3月の駒ヶ岳

社窓


3月の駒ヶ岳

3月になると桜の開花予想が本格的に発表されてきます。

今年は平年より早い地域が多いとの予想で、

このあたりは、4月10日前後での満開予想がでていますが、どうでしょうか?

楽しみですね。


桜前線とともに”スギ花粉前線”も発表されています。

2月下旬から3月下旬にかけてが全国的にピークとのこと。

さらにその後はヒノキ花粉が4月中旬あたりまで続くとのこと。

こちらは早く終わってくれると良いですね。



[南アルプス]
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福寿草

ゼンシンの日々

 


福寿草


庭の福寿草です。

この花の名前、いいですよね ♪

なんだかとっても幸せ感ありませんか (*^0^*)

しかし、しばらくは花粉症シーズンです・・・つらい・・・



 

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.7

森林紀行

調査対象地域とペドロ・ファン・カバジェーロの町

 

アマンバイ出張所に挨拶

 ペドロ・フアン・カバジェーロの町に着くとまず、アマンバイ出張所の所長を伺い、所長に到着の報告に行った。

 

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1980年当時のアマンバイ出張所

 

 所長が一人で事務所を運営している。あいにく、所長は留守だったので奥さんに挨拶し、予約してあったブラジル側の町ポンタ・ポラのホテル・エル・ボスケに向かう。

 

ホテル・エル・ボスケに泊まる

 ペドロ・フアン・カバジェーロ側には小奇麗なホテルがなく、ポンタ・ポラ側にはいくつか良いホテルがあった。エル・ボスケは森林という意味で、これまた、この辺には森林が多かったことを伺わせた。町はずれに位置するが、この町では最高級ホテルで実際かなり高級なホテルに見えた。

 

 しかし、夜、部屋の冷蔵庫のブラマという名のブラジルの缶ビールを飲むと、何だか古い味である。きっと部屋のビールは高いので長いあいだ宿泊客が部屋でビールを飲んだことがなかったのだろう。

 それに翌日は腹の周りがムシに刺されたようでいくつかポツポツ赤くなっている。きっとダニか南京虫がいたのだろう。高級なホテルなのになんていうことだろう。すぐに部屋を変えてもらう。

 

 ホテル・エル・ボスケの食事は高級で高い。量がもの凄く多い。1人前頼むと普通の日本人が食べる4人分くらいの量があり、最初はほとんど残してしまった。1人前を4人で分けるのもみっともないから、次から1人前の量を少なくしてもらった。

  外のレストランもだいたい量が多い。ピザも大中小あるが、大で日本の10人前くらい、中で5人前、小で2人前くらいである。

 エル・ボスケはこの予備調査の時のみ使い、その後は、手ごろの値段でかつ清潔でいごこちも良く、ポンタ・ポラの町中にあるバルセロナ・ホテルに泊まるようになった。名前はスペインだ。

 

所長がいろいろと便宜を図ってくれる

 12月1日(月)の朝、所長がエル・ボスケに来てくれ、いろいろと便宜を図ってくれる。この日は、ペドロ・フアン・カバジェーロが市制80周年のお祭りで、カンビオ(両替商)が休みで、所長の紹介で、個人の店で当面必要な分だけグアラニー(パラグアイの通貨)からクルゼイロ(ブラジルの通貨)に替える。

  所長がポンタ・ポラ側の町を案内してくれ午前中、20人分の鍋や釜などキャンプ道具やキャンプ時の食糧の調達をする。

 

所長は囲碁が大好き

 所長は、しばらくし、仕事の準備が一段落した時に、「誰か碁を打つ人はいませんか?」とたずねられた。それで私が「一応打ちますが。」というと、「じゃあ今晩家に来て下さい。」という。何だか分からないが、囲碁は囲碁として、仕事の話ももう少し詳しく話した方が良いと思っていた。そんなことで夕食後、所長宅に伺うと囲碁を何番も打たされ、こちらが根負けした。負ければもう一番、勝てば勝ったで、うれしくてもう一番、実力は似たようなものだった。私が碁を打つようになったのは、勤め先に碁を打つ人が沢山いて、それから始めたようなもので、当時の私の腕はたいしたことはなかったが、碁の面白さに引き込まれ始めていたところだった。

 

