2月の駒ヶ岳
2月の駒ヶ岳
2月。まだまだ寒い日が続きます.
さて、なぜ他の月は30日や31日まであるのに、なぜ2月だけ28日までしかないのだろうか?
インターネットを駆使して調べてみました(^_^;)
その中の1説です。
その1 その昔、一年365日は3月から始まって2月で終わることになっていた。
その2 奇数月を31日、偶数月を30日とするが、
一年は365日であるため、年末の2月から1日を引いて29日としていた。
その3 その後1年の始まりが3月から1月に変わる。
その4 ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時に、
「自分の生まれた月が他の月より日数が少ないのは気に入らない」ということで
8月(August)が31日となる。
その5 31日の月が続くので9月以降を、30日、31日、30日、31日と入れ替えれる。
その6 1日不足する分を、昔の名残で2月から拝借して28日となった。
ただ、この説もあくまで諸説あるうちの一つ。
皇帝のくだり以降は後から付けられてもので、それ以前にすでに28日であったという説も・・・・・・。
ともあれ、年度末の1日は貴重です。
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.3
スマトラへの出発前のひと悶着
林業総局にて
到着の翌日11月15日はボゴールにある林業総局へ最初の挨拶(表敬)に行った。ここでの会議はすんなりとはいかなかった。話し合いは、まず英語で始まった。インドネシア側はほとんどが欧米留学の経験がありそうで、英語は上手そうだった。インドネシア側は、最初から「今回の協力事業の継続として、日本人技術者を3年くらい派遣して、指導を続けて欲しい。」と言って来た。今思えばだめもとで、何でも要求してやれという態度だったのであるが、まだ調査も始めてもない段階なのに、その後の継続の話である。
しかし、インドネシア側にしても英語では細かい話はしにくいのであろう。話が込み合ってくると林業総局次長がインドネシア語でしゃべりだした。そこで、こちらもインドネシア語が得意なメンバーがインドネシア語で応対することにした。すると私には何を話しているのか、話しの内容がさっぱりわからなくなった。ときどき通訳してくれる内容を聞いているだけだった。
とにかく、今回は予定通り仕事をし、今後引き続き技術者を派遣するかどうかは検討するということで話はまとまった。そして、今回の仕事の段取り、誰がインドネシア側のカウンターパート(C/P、共同作業技術者)として同行するかなどもまとまり、さあ明日はいよいよスマトラに出発となった。
ボゴールの林業総局前にて
出発前のひと悶着
いざ、出発だ。ということになって、ひと悶着である。スマトラ島での通行許可書がおりていないというのだ。言ってみれば昔の通行手形だ。我々が来ると分かっていながらインドネシア側がさぼっていたのだ。そんなものすぐに取れるだろうと高をくくっていると、5日後の11月20日までかかるという。どうも信じがたいが、いくら言っても埒が明かない。どこの国でも役所の事務手続きは遅いらしいが、この国は更に特別であるらしい。
仕方がないので急遽予定を変更し、私一人がジャカルタに残り、通行許可書を取った後、スマトラのパレンバンで落ち合うこととした。私なら役所の人間とは英語で通じるし、一人で残しておいても適当にできると判断された。
他のメンバーは、空路で先に行く者が、パレンバンの営林局で打合せ、様々な手配をし、残りが陸路ジープで行くこととした。
ジャカルタ市内(1978年)
大騒動の換金
そんなトラブルで、その日に換金する予定が、できなかった。しかし、何が幸いするかわからない。その11月15日にルピアのレートが一挙に1.5倍にも引き下げられたのである。1ドル400ルピアだったものが、600ルピアになった。まったくインドネシア政府は、恐ろしいことをするものだ。円だって、今は円高だとは言え、1ドル360円が200円近くになるのに何年もかかったではないか。それとは逆であり、性質は違うが、こんな無茶をすると政情不安になるのではないかと思った。しかし、我々にとっては全く幸運にも損をしなくてよかった。1.5倍も儲かったような気分になった。
ところが、ホテルの売店では、直ちに正札を1.5倍に書き換えていた。
16日に銀行に行くと、大騒ぎで、全く換金停止である、団長が東京銀行支店で掛け合って、ようやく1,000ドルだけ換金できた。全くまいった。後は、パレンバンで換金しようということにして現地に赴くこととした。しかし、パレンバンの銀行はずっと取引停止で、調査中に団長がわざわざジャカルタまで換金に引き返さなければならなかった。なんともトラブルが多く、これから先が思いやられる思いであった。
