1月の駒ヶ岳
1月の駒ヶ岳
新年明けましておめでとうございます。
皆様にとって佳き年となりますようお祈り申し上げます。
本年も宜しくお願いいたします。
今年は申年。
サルは、病や厄が「去る」ということから縁起の良いものとして奉られていたり、
元気がよく楽しく明るい象徴とされたりします。
今年がサルにあやかって、明るい一年となりますように。
さて、この冬は非常に穏やかな陽気が続いていて、
中央アルプスの積雪が例年に比べて非常に少ないことが写真からもわかります。
昨年の1月の社窓の写真と比べてみて下さい。
[南アルプス]
月と金星
あまりに小さい写真ですみません (–;
今朝 『月と星が綺麗だな・・・』と思って
何となくケータイで写真撮っておいたら
出勤途中にラジオパーソナリティーのお姉様が
『今朝の細い月と金星は綺麗でしたね』って
言ってて、【同じこと思った人いるんだ…】って
ちょっと嬉しかったです。
夜が少しずつ明けていく空の色も
とても綺麗でしたよ ♪
寒くなりますが星が綺麗に見える季節ですね。
※ ( カメラマンの腕次第 )
(^^)v
12月の駒ヶ岳
【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.3
いざパラグアイへ
予約便が変更になったこと
最初にパラグアイに行ったのは1980年11月20日(木)のことであった。2度目の海外出張であり、初めての南米、私は20代最後の出張であった。
当初はJALで、成田からニューヨーク、リオデジャネイロ経由でアスンシオンへ行く予定であった。JALだと午前10時に成田を出て、ニューヨークには時差の関係でほとんど同じ時刻の同日午前10時15分着の予定で、ニューヨークからリオデジャネイロへの便は同日午後8時発なので、約10時間の時間がありニューヨークの町を見ることができると楽しみにしていた。
しかし、出発日11月20日にはJALがストを行うと発表され、急遽JALからパンナムに変更した。パンナムは午後7時発で、ニューヨークでは飛行機の乗り換えだけで、町を見る余裕はなくなってしまい、がっかりした。
メンバーは職場の4人でチームを組み、団長を始め皆、経験豊富な技術者であり、私が一番下っ端で小間使いであった。
機内
午後6時20分に飛行機に乗り込んだ。PA800 である。午後7時20分に成田を飛び立った。まずは、成田を無事出発でき、わくわくしていた。ニューヨーク、ケネディ空港には同日午後5時35分に到着した。実質約12時間乗っており、夜に乗り、日が明け、また日が沈んだところである。
機内はほとんどがアメリカ人で、もう乗り込んだ瞬間からアメリカの雰囲気である。しかし、もう一方の隣の席は、アルゼンチン人であった。ブエノスアイレスに帰るとのことで、この人は、英語はあまりうまくなかったが、スペイン語を教えてくれた。まったく何という良い言葉を教えてくれたものだろう。私がスペイン語を知らないものだから。「Quiero darle un beso (キスし(てあげ)たい)というスペイン語を覚えていたら良いよ。」と教えてくれた。さすがにアルゼンチン人である。
ビジネスクラスでありがたかったが、ニューヨークで降りる時に、機内の床には新聞その他のごみが散乱しており、アメリカ人はこんなにだらしがないのかと思ったものだった。
日本からニューヨークへ
ニューヨークでの早技
ニューヨークに着き、そのままトランジットであった。しかし、初めて降りるニューヨークの地、ここが本当にニューヨークなのか信じられない思いで興奮し、一人はしゃいでいた。到着後アメリカではトランジットでも入国しなければならず、税関での入国審査の後、荷物を受け取とった。しかし、トランジットの場合は、荷物を流す専用の場所があり、そこから荷物をベルトコンベアーに乗せても良いのである。我々は一人1個のスーツケースを持っており、チームで合計4個であった。この時は予備調査だったので、調査機材も個人のスーツケースに入るくらいの量だった。
4個のスーツケースを受け取り、トランジット専用の場所でスーツケースを「パラグアイのアスンシオンまで。」と言ってそこで働いていた黒人に渡した。この当時既に海外留学経験があったHさんがいかにも慣れた手つきで、彼にチップを1ドルやろうと思ってポケットから1ドルを取り出し渡そうとした時、もう1ドルがポケットから落ちてしまった。落ちてしまった1ドルはさっとその黒人に拾われ、渡した1ドルとともに黒人には2ドルが入った。「Thank you sir.」とチップの額はたいしたことがないもののその早技に感心した。
リオデジャネイロへ
午後8時半ニューヨークからリオデジャネイロに向けて、バリグ便で飛び立った。ここはエコノミークラスであったが、すいていたので、5席を横にして一人でゆっくりと眠ることができた。ところが大失敗。機内サービスでもらったチョコレートが座席に落ちたのに気がつかず、敷いて寝てしまった。寝ている間にチョコレートが溶けてジャンバーの背中にこびりついてしまった。夜中にトイレに行って気が付き、こびりついた部分だけ水洗いし、だいぶこすってチョコレートを落としたが、十分には取れなかった。翌朝7時20分にリオデジャネイロに着く。
