【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.4
悩まされ続ける土地問題
勧業銀行の抵当物件だった土地
前回述べたように、計画を作成する土地は、勧業銀行の抵当物件であったため、所有者は私有地から国立の勧業銀行に変わった。つまり、国有地となったため、その一部の2万7千haが森林局に払い下げられることになったのである。
パラグアイ森林局は、それまで大規模に植林を行った経験がなかったため、我々が造林計画作りのために派遣されたのである。
最終的な結果
途中、計画地の大部分を軍が住民に分譲してしまい、土地をかすめ取られてしまった。最終的に作成した造林計画は、約1万1千haの土地の中の6,600haとなった。日本ではこれほど大面積の造林計画はないだろうが、平地なのでできるのである。かなり緻密なものができ、この計画は今でもモデルとして使えるほど良い計画だと思っている。植林方法や保育方法などを計画した事業計画とその事業計画を実行するのに必要な資金の調達や返済などの計画した資金計画も作成したが、残念ながらどこも融資してくれるところはなかった。これは南米全体が超インフレに進んだという当時の社会背景が影響し、融資しても返済の可能性が少ないと見られたためである。計画では利益がもたらされるように様々に工夫したのであるが。
しかし、我々の作成した計画書に基づき、その後日本が援助し、植林を行った。ただし、全面積までの植林までには至らなかった。
森林が焼かれ農地に転換されていく
既に作成されていたFAOの報告書
調査を取り巻く状況は、あいまいなもので、まず状況を正確に把握する必要があった。まず、我々が計画を作る前にFAO(Food and Agriculture Organization of the United Nations 国連食糧農業機関)で既に同じような計画を作成していたのだが、何故その計画が実行されなかったのか私には疑問だった。いろいろ調べて行くとその計画は基礎資料として作成されたが、融資申請用の書類とまでには至らなかったとのことだった。
この計画を私は精査したが、造林計画実行に必要な施設や資金計画などは良くできており、具体的な植林箇所の指定などの技術的根拠や融資の返済計画などが少し説明不足かなと思える程度で良くまとまっていた。
FAOの報告書が利用されなかった経緯
何故これに基づきどこかの金融機関に申請しなかったかを森林局の長官に聞いてみた。すると、これに基づき、BID(Banco Interamericano del Desarrollo 米州開発銀行)に申請するつもりで、打診したところ、その段階で断れたとのことだった。当時BIDには、50年間無利息の融資枠があり、それを借りることを目的にFAOで計画を作ってもらったとのことであった。しかし、打診した時にBIDには、既に無利子で融資する原資がなく、その条件にあわなくなったとのことである。その後、BIDでは利子2.5%の融資枠も作ったが、それも利用できなくなっていたとのことである。南米全体で既に社会状況が変わり、インフレも激しく7.5%の利子でないと貸せない状況になっているとのことであった。2.5%でも返せないのに、7.5%で返すことは、到底不可能なので、申請は取りやめ、日本に再度計画作りを頼むことにしたとのことであった。造林の実行には初期投資が必要で、最も良い技術を用いたとすれば、生産材から利益を得て、何%の利子までなら返済が可能なのか、借りる先はBIDでも日本でもどこでも構わないから、もう一度最良の計画案を作ってもらいたいとのことだった。
何ともおかしな話
それにしても昔のBIDには50年間無利息で貸してくれるという信じられない有利な条件の融資があったものである。しかし、そもそもFAOで作った案でBIDでの融資が受けられないのだから、計画を作り直してBIDに申請してもそれが通るのは難しいと思われた。おかしな話と思った。
日本が融資するなら、儲けとかは考えないで、赤字覚悟で政策的に援助を行うなどとしなければ融資は、無理な話であると思ったものである。FAOも相当な資金を拠出して造林計画の報告書を作成したのだろう。それが使われなかったのは計画作成費が無駄になったということである。
パラグアイの森林局あるいは政府全体が、計画作成の前段階からBIDと交渉し、融資枠を獲得しておかなければならなかったであろう。常識的に行っておくべきことを怠っていたことに大きな問題があったのだろうと私は思った。そして、この怠慢が我々の計画作りにも大きな悪影響を及ぼすとは最初の段階では思いも及ばなかった。