一人ジャカルタに残る
さて、11月17日に皆がパレンバンに出発してしまうと私一人が残された。最初は、インドネシア語は、全く通じないので困ったが、いろいろ冒険できて面白かった。「スラマトパギー(おはようございます。)」とボーイに挨拶されるが、「スラマトパギー」とすぐには出てこない。しかし、それも一日だけで、すぐに慣れた。
食事も最初はホテルで全く言葉が通じなくてまいったが、身振り手振りで悪戦苦闘の上、「イニ、イニ(これ、これ)」と指差すだけで十分に分かってもらえることが分かった。あとは、「テレマカシー(ありがとう)」だけで通じてしまう。
それからジャカルタの町を沢山散歩できたのは物珍しく面白かった。しかし、治安や迷子になることに気をつけて、常に大通りだけを歩いた。店屋でシャツを買ったり、絵葉書を買って日本へ出したりした。
ジャカルタ市内(1978年)
農業省へ
20日になり、農業省へ通行許可書を取りに行った。タクシーはぼられると聞いていたが、どうということはなかった。それよりインドネシア語を試してみた。「バガイマナ?(どうだい?)、ハリイニパナス(今日は暑いねえ)」と言うと、運ちゃんは後ろを向いて「ヤーヤー、パナススカリ(暑すぎる)」と言った。実はそれだけが聞き取れた言葉である。後は、運ちゃんが一人でひっきりなしにしゃべっている。適当に相槌を打っていると、時々後ろを振り返りながら、猛スピードで飛ばして行くものだから恐ろしかった。タクシーはほとんどがトヨタと日産のお古だ。バスやトラックは、シボレーのお古だ。
ジャカルタ市内(1978年)
農業省でのひと悶着
午前9時に農業省に行き、担当者にまず挨拶。ここで、この小賢しい小役人に随分と迷惑を蒙らされた。
この日こそは、すぐに許可書を渡してくれると思っていたが、局長クラスの人に挨拶した後、1時間以上も待たされた。あげくのはてに、「今日は、できない。明日来てくれ。」という。冗談じゃあない。一体何日待たされているというのだ。そして、この日の午後5時のパレンバン行きの航空券に変更してあるのだ。3時までにどうしてもホテルに戻らなければならない。
英語で事情を説明するが、どうも許可書はでそうもない。JICAの担当者に電話するが、いない。再び電話をするが繋がらない。その後は、何度電話しても繋がらない。回線が少ないのだ。仕方がないので、「もう行かなければならない。もし、今日出ないなら明日また来る。」と担当者に言ってから事務所を出ようとした。すると「ちょっと待て。」という。彼は、自室に戻ると「今できた。」と書類を持って来た。
何ということはない。書類はもうとっくに、エライさんのサインはしてあったのだ。彼らは要するに袖の下を要求していたのだ。ところが、私にはそれが通じないものだから諦めて、ようやく出したのだ。まともに交渉するとこういうことになる。
彼にして見れば、「何て頭の悪い奴なのだ、いくらか掴ませてくれればすぐに渡せるのに何時間待たせてもわからない奴だ。」ということだったのだ。言ってみればチップのようなものだが、習慣として、世の中を動かすには、あらゆる事柄に袖の下が必要だったのだ。しかし、袖の下で物事が動くと知っていたとしても、当時の私の性格からして袖の下は許せず、使えなかっただろうと思う。
後で考えると最初に打ち合わせたときに、通行許可書ができていないのもおかしい。こんな簡単なものはすぐに作れるはずである。どこかで誰かが袖の下を出す必要があったのであろう。そうすれば、今日も5時間も無駄に過ごすことはなかった。腹立つこと甚だしかったが、ともかく通行許可書は取れたのでホッとした。
けちな小役人根性にだいぶ暇を取らされたが、その日のうちにようやくパレンバンに飛ぶことができた。
つづく
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.2
出発から到着まで
空港での第一印象
ジャカルタに到着。空港のビルの内部に入ると、一種独特のタバコの匂いが鼻についた。グダンガラム(インドネシアのタバコ)である。それにすえたような熱帯のフルーツの匂いが混じりあったインドネシア独特の匂い。湿っぽい空気、それでいて日本の梅雨とは違う。ここは確実に日本ではないと、全身が感じていた。
出発前準備
ここジャカルタに着くまで、なんともせわしなかった。インドネシアには、スマトラ島のムシ河上流域の調査地域に、どれだけの森林資源量があるかを調査し、流域の管理計画を作成する仕事の1人のメンバーとして行くこととなった。
