森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.11
本格調査
チームに先駆けて出発
2回目にパラグアイに行った時は、他のメンバーに先駆けて2週間ほど早く出発し、パラグアイで準備作業を行った。最初のパラグアイへの旅行で、ロストバッゲージとなったため、責任会社のバリグでは、補償金以外に、成田からロスアンゼルスまでファーストクラスを用意してくれた。1981年9月4日(金)の夜に出発した。初めてのファーストクラスであったので、やや緊張し、逆に何となく落ち着かなかった。
この頃の座席はフルフラットにはならなかったが、10席ほどの座席は、一つ一つ独立していてステュワーデスがやたら親切に世話をやいてくれ、逆に見張られているような感じだった。ロスアンゼルスまでは、10時間弱なので、一眠りしたらもう到着という感じだった。
時差の関係で同日9月4日(金)の午前中にロスアンゼルスに着くが、1984年のオリンピックに備えて大規模な空港の改修工事が行われており、大きなテント型のドームで待たされた。単なるトランジットであるが、入国し、数時間の後、ペルーのリマに向かう。リマでは、給油のため降りるのだ。既に夜だった。リマの空港内で2時間ほど待ち、リオデジャネイロに向かった。リオデジャネイロは朝である。ここではバリクの若い職員が待っていてくれ案内してくれた。前回のロストバゲッジのおかげでサービスは非常によかったが、ロストバゲッジとなった身としては、たまったものではないと思ったものだった。そして、リオデジャネイロからサンパウロ、イグアスと経由し、9月5日(土)の夕方アスンシオンに到着した。東京から36時間も乗り継ぎでくたくたに疲れるので、前回大使に勧められたように翌日は日曜で休日としたのだ。
冷や汗ものの第2グループ、予定日に到着せず
さて、2週間ほどの間にペドロ・ファン・カバジェーロの現地に行って、作業員や必要な物資の手配など準備を行って、後発組が来るためアスンシオンに戻り、空港へ迎えにいった。第2グループは4人であった。1981年9月18日(金)に日本を経ち、翌日の19日にアスンシオン着の予定だった。空港で待っていたが、乗ってくる予定の便がその日、キャンセルになり、4人は到着しなかった。当時は今のように情報がすぐに伝わらず、到着しない理由はわからなかった。それに南米のパラグアイなので、明日には着くだろうとのんびりしたものだった。
翌日、もう一度昨日と同じ時間に空港に、迎えに行くと1日遅れだが、前日の予定時間に第2グループが着いた。聞くとロスアンゼルスを飛び立った直後に、ジェットエンジンに鳥が吸い込まれ、同空港に引き返したとのことだった。離陸してすぐに着陸ということで、メンバーの一人はユカタン半島に着陸すると想像したそうだが、実際はロスアンゼルス空港に戻ったのである。ちょっとした冷や汗ものだったということだが、無事、ロスアンゼルス空港に着陸できて良かった。
激しいジンマシンになる
最初にカウンターパートと共に日本人は私一人で、現場に行っていろいろと準備をしていた。作業員や必要物を手配した後に、調査地域の外周を車で走れる範囲で回ってみた。その偵察には、数日間要し、森林の概況を調べた。その時、森林内で、何かにかぶれたのだろう。ホテルに戻ってから全身が腫れあがるほどジンマシンが出て、かゆくてたまらず、怖いほどであった。そのようなときのため、レスタミンの錠剤を持っていた。この時、抗ヒスタミン剤は、非常に良く聞くと思った。まだ、時差もあり、強い睡魔におそわれて、着の身着のままで寝てしまったが、翌日にはすっかり直っていてほっとした。
森林調査
本格調査では、調査グループもグループに配置した人数も多く、日本人、パラグアイ側のカウンターパート(共同作業技術者)、それに通訳や運転手、作業員や炊事員などを入れると合計で30名と大部隊となった。
伐採地から森林へ入る。既に多くの森林が伐採されていた。
