上がり、来年の東京オリンピックが一段と楽しみになりました。
一方で、今年も全国で台風などの大きな災害に見舞われた一年もでありました。
来年が穏やかで、また楽しい一年となるよう願いつつ、
良い年の瀬を迎えられたらと思います。
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.19_コスタリカ
海外の仕事で常に気をつけていなければならないのは、安全と健康である。私が死の危険に直面したのは2度あり、以前に書いたブルキナ・ファソでのクーデタ未遂事件に巻き込まれたこととジンバブエで肝炎に感染したことである。この類の経験は、ネガティブな面が強いので取り挙げるのに多少の抵抗を感じるが、受けてしまった経験の事実を述べてみたい。
【ネガティブな経験の種類】
まずは上記の2つ以外のネガティブな経験を上げると、地元民の集団に鉄砲を突きつけられたことが2度、秘密基地を発見し逃げたこと、ビジネスバッグの盗難が2度、借家に泥棒に入られたこと、引っ越しの際の盗難、協力国に保管していた機材が売られてしまったこと、脅しやたかりは数えられないほど直面した。運転手が起こした交通事故や山中の崖にぶつかり谷底に落ちそうになったことや、ゾウに襲われたことが2度、ハチやアリの襲撃は何度も、ヘビにかまれそうになったり、南京虫やダニ、それに巨大な水虫のような皮膚病の被害や遭難騒ぎ、カミナリに打たれそうになったり、地震やハリケーンも経験し、飛行機のロストバッゲジも数度、マラリアの感染数度、原因不明な下痢、上げれば限がない。幸いにスリ・追いはぎには何度もあいそうになりながらも回避できている。同僚には死亡者が数人おり、もっとひどいか同様な被害や病気にあっているものが多い。
【コスタリカで国際会議に出席】
その中でも1990年5月にコスタリカでビジネスバッグを盗難されたことが、自分の不注意に起因しているだけに、今でも悔しく、これについて今回は書かせてもらう。当時、熱帯林を保護するために、FAOが採択した熱帯林行動計画があり、行動計画作りへの支援事業などの会議に日本代表で参加した。会議は首都サンホセの高級ホテルのシェラトンで行われた。ホテルは2階建てで、廊下は厚い絨毯が敷かれていた。古いホテルだったが、部屋の扉は自動ロックだった。ただ、内装の改修を行っており、多数の労働者が出入りしていて雰囲気が良くないなと思っていた。会議は3日間行われたが、初日の午前の会議が終わり、昼休みにレストランに昼食を食べに行ったが、時間が短かったので急いでいた。
【ホテルの部屋から盗難】
部屋に戻りビジネスバッグ(この時はアタッシュケースだった)を机の上にドンと置き、ドアをバタンと閉めてレストランに向かった。昼食から戻ってくると部屋のドアがわずかに開いているではないか。変だなと思って部屋に入るとビジネスバッグがない。やられた。絨毯が厚くてバタンと閉めたつもりのドアが閉まっておらず、少し開いていたのだ。その間に誰かが部屋に入り盗んだのだ。
【大騒ぎしたが後の祭り】
すぐにレセプションに行き、犯人を捜せと、出入りの労働者だろうと疑い、大騒ぎしたが、どうにもならず、バッグは出てこなかった。警察を呼んでもらい、調べてもらったがだめだった。しかたがないので盗難証明書を書いてもらった。当時はデスクトップの大きなパソコンが利用され始めた頃で、まだノートパソコンもなく、手書きの時代だったので、バッグの中には一番大事な仕事の資料、カメラ、カセット録音器、計算機、予備メガネ、西和と和西の辞書等が入っていた。幸いなことにパスポートや金は大きなスーツケースに鍵をかけて入れており、そのスーツケースはチェーンで部屋の固定物に繋いでいたので、最も大事なものは盗まれないで助かった。レセプションに重要物は預けられるが、それも信用できないので、そのようにしていたのだ。帰国後、保険で盗難物と同額程度を補償されたが、愛着のあるものを失ったことは大きかった。
【ショックで上の空】
その日の午後は、討議内容が全く頭に入らなくなってしまった。会議はスペイン語と英語の同時通訳で行われているのでなおさらである。その時の発言は一緒にいった同僚に頼み、翌日からはショックも少しずつやわらいでいった。帰国して報告会や専門誌への報告で弱ったが、幸いにもこのような会議ではレジメが配られ、集めていた資料もあり、多少は頭に入っており事なきを得た。 その後CATIE(熱帯農業研究高等教育センター)や森林を訪ねたがうわの空だった。幻の鳥、神の鳥と言われるケツアールが見られるのではないかと期待していたが、失せた気力が回復しなかった。ケツアールが見られれば、不幸一転して幸せになれたかもしれなかったのに。絶対にここは回復させなければならなかったところである。良い写真も残っていないのも残念だ。
【良い国だが印象の悪いコスタリカ】
コスタリカは国立公園が多く、きちんと自然が保護されている国であり、軍隊がなく軍事予算を平和構築に注いできた良い国という評判だが、私にとっては非常に印象が悪い国である。
つづく
11月の駒ケ岳
紅葉が一気に麓まで広がりました。
それでも、例年に比べたらゆっくりとした秋の深まりのようです。
そろそろ、スタッドレスタイヤにいつ変えようか。
インフルエンザの予防接種はいつ受けようか。
そんなことが話題にあがるようになってきました。