私にとっては初めての海外だ。観光旅行では絶対に行くことがない、熱帯多雨林を調査するのだ。ハリマオ(トラ)も生息する地域をライフジャケットなども着て、ボートで遡ったりして調査するのだ。ワクワクし、胸はずむ思いであった。
メンバーに選ばれてから出発まで準備期間はわずか2ヵ月であった。あわててインドネシア語の参考書を買い、往復の電車の中で勉強した。職場ではその時抱えていた仕事を片付けるとともにインドネシアでの調査方法などを頭にいれるのに大忙しであった。
出発
出発前日の1978年11月13日は朝から雨が降っていた。出発が午前中であったのと私は新婚だったので、妻と成田に宿泊した。相当に興奮していたのか、雨に打たれたかのせいで、頭に電気がかかっているようでボッーとし、あまり頭が働かない感じであった。成田空港は開港したてで、警戒が物々しかった。既に、身重になっていた妻が出発まで見送ってくれた。
機内
航空会社はキャセイパシフィックで、香港、シンガポールと途中立ち寄り、ジャカルタに向かった。機内で隣の席だった団長は、もともとおしゃべり(失礼)ではあるのだが、興奮もしているせいか、ひっきりなしにしゃべっていて、あらゆることを講釈してくれた。その講釈が面白く、ずっと笑いころげていた。
当時の搭乗券 カードにタイプされたものだった
途中経由した香港の旧空港。2時間ほど待機していた。
ジャカルタ着
深夜11時過ぎにジャカルタ空港に到着した。インドネシアでは役人の権力が、想像以上に強そうだ。税関の通過時に出迎えた方が、検査官に何やら話して便宜を図ってくれている。するとそこのボスらしき人が出てきて、我々のトランクの一つを開けさせ、一瞥し、「オーケー」と叫ぶと、その後全員フリーパスとなった。当時パスポートがオフィシャルで緑色だったということもあろうが、赤色のパスポートの民間人はしつこく調べられていた。
当時商社からインドネシアに派遣されていた友人は、「少し掴ませれば、税関はすぐに通してくれるよ。」と言っていたが、早くも退廃した部分を見たような気がした。
空港を出て
手続きを終わり、空港の外に出たとたん、ポーター達がドッと集まり、人の荷物をどんどん勝手に運んで行こうとする。そして金をくれと手を差し出す。慣れていないせいもあり、また、荷物を持っていかれないようにしっかりと荷物から手を離さず、相当に緊張していた。
ホテル
ジャカルタでは、当時JALと提携していたプレジテントホテルに向かう。夜の闇で周りの景色ははっきりとは見えないが、相当に緑が多そうだ。
1978年当時のジャカルタ。プレジデントホテルから
仕事にせよ観光にせよ、何しろ始めての海外旅行である。見るもの聴くもの何でも珍しい思いがして興奮していたが、夜中であったがホテルに入ってようやく緊張感も取れて来て、明日からの仕事が楽しみであった。 続く。
板金
寒い日々が続きますが皆様いかがお過ごしでしょうか。
さて、ブログの更新が遅くなってしまいすみません。
ネタ作りに時間がかかってしまいました。m(_ _)m
今回のネタは「自動車の板金」です。
年末に義理の母が自動車をぶつけてしまい、修理代が約9万円!!
どうにか安く直せないかと言われたので、自分が板金することにしました。
まず、自分で直せないテールランプをディーラーにお願いして交換してもらいました。
1.作業前の写真です。ヘコミが2箇所とスリキズがあります。
スリキズ(塗料)はコンパウンドで磨き上げます。
ひたすら手作業で磨きます。かなり疲れます。
2.磨き終わったのがこの写真です。
3.次にテールランプを外しパテでヘコミを埋めます。
写真はパテで埋めた後ですが、ヘコミ周辺をサンドペーパーで
削っておきます。
この作業を「あし付け」と言います。
パテがはがれないようにするのと、サビ等の除去が目的です。
4.気温が10℃以上ないとパテが固まらないのです(汗
この12月の気温はめったに10℃以上になんかなりません。
息子にお手伝いを頼みドライヤーで温度を上げます。
しかし、なかなか固まりません。(怒
手作業で削っても良いのですが、かなり疲れる作業なので、実家から電動サンダーと言う機械を借りてきて紙ヤスリをセットし削りました。
手作業だと30分ほど掛けて削るのですが、電動サンダーを使うと5分ほどで削れます。
文明の利器ってすばらしい。
3?5の作業をヘコミが無くなるまで繰り返します。
今回は4回ほど繰り返しました。
マスキングをしプラサフ(下地)を吹きます。
車自体が色あせてきているため、色が合いませんでした。
温度が上がらずパテの硬化が悪かったのと、素人の作業というところで、出来映えは100点満点中の30点といったところです。(涙