これを動かすのは私の仕事で、人と車を配置し、班編成をする。単純なのだが、能率的に動かそうと分割するほどに複雑になり、難しかったが、パズルを解くようで、面白かった。
また、航空写真の枚数が非常に多く、毎日キャンプに帰っては、その日のまとめと、翌日どこへ行くか、航空写真でルートを追うのに苦労した。
車の借り上げや保険の手配
30名近い人数になると調査団が用意した車両だけではまにあわず、ランドローバーのようなジープタイプの車も数台借りあげる必要があった。これらも日本のように大きなレンタカー屋があったわけではないので、知り合いのつてを頼って、車を沢山持っているアルゼンチン人やドイツ人などから個人的に借りる交渉をし、車がちゃんと動くのかとか金銭面の交渉とかこまごました準備が続いた。
また、雇用する作業員や運転手などには万一の場合に備えて傷害保険を掛けることとし、こういったことの交渉や金銭の管理や事務続きなど、仕事を動かす上での縁の下的な管理も私が行っていたので、いろいろな面で苦労したが、良い経験であった。
買い物
調査はキャンプが中心になるため日本から10張り程度軽くてコンパクトなテントを持って行ったが、必要数の半分ほどであり、10張り程度はアスンシオンで調達した。パラグアイ製のものは(輸入品かもしれなかったが)昔の日本のテントと同じで、家形の黄色い布で作られ、重いものであった。細かい食器類等はペドロ・ファン・カバジェーロで買った。
逃げたこと
調査は、伐開班は技術者が測量しながら、その先を作業員3名で、斧やマチェーテ(ナタ)で人が歩けるように邪魔になる樹木を伐採しながら、数百mから数km進んで調査プロットにたどりつくのであった。
測樹班がその後に入るのであるが、ある日、伐開班が前日から伐開しており、伐開班後に続いて測樹班も後を追って入っていった。その日私は測樹班で、周辺にある樹木を観察しながら後から進んでいた。森林に入った起点から約2kmほど進んだところに来たところ、ずっと先の方で先頭を伐っていた作業員やらパラグアイの技術者たちが「逃げろ」といいながらこちらに全速力で走って戻って来る。彼らが何を言っているのが詳しくは分からないが「マフィア」と言う言葉が聞きとれ、大声で「逃げろ」という。
訳が分からなかったが、取り敢えず、全速力で一緒に走って逃げた。道路際においてあった車に駆け込み、全員が乗り込んだ。乗り込み終わるのを見届けるや一目散にペドロ・ファン・カバジェーロに戻った。
ペドロ・ファン・カバジェーロに着いて、カウンターパート等に良く聞くと、先頭を伐採していた作業員が、伐開している先に黄色のテントを見たとのことだった。それは麻薬栽培をしているマフィアのものに間違いなく、もし、彼らに見つかれば殺されるのは必定だとおびえながら語った。
それで彼らに発見される前にすぐに逃げ出したとのことであった。その場所は航空写真上では森林として映っていたので、撮影後に伐開されたのだろう。実際に航空写真上には所々であるが、大森林の中にポツンとわずかに切り開かれたような場所がある。私はインディオの家かと思っていたのだが、彼らならばもう少しまとまって住むだろう。麻薬栽培の可能性は高いと思った。非常に恐ろしいことだった。
JICA事務所にも連絡を取り、そのプロットは棄て、航空写真上で、森林内で切り開かれたところは避けることにし、調査を再開したのであった。
つづく
5月の駒ヶ岳
5月の駒ヶ岳
熊本地震による被害へのお見舞い
平成28年4月14日以降、熊本県・大分県を中心に発生している一連の地震により甚大な被害がでました。
また、今も活発な地震活動が続いている上に、降雨による土砂災害等の危険等もでているとのことです。
被災された皆様に心よりお見舞い申しあげるとともに、
皆さまの安全と一日も早い復興を心よりお祈り申し上げます。
アルプスは黄砂の影響もあるのか、春霞がかったようにみえます。