  次の2回目の調査の時にはメンバーの副団長が、碁が大好きで、私よりもかなり強かったので、次回の調査の時は私よりも強い人が来ますと言っておいた。それで所長は次に副団長が来るのを手ぐすねを引いて待っているような感じであった。我々が到着した晩から「今晩夕食にどうぞ。」と誘われる。「できるだけ早く来て下さい。」と言われる。そうすると碁である。山から下りてきても同様であった。しかし、我々は奥さんにはどうも大迷惑をかけていたようである。ペドロ・ファン・カバジェーロでは強い相手がいなかったのであろうが、これほど碁が好きな方も珍しいと思ったものだった。

 

アマンバイ県知事に挨拶

 午前中キャンプ道具の不足品をすべてそろえる。ペドロ・ファン・カバジェーロにはアマンバイ営林署がある。ここの営林署長はミルシアール・バルデスといった。バルデスが選んでくれていた5人ほどの作業員に面接して全員雇うことにした。その日の午後、雇う作業員の傷害保険を掛けに行った。バルデスもウエスペ等と同じくらいの年で若かった。後に50才近くになって森林局長官になった。

 

調査対象地

 改めて述べると、調査対象地はパラグアイの北東部で面積は150万haであった。150万haというと日本の県で最大の面積を持つ岩手県と同じくらいの面積である。東京都の約7倍の面積もあり、調べるのはかなり広大であった。

  調査対象地はパラグアイの行政区分のうち4県にまたがっていて、アマンバイ県というのが全域含まれていた。その北東部にある比較的大きな町がペドロ・フアン・カバジェーロ市でアマンバイ県の県庁所在地で、調査基地としたのだった。

 

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1980年当時のペドロ・フアン・カバジェーロ市

 

ペドロ・ファン・カバジェーロとポンタ・ポラの町

 ペドロ・フアン・カバジェーロはパラグアイ側の町で、ブラジル側のポンタ・ポラ(ポンタは先端とか岬、ポラというのはグアラニー語で美しいで、美しい岬という意味)という町と隣接しており、ポンタ・ポラはマット・グロッソ・ド・スール州(南の大森林)にあり、ポルトガル語の意味からして、かつてはこのあたりは大森林であったことが伺える。

 ペドロ・フアン・カバジェーロ市とポンタ・ポラ市とは実態上一体化して機能していた。両市の境を走る道路が国境となっており、道路の中心部には分離帯があったが、人も車も自由に往来できた。

  ブラジル側のポンタ・ポラ側の道路はきちんと舗装され、町並みも美しく整っていて近代都市の雰囲気を醸し出していた。一方、パラグアイ側のペドロ・フアン・カバジェーロは石畳になっており、街中を少しはずれると未舗装で国力の差をまざまざと感じた。

 

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ペドロ・ファン・カバジェーロ市とポンタ・ポラ市の境界に立つ

 

 ポンタ・ポラは貿易で栄えていると聞いたが、どうもこれはパラグアイ側からの木材の密輸や麻薬関係だったのかも知れない。

 ペドロ・フアン・カバジェーロは、軍隊の駐屯地があり、兵隊がやたら銃を打つから危ない、ブラジル側もマフィアがいるから危ないが、ブラジル品が自由に買えるので良い町だとか聞いたが、一体流れ玉やマフィアをどのように避けるのであろうか?

 

 雇った作業員の中には流れ玉にあたって腹に弾が貫通し、その手術跡を見せてくれた者もおり、治安の悪さを感じさせられた。

 

  それはそれとして、ポンタ・ポラ側には、手ごろな値段でとてもおいしいシュラスコ屋(牛の様々な部分の肉塊を大串に刺して焼き、焼けたところから皿に切り取ってくれる)があり、山から下りて来た時などは良く食べに行った。

 

つづく

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.6

森林紀行

アスンシオンからペドロ・フアン・カバジェーロへ

 アスンシオンとペドロ・フアン・カバジェーロ間は、直線距離で約400kmあり、陸路、車で行くと約600Kmは走らなければならなかった。

 航空機で行けば1時間ほどであった。ただし、この当時飛んでいた航空機はDC-3 で第2次大戦前から使われていたものであった。運営していたのはTAM(Transporte Aéreo Militar:軍航空輸送)で軍が経営していた。空路も時々利用したが、DC-3は席に座ると既に座席は20度くらいは傾いており、寄りかかるような感じで座った。座席のシートベルトのバックルが壊れていて、シートベルトを手で結ばされたこともあった。