計画作成過程の効果
尤も我々の作った計画も結果的には一部しか使われなかったことからFAOの場合と同じく、計画作成費の一部は無駄になったようにも思える。しかし、発展途上国では往々にしてあることで、計画通りにものごとは進まないことが多い。
とはいえ、日本人が協力し、ものごとを誠実に実行したり、不正なことは一切行わないといった我々の態度やモデルとしても使える造林計画ができたことは、少なからずパラグアイの森林局の職員にも好影響を与えたであろうから、協力自体は決して無駄とはいえず、相当な効果を上げたと思う。
いつまでたっても移管されない土地
さて、何度も取り上げているように調査をする上で我々にとっての大きな問題は、勧銀から森林局への土地移管が調査開始時点でなされていなかったことである。その時は勧銀の土地であったが、森林局のものとして登記されていなければ、軍がからんでいるので軍の土地となってしまうかもしれなかった。また、勝手に入ってくる入植者も多く、一旦入植してしまえば、排除するのも難しく、土地登記が急がれているのであった。
言ってみれば調査以前に決まってなければならない最も肝心なことが決まっていなかったのである。発展途上国ではありがちなことである。しかし、後の経過を考えると森林局の土地として登記されたとしても同じ様な経過をたどっていただろう。
なにしろ、森林局の土地となる予定の土地の境界は暫定的なもので、正確なものではないから、測量をして境界を確定してもらいたいという要請も含まれていた。日本でも山の境界はあいまいなものであるし、昔は見取り図だったので、そんなものだろうと思っていた。
土地登記も進まない
パラグアイに到着後、土地はまだ登記されておらず、相変わらずその手続き中とのことであった。森林局の担当者や森林局の長官には我々はいつも「土地登記を早くしてくれ、そうでないと計画地域が定まらない。」とプッシュするが答えはいつも同じで「それはすぐに終わるはずだ。」とのことで一向に終わらないのだった。
森林局の上部組織の農牧省の企画庁にも直接何回もプッシュするが進まなかった。最終的には、土地移管の話はついたが、1年半後の調査終了時にも、正式に森林局の土地に登記されたという話しにはならなかった。
大前提が崩れ、立て直すために苦労する
このように肝心なことがあいまいなままに仕事が始まるから、実際に現場の最前線で仕事をする我々のような調査チームは苦労させられるのである。仕事を始めるということは、当然、大前提が決まっていて始めるものであるが、大前提は崩れるのが当然であるかのごとく、発展途上国では崩れるのである。だから、「法律は破られるために存在する。」などという言葉がことわざのごとく言われるのである。
そして本来構築されているべき、その大前提を我々調査チームが新たに構築しなければならず、本来の仕事を行う前に、多大なエネルギーを注ぎ込まなければならないのであった。森林局のものになっていなければならなかった土地が、まだ宙ぶらりんで、いずれは森林局のものになるはずだということで、調査は見切り発車がされていたのだった。
かすめ取られていく土地
この土地問題がすぐにかたづかなかったのは、軍が絡んでいたからだった。この土地が払い下げられるのが軍と森林局であったことで、パラグアイでは軍の力が圧倒的に強く、農牧省も軍には強く口出しできなかったからである。そして多くの土地が軍にかすめ取られて行ったのである。
土地に関するもう一つのあいまいさ
また、勧銀から払い下げられる土地についてその土地代金を森林局が勧銀に支払うものなのか、勧銀から森林局にただで払い下げられるのかもはっきりしていなかった。これがはっきりしないと資金計画が成り立たないのだ。
現状は良木が抜き伐られた跡の天然林であるが、残った天然林の販売可能な樹木を製材用に売り、残りの小径木やかん木を薪炭材用に売り、その儲けを造林費用の足しにし、その伐採跡地に植林する計画であった。
そのため、前述したように、この調査で土地と立木の評価をしてもらいたいというのが森林局の希望だった。いずれにしても土地代金を勧銀に支払うにしても支払わないにしても土地と立木の金額を出すことにした。勧銀に土地代金を支払う場合は、立木の販売収入で支払った後にその金額が余れば、その金額を事業費の足しにする。また、土地代金を支払わない場合には、立木の販売収入全部を事業費の足しにする。ということで、計画作りに進んでいった。
