【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.2
いざ,セネガルへ
前回,最初のセネガル訪問前の準備では,大きな不安感を持っていたことを書いたが,到着してみれば,セネガルの森林局の職員達の受け入れは暖かく,今後この人達と共同で仕事を,うまくやっていけるだろうと思わされ,一安心したのであった。それもそのはず,メンバーには,マングローブの調査のだいぶ前から始まっていた北西部の海岸線の砂丘での植林の仕事に携わってきたものが半分近くもおり,この国の森林局の多くの職員等とは旧知の仲だったからである。
さて,順に書いていくと最初は,どうしても旅行のことを書くということになってしまうが,ここでも同じように旅行から書いて行く。
東京からパリ間
とりあえず,往きについて書こう。最初の出発は,2002年の1月14日(月)のことだった。昼過ぎに東京を発ち、同日の夕方18時くらいにパリに着いた。この路線は,1990年代にモロッコの仕事で,何回も往復しているので,新鮮味はなかったが安心感があった。
冬なので,パリの日暮れは早い。暗闇の中の到着である。夏であれば,逆に22時くらいまでは明るいので、何となく安心感があるが,暗いとやや不安感が湧く。
また,冬の出発は日本やパリでは,寒いので冬服にコート,セネガルは熱帯で暑いので,夏服と両方持っていかなければならず,また,ずっと冬服を保管しておかなければならないので,荷物は増えるわけである。
飛行機はエアフラかジャルを使っていたが、エアフラの方が食事も良いし、アテンダントも洗練されているような感じがする。エアフラのアテンダントは男性も多いが,日本語も話すし,感じが良い。
飛行はだいたい安定しているが,冬に行った何回目かの訪問の時は,偏西風が強く,東京からパリまでの間、ずっと小揺れが続き、時々大きく揺れ,うつらうつらすると揺れで起こされ、ほとんど眠れない時もあった。
また、冬のある時は、パリが雪で空港が一時閉鎖になり、降りられず,緯度はパリと同じくらいだがフランスの東の町,ストラスブールに降りてしまい、どうなることやらと思ったことがあった。この時は,同僚とパリで待ち合わせていて,翌日一緒にダカールに行く予定だった。パリの到着が一日遅れると関係者への予定変更の連絡などであたふたしなければならないなあと思っていたところ,3時間ほどストラスブールに待機した後に,パリに向かい飛んだので事なきをえた。
この時スチュワーデスに聞くと,「300人もストラスブールに降ろし,翌日パリに行くとなるとエアフラとしてもホテルや食事代の負担が大変だから,パリの空港も雪掻きを急いでいるはずで,きっと飛ぶわよ。」と言っていたのを思い出す。そのとおり,飛んだのでよかった。
有名テニス選手が同じ機内に
また,その時東京からの機内には、当時,女子テニスで有名だったオーストラリアのドキッチ選手が乗っていた。コーチか恋人らしき人と一緒であったが、パリの空港で荷物を取る時に時間があったので,待っている間に話かけてみた。テニスのコンディションなどきさくにいろいろと話してくれた。すっかり大ファンになったが,トップへは今一歩のところだった。
シャルルドゴール空港
以前にモロッコの仕事をしていた時からシャルルドゴール空港を利用しているので,空港の構造はだいたい分かっていたが,いつも案内に行って聞かないと,目的の出口に着けないのであった。たまに通過するだけなので,たぶん一時的に方向音痴になるのであろう。モロッコの時には,所々で工事をやっていたし,このころにも拡張工事をしていた。
同僚とも会える
ストラスブールに降りてしまい,到着が遅れたが,夜遅く同僚とも会えた。待ち合わせ場所は,その同僚の友人がパリ市内でオーナーシェフをしているレストランとした。飛行機が遅れた関係で,私は待ち合わせ時間より遅く,そのレストランに着いたのに,その同僚がまだ来ていなかった。しばらくしてその同僚が着いたが,一体どうしたのか聞くと,地下鉄を乗り間違え,別な場所に行ってしまい,戻ってきたので,時間を食ってしまったとのことだった。その同僚はフランス語でも食べて行けるほどのフランス語の実力の持ち主で,パリにも詳しいのだが,地下鉄の路線を間違えてしまったのだ。もっともパリに住んでいるわけでもなく,たまにパリの地下鉄に乗ったのでそういうこともあろうと思った。我々でも東京の地下鉄を間違わずに最短距離で目的地に着くのは難しいくらいだから, パリの地下鉄も同じように複雑に入り組んでいるので最短で行くのは難しいのだと思ったものである。