 

陸路ペドロ・フアン・カバジェーロへ

 1980年 (昭和55年)11月29 日(土)の早朝アスンシオンを出発する。ハイエースにランドローバー1台である。もう1台のランドローバーはカウンターパートが後からキャンピングカーを引っ張って来るのに使った。

 

コロネル・オビエド

 私はハイエースに乗り、アスンシオンから西に約150km離れたコロネル・オビエド(Coronel viedo:オビエド大佐)という町に向かい、ここでまず昼食を取った。ここにはルエダ(車輪という意味;ここで方向を変えるのでルエダと言うが付いたと思われる)という大きなレストランがあり、多少とも余裕のある人々はこのレストランで食事をするのが常であった。パラグアイは肉料理が中心であるが、ここのレストランの肉料理はおいしかった。

 

ハイエースでペドロ・ファン・カバジェーロに向かう.jpg

ハイエースでペドロ・ファン・カバジェーロに向かう

 

 因みに、コロネル・オビエドの名前は、1870 年三国戦争(対ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの3 国)でパラグアイは敗れたものの、コロネル大佐の勇猛な活躍は後世にその名をとどめ、市の名前となったものである。スペイン人の侵略者の中にもオビエドと言う名もあり、南米各地にオビエドという地名は多い。

 

ぬかるんだ道路

 コロネル・オビエドから北上していくのだが、舗装をしてあったのは、ここから約50km北のMbutuy(ブトゥ)くらいまでであった。

 ブトゥはこの北東部の調査の後、ブトゥの奥のカピバリという地域で造林計画を作成するのであるが、その時に基地とした町である。ここから先は、未舗装となるのであった。

 この辺りの道は、平らであるということと砂利がなく、粘土か砂をベースとする赤土であったので、雨が降らなければ、走りやすかったが、埃はひどかった。しかし、一旦雨となるとぬかるみ、時にはそのぬかるみに車がはまり動けなくなり、それが邪魔になって後続車は、そこで待たなければならないのであった。

 その上、道路の所々に、運搬物の検査や道路保護のための検問所があり、雨が降るとそこで止められ、その先へ進めないのであった。

  その日も雨は降っていなかったが、ブトゥからちょっと先へ行ったところで、道がぬかるんでいて木材を積み過ぎ重すぎたトラックから木材が下ろされ、道路際に置かれていたところに、後から来たトラックがぬかるみにはまりこみなかなか抜け出せないでいた。

 

ぬかるみにはまり込み動けなくなったトラック.jpg

ぬかるみにはまり込み動けなくなったトラック

(道路際の丸太はペローバ。この木を目当てに無秩序な伐採が進んでいた)

 

 それが障害物となり、その後ろから来た我々の車もそこから前に進めなくなった。そこで2時間くらい待たされ、トラックがようやくぬかるみから抜け出たので、次のSan Estanislao (サン・エスタニスラオ)という町までたどり着くことができた。

 

 サン・エスタニスラオのことをパラグアイ人は、略してサンタニと呼んでいた。 

  しかし、そこにも検問所があり、通行を禁止していたため、先に進むことができず、サンタニの町で泊まることとした。いくつかホテルをあたり、ドイツ人が経営していて小じんまりしているが、清潔そうなホテルに泊まることにした。

 

道路がぬかるんで検問を通れず.jpg

道路がぬかるんで検問を通れず

 

 

通訳のH君とサンタニのホテルにて

 ホテルの名前はホテル・アレマンと言い、訳せばドイツホテルという意味でまさにドイツ人が経営しているからつけた名前である。

 小さなホテルで、急遽泊まったので、アスンシオンから雇用していた通訳のH君と相部屋となった。H君はペドロ・ファン・カバジェーロ近くで生まれた日系2世である。きちんとした日本語も話し、スペイン語とのバイリングアである。年は私よりも少し若く、20台後半であった。

 その後キャンプ生活もずっと共にし、長くつきあうのであったが、日本人の感覚ではなく、パラグアイ人の感覚で、こんなにも感覚が違うのかと驚かされた。

 

