現場で出会う生き物

ゼンシンの日々

入社して4,5か月が経ちました。

社会人になってから時間がとても速いです!

さて、現場に出て作業していると様々な生き物に出会いますが、今回は山梨県北杜市で見かけた生き物の痕跡をご紹介します。

まずはこちら。山中の作業にて発見。

これは「キツネの巣穴」です!

私はキツネなんて馴染みがないので、びっくりです!

昼間はこの中で寝ているそうですが、起こして襲われるのが怖かったのでそっと覗いておくだけにしました(笑)

続いては、こちら。

やぶを切り開いて作った場所なんですが、後日訪れるとぼこぼこにされていました…

イノシシだ!と思ったのですが、違いました(笑) なんだかわかりますか??

これは「シカの寝床」だそうです!

シカも寝床を作って寝るんですね、知らなかったです。

作業現場からの風景               

他にもサルやカエル、トンボ、マムシなどたくさんの生き物をみかけました。

作業の合間にこういう楽しみ方ができるとリフレッシュにもなりますね。

まだ暑い日が続きそうですが、体調管理に気を付けて頑張っていきたいです!

インターンシップ

お知らせ

7月31日から8月4日までの間、
本年度ならびに令和6年度卒業予定の学生さん2名の
インターンシップ受け入れを行いました。

まずは、社内にて弊社ならびに測量・建設コンサルタント業界の紹介、
測量、調査、設計など業務の内容について説明をし、
その後、周辺の砂防施設を巡ってりました。
現地では施設の意味や必要性、
ここでの私たちの会社が担う役割などについて理解を深めていただきました。

UAVの飛行実習では、弊社の技術者が操縦方法などレクチャーした後、
学生さんに実際に小型のUAVを操縦していただき、写真の撮影まで行いました。

また、測量の現場では基準点測量を行い、実際に器機の設置や観測の作業を、
流量観測の現場では、担当者から観測の必要性や作業の内容などを説明し、
間近で観測作業の様子を見てもらいました。

学生の皆さんには、私たちの仕事の一部ではありますが体験をしていただきました。
ありがとうございました。

弊社では、今後も随時、インターンシップ、仕事体験など受け付けております。
仕事体験につきましては会社見学と合わせて1日からでも可能です。
ご希望する方は下記の連絡先までお気軽にお問い合わせください。

株式会社ゼンシン 採用担当
    TEL 0265-83-4865
    FAX 0265-83-9728
    E-mail : saiyou@k-zensin.co.jp

8月の駒ケ岳

社窓
2023年8月の駒ケ岳

連日猛暑が続いています。
今年の7月は日本のみならず、世界的に記録的な猛暑となったようです。
長期予報では、これからも平均より気温の高い日が多くなるとのことで、
厳しい夏の日、また厳しい残暑となりそうです。

現在、社屋の外壁等の改修工事で足場が組まれており、
社窓から景色が望めなくなっているため、
駒ケ岳の写真は、社屋周辺で見える場所を探して撮影しました。

連日の猛暑の中で作業をしていただいており、
職人の皆さんには本当に感謝です。

過ごしやすいといわれるここ信州でも、
熱中症警戒アラートが発表される日が多くなっています。
くれぐれも体調に気を付けてお過ごしください。

ジオツアー「遠山川の赤色チャートの追跡!」

ゼンシンの日々

伊那谷自然友の会で飯田市南信濃の遠山川流域を巡りました。

午前中の上流域は日陰もあり、心地良い時間を過ごせました・・・が、

午後の下流域は酷暑で、さすがは南信濃という感じでした(汗)

数m級の転石がゴロゴロする上流域には、海底に堆積した放散虫の殻を起源とする赤色チャートがあちこちに。
これが赤石山脈の名の由来となったそうです。

令和5年度 国土交通省天竜川上流河川事務所 優良工事等表彰

お知らせ

この度、国土交通省天竜川上流河川事務所 優良工事等表彰におきまして、優良業務並びに優良業務技術者表彰を受けました。

発注者様はじめ、関係の皆様には、心より感謝を申し上げます。 今回の受賞を励みとし、こころを新たに、さらなる技術やコンピテンシーの向上に努めて参ります。

優良業務表彰
受賞者 株式会社ゼンシン
業務名 令和4年度天竜川上流河川管理施設等監理検討業務
    (国土交通省中部地方建設局天竜川上流河川事務所発注)


優良業務技術者表彰
受賞者 中島 一郎(管理技術者)
業務名 令和4年度天竜川上流河川管理施設等監理検討業務
    (国土交通省中部地方建設局天竜川上流河川事務所発注)

夏が来ました!

ゼンシンの日々

ここのところ暑い日が続いてます。

体がまだ暑さに慣れていないせいか余計に暑い気がします。

ですが、長野県に越してきて思うのは、湿度が低く、

外にいても日陰に行けば涼しいので、比較的過ごしやすいです。

それでも暑いものは暑いのでついつい涼しいところに行きがちですが

子どもはそんなのお構いなし!