パリの市内
パリからダカールに行くには,エアフラを使っていた。東京からの便がパリに夕方着き,パリからダカールまでの便が,夕方に出発するので,同日には乗り継ぐことができないので,パリにはほぼ一日滞在することになる。だいたいは,パリ市内の中心付近のホテルに泊まり,パリ市内をいろいろ見学することができた。
冬はすぐに暗くなるので,良さそうなレストランなどを捜し,時には予約をしておき,食事を楽しみ,夏はいつまでも明るい夜をカフェーでパリの雰囲気を味わった。パリから出発までの時間は,これから始まる大変な日々に備えて,英気を養うことができたのだ。
パリ市内(2002年1月)
同上
食事を楽しむ
エッフェル塔の近くで(2002年10月)
パリからダカール間
この間の直行便はエアフラだけだったと思う。時には出発が遅れることもあったが,だいたいパリを16時半くらいに飛び立ち,ダカールに21時半くらいに着いた。時差は東京とパリ間が夏は7時間,冬は8時間。東京とダカールは一年中9時間だ。パリとダカール間の実質の飛行時間は6時間くらいだ。
東京とパリ間ではリラックスした時間を送れるのだが,ダカールに向かってパリのシャルルドゴール空港に着いたあたりから,さあ仕事だと,あれこれ頭の中で段取りを考え,段々とプレッシャーがかかってくるのだった。自分でかけているのかもしれなかったが,また,周りのメンバーも同じような状態だったからお互いにプレッシャーを掛け合っていたのかもしれない。今はたまに観光で海外旅行に行くことがあるが,この気楽さに比べて,仕事の時は常に仕事のことばかりを考えており,余裕がなかったなあとつくづく思う。
ダカールの空港
さて,ダカールの空港は,2002年に最初に到着した頃は,古い空港だったが,その後,長い間改修をし,本格的な調査が終わる2009年頃には改修が終わって,新しい空港に変身した。
最初の頃は,空港での手荷物検査が済んで,空港の外に出ると,多くの無許可のポーター達がたむろしていて,ごった返していた。いつも到着するのは真っ暗の21時?22時くらいで,ダカール独特の生暖かい?生暑いくらいの気怠い空気が漂っていた。ダカールが海に突き出した半島なので,湿気が多く,暑さもそれほどでもない。しかし,この気怠い空気のなかでも緊張を強いられる。ポーター達は,荷物をかってに持っていってしまい,車はどこだと,金をせびるのである。彼らにはこれが生活の糧だから,それはそれとしてかまわないが,こちらは,荷物をかっぱらわれては,困るので油断もすきもあったものではなかった。空港の改修後は,この状態はかなり改善されたが,全く改善されたわけではなかった。
ロストバッゲッジ
到着した人が乗っていた便で,持って行ったスーツケースが一緒に着かないのが,数日後には着くのだから,一時的なロストバッゲージというのだろうか。私もチームメンバーもこの被害には度々あった。
最初に同僚のスーツケースが着かなかった時
最初にセネガルを訪問した時は,我々のチームは人数が多かったので,全部で15個くらいスーツケースを持って行ったが,全部無事着いた。それから一カ月ほどして,河川や海の塩分濃度など海峡調査をするメンバーが,着いた。その時,そのメンバーが持って来たスーツケースが着かなくて困った。毎日同じ時間に空港に通って3日目にようやく着いた。主要な機材は,最初に来た我々が持って来ていたが,その彼も他にも必要な機材を持って来ていたので,3日間心配させられたが,事なきを得て良かった。
その時,分ったが,いくつかのスーツケースは着かないのが当たり前で,ダカールの空港には,スーツケースが着かなかった人のための窓口が設けられていて,日本円にして数万円程度,当座の補償金として,渡されるのであった。この当時,パリの空港ではアフリカ便の荷物を重視していなかったということなのだろう。
大事な書類が入ったスーツケースが着かなかった時
チームでは東京とセネガル間を何回も往復しているので,少なからず,ロストバッゲージにあった。私も機材も含めて持って行った3個のスーツケースが着かなかったことがあり,補償金がもらえて,素早い手続きは,良かったが,翌日森林局で,協議するかなり分厚い資料を相当数持って来ていたので,大いに困った。
その資料がなければ,仕事を進めることが難しかったため,植林の仕事で,共同で仕事を進めている会社に頼み,深夜からコピーを取らせてもらい,事なきを得た。原は手持ちで持って来ていたので助かった。結局ホテルに入ったのは朝方で,翌日は徹夜状態で会議をしたが,到着直後で,時差のため眠気はなく大丈夫であった。この時は,翌日この3個のスーツケースが着いた。日本での準備がくたびれ儲けで終わり,腹立たしかった。