中央アルプスの残雪は例年に比べて少ないように感じます。
新緑の季節に降る雨を、「緑雨」「青雨」「翠雨」などと言うそうです。
5月に入ってからは、スッキリと晴れる日は少ないですが、
この雨も新緑を鮮やかにしていきます。
[南アルプス]
立てばシャクヤク
お隣さんから頂いたシャクヤクが見事な花を咲かせました。
座ればボタン、歩く姿はユリの花
ボタンとユリは社内にて調達しました(^_^;)
森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.10
森林調査方法の決定
軽飛行機でフライトサーベイ
翌12月10日(水)は、前日よりさらに暑く、また前日の晩、ホテルの部屋のクーラーが壊れ、クーラーが入らず、朝から熱中症気味だった。
しかし、この日は軽飛行機で、調査対象地の上空を3時間も飛んだ。いろいろな発見ができ、面白かった。しかし、森林の伐採は予想以上に激しく、原生林の存在は本当に貴重なものになっているのが良く分かった。
軽飛行機で偵察飛行。
大変な伐採量
どこでも牧場が入り込み、木を伐り出すための道路を勝手に作る。全く伐採量と言ったら凄いものである。国道5号線を20m3ほども大量に丸太を積んだトラックが1時間に20台くらい通る。朝から晩まで通っているが単純に考えて、約半日トラックが通ったとしても1日5,000m3もの木材が伐り出されていることになる。伐採木は優良木で太い木しか伐っていないし、優良木は平均して1haに50m3程度しかないから1日に100haもの森林から抜き伐られていることになる。1年で3万ha近くもの森林が伐採される。これでは100万haの森林があっても30年で無くなってしまう。実際は、そんなことはないだろうと思ったが、3年後の調査終了時に森林管理のガイドラインが完成した頃には、本当に役だてられるか不安に感じたものである。実際には、それよりもっと早いスピードで森林は無くなってしまったのだ。
山が静かだったという印象
日本の山だと鳥の鳴き声をかなり聞いたり、夏であればセミの声に、耳も痛くなるくらいにうるさいところがあるのに、パラグアイでは飛んでいる鷹類は見たが、鳥の声はあまり聞かず、セミの声もほとんど聞かなかった。何か、森林全体が静かだったとの印象がある。
動物
森の中で調査をしていると、人間の声などがうるさいので、動物は逃げてしまう。ピューマやバクがいるということだったが、それらは見なかった。作業員らの話では、ピューマに襲われ、亡くなった人もいるとのことだった。ピューマはペドロ・ファン・カバジェーロに来る前に途中で調べた森林近くに住む人が頭蓋骨を小屋に飾っていたことは既に述べた。アルマジロは良く見た。みつけると作業員がすぐにオノで叩いて捕まえた。家に持って行き食べるとのことだった。
アスンシオンに戻る
予備調査ではその後、アスンシオンに一旦戻り、パラグアイの林野庁の長官などに森林の伐採状況のひどさや調査の状況を報告し、危機感をあおったが、あまり感じていないようであった。
調査方法を打ち合わせる
アスンシオンで森林調査方法の打合せをしたが、この当時、林業分野での日本の国際的技術協力も始まったばかりで、南米の森林状況の情報も少なく、調査方法も手探りな状況であった。そのため森林開発計画のガイドラインを作るといっても、我々の得意な分野、それは航空写真を判読しての土地利用図や林相図(樹種、樹冠測樹密度、樹冠の大小、樹高などにより示される森林の様相)などを作り、森林調査を行って資源量がどれくらいあるかを明らかにするまでは、それほど難しくなかった。
その後、森林調査以外に、土壌調査や林産業調査などの社会関係調査などを行うか行わないか、また行う場合にはどのように行うかは、調査を開始したものの、その方法はまだ検討中だった。
そこでは土壌状況がわからなければ植林樹種もきまらないと、当然ながら次の調査から土壌調査を行うことになった。また、社会関係調査も当然行うべきとなり、後の調査では、林産業調査や関係者や住民へのアンケート調査などを行った。