つづく
1月の駒ケ岳
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.3
調査の背景など
農牧大臣を表敬
翌1983年10月10日(月)には、農牧大臣を表敬訪問した。日本で大臣に会えることはめったにないし、パラグアイとはいえ大臣とはめったに会えないので、どのような感じであるか興味はあった。会ってみるとかっぷくが良く、落ち着いており、見た目は非常に貫禄がある。中身は汚職にまみれているのであろうが、そんなことはみじんも感じさせない。
当時パラグアイの南東部にある巨大なイタイプのダムがあるヤシレタ地域で、日本は農村地域の開発計画作成のための調査も行っており、我々のカピバリの調査は、それと並ぶ大きなプロジェクトと考えているとのことで、期待を示された。あたりさわりのない表面的、形式的な挨拶であった。
調査対象地の位置
調査対象地はパラグアイの首都アスンシオンから東の町コロネル・オビエド(Colonel Oviedo)に向かい、そこから国道を北に向かってブトゥ(Mbutuy)まで行く。ブトゥから北東のブラジル国境の町サントス・デル・グァイラ(Santos del Guaira)方面に向かって約20km程行った所である。アスンシオンから約225kmの距離である。
パラグアイ東部の地図と対象地域
パラグアイ自体が全体的に平坦で車は走り易かった。当時舗装されている道路も道路網も十分ではなく、道路状況は決して良いものとは言えなかったが、ブトゥまでは舗装されていた。また、ブトゥには調査基地とした小じんまりしたペンション(ホテル)もあり、北東部調査の時のようにキャンプをしながら調査をするということはなかった。一カ所に落ち着いていられ、仕事上の困難さはつきまとったが、肉体的にも精神的にも比較的落ち着いていることができた。
調査が始まった経緯
前述したように調査を行う予定であったカピバリの土地の面積は、当初2万7千haであった。ここは、もともとは、大森林であり、グアラニー族のインディオが住んでいたのだろうが、所有者がいない土地は政府のものであることからしてパラグアイ政府のものとなっていた。それが、F社という製材会社に買われ、F社の所有となった。
F社の倒産
F社はこの地域の優良の良木のみを伐採し、製材をしていた。その事業を行うに際してパラグアイの国立勧業銀行から融資を受けていた。融資を受ける際、この土地を担保とした。しかし、優良木を伐採してしまうと、まだまだ木材としては使える良木が沢山残っているのであるが、倒産してしまった。
思うにこの倒産は計画倒産に違いない。儲からなくなったから夜逃げ同然のように逃げたのだろう。F社が銀行からいくら融資を受けていたかはパラグアイ側の事情でありわからないが、土地購入代金や施設・設備費以上の多額の融資を受けていただろう。調査地域内の製材所にはまだまだ使える直径1.8mのバンドソー(帯鋸)が2台、1.2mのバンドソーが5台、丸鋸が多数、その他送材台、フォークリフトやボイラー室も残されていた。もったいないことである。持ち去った機材類も多数あっただろう。
また、返済状況もわからないが、返済猶予期間(資金を借りて何年か経過した後に返済を開始する、返済を待ってもらう期間)があったとのことから、全く返済していなかっただろうと推測された。優良木を伐採し販売した代金は、丸儲けであっただろう。優良木以外は残し、F社にしてみれば、用済みのカスの森林を残してトンズラしたのだろう。
勧銀にしてみれば、だまされたようなものだが、誰かが一枚噛んでいたのだろう。このような不正が当時数多くパラグアイには横行していたと思われ、そのために大森林は消滅してしまったのである。
F社の関係者にしてみれば、日本の技術協力チームもカスの森林を何とかするように計画作りを頼まれて、憐れなものだと思っていたことだろう。
それでも残っていた森林の見た目は立派で、相当量の大木が残っていた。私はこの時、土地立木評価を行うため、森林調査を行い、その結果から優良木以外でもかなりの量があり、相当な額に相当することが分かった。優良木があった原生林状態のときは、大変な価値があったと推定された。それが数年間の間に伐採されてしまったのである。
伐採されて牧場や農地に転換されていく森林
つづく
吉祥
あけましておめでとうございます。