ロストバッゲージのスーツケースが着いた時の喜び
その後もスーツケースが着かなかったことがあった。到着翌日,夜パリからのエアフラ便が着く時間に空港に行って待機していたが,やはりその日も私のスーツケースは着かなかった。非常に腹が立ったが,どうにもならない。同じ様に昨日荷物が着かなくて,空港に荷物を取りに来ているひとが数十人いた。中には荷物が着いて,ほっとし喜び勇んで帰る人もいた。最後の荷物が出てくるのを見届け,私のスーツケースが届かなかった時は,どん底まで落とされたようで,本当に落ち込んだ。2日も着かないと,本当に無くなってしまったのだろうか?と疑心暗鬼になる。がっかりして,ホテルに戻ろうと思ったところ,空港の職員に殴りかかろうとする英語でしゃべっているアメリカ人らしき人がいた。昨日到着して荷物が着かなかったのに何で今晩も着かないのだ。どうしてくれると息巻いている。周りの職員がまあまあとなだめて,その日は,どうにかそれで収まった。私の気持ちだって同じだった。
翌日また,夜同じ時間に行くと,昨日息巻いていた人もいた。するとこの日は,その人の荷物も私の荷物もでてきた。私はほっとした。その人を見ると,昨日殴りかかろうとした職員に抱き着き,飛び上がらんばかりに喜んでいる。そして,「Thank you. Thank you. Thank you very much.」と何事があったかと思わんばかりである。
なるほど,人は敵から不幸のどん底に落とされたとしても,また,その敵がどん底から救ってくれるとなると,敵に対しての怒りも喜びに変わり,とてつもない感謝をするものだと思ったものである。重ねて書くが,昨日も今日も正直私の気持ちは,このアメリカ人らしき人と同じであった。
こういった人間の心理を利用し,はるか昔から,これに似たような懐柔策を使って,人間が人間をコントロールしてきたことは多々あったなと思ったものである。
つづく
上伊那郡大会
7月9日に消防団の郡大会があり、喇叭隊として出場しました。
郡大会は選抜メンバーでしたが、自分は選手に選抜されたため、毎朝
気合いを入れて練習に臨んでいました。
結果は3位で昨年と変わらず…
ですが、1位、2位との差は年々小さくなってきています。
来年こそは優勝!を目標に、また一から練習です。
消防団活動に協力して頂いている地域の方々の為にも大会だけ
でなく、普段の消防団活動においても努力していきたいと思い
ます。
TBT
7月の駒ケ岳
7月の駒ケ岳
九州地方においては、未曽有の豪雨災害に見舞われました。被害に遭われた皆様に心よりお見舞い 申し上げます。
近年は、非常に短時間での集中豪雨による災害が多く発生しています。
2014年の広島土砂災害、2015年の関東・東北豪雨、そして今回の九州北部豪雨災害、
いずれも「線状降水帯」によるものだそうです。
これは、発達した雨雲(積乱雲)が次々と発生して列をなし、短時間に局所的な大雨をもたらすものとのこと。
短時間で災害に至る最近の豪雨災害。
いざという時、どのタイミングで、どのように行動するか、改めて確認をすることが必要だと感じます。
【森林紀行No.6 セネガル,マングローブ林調査編】 No.1
セネガルマングローブ林調査の概要
はじめに
セネガルの南西部サルーム・デルタにあるマングローブ林は,不思議なところだ。翼竜のような大型の猛禽類が,生態系の頂点に立ち,水路を移動していれば,それらが自然と目に入ってくる。それだけ自然が豊かなことだということだ。迷路のようなデルタ地帯。一旦入り込んだら,磁石やGPSさえ利かなくなり,決して外界には出ることができなくなってしまうというブラックホールのような場所さえあるという。地元民が恐れている場所だ。誰もが恐ろしくてそこには近づかない。しかし迷ったら自然にその迷路に入り込んでしまうのだから,どうにもならないところだ。
マングローブ林地帯を飛ぶ翼竜のような巨大なサギ(羽根を広げると3m以上もある)
そういったセネガルのサルーム・デルタ地帯で2000年代に入っての初期,仕事をしていた。セネガルでは主に二つの仕事をした。一つは,セネガル南西部にあるサルーム・デルタでのマングローブ林の保護をしながら,そこに住む住民の生活向上を目指す仕事であり,もう一つは,北西部の沿岸の砂丘地帯で植林を行う仕事である。今回はマングローブ林について,主に書くが,このマングローブの仕事も二つの段階に分かれていて,最初にパイロット(試験)的に村で住民の生活向上のために様々な活動を行い,次にその活動を本格的に推し進める仕事である。ここでは,最初にパイロット的に行った仕事について主に記す。