週末はお散歩に連れ出されました。

とても良い天気で気持ちがいいですね。

我が子に感謝です。

あまりいい写真は撮れませんでしたが、天気の良さくらいは伝われば幸いです。

[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.8_大阪-岸和田市、吹田市、大阪城

森林紀行

大阪へ
 昨年亡くなった友人宅へ弔問のため、大阪へ出かけた。岸和田市に住む友人が、昨年(2022)の11月にがんで亡くなり、その時にコロナ感染が拡大しており葬式に行けなかったため、現在(2023年6月)、コロナ感染対策が緩和されているので、改めて友人の奥様にお悔やみを述べに行ったものである。弔問したのは2023年6月21日で、日帰りは大変なので一泊した。折角、大阪に来たので、この機会を利用し、その晩は、岸和田に近い関空に勤める従弟に会い、翌日、吹田市の介護施設にいる友人を見舞い、その後、大阪城を見学したものである。今回、多少重いテーマを扱ったので、辛抱して読んでいただければ幸いである。

大阪府の地図

新幹線の切符購入
 新幹線に乗るのは、2017年以来、6年振りである。その時も大阪に行ったので、その機会を利用し、亡くなった友人にも会っている。
 事前にみどりの窓口で切符を買ったが、今年1月一杯で、最寄り駅のみどりの窓口が廃止されたので、別駅で買わざるを得なくなった。話せる指定席券売機で別列車の特急券を買ったこともあるが、時間がかかり、後ろで待っている人に文句を言われ、暴力を振るわれそうになったことがある。不快で危ない思いをさせられた。前の人が終るまでは、順番で待たなければならないという世の中の基本的ルールが守ることができずに、イライラする人が益々増えているような世の中なので、年配者はより気をつけなければならない。長距離切符の販売は、年配者には対面で対応してくれることが一番ありがたいので、みどりの窓口は是非復活させてもらいたいと思う。

大阪へ
 東京駅から7時3分発のひかり号に乗ったが、朝は一般の電車の本数が少なく、余裕を持って東京駅に着くため家を5時過ぎに出た。東京駅には発車30分以上前に着いたが、あせることなく余裕があり、安心できた。
 予定通り発車し、品川、新横浜と止まり、乗客も増えてきた。友人と二人で弔問することにしていて、その友人が静岡駅から乗ってきた。予め隣席を予約しており、そのとおり合流できた。その友人は、グループラインの仲間で、しょっちゅうメールをし、時々電話でも話していたが、会うのは久しぶりだったので、積もる話をしつつあっという間の感じで、新大阪駅に9時57分に着いた。

品川付近の再開発
多摩川付近
武蔵小杉付近のタワーマンションと高層ビル群
静岡付近、中央付近に見える頂上に
少し雪が残る富士山が薄く写っている

新大阪駅から岸和田方面へ
 新大阪駅に降りると、エスカレーターの乗り方が東京とは逆なので、早速、大阪に来たなあとの思いを強くする。歩かない人は右側に乗り、左側は歩く人用となっているのだ。
 友人宅が岸和田市だったので、新大阪駅から、岸和田市方面に向かった。新大阪駅から1時間以上かかり、私は大阪の土地勘がないので、意外に遠く感じた。大阪も案外に広いのだ。

タクシーの運転手
 最寄り駅から友人宅まで、タクシーを使ったが、往きの運転手さんは年配の方で、いかにも大阪人という感じがして、良くしゃべってくれた。良くしゃべってくれるので、私が明日行くつもりの大阪城の見学はどうかと聞くと、今は何々展をしているから是非行くべきだ、天守閣も登るべきだし、しゃちほこも見ることができると教えてくれた。とても好感が持てる方だった。
 しかし、帰りに友人宅から駅まで乗ったタクシーの運転手は、多少若かったが、無愛想で何もしゃべらず、運転も荒く、好感は持てなかった。

友人宅
 友人宅では奥さんが待っていてくれた。早速仏壇に手を合わせ、お線香を上げさせてもらった。その後、積もる思い出話を延々とさせてもらった。奥さんも友人に代わって昔からの友人のような感じがした。沢山しゃべってくれ、良い慰問になったと思う。しかし、沢山ごちそうにもなり恐縮した。私も一緒に訪問した友人も若い時に、この友人宅に泊めさせてもらったことがあるのだったが、その時のことについてはよく思い出せなかった。
 息子さんの家から持ってきてもらったギターで、讃美歌の星の界などを弾かせてもらい、友人に捧げた。また、今日弔問に来られなかったライングループの友人が歌い録音してくれた、同じく、星の界、雪山に消えたあいつ、喜びも悲しみも幾歳月を改めて聞き、皆でしんみりとした。また、息子さん達が編集した友人の元気な頃のビデオを見て、亡くなった友人を偲んだ。

友人のがんの経緯
 友人は、昨年(2022年)の始めまで、小学校の先生をしていた。定年後の再雇用も終了し、その後は、ベテランの味を乞われて臨時の先生として学級崩壊しそうなクラスの理科を任されて苦労していたのだった。ずっと働き詰めであったが、マラソンや卓球などスポーツも続けていたし、体はいたって丈夫なはずだった。つい最近まで実際のマラソンの距離(42.195km)の市民レースなどにも出場していたのだった。
 それが昨年(2022年)2月に体調に少し異変を感じたことで、勤めを辞め、病院で検査をしたところ、がんと分かり、3月から直ちに大阪市大病院で抗がん治療を始めたのだった。抗がん治療によりがんを小さくしてから手術をしてがんを取り除くという方針で、最初は6月くらいの手術を予定していたが、「コロナ」の感染拡大などの影響で手術は8月に伸びた。
 この間、抗がん治療は上手く行き、徐々にがんは小さくなってきているとのことだった。ただし、抗がん剤の副作用で最初は元気で何ともなかったのが、治療を重ねるごとに、徐々に体が弱まってきているとのことだった。
 そして8月の手術は成功した。これで友人の家族も私も他の友人も一安心だった。しかし、その後、しばらくして熱が出て、なかなか安定した状態にならなかった。何らかの感染症に罹ったようで、効く抗生物質を捜し、いろいろ変えて試していたが、上手くいかず、とうとう様々な合併症を発症し、結局、昨年11月にこの世を去って行った。