ずいぶん長いこと「ぜんしんの日々」が止まっております。
新年ですので、新たな気持ちで再スタートいたしましょう。
私自身も幸先のよいスタート!と嬉しく思ったことがあったので、ちょこっと自慢です(–; スミマセン
元旦の初詣で引いたおみくじが「大吉」でした
そして昨日、某スーパーでのお楽しみ抽選会で 「一等」 商品券¥5000 ゲットしました
しかも1回のみの抽選で ! もうルンルンです ♪♪♪
【笑門来福】 笑顔で過ごせる一年でありますように (^^)v
12月の駒ケ岳
平成28年度長野県優良技術者表彰
このたび、平成28年度長野県優良技術者表彰において、弊社より2名が表彰を受けました。
関係者の皆様方には、この場をお借りして御礼申し上げます。
今後とも、さらなる技術の向上に努めてまいります。
受賞者 清水 郁
業務名 平成27年度 高遠ダム堆砂測量業務
受賞者 代田 竜介
業務名 平成26年度 社会資本整備総合交付金(広域連合)事業に伴う物件調査業務委託
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.2
最初の会議
第1回目の調査
日本を出発
1983年10月7日(金)に最初のカピバリ地区の調査のため日本を出発した。パラグアイまでは、すでに北東部の調査で何回か通った道である。
メンバーは、6名、団長は当時学会でも有名な方だった。四谷から京成上野に行き、2時のスカイライナーで成田へ向かった。この時、何故か成田空港での警戒が厳しく、多数の機動隊員が立ち並び、パスポート検査が入念だった。
書類や森林調査道具、それに個人の荷物を先に成田空港に送ってあり、全員で10数個もあり、かなりの個数であった。午後4時に荷物を受け取り、午後5時に手続きを済ませ、税関を通る。出発まで、今はなくなったバリグ航空の待合室で過ごし、午後6時半のRG833にてロスアンゼルスに向けて飛び立った。
機内にはこれから始めてパラグアイに向かう青年海外協力隊の隊員も数名乗っており、話をするとこれから海外での仕事に臨む意気込みや気負いといった若々しさを感じた。ロスアンゼルスまでに食事が2回。到着したロスアンゼルスでは時差で眠い。アメリカではトランジットでも入国しなければならない。荷物が多いのでその出し入れに、いつも一苦労させられた。入国数時間の後、ロスアンゼルスからペルーのリマに向かった。ロスアンゼルスからリマの間にも2回の食事がでた。
アスンシオンへ
リマに到着したのは夜中であった。リマの空港で数時間の待機の後、リオデジャネイロに向けて飛び立った。リオデジャネイロには翌日10月8日(土)の午前7時半に到着した。飛行機は1時間半遅れた。やれやれパラグアイに近いところまでようやく着いたかと思ったが、ここからが大変だった。通常リオデジャネイロからアスンシオンまでは約3時間であるが、この時は10時間以上もかかった。
乗り継ぎ便はRG900でリオデジャネイロ11時発であったので3時間以上の待ち時間があった。多少遅れたが乗り継ぎ便との間に余裕を持たせておいて良かった。安心していられる。待ち時間の間に朝食のサービスがあり、朝食券をくれた。空港の上階のレストランに行き、朝食を食べた。リオデジャネイロの空港はきれいで、出発便の案内がポルトガル語ではあるが、女性の声でとてもゆっくりと丁寧に言っているように聞こえた。
11時に予定の便のRG900に乗り込んだが、機体のテクニカルプロブレムということで、一旦降りるようにとのアナウンスがあった。飛行機の整備は大丈夫なのかなと心配になる。そしてもう一度食事券をくれたので、その間にまた食事をする。バリグ航空の脂っこい食事を連続6回と食べ、さすがに食べ飽きた。
約8時間と大分長く待たされたが、午後3時過ぎにようやく出発することができ、サンパウロ、イグアスに降りた後に、アスンシオンには午後6時に着いた。やれやれであった。日本から約40時間、機内で仮眠を取っただけだった。
イグアスの滝を訪れたときの写真。
予定より相当遅れて夕方になったが、アスンシオンに到着し、空港では関係者と森林局の長官とその息子さんまでが出迎えてくれた。
空港から市内までは車で約30分。ホテルはパラナホテルであった。円高とグアラニー安で我々もプラサホテルから少し格上のパラナホテルに泊まれるようになった。特に高級なホテルというわけではないが、清潔で一人でいるには十分な広さがあり、日本のビジネスホテルとは比べものにならないくらい居心地は良かった。