 何しろ私は日本人の中で育って来たから、他人に対する遠慮とか、上司の意見を尊重するとかといったものをおそらく無意識に身に付けていたのだろうが、H君にはそんなものはなかった。

 まったくフランクで誰でも対等な人間として付き合っているように思えた。自分のしたいと思うことをさっさとやるし、遠慮などはまったくなかった。それに馬力があり、顔が日本人なので、同じような感覚が持っているのかと思っていたが、全く違った。パラグアイ人がそうなのであろう。

 アメリカ人はフランクで上下関係はあまり意識しないようなことを学校の英語の授業で聞いていたが、そのような感じであった。人に気を使わなくて良いのはこちらも気楽であった。日本の社会や教育により、私は随分と枠にはめられ、不自由に育ったのではないかとも感じた。

 

  パラグアイでは学歴による上下関係は前に述べたように強かったが、社会全体では横の関係が強く、アミーゴの世界で動いているようであった。役所のような所では、大卒はエリートなので縦の関係が強かったのだろう。

 

サンタニからペドロ・ファン・カバジェーロへ

 翌日の1980年11月30日(日)にサンタニのホテルを朝7時に出発。この日はサンタニの検問所は開いていた。私はハイエースからランドローバに乗り換えてこちらで進む。

 

待ち時間を利用して森林を見る

 更に2時間くらい進んだところに、また検問所があり、そこで止められた。ここは晴天なのに、この先が雨でぬかるんでいるという。しばらくすれば開くという。そこで待ち時間を利用して森林を見に行くことにする。

 

くたびれもうけ

 道路際の牧場は、はるかかなたにまで続いているように見える。その向こうが森林だ。牧場の入り口に鍵が掛っており、車が入れない。国道沿いを歩いていた人に聞くと、その鍵の所から家まで約2Kmとのこと。家まで車が通れる道がついている。森林まではそれからまだ10kmくらいはありそうだ。

 とりあえず、その家まで鍵を借りに往復4Kmの道を歩くことにする。暑い。汗が噴き出て来るが、空気が乾燥しているのでベトつかないのが救いだ。30分ほど歩いて、その家に着く。

 

 「こんにちは。ご主人はいますか?」カウンターパート(共同作業技術者)のウエスペが尋ねる。

 「いませんよ。」

 「あなたは?」

 「私はここの使用人だ。」

 「そうですか。我々はパラグアイの森林局のものですが、奥の森林を見せてもらいたいと思い、牧場の入り口の鍵を借りにきたのです。」

 「そうか、それはおあいにく様でしたな。鍵は道路沿いの家にあるよ。主人はこの奥の家へ行っている。」

 「えッ。本当ですか。これはくたびれもうけだったなあ。」

  「まあ、あんた達、テレレでも飲んで行きなよ。」と、その人は我々にテレレを勧めた。テレレを飲みながらひとしきり談笑した後、また元の道を半時間ほど歩いて戻ったのであった。テレレはパラグアイ独特の飲み物である。

 

ピューマの頭蓋骨

 道路沿いの家なら最初に車で止まったところからすぐそばだった。その家にあった鍵を借り、牧場の入口の錠を開ける。今度は、奥までランドローバで進む。途中でさっき訪ねた家を通り過ぎ、10kmほど奥まで進む。そこに家があり、その先が森林だ。

 

 「こんにちは。ご主人ですか?」

 「そうだよ。名前はロペスという。」

 「我々は森林局のものですが、森林を調べており、この奥の森林を見せてもらいたいのですが。」

  「ああ、いいよ。でもこの辺りにはもう大きな木は無いよ。ブラジル人がみんな伐って持っていってしまったよ。」

 「そうですか。残念ですね。それでも森林を見せて下さい。ところで、そこの壁にかけてある頭蓋骨は何のものですか?」

 「ピューマだよ。私が撃ったものだ。今でも沢山いるよ。」

 「大したものですね。」

 

 ロペスさんは、子供3人と掘立小屋に住んでおり、この辺りに高木林はないと言う。ピューマの頭蓋骨が飾ってあり、それを銃で打った時の写真を見せてくれた。

 我々が森林を見ると確かに、伐採が入っていて、大きな木は皆伐られた跡で、がっかりした。

  道路へ戻ると午後1時過ぎで、通行止めが解除されている。それからペドロ・ファン・カバジェーロへ向かった。

 

 

行ってきました!