仲間のライングループ
 「コロナ」が流行し始めたころに、大学時のクラブの友人達、私とその友人を含め4人でラインのグループを作り、メールをしたり、時々オンラインで飲み会をしたりしていた。この友人ががんとわかった頃からは、毎日のように頻繁にメールのやり取りをするようになり、励ましたり、逆に励まされたりしていた。

がんは思考を深めてくれる病気
 ある友人は、がんは生き方が問われる病気と言ったが、確かにがんは、死に直面し、治る場合もあろうし、治らなくとも直ちに死ぬわけではなく、それまでにかなりの時間がある。そのため、がんは、人生の終わりを確かめる時間を与えてくれる、つまり、思考を深めてくれる病気と思う。
 がんは、治療の進歩によって、完治することもあれば、長期間にわたって治療を続けることもある。がんの種類や進行度、治療法などによって、予後や生存期間は異なり、また、がんの治療は、効果だけでなく副作用や資金面、家族などの負担も伴う。がんになった人は、医師から説明を受けたり、自分で情報を集めたりして、納得のいく治療を選択しようとするだろう。しかし、治療の結果や将来の見通しは不確実である。いずれにせよ、残されたと思われる時間の中で、自分の価値観や目標を見つめ直したり、大切な人との関係を深めたりすることで、より充実した時間を過ごすことができるかもしれないのである。つまり、自分の生き方や死に方について考える時間が増えるのである。それは必ずしもネガティブなことではなく、充実した時間ともなり得るのである。

友人とのメールのやり取り
 友人ががんとわかってからは、友人は「死」と向き合った。私と健常の友人達も最初は「死」という言葉は避けて、あえて使わなかった。しかし、メールをやり取りしていて、「死」という言葉を使ってももう友人も大丈夫、いや、むしろ使うべきだと思った時点からグループの仲間は皆「死」という言葉を使いだし、皆が死と向き合った。その後は、人は健常者でも病人でも死ぬまでは生きているのだから、生きている限りは病人も回復の可能性はあるし、何らかの思考ができるのだから充実した時間にすることもできるだろうし、他にもいろいろな可能性はまだあるだろうと言ったやり取りをしていた。

友人の悟り
 友人は、大学に入ってから知り合ったのであるが、高校の時にはインターハイにも出場し、スポーツでは活躍していた。ただし、大学に入学以降は、思索を深め、民主的な思想の持ち主として育っていった。特にそのように考えが育っていったのは、この友人が学生時代に休学し、世界放浪の旅をしたことにあると思う。友人は、「個人レベルで付き合えば、どこの国の人も家族、隣人を大切にするし、そこには国境という線引きはない。」と常々語っていた。
 私も海外の仕事をしていたので、この言葉は良く理解できる。だから旅から帰り復学した後は、学部の自治会の役員も行っていた。卒業後は、小学校の先生となり、未来を担う子供達を育て、地域活動も積極的に行っていた。
 そして、「がん」を宣告された時に、こう語った。「命の時間を否応なしにカウントすることになりました。でももし、命を拾えたら大切にしよう。もしダメでもそれはそれでいいではないか。できなかったことは次に生まれかわったときに置いておこう。というのが率直な受け止めで、本当に落ち込んだり、へこんだりはしませんでした。自分ではこの状況と日々の生活に精一杯向きあおうと思いました。」このようにガンになっても決してへこたれずに、今までと同じように日常生活を続けるという強い意志が感じられた。
 それで、私は、友人が死や俗事をも超越し、悟りの境地に達したと感じたので、私が彼に、「達観したね。」との趣旨のメールを送ったら、その後に返ってきた彼の言葉は、次のようなものだった。
 「これまでの数々の失敗や取り返しのつかない間違いを思うと「達観など許さない」というと自分の声が聞こえてくる。ロシアのウクライナ侵攻、日本の中国やアジア諸国への侵略、沖縄問題、日本人のあり様などを思うにつけ、「生きる」とは自らの思いやこれまでの経験、積み上げてきたことに「こだわり続けること」、「KEEP ON」すること。「現実の矛盾に悶え続け、学び続けること」ではないか、というのが今の私の到達点です。」
 まさにこれこそが、この時点で彼が到達した悟りの境地と思った。彼は、自身の状態を「迷悟一如」と言った。「迷悟一如」の意味は「迷うことと悟ることは一体である。」とのことである。しかし、彼の言葉を読めば、彼は「迷い」から脱却し、悟りの境地に達したと感じた。その悟りは到達点ではなくて、人生の途上にあり、命の続く限り、より上位の所まで、そしてその上位の所は、到達点ではなくて、そこに到達したら、さらに上位の所を目指す、そういうことに気づいたのが「今の悟り」ということだと思った。
 つまり、彼は、「現実の矛盾→学び→実践→ある到達点→さらなる現実の矛盾→」とスパイラル回転して上に向かっているということだったのだ。このように彼は、ずっと上を目指していた。
 彼は、達観など許さないと言いつつも、やはり達観した境地に到達していたのだ。だから天国へと旅立って行けたのだ。それだけ密度の濃い生き方をしたのである。