セネガルに最初に行ったのは2002年の1月のことである。それから2004年末まで,この仕事にほぼ丸3年関わった。上述したようにマングローブ林では,生態系のピラミッドが良く分かり,そこに住む住民のマングローブ林に依存した生活は,とても興味深いものである。私も含めてチームのメンバーは,もちろん住民に溶け込んで仕事をしていたので,そこで経験した様々なことについて,記したい。
セネガルやマングローブ林の位置など
セネガルは,アフリカ大陸の最西端にあり,サヘル地帯(アフリカのサハラ砂漠の南縁の草原地域。セネガルからチャドまで,東西に帯状に広がる。)に位置している。
アフリカの最西端がセネガル
セネガル
セネガルの南部のサルーム・デルタ地帯には約20万haもの広大なマングローブ林がある。このマングローブ林は西アフリカでの分布の北限にもなっている。
空からみたサルーム・デルタのマングローブ
生態系のピラミッドが良く分かるマングローブ林
マングローブ林は,葉が海に落ちるとそれが養分となり,プランクトンが増え,プランクトンが増えると魚が増え,魚が増えると鳥が増え,と食物連鎖が良く分かり,鳥でもとりわけ,ワシ類,大型のサギ類,ペリカン類など生態系の頂点に立つ鳥を見ることができる。生態系のピラミッドの頂点に立つ鳥などはその傘下に多くの生物が住むことができることからアンブレラ種と呼ばれている。アンブレラ種が住むには広大な面積の森林が必要であるが,ここではそれがマングローブ林である。つまり,ここは生物多様性を維持する貴重な森林なのである。
マングローブ林に住む人々
そして,このマングローブ地帯には多くの住民が住んでおり,この当時,調査地域のマングローブ林地帯には,約30万人程度が住んでいた。住民達は,永年にわたってマングローブ林を利用し,木材建築材や薪炭材を採取してきた。また,マングローブの海域を漁場として利用し,また,陸地は,農地として利用してきた。最近は,その風光明媚な景色に多くのヨーロッパ人も訪れ,観光の対象にもなっているのである。
マングローブの島に住む子供達の元気な顔
もう一度,詳しくマングローブ林の位置
マングローブ林の位置は,行政的に言えば,セネガル国のティエス州のムブール県,ファティック州のフンジュン県,それにファティック県にかかっていた。下の図で四角囲った約60万haで,その中のマングローブ地帯は約20万haだった。
四角で囲った地域にサルーム・デルタのマングローブ林がある
セネガルの特異な位置
最初に地図でセネガルを見た時に,おもしろい形をした国だと思ったものだ。左を見ている人の顔のようでもあり,鼻の最先端に首都ダカールがある。ここはアフリカ大陸の最西端でもある。ダカールは下北半島にやや似るが,尖った斧のようである。面積は下北半島の1/3程度の狭さである。
ダカールは人口稠密であり,渋滞も激しい。土地を物理的にこれ以上広げることはできないので,今後発展するとなると超高層化であろう。
口に当たるあたりにはガンビア国があり,セネガルの中に侵入しているようでもある。セネガルはフランス語圏でガンビアは英語圏である。これも昔の植民地のなごりである。
私がセネガルに行った期間
整理してみると,この仕事では,3年間のあいだに日本とセネガルの間を11回往復し,約1年間セネガルに滞在したことになる。他の仕事でもセネガルに行っているので,合計すればセネガルには約1年半程度滞在していたことになる。
最初の出発前の準備
私はこの時,もう50才を過ぎていた。若い時は海外の調査にいくとなると新しい発見があるのではないかと,ワクワク期待感が大きかったが,齢と共に段々と責任も重くなり,最初の出発前は非常に不安感があった。
肝炎の影響
というのは,ジンバブエでA型ではあるが肝炎に陥り,現地で1ヵ月入院,回復して約2年ほどであったが,体力的にも精神的にもどん底の状態にあったからだ。ジンバブエの医者は,すぐれていたというべきだろう。日本の医者より,よほど親身だった。データはもちろんだが,患者と話し顔色をみる,様々に触診するといった具合だった。帰国する折には,大病をしたあとには,精神的な影響が残り,後にうつになることがあるかもしれないから十分に注意するようにという言葉をもらった。そのとおり,体力がないことからうつ的になり,病院では精神安定剤などを処方してもらっていたからである。