ゼンシンの日々

ゼンシンの日々が滞っています。

みんなのやる気スイッチを・・・

 




 



 

 

 

ぽちっ






・・・というわけで、先日だるま市に行ってきました。

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かなり賑わっていました。

階段上ることと並ぶのがつらいので、手前で引き返してきたことは内緒です。

自分のスイッチは入れ忘れた模様・・・汗

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毎年恒例のだるま家族!

撮影後、目を入れました。

今年も良いこと多めでお願いしたい!!

A.H


 

森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.5

森林紀行

アスンシオンの印象(2)

東京との連絡

 最初にパラグアイに行ったころは、東京の事務所との連絡方法は電話かテレックスであった。当時の国際電話はべらぼうに高く、要件を整理し、手短に必要事項だけを連絡した。

 確実性が必要なものは、テレックスで打ったが、テレックスはローマ字で日本語を書かなければならず、非常に書きにくく、きちんと意味が分かるようにその書き方に気をつかった。

 そのうちにFAXなどができて、書いたものがそのまま通信できるようになり、非常に便利になったと思ったものである。

 

 プライベートでは、家にはJICAパラグアイ事務所の住所を書いた航空便の封筒を何通か置いておき、妻には時々手紙を書いてくれるように頼んだ。職場にも同じ様に住所を書いた航空便の封筒を渡し、職場の状況を知らせてくれるように頼んだ。家からの手紙では、まだ小さかった娘が便箋に鉛筆で落書きしたようなものを送ってくれた。日本で投函したものが届くには約2週間はかかったが、当時海外で受け取る手紙ほどうれしいものはないと思ったものである。

 今は、メール全盛になり、インターネット電話を使えば、無料のものもあり、通信は日本国内にいるのと何ら変わりなく、隔世の感がある。

 

ホテル

 我々の泊まっていったホテルは、最初はプラサホテルといい、パラグアイでは2流のホテルであった。とはいえ、清潔で、ホテルの前を通る車の騒音が時々気になる程度で居心地は良かった。プラサというのは広場という意味で、確かにホテルの前には結構大きなプラサ・カバジェーロ(紳士の広場)があった。

 

  というのも最初のころの出張旅費は、余裕がなく、結構きつかったのである。当時は円が1ドル250円くらいで、グアラニー(パラグアイの通貨)が1ドル126グアラニーであったから、ちょうど1円が0.5グアラニーだった。それが、段々と円が強くなり1984年くらいには、1ドルが200円くらいになり、1グアラニーが400グアラニーくらいになったので、円とグアラニーの価値が逆転し、円の価値は4倍である。1円が2グアラニーにもなってしまった。パラグアイのインフレも相当に激しかったが、行くたびに多少の余裕もでき、泊まるホテルも少し高級なパラナホテルとかグランチャコというホテルに、泊まれるようになった。

 

時差

 パラグアイと日本との時差は11月から2月までは13時間あり、夏時間の3月?10月は12時間である。最初に到着した時の午後2時は日本では午前1時である。だから、到着後数日間は午後になると眠くてしかたがない。

  たまたま午後に仕事がなかったとして、休めたとしても眠ってはいけない。でないとなかなか時差がとれないのだ。眠いのを我慢して起きていることが早く時差を解消する。時差ぼけの時の夜は本当に気持ち良く、ぐっすりと良く眠れる。時々知らないまま寝巻にも着変えないで、そのまま眠ってしまったこともあった。

  少なくとも1週間は時差が取れない。機内で寝ないで行ったり、寝て行ったり、時差が早く取れる方法をいろいろ試したが、私は機内でできるだけ寝ていくのが時差を早く解消する最も良い方法であると思う。

 

朝のジョッグ

 到着後すぐの頃は、時差で夜中に目が覚めてしまうから、明るくなるとすぐにカバジェ?ロ公園へジョッグをしに行った。ここで、草を観察したが、南半球ではあるが、日本にある草と似たものもあり、牧野の植物図鑑がロストバゲッジで失われたのは、返す返すも残念だった。

 

店屋

 日本だと土日はかせぎどきで、ほとんどの店屋が開いているが、アスンシオンでは土曜日は半分くらいの店しか開いていなかった。それもほとんどが午前中だけで、日曜日となると全てといっていいくらい店は閉まってしまう。土日は働かず休むのである。日本みたいにガツガツ働かない。