そして疲れた体にアスンシオンで活力を入れ、体制を立て直し、もう一度ペドロ・ファン・カバジェーロに向かい、森林予備調査の続きを行い、正月前にアスンシオンに再度戻ったのであった。
プロットに到達するため小川を渡る
元日
1981年の元日、調査で疲れた体で、人気のない、アスンシオンの町をぶらぶらと散歩した。軍隊の基地の前を通った時は、番兵が銃を持ち、正面を警護しており、こちらを怪しいものを見るような目で見ている。ここはやばそうだとそっと避けるようにして回り道をした。その後森林局での打合せや報告を行い、1月6日(火)にアスンシオンを発ち、1月8日(木)に日本に一旦、帰国した。
帰国後の森林調査方法の検討
帰国後、予備調査の結果を分析した。森林の状況が分かったので、それに基づいて森林調査方法を決めた。まず、航空写真の判読基準を決めて、土地利用の区分と森林の区分を作った。森林資源に関してはどこにどのようなタイプの森林があり、各タイプにはどのような樹種があり、どれだけの資源量があるかを推定することにした。林相図に対応する森林調査簿も作成するのである。
森林というのは広大で、一本一本全ての木について調べられるわけではないので、一部を調べて全体を推定する統計的な手法を用いた。層化無作為抽出法というものを用いたのである。
ごく簡単に言葉で説明すると次のような方法である。これは航空写真を判読して似たような森林にグループ化し、そのグループの面積割合により、サンプルであるプロット(標本地)を選び、その標本の中にある木を全て調べるという方法である。層とはグループのことで、グループ内の偏差(かたより)を少なくする、つまりできるだけ均一(同じ様)なグループになるようにグループ化し、グループ間の偏差を大きくするのである。つまり層間の偏差を大きくし、できるだけ異なったグループに分けることができれば、より少ない標本で、全体が推定できるのである。層内分散を小さくし、層間分散を大きくするということである。
プロットは地図上にメッシュ(縦横の網目)を描き、行(横方向)と列(縦方向)に番号をつけ、ランダムに必要数を選定した。
森林調査方法の決定
プロットの大きさは500m×20mとし、その中を50m×20mの小さな10の部分(小プロット)に分けて調べることとした。統計的手法で精度と誤差率を推定し、総数で約90点を調査する設計となった。
調査グループは3班に分けることとした。
1班は、偵察部隊で航空写真や地図上に落とした標本までアプローチする道があるか調べ、無い場合にはどこを起点にしてその標本の始点まで行きつくか、所有者への許可取りなどを担当することとした。プロットを調べる場合、その場所が、国の所有になっている場合には森林に入るのに、問題はないのだが、森林の前に牧場が広がっていて所有者がいたり、所有者でなくとも近隣に住民が住んでいる場合には、それらの人の同意を得る必要があった。
第2班は、伐開班で、標本設定グループである。アプローチ起点から標本の始点までと標本内の500mの中心のラインを伐開して、次の測樹班が歩けるようにする。標本は50mおきに杭を打ち、杭には赤の標識テープを付け、分かるようにする。また、その中心ラインから左右に10m離れたところには25m置きに杭を打ち、同様に赤の標識テープを付け、プロットの境界がどこかわかるようにプロットを設定することとした。
第3班は測樹班である。パラグアイの森林局で樹種判定ができるものを配置し、樹種名を判定し、樹高と枝下高はブルーメライスという測高器を用い、胸高直径は直径巻尺、枝下高の直径はペンタプリズマを用いて測ることとした。
測樹
つづく
平成27年度長野県優良技術者表彰および若手技術者等所長表彰
平成27年度 長野県優良技術者表彰および若手技術者等所長表彰において、弊社より5名が受賞いたしました。
関係者の皆様方には、この場をお借りして御礼申し上げます。