肝炎の影響は少なくとも5年は残ったし,その後,アルコールにはめっきり弱くなり,今でもその影響は残っていると言っても過言ではない。その他にも仕事では,まず初めて行く国は不安であることと今回の仕事自体が複雑で,うまく進められるかどうかわからなかったからだ。うつ的な状況がそれに拍車をかけたのであろう。私は団長ではなかったけれど,副団長で実質的に全部をまとめなければならなかった立場でもあったからだ。
出発前に活動計画は全てできていたが,正味丸3年以上,足掛け5年に及ぶ調査に私の人生のこの先5年は決まってしまったと,自由を奪われたような感じを持ってしまったのも,この時のうつ的な感情がそう思わせたのだろう。実際,今から思うとこんな楽しい,フィールドワークはなかったのである。このような素晴らしい経験をさせてくれたことには感謝してもし過ぎることはない。なぜなら様々な危機を乗り切り,こうしてこのような紀行文が書けるからだ。
最初の出発時の時のこと
とにかく,書類や精密な塩分濃度測定器など必要な機材はすべて準備し,その測定を補助するセネガルのコンサルタント会社などともコンタクトし,出発前の状況はすべて整えた。
私は,どの調査でも同じようなことを行うが,この調査では,正月休みには,現地の土地の位置関係を頭にいれるために,手に入れた5万分の1の地図と航空写真上に水路と道路,それに村の位置などを記入していた。この地図と航空写真は実に役立った。そして正月休みが終わり,最初の出発日が段々と近づいて来た。チームメンバーは7人とそれに公的な立場の方々2名,合計9名という大調査団で,2002年1月14日(月)パリ経由でダカールに向かって出発した。
6月の駒ケ岳
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.12
最終報告書
最後の報告書の説明会へ
報告書が出来上がった後に、1985年2月8日から2月23日までの2週間、最後の報告会に行ったのであった。報告会が無事終わり、帰国後、パラグアイ側の希望などを取りこんで最終の報告書を作成した。
計画の概要
今から30年以上も前のことではあるが、ここで計画の概要をごく簡単に述べると、毎年約1,000haずつ6年間に渡って植林する計画であった。植林面積はもちろん初年度が少なく、徐々に増やして6年目が植林面積は最も多い。植栽培樹種は、針葉樹のエリオッティマツ、テーダマツ、カリビアマツを中心として伐期を20年とした。一般建築用材を生産目標にし、間伐材はパルプ材や牧柵用材とした。
パラナマツは材質が良質なので、伐期を30年とし、一般建築材でも良質材を生産目標にした。
その他、広葉樹でユーカリ、パライソ(成長が早い)の外来種と郷土樹種でラパチョとペテレビを植栽することとした。
針葉樹と広葉樹の植栽割合は90%対10%である。
初期6年間は天然林の伐採収入が入り、9年目から間伐収入を予定した。
雇用する労働者は多い年で約300人、少ない年で約60人程度であり、50年間で述べ約5,000人、年平均で約100人だった。
林道は10m幅で幅員は6m、左右2mは伐開整理し、保護樹帯も設けることとした。施設は中央事務所、修理工場、倉庫などと職員アパート、診療所、学校、教会なども計画した。
機材も重機、消防自動車、ジープ等の車両類から事務機器まで非常に細かいところまで設計した。
50年間に支出する額は約4,000億グアラニー(約2,700億円、1$=350G、1$=240¥)で、収入は約8,000億グアラニー(約5,400億円)となった。収支が黒字に転じるのは19年目からで、内部財務収益率は19.6%となった。これは50年間も実行すれば非常に儲かる数字である。
資金は15?16年目くらいまで借りる必要があり、30億グララニー(約20億円)借りられれば、計画は実行できたのではないかと思う。
その後
それから2年たった1987年3月に別の仕事でパラグアイを訪れた。
森林局にて1987年3月28日
その時パラグアイの森林局には日本から専門家が派遣されていた。我々の作成した計画の実行立ち上げのため、森林局の技術者達を鍛えていた。
専門家の指導は厳しく森林局の技術者と共に、日曜日の午後から金曜日の午後までカピバリの現地におり、金曜日の午後にアスンシオンに帰り、土曜日の午前中は講義、日曜の午後またカピバリに出かけるというハードスケジュールであった。森林局の技術者も音を上げていた。