  人生に対する考え方が違うのだろう。おいしいものを食べ、ワインを飲み、ダンスをし、恋愛を楽しむのがパラグアイスタイルであろう。

 

パラグアイ川は巨大な川

 アルゼンチンのブエノスアイレスやウルグアイのモンテビデオを河口とする大河ラプラタ川の上流がパラグアイ川であり、アスンシオンはパラグアイ川の中流域にある。アスンシオンの対岸はアルゼンチンである。ここの川幅は1km くらいである。この上流が調査対象地域である。

 

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パラグアイ川。アスンシオン側から対岸のアルゼンチン方面を望む。

 

 アスンシオンの郊外で、パラグアイ川のほとりに多くの貧しい人達が住んでいた。そのあたりを見ていると、雨期になるとアスンシオンは晴れて良い天気なのであるが、徐々に川の水位が上がってくる。1日に10cm?20cmくらい上がる。1週間もする1m も水位が上がるので、家を川岸から高台に上げて避難している人達をよく見た。もっとも物も持っていないし家も掘立小屋なので、移動は簡単なのであった。彼らはこうして毎年雨期と乾期で家を移動させているのであろう。大河の水位の上がり方は非常にゆっくりとだが、確実に上がって来て、日本の川とは随分違うものだと驚いた。

 

ソモサ事件

 アスンシオンに到着する少し前の1980年9月17日にニカラグアのかつての独裁者、アナスタシオ・ソモサがアスンシオンの路上を車で走行中に、アルゼンチンのゲリラ組織、人民革命軍(ERP)にバズーカ砲で暗殺されるという事件が起こった。ソモサは暗殺を恐れて身辺を警戒し、防弾車に乗っていたということであるが、爆殺された。

 

 当時パラグアイの大統領は、ストロエスネルと言ってやはり独裁者であった。独裁者が独裁者を庇護していたのであるが、防護できなかった。

 聞くところによれば市内には見張りが沢山おり、それらは町の物売りや一般市民に混じった私服だとのことであった。そんなに見張りがいても街中で暗 殺されてしまったのだ。その通りを走っている時に、ここで殺されたのだと教えられたが、市内は平穏に見え、そのような恐ろしい事件が起きたことが遠いところの出来事のように感じた。

  いろいろ聞いているとパラグアイの治安も決して良いわけではなく、殺人事件は日常茶飯事のようであったし、日系人も様々な被害に会っていた。

 

スペイン語

 習ったスペイン語では「おはようございます」は、「ブエノス・ディアス」なのにアスンシオンでは「ブエン・ディア」と言っているようだ。自分の耳が悪いのかと思ったが、そんなことがないだろうと、聞けば、パラグアイでは複数形で言わず、単数形で言っているのだ。

 「ありがとう」の「グラシアス」も「グラシア」としか聞こえず、変だなと思った。店で買い物をした時も、200グアラニーが習った通りなら「ドス・シエントス」なのに「ドス・シエント」としか聞こえない。まだスペイン語が全くわからなかったので、方言のように地域によりなまりがあることもさっぱりわからなかったのだ。あまり「S」を発音しないのだと後になってわかった。

 

 最初に銀行に換金に行った時に、スペイン語はまだほとんど聞き取れなかったが、「エストイ・エノハード」といって、行員にいかにも怒ったようにまくし立てていたおばさんがいた。いつも辞書を持っていたので、その時エノハードを引くとエノハールというのが動詞の原形で、「怒る」と言う意味で、状況のとおり「私は怒っている」ということがわかってうれしかった。

 ただし、これを見ていて、パラグアイ人の方が日本人より大分気性が荒いのではないかと思った。

 

  最初はチンプンカンプンのスペイン語であったが、2ヵ月間パラグアイの森林局の技術者と共同作業をする中で、森林調査の時に彼らの言う言葉を書きとめ、簡単な森林調査用語集を作った。これを次の本格調査の時のメンバーに渡したら大いに役立ったと言ってくれた。ただこれにはかなりのグアラニー語も混ざっていた。

 

調査用の資機材

 調査用の資機材ではアスンシオンに到着した時には、既にランドローバー2台と、トヨタのハイエース1台、それにキャンピングカーを1台用意してくれていた。予備のタイヤや車がぬかるみにはまってしまった時の脱出用にウインチも用意してくれていた。