今後とも、さらなる技術の向上に努めてまいります。
長野県優良技術者表彰
受賞者:田中洋治
業務名:平成26年度 砂防基礎調査事業に伴う調査業務委託(管内一円(辰野町・中川村))
受賞者:森村浩之
業務名:平成26年度 県営ため池等整備事業 竜西2期地区 久米川工区用地測量業務委託
若手技術者等所長表彰
受賞者:境澤昌志
業務名:平成26年度 県単水防管理事業に伴う氾濫危険水位等改定業務委託
(長野県飯田建設事務所)
受賞者:羽生健志
業務名:平成26年度 防災・安全交付金(道路)事業用地測量調査業務委託
(長野県伊那建設事務所)
受賞者:清水郁
業務名:平成26年度 社会資本整備総合交付金(広域連携)事業に伴う物件調査業務委託
(長野県諏訪建設事務所)
桜満開
会社の前にある公園の桜が、満開となりました。
4月11日。満開は概ね昨年と同じくらいでしょうか。
今年も昨年と同じような方向より、撮ってみました。
遊具も新しくなって、桜と共に色鮮やかです。
イワヤマツツジ(トウゴクミツバツツジ)も咲き始めました。
花咲き誇る季節の到来です。
4月の駒ヶ岳
森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.9
セロコラでの森林調査
キャンプでの朝
翌1980年12月4日(木)、キャンプ地では、朝霧が晴れてモルゲンロートという感じのきれいな朝焼けであった。
調査地に入る前の挨拶
昨日偵察しておいた場所へ行く。どこの森林に入るにも牧場を通らねばならず、必ず持ち主に挨拶が3回くらいある。それに非常に時間がかかる。話好きのパラグアイ人はテレレやお菓子を出してきて、話していれば1時間でも2時間でも平気でしゃべっている。永遠にしゃべるのではないかと思わされる。
言葉はポルトガル語かスペイン語かグアラニー語である。この時は、スペイン語もさっぱり聞き取れず、何語で話しているのかさえわからなかった。
テレレというのは、牛の角を容器にし、その中にマテ茶を入れて、冷たい水を注ぎ、ボンビージャと言って、先にマテ茶の葉をこすものがついた金属製のストローのようなもので吸って飲むのである。そこにいる全員がボンビージャを吸って回し飲みする。何人もの人が同じ吸い口に口をつけるものだから何となく、ためらいを感じてしまうが、酒のおちょこの回し飲みも似たようなもので、慣れるとどうということはない。お湯をいれたものをマテと言う。
調査地の設定
牧場からようやく森林の端に到達する。起点を決めて航空写真上に指針(その位置を航空写真上に針で刺し裏側にそのポイントがわかるように記載)する。起点から林縁の影響を避けるため、測量して約250m奥に進む。ここは、高木は予想外に少なく、既に抜き伐りされている。そのため光が入るとやたらに灌木が生え、ブッシュとなっている。その後プロット(標本地:大きさを500m×20mとした)の長さ500mを加え合計750m進むのに、作業員3人がブッシュを伐り開き、その後を別な3人で測量して進むだけでも丸々1日かかってしまった。
虫ノイローゼ
最初森林に入った時はブヨの多いのにびっくりした。虫ノイローゼという言葉があるというのを聞いていたが、なるほどと思った。長袖を着ていたが、顔の回りや皮膚がでているところにはブンブン、ブンブンとブヨが飛びまわり、葉っぱのついた細い木の枝で常に顔の周りをはたいていないと無数のブヨがたかるのであった。一瞬でも手を休めると、すぐにブヨだらけになってしまう。さされるとかゆくてしかたがない。
これは周辺に牧場が多いからだ。牛の周りには無数のブヨがたかっている。近くに牧場がある森林に入ると無数のブヨが寄ってくる。近くに牧場がなければブヨはかなり少なくなる。
日本からはセンスを持って来ていたが、ロストバッゲージになってしまったために無い。しかし、センスでよけられるようなブヨの量ではない。次回からはうちわを持ってこようと思う。