この時皆で日本式に最初の木に斧入れをするので安全祈願祭を行い、私も参加した。お供え物としてバナナ、リンゴ、パイナップルなどの果物とそれにワインを持って行った。ご神木として選んだ木にしめ縄を巻き、その下にお供え物を供えた。そしていくつかの呪文を唱えた後、「これから山の作業に入りますが、山の神様、どうか安全をお守り下さるようよろしくお願いします。」と日本語とスペイン語でお祈りをしたのであった。その後、全員が各々お祈りをした。
安全祈願祭 1987年3月31日
技術者全員に訓示をする長官
カブラルとウエスペ
この時、私が2年ぶりにパラグアイを訪れたので、カブラルが家に招待してパーティを開いてくれた。ウエスペともう2組の友人達も来た。カブラルは新婚であった。カブラルの奥さんは、ずっと以前から私は知っていて、独身の時は細めであったが、結婚したら随分とどっしりした。奥さんは薬局を経営していた。ウエスペの奥さんはもう少しで子供が生まれるくらいの時期であった。
その後、カブラルから手紙をもらいそれには「増井、家族ともども元気だよね。息子の写真を送るよ。早くパラグアイに遊びに来なよ。待っているよ。カブラル夫婦」と記されていた。
通訳の若者
この時は、前に通訳をしてくれた若者にも会った。彼は、カピバリの調査が終わる頃の彼女と結婚をしており、一児をもうけていた。彼にしてもそうだが、前の二人もとても夫婦仲が良さそうに見えた。これは日本人では人前では恥ずかしがって見せられないのが、オープンに仲が良いところを見せられて、とってもいい雰囲気に見えた。私も人前で仲良くみせられたら、もっと良かったかもしれない。日本人も一般にもっと人前での夫婦仲が良いのを見せれば世の中も明るくなるだろう。
それからのその後
その後1988年11月にアルゼンチンのコリエンテスで、国連主催のTFAP(熱帯林行動計画)の国際会議が開かれ、私は日本代表として派遣されたのだった。
コリエンテスはパラグアイの対面で、アスンシオンから近く、もしかしたらパラグアイの代表もきているのではないかと期待していたところ長官とエンシーソーが出席していた。ここで再会を喜び、旧交を温めた。
その後、前述したようにエンシーソーとは彼が2000年くらいに日本に研修で来た時にあった。その後、彼は森林局の長官となった。彼の体形が、いかにもパラグアイ人らしく、ビヤダルのようになり、長官とそっくりになったのには驚いた。
これにて、パラグアイのカビバリの造林計画についての話は終わりにし、次からはセネガルのマングローブ林について書く予定である。
「パラグアイ – 造林計画調査編」終わり
石楠花
石楠花
社屋前の石楠花=シャクナゲ が綺麗に咲きました。
このシャクナゲ、「高嶺の花」の由来になった花だそうです。日本に自生するシャクナゲはもともとは標高の高い山に分布し、滅多にみられない珍しい存在とされていたようです。
明治時代になり、西洋種が入ってきたことで、観賞用の園芸種が広がったそうです。
俗に言う「日本シャクナゲ」と「西洋シャクナゲ」に見分け方ですが、一般的に葉裏に細かな毛があるものが「日本シャクナゲ」、葉裏がつるっとしているものが「西洋シャクナゲ」といわれています。
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.11
現地確認調査へ
とにかく国内での計画作りは、終わり、その後、その計画が実際に実行可能か確認のために、再度パラグアイに向かった。このとき、前回記したように団長は、病み上がりの身であった。出発は1984年11月2日(金)だった。
アスンシオンにて
到着後11月5日(月)に企画庁の長官に挨拶に行くが、入植者問題は、既にかたづいたような口ぶりである。「土地が確保できたから早く植林を実施したい。」などと言う。
計画地域に入っている住民は移転させると言っているので、「その具体的手続きはどうなっているか?」と質問すると、あいまいではっきりと答えられない。「いずれにせよ法令が出されて土地は確保されるので大丈夫だ。」と言う。一旦住民が入ってしまえば、移転は、普通は無理なので、これではあてにならないと思ったものである。南米特有の何の根拠もなしに、安心しろというのと同じである。
移転は無理である