今回の通訳を頼んでいる方もホテルで待っていてくれた。眠いのを我慢して早速仕事の打合せである。
その晩は、内山田へ食事に行った。内山田は日系人の経営しているホテル兼レストランで、すきやきが専門だ。機内で一緒だった協力隊員も来ており、ここで、全く時間が経っていないのに再開を喜んだ。
最初の会議
パラグアイ側の大きな希望
到着翌日1983年10月9日は日曜日であったが、午前中パラナホテルの会議室を借りて、最初の会議を開いた。パラグアイ側の森林局から長官始め数人の担当官が出席した。
誰でも希望は大きく持つ。特に南米人は大風呂敷を広げたがるからであろうか。長官は、大きな構想を語った。今回の造林予定地の土地2万7千haが森林局の土地となる予定で、そこに植林をしたい。パラグアイ側の希望としては、マツ類を約1万ha、郷土樹種を約3千ha、残りは天然林として保護したいということだった。
パラグアイでは林産物は畜産物に次いで重要な外貨獲得の収入源となっていた。当時パラグアイの人口は約300万人(現在は倍の約620万人:2010)、牛は人口以上に多いと言われていた。広大な森林が牧場に転換されていった最盛期である。
林産物は、もちろん天然林からの抜き伐りだけで、持続的生産など考えないで、あるだけ伐って儲けてしまおうという無計画なものであったから森林資源は急速に減少・劣化しているのであった。
造林予定地ガピバリの森林。当時既に良木は伐採され、
その後残った劣化した森林。道路沿いは農民の入植が見られた
植林に関しては、それまで個人か民間会社で数haから数10ha程度の植林を行ったことがある程度で、国営の大規模植林などなかったのにもかかわらず、国直営での大規模造林を望んだ。また、植林木を使って、パルプ工場などを設立し紙を輸出し、林産業を振興させ、技術普及に役立てたいなどとバラ色の構想を語った。
本当にそのようになれば良かったが、やはり土地の管理ができなかったということから、そうは問屋が卸さなかったのだ。
つづく
【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.1
土地問題の難しさ
森の中での調査を始めて約3週間が過ぎようとしていた1983年11月3日(木)のことだった。どこからともなく現れたここカピバリの農民達に囲まれた。
「お前ら何をしているのだ。ここは俺達の土地だ。黙って入って来て何をしているのだ。早く出て行け。」
「おい、カブラル。やばいな。彼ら険悪な雰囲気だぞ。ここはお前の出番だ。うまく説得してくれ。」と私がパラグアイ森林局の共同作業者のカブラルに言うと、
「まあまあ、皆さん、落ち着いて。我々は森林局の技術者です。」とカブラルは農民達を説得し始めた。
「森林局の者がここに何しに来た。」
「ここは国有地になる予定の土地で、ここで植林をすることになっています。そのため国有地の確定のための測量をしています。」
「でたらめを言うんじゃあない。ここは俺達の土地だ。かってに入るな。もう俺達は住み着いているんだ。」
「カブラル、待て、待て。彼らに直接説明しても分からないぞ。今は刺激することは避けて、遠まわしに説明しろ。」と私が言うとカブラルは、
「まあまあ、皆さん、落ち着いて。落ち着いて。ここは国有地ですよ、国有地。皆さんの土地ではありません。」と相変わらず直接的に説明する。
「そんなことはねえだろう。ここには所有者はいねって聞いたんだ。」
「いいえ、ここは昔製材会社の土地でしたが、今は、銀行の土地となったのです。その後政府の土地になる予定で、ここに植林する予定です。」
「待て、待て、カブラル。彼らに土地の状況を正確に説明したって、理解されないぞ。ほら、彼らは益々怒っているぞ。」と再度私が言うと農民は
「いいか。お前ら。そんな小難しいことは、俺たちゃあ、知ったことはねえ。何しろ俺たちゃあ全財産売っぱらって、遠くから一家そろって移り住んできたんだ。それに見ろ。畑には植えたんだよ。マンディオカを(サツマイモのような根茎があり食用にする)。森を開墾して畑にしたんだよ。耕し始めたんだよ。ここは俺達の土地だ。今さら出て行くところはねえ。」
我々を取り囲んだのは、この周辺に移り住んできた農民10数名である。彼らの数人はライフルを持っている。その他はマチェーテ(南米の蛮刀の様なナタ)を持っている。雰囲気からすると、どちらかといえば人の良いおじさん達が、単に我々を脅して追い返そうとしているだけで、発砲などはしそうもなかった。
南米の地図