ざっと駆け足で作業を説明しましたが、完成までに3日ほどかかってしまいました。
連続で作業出来なかったうえに途中で家族全員(自分を除く)が風邪でノックアウト。
年末の掃除、年始のおせち料理の買い出し等でなかなか作業が出来ずブログのアップが遅れてしまいました。
皆さんも、事故と風邪には気を付けましょう。
By oza
【森林紀行No.2 インドネシア編】 No.1
インドネシア国ムシ河上流地域森林調査紀行概要
湿地林の恐怖
調査プロットに向かって歩いているが、林内は水浸しである。標高の高い方へ進んでいるのに段々と水位が増してくる。水は膝より上まで上がってくる。ようやく目的地に着き、調査を始める。30m程も樹高がある木が林立している。水は腰まできた。水に浮いている訳の分からない昆虫が人の体を陸だと思って沢山這い上がって来る。不気味な生物が水中から浮き上がってきそうだ。プロットを設定するだけでも相当な時間がかかる。
先頭でけん縄を引っ張っている作業員の1人が「もう行けない。」と言う。それを私が「行け。行け。」と行かせる。彼は首まで水に浸かって泳いで行く。これは大変であった。仕事どころではなく、ここで引き返すべきであった。
はじめに
インドネシアは、私が最初に行った外国である。1978年のことで、年が明け2014年となった今から36年前のことである。私も若く、最初の海外の仕事ということで、この時の経験は強烈に焼き付いている。仕事はインドネシアのスマトラ島のムシ河上流域での森林資源調査であった。まだ、多くの原生林が残っており、測樹した樹木の中で最も樹高が高いものは70mもあり、樹高が50mを越える大木が林立し、まさに圧巻であった。
インドネシア国地図 調査地域
スマトラ島パレンバン、ラハト、ルブクリンガウ、
ムワラルピット、スルラングン周辺地図(移動ルート)
我々が調査したそのような原生林も10数年後に調査したチームによれば、ほとんどの森林が伐採されてしまったとのことである。また、我々が滞在した農村地域にも舗装された幹線道路が通り、開発が進み当時の面影はないという。その後20年程度も経っているので、現在はどのような状態に変化しているか、できれば見てみたいものである。
さて、我々はその地域の森林を守るべく森林管理計画を作成したのであるが、それが伐採されてしまったということで、結果的に調査は、意味が無かったかも知れない。当時は、コンセッションというシステムがあり、(今でもあるが)これが森林を保全するどころか、森林の開発を進めたのではないかと思われる。コンセッションとは、政府が木材会社などへ樹木の伐採権を売り与え政府が利益を得て、木材会社は樹木を伐採し売った代金で利益を得るというシステムである。これが大規模な森林破壊の元凶であることは間違いない。はっきりとはわからないが、それらの利益は各階層の役人達の懐へ消えてしまっただろう。インドネシアの役人達がクリーンであれば、調査結果を利用して森林を保護し、森林破壊のスピードはもっと遅かったかもしれない。
調査地域の森林、多くの焼畑地が見られる
世界のどの地域でも共通であるが、守るべき森林は、政府の強烈な保護政策がなければ守るのは難しい。森林が再生可能といってもインドネシアのような熱帯の太陽が強烈な国では、一旦森林が伐採されてしまえば、元の天然林に再生させるのは途方もない年月が必要である。生態系の条件から現世においては不可能に近いくらい難しい。
結局、利益を求め、現世の自分の利益だけしか考えない人間に、元はと言えば誰の所有物でも無い自然資源はいとも簡単に食い物となってしまうのだ。
それはともかく、インドネシアの林業局の技術者との共同作業や、地元に住む人々との人的交流などを通した異文化交流では何らかの貢献をできたのではないかと思っている。当時は日本も森林・林業面の技術的な国際協力を始めた直後で、調査や計画作りの経験もほとんどなかった。そのため、オールジャパンで仕事をして行こうという意識を強く感じた。そしてインドネシア側の言い分も良く聞き、そういった面から、より相手国が望むような仕事ができたのではないかと思う。
当時、私はまだ調査団の一団員で、若く積極的にインドネシア側技術者とも地元民との交流もできた。その経験について年月を経たが、紀行文としてこのホームページに掲載することとした。
インドネシアに行った期間
1978年11月13日?1979年1月11日の60日間(2ヵ月)
この紀行文の概要
おそらく、多くの方は、熱帯のジャングルなどへは、足を踏み入れたことがないだろう。森林調査で入ったものだが、調査というよりはむしろ探検的要素が強かった。困難であればあるほど楽しさも大きい。そのような調査であった。