翌11月6日(火)には森林局の長官と話し合った。この時、「パラグアイに出発前に東京で、既に東側の土地から西側に入植者を移転させたとの話を聞いたが、その通りであるか?」と質問すると、長官は、「これから移転を開始し、計画を実行する段階ではすべての住民を移転させている。」と言う。いかにも南米的な答えである。東京に既に移転させたから大丈夫というのは、日本側に安心して来てもらいたいための方便だったのだ。実際は何にも片付いていなくとも、片付いているといえば、皆ハッピーだという感覚からきているのだろう。
「今は住民が、植えた大豆、綿花の収穫が来年の3月になるので、それを待ってから移転を開始したい。また、問題はマンディオカ(南米の芋、キャッサバと同じようなもの)で、この収穫には木を植えてから最低1年はかかるので、移転には1年以上かかるだろう。」と言う。
一体何だろう。これでは移転は無理だと言っているようなもので、実際には、進まないだろうと思わされた。結果的には、本当に移転させることなどできなかったのである。
セロ・ドス・デ・オロでの現地説明会
この時はアスンシオンの森林局で計画を説明した後、カピバリの現地のセロ・ドス・デ・オロの頂上に登り計画を説明した。
この日は特に暑く団長は杖をつき、よろよろし、汗だくになりながらセロ・ドス・デ・オロに登った。相当辛かったと思う。私が手をかすと「いや、大丈夫だ。」と頑張った。
日本から派遣されて、他の森林関係のプロジェクトを行っている専門家達やパラグアイの共同作業者達、14人も参加した。総勢約30人の大デレゲーションであった。この時はほとんどがペンションに泊まったから、ブトゥの小さなペンションにぎゅうぎゅう詰めで泊まったのである。
1984年11月16日(金) セロ・ドス・デ・オロでの現地説明会。
頂上には計画を示した大きな図面を持って行き、どこにどのような樹種を植えるとか天然林で保護する地域はどこだとか苗畑の位置はどこだとか具体的に説明した。
ガウチョに出会う
この現地検証時には、現地の確認のためよく森林を歩いた。その時いかにもガウチョ(カウボーイ)といういで立ちの人達に出会ったので写真を撮らせてもらった。森林が牧場に転換されていった最盛期なのでこのようなガウチョも多かった。
ガウチョ達
既に現場では食堂も開設
また、計画地の近くでは、もう食堂などを開いて商売をしている店があった。こういった必要なものはすぐにできるのである。生きていくにはしたたかで、早く行動しなければならないのだ。そこにかわいい姉妹達が働いていた。
右がお母さん。その左から3人の娘。右は一番下の娘。
パラグアイ人のほとんどは、メスティッソ、メスティッサ(mestizo, mestiza) といって白人とインディオとの混血であり、ひときわ美人が多いと思った。3Cの国(Chile, Colombia, Costa Rica)は美人が多いと言われており、私もこれらの国に行ったが、確かに美人は多いと思った。コロンビアのアンデス山脈の村の中で、美人ばかりという感じの村があった。その話はコロンビア編で書くとして、パラグアイの山の中の田舎でもそれに劣らず美人は多いと感じた。
パラグアイ川での釣り
通訳をしていた青年が、アスンシオンに帰ったときの休日にパラグアイ川に釣りに連れて行ってくれた。川幅は約1Kmもある。うまくいったらドラド(南米の淡水にすむ魚。成長すると全長約80cm。体が黄金色に輝き、大変に美しい)が釣れるのではないかと思ったが、ドラドはトローリングをして1日に1匹つれるかどうかくらい難しいとのことだった。ドラド釣りはあきらめ、小さな手こぎのボートで川岸から数10m離れたところで釣った。パラグアイで「マンディイ」と言われるナマズがやたらに釣れた。だいたい30cmくらいの大きさのものが多く、釣りごたえはあった。皆で釣果を競争したが、入れ食い状態なので、ここでは競争にはならなかった。
通訳の青年
通訳の青年は、パラグアイ生まれの二世で、私のイメージではどちらかと言うと大胆だった。車の運転にも自信を持っており、彼が所有していた小型ワゴンに良く乗せてもらった。アスンシオンの市内をかなりのスピードで前の車との車間距離なく走るので、私が「こわいなあ。」と言ったら、「俺の運転のうまさを認めてくれないのか?」と気分を悪くしていたことがあった。
とはいえ、彼のいい加減さなど私とは結構波長があった。私が日本から着て行った背広やワイシャツなど譲ってくれというので、いろいろなものを譲った。その後何年後だったか、彼が日本に遊びに来た時に会ったことがあった。その後音信不通になってしまったが、今はどうしているであろうか。
共同作業技術者達