我々は日本人の調査団員数名に共同作業者のパラグアイの森林局の技術者数名、それに作業員などと人数は彼らと同じくらいだった。しばらく、彼らが暴力を働かないように、なだめるようにおとなしく話し込んでいたが、らちが明かなかった。
この時に農民達をなだめたのは、我々日本側調査団の責任者だったSさんだった。南米は初めてであったが、東南アジアでの仕事のキャリアが長く、現場の住民相手に鍛えた手八丁口八丁で一旦は農民達の矛を納めさせた。
結局、我々は当面皆さんの生活に迷惑はかけないように測量などの仕事を進める。ただ、森林局の幹部が、皆さんに説明するためここへ来て話すことになるだろう。また、周辺に軍隊の土地となるところもあるので、それらが今後どう関わってくるかはわからない。とそこでの結着は先延ばしにし、調査を進めることで、その場での住民達の了解を得た。
ここは、パラグアイのサン・ペドロ県のカピバリ(Capibary、先住民の言語グアラニー語ではカピバルゥーと発音するが、ここでは日本語表記に従いカピバリと書く)という地区で、我々は造林計画を作成するための調査を始めたのである。しかし、土地所有のあいまいさにより、最終的に我々は、当初の予定の土地の半分以上もの多くを手放さざるを得なくなったのだ。
なかなか厄介な仕事ではあったが、そのような経緯も含めて、前回のパラグアイの北東部の紀行文につづき、今回はカピパリでの造林計画調査について記したい。
パラグアイの地図
11月の駒ケ岳
【森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.18
パラグアイ北東部の調査のまとめ
超大規模森林破壊
パラグアイ北東部で起こった、この信じられないくらい大規模な森林破壊は何だったのだろうか?ブラジルではもっと巨大な面積の森林破壊が起こり、それがパラグアイに波及し、パラグアイの森林も破壊されてしまったのだが、これを現実のものとして信じられる人がどれほどいるだろうか?この森林破壊面積はブラジルでは日本の国土面積の何倍もあり、パラグアイでも北海道や九州に匹敵するくらいの面積があった。この影響が化石燃料の使用とともに地球温暖化に影響を与えていることは間違いないと考えるのが普通の考えであろう。
例えば、日本で生態系を区切って考えてみると小規模なものでは、家の近くの池の周り、あるいは神社など、もう少し大きくなると森林に囲まれた公園、近くの山林、さらに大きくなって国定公園や国立公園規模の様々な生態系が考えられる。せいぜい1ha程度のものから数万ha程度のものではあるが、たとえ小規模なものでも破壊されれば日本では大問題となるが、パラグアイではこれらとは比較にならないほど大規模な面積を持ち、そしてその連続性からみて一つの生態系と考えてもよいような森林が、さほど大きな問題ともならずに、破壊されてしまったのである。
ここに住んでいたありとあらゆる生き物が絶滅させられるという方向で影響を受けただろう。もちろんここに住んでいた先住民も影響を受けた。
元々の森林(再掲)
有用樹が伐採された後、牧場や農地に転換するため焼かれた森林(再掲)
森林から牧場に転換された土地
それが地球温暖化、それによる台風の大型化増加、竜巻の増加、局地的豪雨という形で、全人類へしっぺ返しが起きているのだろうと推測されるが、もっと恐ろしいしっぺ返しが起きるのではないだろうか。経済至上主義がある限り、自然を守るのは難しいのだろうか。
あるいは近く発効されるパリ協定(2016.11)などが効力を発揮して温暖化防止を良い方向へ戻せるのか。日本では、1997年に京都議定書が採択され、日本は第一約束期間の2008年から2012年に1990年比6%削減を実現させたと言われているのに、第2約束期間の2013年?2020年には京都議定書に参加せず、パリ協定も日本は、未だに(2016.10時点)未締結のまま発効される状態にある。日本は何をしているのだろうとビックリするくらい二酸化炭素排出問題からは後退している。
さて、我々が最終的に作成した森林管理のガイドラインには、土地利用区分、森林施業区分、適正な伐採量、植林方法など多様で非常に基本的な森林管理方法を具体的に示したが、残念ながら、それが水の泡に帰してしまったとも言える。しかし、考え方はパラグアイ政府側には残ったわけだから、今でもこの考え方は十分に通じると思うので、どこかで応用してもらえないかと思うのが、まだ私が持っているかすかな望みである。