東岸和田駅へ
 メールでこのようなとても重い話のやり取りをしていたが、奥様とはとりあえずは、元気だったころの思い出話を中心に話をしていたのである。奥様とはいくら話していても話は尽きなかったが、夕方近くになったので、友人宅をお暇した。一緒に訪問した友人は、日帰りのため新大阪駅へ向かい、私は東岸和田駅へ向かった。この日は東岸和田駅近くのルートインホテルに予約しておいたのだ。私の従弟が関空に勤めており、夜は岸和田で飲もうということにしていたのだ。

大阪環状線

東岸和田のルートインへ
 ルートインホテルは駅を降りたらそのままホテルに入れるくらい駅から近かった。チェックイン時に、東側には線路を挟んで大きな建物があるので、岸和田駅の先に海が見えるかもしれない西側方面の部屋にしてくれと頼んだところ、普通サイズの部屋が空いてなかったのか、多少広い部屋にしてくれた。いつも駒ヶ根のルートインホテルに泊まっていたけれど、その部屋よりも若干広く、それだけでも多少楽に感じた。

岸和田駅へ
 従弟との待ち合わせが、岸和田駅だったので、東岸和田から岸和田駅まで歩いて行った。ホテルのフロントで聞くと、岸和田駅までは道路が直線でわかりやすいが、歩けば20~30分かかると言われたが、待ち合わせ時間まで余裕があったので、ゆっくりと歩いて行った。やはり30分ほどかかった。途中、府立和泉高校などがあった。

大阪府立和泉高校
南海 岸和田駅

岸和田で飲む。
 予定通り、岸和田駅で従弟と会い、下の写真の左側に写っている居酒屋で飲んだ。今年の2月に私の母が97才で、残念ながらコロナに感染して亡くなり、コロナのため家族葬とせざるを得なかったが、その葬式に遠路大阪から来てくれた。それで会ったのは、4ヵ月ぶりだった。水ナスが上手いというので、これはとても美味しく感じた。私よりも大分若く年が離れた従弟だが、もう還暦に近い。子供の時一緒に遊んだわけではないが、齢が行ってから会う機会が増えたというところである。従弟が話し上手で、話がはずみ楽しかった。

岸和田駅前の居酒屋で飲む

再び東岸和田のルートインへ
 岸和田からの帰りはタクシーでルートインホテルに帰った。ここのルートインの建物は駒ヶ根のものよりだいぶ大きく、部屋数もかなり多そうだ。階下の大風呂も、駒ヶ根のものより3~4倍程度は広く、温泉のようで、とてもリラックスできた。部屋も多少広いだけで過ごしやすかった。

東岸和田駅

吹田市へ
 翌日6月22日(木)は、東岸和田駅から大阪駅に向かい、大阪駅で乗り換え、別の友人が入っている介護施設に向かった。東岸和田駅から大阪駅まで走っている電車は、JR阪和線で左側一列一人座りの椅子と右側二人座りの椅子だった。朝8時半くらいに乗ったので東岸和田駅からは座れなかった。1時間近く立っているのは大変だなあと思っていたところ、しばらくして座れたのでほっとした。友人の入っている施設の近くに、巨大な建物の吹田市民病院があった。

吹田市民病院

友人を見舞う。
 見舞った友人は大学時の同学科の同級生で、学生時代には山岳部にも入り、頑丈な体を持っていた。事前に今度大阪に行くから、食事でもしながら積もる話をしようとのつもりで電話をかけたところ、2年前から体調を崩し、施設に入っているというのでびっくりしたのである。それなら見舞に行くよといって見舞に行ったものである。
 残念ながら友人は腎臓を悪くしていた。週に3回、透析を行っているとのことで、施設と病院を往復しているとのことだった。コロナ感染予防で面会時間は30分と制限され、この日10時からと指定されていた。5年ほど前に、学生寮に入っていた仲間数人と名古屋で会ったが、その時はとても元気だったので、信じられない思いであった。あっという間に面会時間は過ぎ、積もる話もほんの少ししかできなかったのは、残念だった。前述した友人はがんで亡くなるし、この目の前にいる友人は体調不良であるし、自分の健康も考えざるを得なかった。健康は個人差が大きいものの私も平均の健康寿命が終るころであり、誰でも寄る歳の波には勝てないであろう。結局、どう生きるかはその時の健康状態次第であるので、私は、今のところ健康で、先に逝ったり、健康でない友人には申し訳ないが、先のことを考える状態ではないので、今はできるだけ同じ生活を続け、残された人生を楽しもうと思うのであった。

大阪城へ
 友人の見舞いを終え、大阪駅に向かった。大阪駅で乗り換え森ノ宮駅で降り、大阪城公園を歩いて城まで行き、天守閣に登ることにした。

大阪城公園 矢印の線に沿って歩き、
極楽橋を渡り森の宮に戻った

大阪城
 大阪城公園は広い。100ha以上はあるとのことだ。秀吉が築城した時の、大阪城の惣構(そうがまえ、城下町の外側に堀や土塁を築き、町ごとぐるりと取り囲んだ防衛ライン)は、約420haもあったとのことである。豊臣期の大坂城天守は地上から約49mとのことで、現在の再建された大坂城天守は約42mとのことだから、今よりも7mも高かったのである。
 あまりに広いので、江戸城より大きかったのではと思ったが、実際は江戸城の方が大きいとのことである。江戸城は、徳川秀忠が築城した当時は、内郭(内濠に囲まれた区域で、本丸・二ノ丸・三ノ丸などがある)だけで約420haもあったとのことで、これは大阪城とほぼ同じである。しかし、外郭(外濠に囲まれた区域で、大名や幕臣の屋敷、御殿や寺社などがあった)を含めると約2,100haもあったとのことである。だから豊臣期の大坂城の惣構までの広さが、江戸城の内郭とほぼ同じであり、外郭を含めると江戸城は大坂城の約5倍以上の広さであったとのことである。
 それに徳川期の江戸城天守は地上から約68m、現在、天守は残ってないが、代わりに建てられた皇居二重橋付近の富士見櫓は約25.5mだそうだ。しかし、現在、江戸城は再建されてないし、皇居ないも見学できないので、現在は大阪城が一番大きな城だろう。