カウンターパートというのはパラグアイ森林局の共同作業技術者である。1年目のカウンターパートの中心人物は、北東部の調査のときも一緒に仕事をしたカブラルであった。
カブラルは非常に真面目で信頼がおけた。森林局には予算が少なく出張旅費が出ないときがあり、他のカウンターパートは全員現地から引き揚げてしまったことがあった。しかし、カブラルだけは現地に残り、日本の調査団が働いているのに、パラグアイの森林局の者が働かないのではメンツがたたないと頑張ったのだ。出張旅費は、調査団で立替え、他のカウンターパートにも戻ってもらった。
北東部で一緒に働いて、なんとなく気取っている感じであったウエスペは既に大学教授に転身していた。エンシーソーはカピバリから離れ、別のプロジェクトのカウンターパートとなっていた。
2年目からは、ゴンサーレスとロペスがカウンターパートの中心となった。その他森林局の次長や部長がよく参加した。その他多くのカウンターパートが現場の作業には入れ替わり立ち替わり参加した。
ゴンサーレスとロペスは仲が良く、年は私と同年代だったので、仕事はやりやすかった。どちらかというとロペスとは良く打ち解け、ゴンサーレスの方が多少硬かった。ゴンサーレスは非常にサッカーが上手で、大柄で体つきもいかにもスポーツ選手という体形で、ちゃんと練習していればプロのサッカー選手になれていたのではないかと思わされるほどだった。彼らの家にも招待されたことがあるが、立派な家で、彼らは地方の営林署長をしていたからさもありなんと思ったものである。ゴンサーレスには小さなお子さんがおり、ロペスは新婚であった。二人とも奥さんにはとてもやさしく振舞っていたが、実態は尻に引かれているようだった。
ロペスが、日本に研修に来た時には三原山が爆発(1986.11)したときだったので良く覚えている。ゴンサーレスが来日した時は、家族が病気になったとかで日本に到着後すぐに帰国したことがあり、残念であった。
私の誕生日
この現地検証調査の時に私はパラグアイで35才を迎えた。このとき森林局の連中も含めて私の誕生日を祝ってくれた。スポンサーはもちろん私であるが、アスンシオン内のしゃれたレストランに行った。飲んだり食べたりした後はダンスと決まっている。私も良くダンスを楽しんだ。
帰国後
さて、現地から帰国したのが1984年12月1日であり、その後に最終的な計画作りに入った。何しろ経済分析を頼んでいる担当者からさっぱり分析がでてこない。50年計画で作らなければならないが、なんといっても資金計画が大変である。正月休みを返上し、我々はずっと電卓をたたいたり、大型コンピュータをつかって計算をしていた。
1985年の1月は5日、6日が土、日で出勤は1月7日(月)からであった。計算量が多く電卓をたたいているが、電卓でできる量ではなかった。今のパソコンがあれば、相当楽だったのに、当時は電卓に毛が生えた程度のパソコンだった。
計画した投入資機材が約250種類あり、それが内貨と外貨に分かれており、50年間ということで費用の積算だけでも250×50×2もあり、その他、様々な計算があった。結局当時職場で導入したIBMのスーパーコンピュータで処理したが、どの程度の能力だったのだろうか?
その前に、1976年くらいにベーシック言語でプログラムを組んで計算できるIBMのコンピュータを導入しており、私はその時からプログラムを組んで計算させていた。コンピュータ言語のベーシックはフォートランとほとんど変わらなかった。ただ、今から思うと内部のメモリーは64Kしかなかったし、外付けの磁気式の大きな円盤のようなフロッピーディスクも8インチ(20cm)で、容量は1Mもなかった。けれどもプログラムさえできてしまえば、今のパソコンで処理するよりも、早くできたような気がする。
情報処理については、隔世の感を禁じ得ない。たった30年である。超特急で進歩したパソコン。この後どのように進歩するのであろうか。AIが発達し、既に将棋も囲碁も勝てなくなったが、この世界のAIとの勝負では、今後人間が逆転して勝つこともあるのではないかと思う。南米的に何の根拠もない感覚ではあるが。
つづく
ゴルフ
4月22日、伊那国際ゴルフクラブにて社内ゴルフ大会がありました。
初のコースだったので、かなり不安でしたが、
打ちっぱなしでの練習の成果でしょうか、初めてにしてはOBなども
少なく無事に回ることができました。
ゴールデンウィーク中も友人とコースを回ったり、すっかりゴルフに
はまってしまいました。
大自然の中でスポーツを楽しむことができるのは、幸せなことだと
改めて感じました。
TBT