測樹
翌12月5日(金)は昨日設定したプロット内を測樹する。プロットは50m×20mの小プロットを10個つなぎ合わせたものにし、合計で500m×20mとし、1haの大きさとした。その枠の中に入る胸高直径(1.3mの胸の高さ)10cm以上の樹木全てについて、樹種、樹高、枝下高、胸高直径、枝下高の直径を測るのである。
その日は1日かかって、プロットの半分も測樹できなかった。枝下高の直径はアメリカ製のペンタプリズマを日本に取り寄せて、日本からパラグアイに持ち込んだ。ペンタプリズマというのは、簡易に直径を測ることができる機械で、機械の中にプリズムが入っていて樹木までの距離に関係なく、カメラのファインダーのようなものを覗くと、樹木の幹の左端と右端を直線で合わせられるようになっていて、それを合わすと、バーが幹の直径と同じ長さにスライドし、幹の直径が測れるものである。
林内でのバーベキュー
昼は持って行った肉を林内で焼いて食べた。朝国道沿いの店で大量に買って持ってきた。
しかし、暑いので肉はすぐに痛む。焼こうと思ったところ、既にウジが湧いているのもある。しかし、焼いてしまうので大丈夫だろう、ちょっと痛みかけた肉の方がおいしいだろうと焼いて食べた。これが何とも言えずおいしいのである。
しかし、パラグアイ人達も食べ過ぎか肉が痛んでいたかで、翌日は腹を痛めた模様である。幸い私はこの時は大丈夫であった。
林内で肉を焼く
ようやく1プロット終わる
翌12月6日(土)はペドロ・ファン・カバジェーロから昨日と同じプロットに向かい、残りの測樹を行い、ようやく1プロットの調査が終わる。終了後、再度キャンプへ向かう。
グアラニー族の大酋長に会う
12月7日(日)は朝7時に出発。別のプロットを捜す。途中、先住民に会う。筋骨隆々で、背中に銃とアルマジロを背負っている
銃とアルマジロを背負う筋骨隆々の先住民
9時頃先住民の部落へ着く。パラグアイの先住民はグアラニー族というが、その中のAba族と言った。聞くと75才だというじいさんが孫の面倒を見ている。いろいろ話していると大酋長がいるからそこへ挨拶に行こうという。
すぐ近くで約1Kmの道程だという。「じゃあ行こう。」と後ろから追って行くと75才とは思えないくらい歩くのが早い。追いつくのがやっとだ。暑くて汗が噴き出す。着いてみれば決して近くはなく、1時間以上、約5km程歩かされて、大酋長の家に着く。この辺の先住民達には1時間歩くなんてたいした距離ではなく、すぐ近くなのだ。
残念ながら、大酋長は、全くの文明人となっていて、大酋長というよりもそこらの「おっさん」という感じであり、期待はずれであった。グアラニー語を話し、スペイン語は話さない。
知事の保護認定書を持っており、その内容は「軍人も民間人も先住民の生活の邪魔をするな。」というものであった。
グアラニー族の中のアバ族の大酋長と。
先住民の大酋長の家で弓を引かせてもらう
先住民の大酋長の家では弓を引かせてもらったり、ハンモックで休ませてもらった。
その後、その日は昨日のプロットに戻り、そのプロットの500mのラインを設定して終わる。直射日光は森林のないサバンナ状の場所ではもの凄い強さで、とてつもなく暑い。林内も雨が降らなくなり段々と暑くなってきた。
ひどい下痢になる
翌12月8日(月)はもう一度プロット1を確認しに行く。途中でシカを見る。アリ塚がもの凄くある牧場がある。この日の暑さはもの凄く厳しかった。
キャンプに戻るとグロッキー状態だ。すぐに横になる。熱中症だ。水を十分に取り、元気になり、回復した。その後、下痢となり、ひどい状態だ。原因は昼に飲んだテレレに違いない。汲んできた川の水をテレレにそのまま注ぎ、飲み回し、回りに牧場が多かったので、牧場から牛の糞などが混じっていたのだろう。パラグアイ人も同じようにテレレを飲んでいたが、彼らは慣れているので何ともなかった。もっと気をつけるべきであった。
レラスコープの使い方のトレーニング