冬に向けての準備が進んでいきます。
【森林紀行No.7 アラカルト編】 No.18_ブルキナ・ファソ
ブルキナ・ファソ―ロロペニの世界文化遺産を見た一日
【別ルートで首都へ帰る】
2011年10月26日、この日はバンフォラ(ブルキナ・ファソの南部コートジボワールに近い町)からワガドゥグ(首都)に上がる日だった。3月にクーデター未遂事件に巻き込まれ、恐怖の体験をしたことから、複数の避難ルートを確保しておくため、いつもとは別なルートでワガドゥグに戻ることにした。200kmくらい余分に走るが、途中のロロペニ(地名)にブルキナ・ファソで唯一の世界文化遺産があるので、それを見学した。
【出発】
いつもと同じ時間に朝食を取り、運転手のダウダが7時に家に来た。同僚と7時20分に家(ホテルの中の一軒家を借りメンバーでシェアハウス)を出発。ブヌナ村への曲がり角まで来る。普通はここから北へ真っすぐワガドゥグに向かって行くがここで、右(東)にまがりプロジェクトを行っているグアンドゥグやコングコ国有林方面に向かう。ここからシデラドゥグまでの道は舗装されているが、雨期で道路が痛み、水溜まりや穴ぼこが多い。車がそれらを避けるので、左右に揺れるし、時々、穴ぼこに落ちるのでガタンとする。9時にシデラドゥグに着く。森林官事務所前を通過し、10分ほど走ると道が狭くなる。溜池があるが、この辺りからは道路が広くなったり細くなったりする。
【ロロペニの遺跡】
10時25分にロクソを通過し、10時35分にロロペニに着く。ここがブルキナ・ファソ唯一の世界文化遺産がある場所である。遺跡に着くと見学者は一人もいない。ガイドが1人いたので、案内を頼む。
ここは昔、金の精錬が行われていたとのことで、千年以上の歴史があるとのことだった。以前の土壌分類だとラテライトだ。その鉄塊を積んで壁にしており、まるで要塞のように周囲を囲んでいる。いや要塞だったのだ。ところが、大部分の壁が壊れている。壁の高いところで5mほどだが、昔は12mはあったそうだ。ライオンやその他の動物から人間を守るためのものだったとのことだ。しかし、人間という最も恐ろしい敵もいたであろう。
ブルキナ・ファソ政府には、この遺跡を保護するための資金もないのだろう。何の管理もなされていない。観光客がおらず、日本のように観光客だらけの世界遺産とは全く対照的である。そのため静かで、落ち着いてゆっくりと見学することができる。はるか遠い昔に戻ったような気分を味わえ、ざわついた日本の観光地よりもずっと良いと思った。そして見学が終わり、帰途につこうと思った時にフランス人らしき数人が見学に来た。説明板には次のように書いてあった。「世界文化自然遺産保護条約に従い、遺産資格を獲得したブルキナ・ファソのロロペニ遺跡は世界遺産リストに登録される。全人類の利益を確実に守るため、普遍的な価値を持つ文化あるいは自然がリストへ登録される。」 遺跡の中にはシアバターの木が沢山残されていた。自然に生えてきたシアバターの木は伐らずに残したものである。
【ロロペニからワガドゥグへ】
我々はほぼ1時間ほどここにいた。このロロペニから西のガウアに出ないで、北に35kmほど走り、そこから更に西に30kmほど走ってブルンブルンに出る。ブルンブルンとは面白い響きの町の名だ。
その後、ジブグエという町に午後1時に着く。そこで道路際の食堂で昼飯を食べる。ここもオープンスペースだ。外で起こした火の上で作っている鶏のスープが美味そうに見え、それを食べる。美味しかったが、量が少なかった。この道路際には普通並木道として植えられているカヤ・セネガレンシス(アフリカンマホガニーと呼ばれて大木に成長するセンダン科の木)ではないが、樹高が20mに達する立派な並木があった。2時前にブルンブルンを出発し、午後2時45分にパの町を通過する。ようやくいつもの道路に戻った。途中車がパンクした。下りて確かめると1本のタイヤが裂けてしまっている。これは危険だった。残りのタイヤを見ると皆すり減っている。取りあえずパンクしたタイヤを交換し残りはワガドゥグにいる間に新しいタイヤと付け替えることとする。午後5時過ぎにワガドゥグのホテルに到着する。長時間の車から解放され、夜はいつも行く近くの食堂で、シュワルマを食べる。相変わらず町中は暗いし、車は多いし、信号も少ないので、ホテルの前の大通りを横断するのは危ない。こうしてブルキナ・ファソでの一日は過ぎて行った。
10月の駒ケ岳
この度の台風19号においては、東日本を中心に各地に甚大な被害をもたらしました。
被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げるとともに、 一日も早い復旧を心よりお祈り申し上げます。
中央アルプスは、台風が通過した後、22日に初冠雪となりました。
紅葉も一気に進んで、これから順に里へと降りてきます。
ホームページをリニューアルいたしました。
株式会社ゼンシンのホームページをご覧いただきまして、誠にありがとうございます。
このたび、ホームページをリニューアルいたしました。
デザインを一新いたしました。
弊社の事業内容等を見やすくご紹介できるようになりました。
さらにお客様にご満足いただけるよう、品質向上に精進してまいります。
今後とも株式会社ゼンシンを、よろしくお願い申し上げます。