森の宮の大阪城公園への入口
お堀から見える高層ビル
空堀
桜門
外国人の観光客が多い

天守閣に登る
 天守閣に登った。入場料は600円だった。入場券を買うのに多くの人が行列を作り待っている。ほとんどが外国人だった。コロナ対策が緩和され多くの外国の観光客が来ている。やはり多いのは中国人、マレーシアなどのアジア系の人。私の前に二人づれの白人の若者が待っていたので、話しかけてみるとフランス人だった。日本は3回目だと言っていた。これから京都に行くとのことだった。待っている間しばらく話をしていたが、一人の若者はフランス語のみしか話せなかったが、もう一人の若者は、英仏西と三ヵ国語を自在に喋れるのだった。私は長く海外で働いていたので、だいたい喋れるので三ヵ国語チャンポン会話だった。ヨーロッパ言語は、似ている言葉が多いから自在に何ヵ国後もしゃべれる人は案外多くいるのだ。日本に観光にきた外国人に、母国語でしゃべりかける日本人がいると、彼らは驚いたりうれしかったりするものだ。私も海外で、日本語でしゃべりかけてくれる現地の人がいると驚き、うれしかったことを思い出す。私がその若者に何でそんなに色々な言葉が話せるのか聞くと、スペイン語はフランスの学校で習い、英語はオーストラリアにいたので、話せるとのことだった。
 その後、天守閣に登ったらスペイン語が聞こえてきたので、話しかけてみるとスペイン人とアルゼンチン人だった。その方々は前の若者より一層うれしそうな顔をして、びっくりしていた。最近の世の中の情勢ではたとえ海外からの観光客で知らない人であっても、たわいもない話で収めておくのが無難と思った。昔、海外で話しかけられた人の中には不審な感じの人もいたので、逆に私が不審な人に思われないためにも、その程度が良いのではないかと思った。残念なことではあるが。

黄金の鯱と伏虎

 内部は、エレベータで5階まで上がれ、8階が展望台となっている。全体に、お土産屋が多く、そのほか資料の展示物が多い。「黄金の鯱と伏虎」は、金ぴかで、これはすごいものだと感じた。7階には秀吉の金ぴかの居室があるとのことだが、見学はできない。全体に、秀吉の権力の巨大さを改めて感じた次第である。

展望台からは大阪全体が眺望できる。
金のしゃちほこ
お堀巡りの遊覧船
極楽橋

新大阪駅へ
 森ノ宮駅に戻り、駅近くで昼飯を食べ、大阪駅で乗り換え、新大阪駅に戻った。帰りのひかり号が15時48分発だったので、余裕を持って少し前に新大阪駅に着いた。

新大阪駅の待合室

東京駅へ
 東京駅までは約3時間かかった。大阪駅で乗った時は空いていたが、次の京都駅あたりから混みだして、途中はほとんど満席だった。スピードがあるので小揺れし、乗り心地は良くなく本も読めず、眠ることもできず、往きと違い一人でしゃべる相手もいないので、随分と長く感じた。

つづく


7月の駒ケ岳

社窓

2023年7月の駒ケ岳

いよいよ30℃を超える真夏日も多くなってきて、
そろそろ梅雨明け間近を感じています。

さて、今年は「エルニーニョ現象」が発生しているとの発表がありました。
エルニーニョ現象とは、
太平洋赤道域の日付変更線付近から南米沿岸にかけて海面水温が平年より高い状態が続く現象で、
逆に同じ海域での海面水温が平年より低くなる現象をラニーニャ現象というとのこと。

一般的にはエルニーニョ現象が起こると、
西日本の日本海側で降水量が多くなり【冷夏】の傾向となるといわれていますが、
今年はラニーニャからエルニーニョへの移行期間が短いためラニーニャの影響が残るなどして、
この夏は平年より高めの気温となるという予想もされています。

これから、いよいよ夏本番。
今年は、久しぶりに各地で夏まつりなども通常開催されるようです。
感染や熱中症に気を付けて過ごしましょう。

2023年7月の南アルプス

野沢温泉

ゼンシンの日々

環境調査の委託業務で、北信地域の現場に毎月2日間程行っております。

現場は新潟との県境に近く、早朝から調査を開始するため、日帰りは難しく宿泊です。

現場から比較的近い場所に野沢温泉村があるので、今月は温泉街の民宿に泊まってみることにしました。

野沢温泉村といえば、スキー場が有名なので冬の観光地というイメージがあります。冬は何度も来たことがありますが、グリーンシーズンはあまりないので密かに楽しみにしておりました。