 ウインチを使うなどとはあまりうれしくないことだが、現場あるいは現場までの道路がぬかるむことが多く、ウインチをそれほどまでに使うとは思っていなかった。しかし、ぬかるみにはまってしまうことが多く、はまった車を引き揚げるのにウインチは大いに役立った。

 

 キャンピングカーには冷蔵庫やガスボンベなども付いていたが、冷蔵庫はすぐに故障してしまったし、大部隊での食糧保存用には小さすぎ、あまり役にはたたなかった。ガスも野外の料理では薪利用の方が圧倒的に便利であり、ほとんど必要はなかった。

  キャンピングカー自体は、団長、副団長の寝床や航空写真や資料の保管場所となり大いに役立った。

 

2月の駒ヶ岳

社窓


2月の駒ヶ岳

1月末の冷え込みと降雪により、雪が一機に増えたのが判ります。

 

つい先日お正月だと思っていたら、もう一月たってしまいました。

今年の2月のカレンダーは29日まであります。

つまり「閏年」。つまり一年366日。

特に変わりはないのですが、ちょっと得した気分になってはいかがでしょうか。

 

[南アルプス]

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【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.4

森林紀行

アスンシオンの印象(1)

こじんまりした町

1980年当時のアスンシオンはかなり小さな町だった。町自体はかなりの広がりがあるのだが、中心街は1km四方程度にかたまっていた。しかし、市内には路面電車も走っており、郊外には蒸気機関車も走っていた。燃料は木炭だった。ホテルでもっとも有名だったのは、グアラニーホテルで当時三角柱形のものが建っていた。

 

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1980年当時のアスンシオン中心街。

 

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アスンシオンの郊外を走る蒸気機関車

 

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蒸気機関車

 

JICA事務所

到着して最初の仕事はいつもJICA事務所への挨拶と打合せである。当時のJICA事務所の職員の方は、一緒に仕事をしていこうという姿勢で、ひと安心だった。我々の仕事を担当してくれた方は、アスンシオンで育った現地採用の方だったが、とても良く面倒を見て下さった。その上司で課長は、東京から派遣されていた方で、また、とても親切だった。担当の方は、パラグアイ側との会議や打ち合わせなどにも参加し、通訳がいないときは通訳もしてくれた。また、我々がパラグアイにいない時には、パラグアイ森林局とコンタクトを取り、連絡をくれ、我々の仕事を様々にバックアップしてくれた。

 

大使館

JICA事務所の挨拶のあとは、大使館への表敬訪問である。大使と担当の書記官が対応してくれる。その後、調査の度に大使館を訪れたが、大使が代わると大使館の雰囲気はかなり違うように感じた。

この時は、ロストバッゲージとなってしまい、私とHさんは背広がなく、私はネクタイをOさんから借りた。現地調査の合間には晩さん会などに招待してくれた。私は下っ端なので、やや緊張して大使のお話を聞き、あいづちをうちながら食事をして、話し相手はもっぱら団長であった。

 

パラグアイ森林局

当時パラグアイの森林局 (Servicio Forestal Nacional)は、農牧省(Ministerio de Agricultura y Ganadería)の外局であった。パラグアイ森林局の長官はカラブレッセ氏だった。日本の林野関系でパラグアイに関係していた方では、知らない方はいないほど有名だった。

というのは当時我々の調査が始まった時には、JICAは林業関係では南米で初めての技術協力プロジェクトを前年の1979年から開始し、日本から林野庁の職員の方を中心に何人かの専門家の方が長期に渡って(2年?4年くらい)派遣されていたからである。この技術協力プロジェクトはCEDEFO (Centro de Desarrollo Forestal : 林業開発センター)と呼ばれるセンターを作り、センターで苗木生産や植林、伐採、製材など林業全般に渡り技術移転などの協力をし始めたところだった。それで日本の林野庁もこのプロジェクトの成功を期待していたからであった。

そのセンターはパラグアイ南部のエンカルナシオンというやや大きな町に近い、ピラポという小さな町にあったのだが、アスンシオンの森林局にも事務室があり、その専門家の方達にも随分とお世話になった。