翌12月9日(火)は、3番目のプロットの偵察を行いつつパラグアイ技術者へレラスコープの使い方を教え、トレーニングをする。レラスコープというのはオーストリアのビッターリヒ博士により考えられた「林分胸高断面積測定法」を応用し、森林の万能測樹高器として発明されたものである。傾斜地の距離、樹木の直径、樹高、胸高断面積などを測れるのである。扱い方が少し難しく、慣れが必要で、皆すぐには使えるようにはならなかった。
測定には、レラスコープよりも樹高はブルーメライスという簡易な測定器、直径は直径巻尺とペンタプリズマで測るのが簡単で効率はずっと良さそうだった。
午後はキャンプを片付けてポンタ・ポラのホテル・エル・ボスケへ戻った。
つづく
現場にて
綺麗な景色を眺めながらの現場です。
森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.8
森林調査
セロ・コラ国立公園でキャンプ
1980年12月3日(水)は、ペドロ・フアン・カバジェーロから車で約1時間半、南に行ったところにセロ・コラ(Cerro Cora) 国立公園のキャンプ場があるので、そこでまず森林調査の予行演習をしようとそこへ向かう。途中ガソリンを入れにいくが停電で30分待たされた。
セロ・コラ セロはスペイン語で切り立った岩山、コラはグアラニー語で周辺という意味
正午に国立公園の事務所に着いた。事務所は軍隊が管理しており、その隊長へ挨拶の後、午後からキャンプを設営する。
キャンピングカーの冷蔵庫は、早くも故障し、冷えなくなった。午後国道5号線(コロネル・オビエドからペドロ・ファン・カバジェーロ間の国道)をペドロ・フアン・カバジェーロ方向に戻り、森林に入る。
キャンピングカーと近くに張ったテント
ガラガラヘビを捕まえる
途中山の中の道路上で、ガラガラヘビを捕まえる。約1mの長さで太い。パラグアイではガラガラヘビの尻尾の先端で、ガラガラがついた部分をお守りとするそうで、パラグアイの技術者が、そこを切り取りお守りとして大事そうにしまう。
ガラガラヘビを捕まえる
ガラガラヘビの尻尾の先端は小さな粒のような殻が、重なってくっ付いていてその中に小さな玉が入っている。その小粒の石のようなものが、ヘビが興奮して尻尾を震わせると殻に当たりガラガラなるのである。その殻の数から8才のヘビと分かる。1年に1つづつ殻が増えるのだ。
ガラガラヘビの尻尾
それにしてもパラグアイの北東部地域はガラガラヘビとトカゲが多いと思った。山道をやたらに1m前後のトカゲが横断するのである。
ガラガラヘビは山に入れば1日に数回は見るのである。ガラガラヘビは乾燥地帯のサバンナに多いと思っていたが、このような森林地帯にも多いのである。
ある時、1mくらいのトカゲが車にぶつかったので、つかまえて車に乗せてホテルに持ってかえったが、車の中は生臭くなり、この匂いにはまいった。
車にぶつかったトカゲ
キャンプ地でサッカー
パラグアイの森林局の技術者や作業員達はキャンプに戻り暗くなるまで必ずサッカーをする。狭い道で10mくらいの長さでゴールは1m幅くらいである。強くは打てないのでボールの取り合いである。私も混ざってやるが、彼らのテクニックには驚かされる。子供の時からサッカー漬けなので、皆うまい。ボールを取ってもすぐに取り返されてしまう。彼らにフェイントのかけ方なども教わった。
初めてのキャンプ
キャンピングカーのベッドは2段で、下は広いが上は狭い。下には大きい2人が入り、下には小柄な私ともう一人が入る。上は幅がせまくて50cmくらいで寝にくい。一晩くらいなら4人でも泊まれるが、長期では難しい。
キャンピングカーで泊まるのは疲れるので、この時の調査時だけとし、次の調査からはテントに泊まるようにした。パラグアイの技術者達もテントで寝る。夜は南十字星がきれいに見える。
キャンピングカーの中
キャンプでの一時。昼間
キャンプにて。火を囲み皆でテレレを飲む。
つづく