平日ということもあり、観光客は少なめ。

夜散歩がてら足湯にいってきました。山の中を歩き回ったので癒されました。

散歩の途中でソフトクリームの看板を見つけたので、次の日現場が終わった後行ってみることに。

大盛りにしてくれました。

濃厚でとてもおいしかったです。

太っちょになりそうです。

今度は外湯を巡ってみたいです。

[増井 博明 森林紀行 番外編 地域探訪の小さな旅]No.7_沖縄-今帰仁村

森林紀行

今帰仁村の由来
 今帰仁村(なきじんむら)とは、本土から行ったものにはどことなく沖縄らしく、少し変わった響きに聞こえる。「今」を「なき」と読むのは、沖縄方言での発音だそうだ。
 今帰仁の語源は、「今来知り」という意味だそうで、これは、鎌倉時代末期に外来者(いまき)が侵入し、この地方を統治(じり)したことを示す言葉とのことだ。外来者とは、落ち武者か倭寇などらしいということだ。
 琉球王国時代には、北山王国の首府となった城の名前が、今帰仁となったとのことだから、当時、本土からの落ち武者か倭寇の日本人か中国人かがこの周辺を支配し、統治し始めたということを示しているのだろうか?しかし、沖縄には琉球人と呼ばれる先住民族がいたのだろうから、外来者は排除されたかもしれないし、あるいは混血し融合したかもしれない?研究もせずに軽々しいことは言えない。
 それはともかく、2023年5月25日(木)~5月29日(月)まで、5日ほどだったが、今帰仁村に行ったので、そのことについて書いてみたい。

沖縄
今帰仁村

私の沖縄との関わり合い
 私と沖縄とのかかわりは案外に深い。子供の頃(1960年代前半)に嘉手納出身の大学生の方が我が家に下宿をしており、その頃から沖縄には感心はあった。当時、沖縄はアメリカに占領統治されており、本土に来るのにパスポートを持たれていた。往復するのも列車と船で片道1週間以上かかるとのことで、大旅行だったようだ。因みに那覇空港が開港したのは1962年とのことである。
 現在は、今帰仁村には私の甥が住んでおり、新型コロナウィルス出現以前には時々訪ねていたが、この3年間は訪ねることができず、最近、感染対策が緩和されたので、3年振りに訪ねたものである。
 また、石垣島出身の友人がいて、家族で石垣島に旅行をしたり、また、2002年~2005年にセネガルでマングローブ林の持続的管理に関わる仕事をしていた関係で、琉球大の教授にマングローブ林に関して教えてもらったり、また、セネガル人の森林技術者を西表島に案内したりしており、沖縄には相当数行っている。

今帰仁村
 冒頭に今帰仁村の由来を書いたが、今帰仁村は、沖縄県国頭郡にある村である。面積は39.25Km2で、人口は約8,000人。村のシンボルとしては、世界遺産に登録されている「今帰仁城跡」が有名で、石垣や門などが残っている。
 名護市は、今帰仁村の南西に隣接する市で、市の面積は210.80Km2で、人口は約6万人。市の主な観光スポットとしては、「美ら海水族館(ちゅらうみすいぞくかん)」や「古宇利大橋(こうりおおはし)」などがあり、美ら海水族館は、世界最大級の水槽を持つ水族館で、ジンベエザメやマンタなどが見られる。古宇利大橋は、名護市と古宇利島を結ぶ全長1,960メートルの橋で、エメラルドグリーンの海を眺めることができる。

家から羽田空港へ
 まずは、家から羽田空港へ行ったことから書き出すが、もよりの駅から羽田空港行きのバスの直行便が、コロナ感染防止対策でまだ半分ほど運休されており、一番都合の良いバスで行っても羽田空港で3時間ほど待たなければならないので、電車とモノレールを乗り継いで行った。10㎏ほどのスーツケースを転がし、ギターを担いで行ったので、駅まで歩くのが思ったより大変だった。
 久しぶりに乗ったモノレールも小揺れを感じ、乗り心地はすこぶる悪かった。しかし、久しぶりに飛行機に乗るので何となく心は浮き浮きしていた。
 羽田空港には出発1時間半くらい前に着き、空港内でお土産などを買い、広い空港を見学していたらあっという間に時間は過ぎ去った。これならバスで来て3時間待っていても大丈夫だったろうと思った。

羽田空港
搭乗口

出発
 機内には14時40分頃に入ったが、出発したのは15時15分くらいだった。満席かと思ったが、2割くらいが空席だった。実質2時間15分くらい飛んで、17時半くらいに那覇空港に着いた。

那覇空港
 那覇空港に着き、荷物を取った。預けたギターがソフトケースだったので、職員がクッションを巻き付け「壊れ物」扱いにしてくれていたこともあり、無事着いた。今まで何回もギターを飛行機に乗せているが、今までのところ全部無事に着いている。荷物を取り外に出たのはちょうど18時だった。

那覇空港
那覇空港
那覇空港
持っていったスーツケースとギター

那覇空港の水槽
 那覇空港の楽しみは到着ゲートを出たあたりにある水槽である。この中にはめずらしい魚が多く、見るのが楽しみである。名護行のバスの時間が18時半だったので、それまで水槽の魚を眺めていた。

水槽の魚
水槽の魚
水槽の魚
水槽の魚

那覇空港から名護バスターミナルへ
 空港のバス亭で、待っている人に名護行かどうか尋ねてみると、皆親切に教えてくれる。名護行のバスは定刻18時半にぴったり出発する。運転手もとても親切である。都会じゃあ聞いてもぶっきらぼうで、ちゃんと答えてくれないのではないかという気持ちが先行して聞けなかったりするが、ここではどんなことだって親切に教えてくれるので安心して尋ねることができる。