ニューヨーク→リオデジャネイロ→サンパウロ→イグアス→アスンシオン
アスンシオンへ
リオデジャネイロからアスンシオンへは、サンパウロ、イグアス経由であった。リオデジャネイロは午前9時15分発なので、約2時間の待ち時間だ。実際に飛んだのは午前9時50分で、サンパウロに午前10時半に着き、サンパウロ発が午前11時半。午後12時45分にイグアス着。上空からイグアスの滝が良く見えた。午後1時10分イグアス発で、午後2時にアスンシオンに到着した。
日本を出発して約33時間、この間バリグの食事をたらふく食べたが、ゆっくりとは休めず、実に長い旅だと思った。リオデジャネイロに着いた時は、もうすぐだと思ったが、それからの4時間が本当に長かった。サンパウロやイグアスでの機内での待ち時間が特に長く感じた。
アスンシオン空港にての出迎え
空港ではパラグアイ森林局や日本の関係者の方が出迎えてくれた。
しかし、困ったことに4人ともスーツケースが着かなかった。ロストバッゲージである。しかし、聞くと良くあることで、明日は着くだろうとのことだった。仕方がないので、ロストバッゲージの手続きをしてホテルに向かい、翌日は着の身着のままであった。
ロストバッゲージ
困ったことにHさんとOさんの荷物には最近撮影した航空写真の一部が入っており、これが届かないと仕事に支障をきたすことになる。翌日同じ時間に空港に行ったところ団長とOさんの荷物が着き、私とHさんの荷物が着かない。仕方がない。それから毎日同じ時刻に空港に荷物を見に行ったがとうとう着かなかった。空港の荷物置き場も見せてもらったが、他の地域からアスンシオンに着いてしまったスーツケースが大量にあるのにびっくりした。これだけ多くの荷物が必要なところにつかないで迷子になっているとは、世界中で困っている人が沢山いるのだろう。行き先のタグが無くなっているのだ。結局帰国するまで2カ月間スーツケースは着かなく行方不明になってしまった。
2日目に着かなかった時に、すぐに下着やズボン、シャツなどの着物とその他の必要物はアスンシオンの町で買い、結局、何も持ってこなくても過ごせるということはわかった。ただし、愛着があるものがなくなってしまって、金では買えないと思ったものである。
特に残念だったのは、パラグアイの植物は基本的に日本とは違うものの、同じ様な形のものはあり、科名くらいはわかるのではないかと思い、使い込んだ学生版牧野植物図鑑を持って行ったのであるが、無くなってしまってがっかりした。
帰国後、新しいものを買ったが、版を重ねていたので、図がコピーのようでところどころとぎれとぎれになっており、使い物にならなかった。
しかし、当時はコンピュータ、プリンターも無いし、それらの充電機やコード、インクなど付属物も無いし、今よりはるかに荷物が少なく、仕事も紙と鉛筆があれば、なんとかできるという、よりシンプル世界だったから良かったのである。また、この時の仕事は予備調査であり、どのような方法で本格調査を行うかを検討するものであったので、航空写真はOさんのスーツケースに入っていたもので、まにあいことなきを得た。
補償
荷物がなくなったことでバリグ航空と交渉したが、荷物を預けたのがニューヨークで、責任はニューヨークまで乗ってきたパンナム航空にあると責任のがれで埒が明かない。しかし、粘り強く交渉し、最終的にバリグが補償することとなった。
さて、補償額はいくらかという時になった時に、荷物1個につき20Kgで、1Kgあたりいくらということで、中身の値段に比べて、ほんのわずかが補償されただけだった。
つづく
11月の駒ヶ岳
イーッ、てなる映画
こんにちは
私は映画を見るのが好きでよく見るのですが、その中からオススメのものを紹介したいと思います。
「パパラッチ」という映画なんですが、これが腹立つんですよ、すごく。
有名人を追いかけて勝手に写真を撮る、あのパパラッチについての映画です。
なんで腹立つ映画をわざわざ見るんだよ、と思うかもしれませんが、見るだけでムカツク映画なんてなかなか無いですよ。
最低の奴らが出てきます。
こんな感じの奴らが現実に存在するんだと考えると、また立腹することが出来ますよ。
感動でも悲しみでも怒りでもどんな感情でも動けば良い映画だと思います。
「ロンリーハート」、「ディセント」とかも良かったですね。
皆さんもなにかオススメがあったら教えて下さい。
ハブ
市内某公園にて
11月に入り徐々に寒くなってきました。
紅葉も進みあっと言う間に冬が来ます。
さて、市内の某公園にて写真を撮影していると・・・・
池に映る紅葉がきれいですね。
近くに行ってもう一枚・・・んっ?
んっ?んっ?
なにやら、白い花が?
サクラが咲いていました。
狂い咲きかな?