その中で、当時専門家でパラグアイに派遣されていたTさんには特にお世話になった。Tさんは豪快な方で、家族はアスンシオンに住んでいて、本人はほとんどピラポで仕事をしており、たまにアスンシオンに帰って来た。その時に、家でごちそうになったり、日系人がホテルとレストランを経営していた内山田という店でスキヤキなどを一緒に食べたりした。

 

カウンターパート

我々の技術移転の対象で、パラグアイの森林局の共同作業を行う技術者は、カウンターパートと呼ばれる。そのトップがカラブレッセ長官で、実質のチーフはウエスペという若い技術者であった。専任で参加したのは、ウエスペ、カブラル、エンシーソー、オルテガの4人であった。その他何人もの技術者が一時的に参加した。

ウエスペ、カブラル、エンシーソーの3人がIngeniero(インヘニエーロ:技術者という意味であるが、大卒技術者への敬称)であり、オルテガが林業専門学校卒でTécnico(技術者という意味であるが、専門学校卒者への敬称)であった。4人ともまだ独身であった。

ところで、インヘニエーロは一目おかれる存在であった。学歴差別というのか、実力よりも学歴が日本以上に重んじられていると強く感じた。

ウエスペ、カブラル、エンシーソーは当時26?27才くらいで私より少し若かったが、オルテガは私と同じくらいの年であった。オルテガは仕事もでき、人間も良くできていたように感じた。しかし、彼はインヘニエーロの3人の言うことを素直に聞き、自分の意見は前面に出さないように努力しているのが常々見えた。オルテガは、3回目の調査の後、スイスの女性と結婚し、ヨーロッパに行ってしまった。

彼らとはほぼ同年代だったので、すぐに打ち解けアミーゴとなった。しかし、ウエスペは少し気取っていて、彼らの中でも常に自分が一番上位であるかのようにふるまった。カブラルは一見、真面目に見え、実際真面目だったのであるが、年よりも落ち着いて見えた。エンシーソーはその逆で、陽気なやんちゃ坊主であった。カラブレッセ長官にも、もっとおとなっぽい態度で臨むようにと怒られたり、ウエスペやカブラルにも頼るような感じがあった。疲れてきたりすると、私にも良く弱音を吐いたが、人懐っこく正直でとても好感が持てた。

彼らと一緒に仕事をする中で、彼らがメモを取らないので、私はいつも彼らにメモを取るように口を酸っぱくして言っていたが、メモをとらないからだろうか、非常に記憶力が良いのに驚いた。皆、頭の中に入れてしまうのだろう。

ウエスペは調査終了後すぐに大学教授へと転身した。1987年にパラグアイに行った時は、皆、既に結婚していて、ウエスペ、カブラルが奥さん同伴で歓待してくれた。彼らは研修で日本にも来た。特にエンシーソーはその後、何回か日本にきて、最後にあったのは15年くらい前(2000年くらい)だった。その後、彼は森林局の長官になった。

 

 

 

 

1月の駒ヶ岳

社窓


1月の駒ヶ岳

新年明けましておめでとうございます。
皆様にとって佳き年となりますようお祈り申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。

新年明けましておめでとうございます。

皆様にとって佳き年となりますようお祈り申し上げます。

本年も宜しくお願いいたします。

 

今年は申年。

サルは、病や厄が「去る」ということから縁起の良いものとして奉られていたり、

元気がよく楽しく明るい象徴とされたりします。

今年がサルにあやかって、明るい一年となりますように。

 

さて、この冬は非常に穏やかな陽気が続いていて、

中央アルプスの積雪が例年に比べて非常に少ないことが写真からもわかります。

昨年の1月の社窓の写真と比べてみて下さい。

 

[南アルプス]

20160103minami_A.jpg

月と金星

ゼンシンの日々

 

月.jpg


あまりに小さい写真ですみません (–;

今朝 『月と星が綺麗だな・・・』と思って

何となくケータイで写真撮っておいたら

出勤途中にラジオパーソナリティーのお姉様が

『今朝の細い月と金星は綺麗でしたね』って

言ってて、【同じこと思った人いるんだ…】って

ちょっと嬉しかったです。

夜が少しずつ明けていく空の色も

とても綺麗でしたよ ♪

寒くなりますが星が綺麗に見える季節ですね。

※ ( カメラマンの腕次第 )


(^^)v

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