那覇空港から名護市へのバス
モノレール
沖縄県庁
那覇市内もタワーマンションが

名護市バスターミナル
 ヤンバル急行バスを那覇空港から2時間弱乗って、名護市バスターミナル前で降りる。予定どおり20時18分着だった。甥がここで待っていてくれるはずだったが、どこがバスターミナルか分からず、甥もいない。周囲も暗く、どこにいるのか良くわからない。電話をすると名護市バスターミナルで待っているとのことだった。乗ったバスがヤンバル急行バスだったので、同じ名前のそのバスの停留所が名護市バスターミナルから約50mほど離れていたのだった。夜で暗く方向がわからずスマホの地図に案内させ、無事に会えた。
 料金はここまで1,610円だったが、帰りの名護から那覇までは2,230円とかなり値段が高く、何故、往きと返りで、あるいはバス会社によって、値段がこんなにも違うのが不可解だった。

コマゲン
 今帰仁村に居る間、泊まっていたのは、ずっと甥の家だったが、翌日5月26日(金)から丸三日間は、コマゲンという今帰仁村にできたアジアンレストランでほとんど過ごした。

オーナー
 コマゲンのオーナーは、お若いご夫婦で、東京の青梅市から2才になる息子さん共々、数年前に移住してきたとのことである。青梅市では、どちらかというと居酒屋風の料理屋を、夜間を主体に営業していたとのことで、ここでの生活ほど健康的ではなかったとのことである。ここでは、アジアのエスニック料理を出し、二人は今帰仁の自然、人々などを気に入り、ここでの生活は大満足だとのことだ。レストランの建物も仲間達も手伝い、自分たちの手作りだそうだ。

コマゲンの位置
海に面した道路横に立ててあるコマゲンの入り口の看板

仲間達
 甥の仲間達は、那覇市や名護市などの音楽ライブレストランなどで演奏している仲間達とその友人達である。コマゲンも仲間達の一つの溜まり場だ。どちらかと言えば、社会のしがらみに縛られたくなく、好きなことをして自由に生活しているような仲間達である。音楽で生きていること自体が好きなことをして生きていると言える。コマゲンのコンセプトと同じく、環境・身体になるべく負荷の少ない物・事を選択しようという指向があり、そうしたことから、必ずしも物質的に豊かというわけではないようではあるが、精神的には豊かに見える。質素な生活をしているが、仲間達の絆は強いものがあり、何かをやろうと言えば仲間がすぐに集まり、皆が協力して行う。今回もキャンプをやろうと言えば、テントやバーベキュー用の肉や薪などを持ち寄り、それぞれ自分のできることをしながら、楽しくのんびりと過ごしている。アルコール類もそれほど飲むわけではない。

活動
 音楽活動以外には、ボートを作ったり、ココヤシの葉で編んだ帽子を作ったり、衣服を染めたりし、様々な活動をしている。それら製作したものの一部はこのコマゲンで販売もしている。

コマゲンの姿
 コマゲンの姿を写真で紹介すれば、次のような感じである。

エスニック料理・Asian food 。
環境・身体になるべく負荷の少ない物・事を選択
コマゲンで販売しているものなど
キャンプファイアーやバーベキューにも使えるオープンなカマド
音楽活動用の舞台
レストランの室内
レストランの室内
作業場。ココヤシの葉で日陰を作って涼しい
2階の食事場。1階がトタン屋根だが、
2階と1階の間に板の間があるから1階も涼しい
2階の屋根で栽培しているパッションフルーツ
2階の食事場から見た母屋。セメント瓦が沖縄の風景
2階から海を臨む

コマゲンでの昼飯
 最初の日の昼飯は、ポークカレーと豆カレーの二種類のカレーが美味しかった。カレーの後に食べたチーズケーキも美味かった。翌日は春雨炒めを食べいずれも美味しかった。

テントでキャンプ
 10畳くらいはありそうな大きなテントを張った。皆で協力して張ったのですぐに張れた。天井が高いので、とても広々としている。中は二つの部屋にわけることができ、子供たちが7~8人入って遊んでいても狭くは感じない。甥の家で飼っているメリーという名の犬もここまで付いてきて、テントの中で一緒に遊んでいる。子供は2泊、大人も泊まりたいものは2泊して行った。

張った大きなテント
子供たちも大喜び
甥の家で飼っているメリー
同じくミャアー

美しかった星
 5月26日の夜だったが、空の雲がきれた時は、澄んだ天空が半分ほど見えた。そこに北斗七星の七つの星が全て輝いて見えた。これほど大きく輝き、きれいな星を見たのは本当に久しぶりだった。というのは、東京周辺の夜は東京からの光が空に反射し、冬で空が完全に澄んだ日でさえも惑星以外の恒星は、ごくわずかしか見えないからだ。

夜の作業場

今帰仁海辺のキャンプ場
 コマゲンは海沿いの道路から30mほど上がったところにあるが、その道路沿いに、今帰仁海辺のキャンプ場がある。ここにはキャンピングカーで来て、キャンプを楽しむ人が多いようだ。