散歩をしていた近所の方に訪ねると、この公園のサクラは毎年、春と秋に咲くとのことでした。
ネットで検索してみたところ、「冬桜」という種類ではないかと思われます。
思いもよらぬところで、紅葉狩り&お花見が一度に出来てしまいました。
【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.2
出発準備
初めてのパラグアイ
パラグアイは、私が最初に行った南米の国である。海外出張ではインドネシアに次いで2番目の国である。最初に行ったのは1980年。現在2015年だから、今から35年前のことである。パラグアイでは2つの調査を行った。一つは今書いている北東部の森林資源調査であり、続けてカピバリという地区で、森林造成計画を作成する仕事を行った。
その後、1987年に南米全体の森林や林業の状況を調査に行った時に、パラグアイに滞在したので、パラグアイには3つの仕事を通じて8回ほど行っている。
北東部の調査の目的は、森林の資源量を調査し、森林開発計画のガイドラインを作成するというものであった。開発計画と言っても樹木を伐採し利用するための計画ではなく、持続的に木材を生産し、森林を保護するための森林管理計画の作成であった。いわば、林業サイドから見た地域開発計画の作成であり、どちらかといえば自然保護に重点を置いたものである。
出発前の準備
航空写真の判読
パラグアイ国の面積は約40万k?で日本よりやや大きい国である。国を南北に流れるパラグアイ川(ラプラタ川の上流)により国が東西に分けられる。国の半分以上を占める西側はチャコと呼ばれる乾燥地域で、当時はわずかに牧場がある程度でほとんど人は住んでいなかった。乾燥地であるのでタンニンを含む有用樹のケブラーチョなどが多く生育している。利用されている土地は東側のみと言ってよく、それは日本の約半分くらいの面積である。
パラグアイ地図
その東側でも北東部にある町ペドロ・フアン・カバジェーロを基地にしての調査だった。北東部は当時まだ原生林が残っていたが、すでに多くの森林で有用樹の伐採が行われている森林であった。最初の予備調査の前に撮影した航空写真を入手し、出発前に予備的に判読した。
判読というのは、室内で立体鏡というのを用いて航空写真を立体的に見て、森林を密度の濃い森林や薄い森林、樹高の高い森林や低い森林、それらを林相というのであるが、林相の基準を作って、各々の林相にグループ分けして行く作業である。
航空写真は、上空から東西方向に一定間隔で撮影したもので、隣り合った写真を2枚用いて、同じ個所を右側と左側から見て、それを重ねあわせると立体的に見えるのである。3次元の絵や柄合わせと、原理は同じである。これは言ってみればかなり専門的な作業であるが、上空の至近距離から森林を観察しているのと同様で、様々な発見ができ、興味津津、楽しみながらできた仕事であった。
今は、森林を見るのも航空写真からほとんど衛星情報に替わり、この専門的技術はすたれてしまった。この技術を身に付ければ現場では、2枚の航空写真を肉眼で立体視して、地形の変化も読めるし、大木を目印に自分がどこにいるかも容易につかめ、森林内にいても迷うことはなかったのである。今はGPSなど便利なものがあるからアナログ技術はすたれてしまった。
ただし、この調査でも当時自由につかえるようになったランドサットのデータを使って1981年3月と1983年3月の2年間の森林と土地利用の面積の変化を調べた。この時の結果では2年間で約5.3%の森林が減少していた。単純に推移すれば38年で森林が無くなってしまうのであるが、現実には森林の伐採が加速され、その倍くらいの早さで森林はなくなってしまったのだ。
濃い緑が森林。今ではほとんど森林が消滅
大森林内の不思議な道
さて、パラグアイ北東部の森林の航空写真を判読している時に、大森林地帯にかなりの密度で縦横に道路らしきものが判読できるのだった。しかし、密林であり、はっきりと連続しておらず、道路らしきものも木や草に覆われており、土は反射しないため白く光って見えず、一体何だろうかと不思議に思った。
パラグアイにはグアラニー族が多いと聞くし、もしかしたら先住民インディオの通り道かとも思った。しかし、通り道であればこんなに多くあるはずはないし、しかもはっきりとは判読できないだろうと思ったりもした。では、何であろうか?確かに何かが通った跡である。
実際に現地に入ってみて、その跡が何であるかすぐに分かったが、がっかりすることはなはだしかった。それは木材を伐採し、搬出する道路の跡だったのである。現地に入る前は伐採道など入っていない原生林と思っていたからよけいにがっかりした。おそらく人は、森林資源は無限にあるものと錯覚していたのだろう。無限にあると思われていた天然の森林も縦横無尽に道路を入れられて伐採されれば、あっというまに消失してしまうのである。
天然林の優良木の消失の道は、ヨーロッパも日本もたどった道で、パラグアイは遅れてきただけのことであるが、それにしてももったいないことをしたものである。
つづく
ミカン狩り
気持ちよい秋晴れが続いていますね。
庭の鉢植えミカンがだいぶ色付いてきました。
そろそろ収穫してもいい頃と思われます ♪
それにしてもちょっと実らせ過ぎですよね。
可哀想に重みで木も斜めになっています (–;)
週末自宅でミカン狩り ・・・ かな !?