森林破壊の原因を考える
このような森林破壊が起こった原因としては次のようなことが考えられる。
1.ブラジル側で木材需要が高まった
2.森林の所有が私有であった
3.ブラジルの製材業者などが木材を求めてパラグアイの森林を購入していた
4.ブラジル系の資本を持つ者が、土地所有、牧場経営を目的としてパラグアイの土地を購入していた
5.パラグアイでは外国人の土地売買も自由であった
6.パラグアイ政府として森林を保全するという意識が低く、対策を取るのが遅すぎた
7.政治体制も独裁で、軍や役所の力が強く、腐敗も激しかった
8.土地が平らなため伐採搬出が容易だった
つまりは、経済的な利益追求の前には自然資源は犠牲になるということである。木材需要が高まるまでは、森林にはアクセスが不可能で、関心がなかったのであろう。それが徐々に材質の良い樹木ならば高価に販売できることがわかり、アクセス道路を作り、木材伐採・搬出が盛んになったのである。土地も平坦であるので、きちんとした道路を造らなくとも伐採しながらトラックで森林に入り込むことが可能であった。そして有用樹を伐った後は、森林としてそのまま置いて置くよりは、牧場として食肉を生産した方が儲かるとわかったので、次はかなりの有用樹が残っていても燃やして牧場へ転換していったのである。
このような大木を積んだトラックが引っ切り無しに国道を走っていた。
土調査所有の歴史
パラグアイの土地所有の歴史をみると、スペインの植民地時代には中小農牧所有者層が多く、大土地所有制は未発達だったので、未開の森林は国有だった。その後1870年にパラグアイが三国(ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの同盟軍)戦争に敗れると、戦争賠償金が要求され、それを工面するため国有林や国有地がブラジル、アルゼンチン、イギリス等の企業に売却された。この時点まではパラグアイの土地は、98%が国有だったとのことである。
その後1950年代以降、地域の安全保障の観点からパラグアイへのブラジル人の入植が促進され、1970年代の後半にピークに達したとのことである。我々が調査を開始したころは多くのブラジルの企業が森林を購入しており、多数の零細農民が入植していた時期である。この当時パラグアイのIBR(土地改革院)はパラグアイ人のみでなく、ブラジル人にも公用地を農地として分譲していたのである。
調査地域の土地所有
調査地域の当時の国有林は、自然保護区に設定されていたセロコラ国立公園の5,300haのみであった。また、先住民インディオの保護地区が、アマンバイ県に26カ所32,000haあった。その他の土地は全て私有地であった。
元々この地域の広大な森林の所有者は二人しかいないと言われていたので、三国戦争後、国有地を購入したのがその二人だったのであろう。その後分割が進み多くの所有者に販売されたのである。しかし、その記録は2004年まで公表されなかったとのことである。それはストロエスネル大統領だったときの独裁体制の影響からである。その後IBRは、2003年にINDERT(農村土地開発院)に変更され民主化された。それにより1950年以降の土地売買の履歴の情報は公開されたとのことから、これらは今後解明されると思われる。
影響
もちろん貴重な森林が消失し、学術的価値も高かったペローバの純林も失われたということは大きな損失である。牧場で裸地となった土地の疲弊も大きかったし、そこに住む住民も大きな被害を蒙った。
零細農民の哀れ
前に書いたが零細農民は富裕層が所有している森林に、所有者がいないとのうわさが流れると我先に入植するのである。そして彼らが森林に火をつけ焼き、また焼いた木を切り倒し、農業ができる耕地に転換する。そして一時期を過ぎると地主が現れ、貧しい農民は脅かされ、追い出されるのであう。そして富裕者はただで森林から耕地に転換でき、貧しい人達はいつまでも貧しいのである。
保護地に追い込まれる先住民
パラグアイには先住民のグァラニー族が多い。最近のDNA鑑定によれば、遺伝的には日本人には中国人や韓国人よりも近いとのことだ。そうした意味で私はグララニー族に親しみを持つが、彼らも森林内に自由に住めず、保護地にしか住めなくなっていった。
森に住んでいた先住民(再掲)
当時書いた危機的な状況
1980年代初頭、調査中に書いていた文書により、その危機的状況が良く分かるのでここに載せる。