今帰仁海辺のキャンプ場の看板
羽地内海の向こうに見える屋我地島の明かり

インドからの観光客
 コマゲンにインドからの観光客が食事に来たのには驚いた。夕食を味わいに来たのだが、若い夫婦と10才くらいの男の子の3人連れだった。インドのムンバイから1週間の予定で東京、京都を巡り、沖縄の今帰仁村まで来たとのことだった。コマゲンのエスニック料理はWEBで知り、わざわざ食べに来たとのことだった。日本のカレーはインド人もびっくりするくらい美味しいと言っていた。

バーベキュー
 毎晩、コマゲンの庭にあるオープンなカマドで火を起こし、キャンプファイアーを楽しみ、バーベキューを味わった。ただでさえ美味しいところ、仲間が集まりこういったエキゾチックな場所で味わうバーベキューは特別だった。肉は持ち寄ったもので、大きな牛肉のかたまりを小さく切って焼き、皆で味わった。

キャンプファイアーの火で草の葉を煮出し、
エンジ色に染める基を作る。
準備
バーベキュー
ソーセージも焼く
夜の作業場
夜の2階の食事場

音楽
 子供たちはここに置いてあるドラムセットを適当に叩いたり、ピアノを適当に叩いたり、それが2才の子供が案外にリズムが良かったりで驚きだ。私も毎晩、ギターを弾き、リラックスしていたので、ようやく聴かせられるように弾けるようになったと思った。

驚きの子供
 仲間内のフラメンコにはまっているというお母さんの一人の息子さんが、卓越していると思わされた。7才で小学2年生とのことだが、話すと子供ではなく、大人と話しているような感じを受けた。私がユニクロで買った、あまり気味が良くない絵が4つ描いてあるTシャツを着ていたら、その子が「オジサン、その絵は呪術廻戦のアニメの絵だよ。」と教えてくれ、アニメの内容まで説明してくれた。
 髪を長く伸ばし、女の子の格好をしているので、女の子と思っていたが、お父さんが男の子だと教えてくれた。この子は自由に生きたいとのことで、自分の好きな恰好をし、学校には行きたいときだけ行き、ほとんど通っていないとのことだった。先生とも話し合いが付いており了解済とのことだった。ユーチューブを多く見ているとのことで、私の受けた印象では、ユーチューブから知識を吸収しているのだろう、知識は十分で、学校で教えることは、もう皆理解済みで、授業など退屈でじっとしていられないのだろうと思った。何より自分の意思で行動していることがすごい。小学生の間は、普通は親の意思に従って動くものだが、7才にして自分の意思で行動しているのだ。
 何か才能があるのだろう。数学か?あるいは囲碁か将棋か?はたまた音楽か美術家?現代教育システムには適合できない子供の持っている才能を見出してやるのも親や周囲のおとなの責任であろう。順調に育つのだろうか?将来どのような大人になるのだろうか、あるいは20才過ぎればただの人になってしまうのであろうか?
 しかし、言ってみれば全ての子供は天才なようなもので、徐々に学校教育や社会の枠組みにはめられて、才能がすり減っていくのだろう。とは言え、知識は増え社会に適合できるようになっていくのであおう。逆に何の教育も受けずに自由奔放にほっておかれれば、社会の枠組みからはずれてしまい、社会に適合できない場合もあろう。子供を育てるのは実に難しいと思う。

ヌカガに刺される
 私もテントの中で横になり寝ていたが、編みが張ってあり、普通の蚊は入ってこないがヌカガに刺されてしまった。ヌカガは「糠粒のように小さい蚊」ということからそのような名前が付けられ、体長は1㎜~1.5㎜ほどの吸血昆虫である。私はまだ免疫がないので、刺されてから数日間はとてつもなく痒く、また、刺された痕が赤く腫れて、沢山刺されたので足がぶつぶつになってしまい、醜くてまいった。ただし、ここに住んでいる大人も子供も刺され慣れ免疫ができているのだろう、全く何ともないのだった。

台風の近づく海
 台風が近づいている。この海は5月27日の海である。ここは穏やかな内海でいつもなぎ状態であるが、徐々に波だってきた。最初の予報では5月25日くらいに台風2号が襲来する予報であった。しかし、実際の襲来は1週間ほど遅れ、6月に入ってからこの辺りに襲来したようで、私は5月29日に帰京したので、今回は台風には会わずラッキーだった。

屋我地島方面を望む。波が高くなりつつある
同上

珍奇植物組合
 甥の家のそばに珍奇植物組合というところがあり、珍しい植物を育てていた。見学に行ったが、沖縄の植物をあまり知らないので、ここに置いてある植物の名前もほとんどわからなかった。

珍奇植物組合
同上

この周辺で目に付いた植物
 この周辺で目に付き、名前が分かった植物の写真を乗せる。沖縄は亜熱帯なので、この周辺の植物を研究しないと見分けられない。

アカギ
マンゴー
トックリキワタ
トックリキワタの苗
ココスヤシ
ブーゲンビリア
ヘゴノキ
リュウキュウハリギリ
パパイア
ノボタン
オオタニワタリ
プルメリア
タイワンレンギョウ
ゲットウ
近くの川にあったマングローブ。リゾフォーラ(八重山ヒルギ)
同上

帰京
 今回の沖縄往きは、今帰仁村のコマゲンでのんびり楽しく過ごしたことを書いたが、忙しく観光するのではなく、どちらかというと、欧米人が一ヵ所に留まり、のんびり過ごすスタイルであり、これはこれで良かった。私は、コロナ後に初めて飛行機に乗って遠出し、リラックスでき、楽しい五日間だったが、あっという間に過ぎ去り、5月29日に帰京した。

帰京時の那覇空港





つづく

Page Top