「パラグアイ国のアマンバイ県を中心とする北東部の森林資源は計量的に把握されておらず、確たる方針のないまま伐採が行われている。かつて、森林は、木材利用のための道路がなく開発がなされず、むしろ農耕地開発の障害とみなされる場合が多かった。しかし、1970年代より近隣諸国の木材需要の高まりから急速に森林開発が進み、森林に関する計画も確立されないまま乱伐や農牧地への転用が激しく行われだした。資源実態が不明のまま無計画な森林の伐採や農耕地開発が行われるならば、国の長期展望における森林資源維持の危機を招くのみならず、土壌保全及び地域の自然環境保全等にも悪影響を及ぼすことは必至である。
さて、この北東部の森林資源の特徴はペローバの蓄積がすぐれて高いことである。森林の伐採はこのペローバを主体として行われており、それは、きわめて急速かつ広範な地域にわたっている。これは、特にブラジルにおいてペローバが市場価値を確立し、需要が急速に高まったためである。伐採のテンポについて、パラグアイ林野庁は、1980年代になってからの伐採は、鈍ってきており、1970年代のような急激な伐採は緩和していると見ている。
しかし、北東部に限っていえば、伐採のテンポが緩和したというより、むしろ伐採現場がより広範化し、より奥地へ進展していると見るべきであろう。それはブラジル側に通じる最大の流通基地であるペドロ・ファン・カバジェーロ市へ通じる国道5号線における木材搬出トラックの通行量の減少に基づいているようであるが、ペドロ・ファン・カバジェーロ市の製材工場群も、周辺森林の伐採が進んだため約70km南部の町カピタン・バードへ移りつつあり、製材所所有者でもペドロ・ファン・カバジェーロ市の周辺ではもう数年で利用木が、枯渇すると見ているものが多い。いずれにせよ、このままでは、すべての利用木が伐りつくされるまで森林の伐採が進む危険がある。
また、こうした急速な伐採をもたらした理由のひとつに、セロ・コラ国立自然公園を除いて、すべてが私有地であることがあげられる。パラグアイ国ではブラジル国に比べて地価が低く、また外国人による土地所有売買等が自由であり、更に、この地域はブラジルと国境を接していることもあって、ブラジル国籍を有する者のほか、ブラジル系の資本を背景とする者が、土地所有、牧場経営を目的として激しく侵入している。それらの当面の意向は、伐採による収益と、牧場への土地利用の変換であって、森林の経営、木材の持続的生産には、まったく意を払っていないのが実情である。」
ここで書いたように、すべての利用木が伐りつくされるまで森林の伐採が進んでしまったのである。
終わりに
30数年も経ち、なぜパラグアイの森林破壊について書いたかと言うと、この森林破壊があまりにも理不尽で、この経験を思うと今になっても怒りがこみ上げてきて、伐採されたペローバの痛みを感じるからである。この地域は亜熱帯地域であるが、冬の気温はマイナスになることもあり、ペローバには年輪があり、それより成長量調査も行った。それによると胸高直径1mに達するには254年かかり、2mにも達する巨大木もあったので、スペイン人が南米に来る前から存在したペローバも多々あったと思われる。それがチェーンソーによりたかだか数時間で伐採されていたのである。
この森林を守るにはパラグアイ政府が、たとえ私有林であっても保安林として伐採規制をかけなければならなかったのだろう。しかし、当時は、森林を守るよりも伐採させて伐採税を取り立てる方向にあったのだ。
今では、森林を伐採する場合にはその一部を保全しなければならないと森林法では規定しているとのことだが、もう森林はほとんどないのだから、この条項が役立つことは少ないだろう。だからこれを逆にし、牧場へ転換してしまった土地の一部は造林し森林に復元しなければならないといった条項を加えるべきと思う。
感情的ではあるが、パラグアイのペローバにも魂が宿っていたのではないかと思う。巨木を見ると感動の思いを禁ずることができない。伐採された時の痛みはどれほどのものだっただろう。「草木国土悉皆成仏」といった自然崇拝の思想が人類を救うと哲学者の梅原猛氏も書かれている。
自然を敬う気持ちだけで森林破壊が阻止できるとは思わないが、少なくともそのような心がなければ森林は守れないだろうし、ひいては人類を救うことができないだろう。少しでも森林に戻す働きかけをし、自然を敬う心を育むことが必要である。
パラグアイの森林調査時の紀行文はこれで終わりとし、次は、同じパラグアイで行った造林計画作成のための調査について書きたい。