ジャカルタからスマトラ島に渡り、徐々に奥地に入って行った。奥地に入るほどに素朴な人間。圧倒的な自然。だが、そこには大きな落とし穴も待っていた。湿地林での遭難騒ぎ、あるいは栄養不足と疲労から水虫のようなものに取りつかれ化膿して行く足。
そこで出会った人と自然は、現代の喧騒に生きる私には、遠く忘れていたものを取り戻すような思いであった。自然への回帰という意味では理想郷の様だった。
奥地の部落の人々との交流では、人の心の暖かさを味わった。本来的に人が持っている心の暖かさは、国や地域が変わっても同じだと思わされた。最も奥地の人々は完全に自給自足の生活である。粗末な掘立小屋に住み、夜は野獣の脅威や孤独と戦いながら生きなければならない人達だったのである。
一方、都会での生活や役所との対応は、うんざりさせられるものがあった。当時はそのような社会であったのだろうが、役人達は人から金をせびることばかりに頭があった。
このような私の体験であるが、非常に珍しい体験だったので、仕事で作成した技術的・研究的な報告書以外の文化面や生活面などを紀行文風に記述した。続きをお楽しみに。
1月の駒ヶ岳
1月の駒ヶ岳
新年明けましておめでとうございます。
皆様にとって佳き年となりますようお祈り申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。
さて、今年は、
ご存じの通り楽しみなスポーツベントがあります。
2月7日から2月23日 第22回オリンピック冬季競技大会 ソチオリンピック
3月7日から3月16日 第11回パラリンピック冬季競技大会 ソチパラリンピック
6月12日から7月13日 2014 FIFAワールドカップ ブラジル大会
天体ショーもあります。
4月15日 皆既月食(関西以東で、食の後半の部分月食が観測できます。)
10月8日 皆既月食(こちらは、全国で全行程が観測できます。)
毎月写真を撮っている南アルプスは、
6月1日 南アルプス国立公園制定50周年
この他にもイベントや記念日、周年など沢山あります。楽しい1年となりますように。
[南アルプス]
NGなこと
【賀正】や【迎春】などの2文字の言葉は、実は正式な賀詞ではなく略語になるので、
目上の人に対してはNGなワードなので、【謹賀新年】や【恭賀新年】などの4文字の
賀詞を使いましょう。という記事を先日、銀行のウェルカムボード(でいいのかな?)で見ました。
「 うん。うん。知ってる ♪ 」とちょっと自慢げに鼻の穴を膨らませてみましたが、
それを知ったのは1、2年前なので、以前の年賀状には普通に使ってしまっていたかも…(汗)
これから年賀状を用意するという方は、よかったら参考にしてください。
私的なNGなことは、昨日、車検が切れました…
明日からの通勤に困ります…
夫からは約5kmの道のりを 『歩いて通え。』
といわれております (–;
・・・・むり ・・・・ 軽トラ貸してください。
最後はNGではなく、きれいな話題を。
駒ヶ根駅前のイルミネーションです。
駒ヶ根市の花 鈴蘭 がきれいですね。
v(^^)v N.A
12月の駒ヶ岳
車のカギ
「ものわすれがひどい。」
出勤のとき、
駐車場に来て車のカギを持っていないことに気が付く。
しかたがないので、カギを取りに戻る。
これくらいの忘れ物なら、たまにはあると思われるかもしれないが、
これをほぼ毎日繰り返しているヤツがいる。
「今日こそは忘れまい」と直前までは覚えているのに、
気が付けばカギを持たないまま駐車場へ。
さすがに何度も続くと、カギを取りに戻っている自分に嫌気がさす。
が、なかなかなおらない。何かい方法はないものか。
これは、「物忘れ」がひどくなったのか、脳にガタがきたのか。
車もパソコンも毎日使わないとガタがくる(気がする)。
脳も使わないとガタがくるのか?
いつ使うか?「いっ・・・。」
ちなみに、脳(記憶力)がよくなる食べ物に
チョコ、コーヒー、アボガド、イワシ、ホウレンソウ、暗記パン
等があるそうですが、
頭を使わないといくら食べても効果はないそうです。
SAK
【森林紀行No.1 18/18】「帰国」
航空写真の撮影契約
進まない契約交渉
この仕事では航空写真の撮影があり、IGM(軍地理院)との間で調査対象地域100万ha(青森県や秋田県くらいの面積)の撮影契約が、すぐに行われる予定であった。しかし、IGM側は事前調査団との交渉段階では航空写真の日本への持ち出しは許可すると言っていたのが、いざ契約段階に来て、それらの国外(日本)への持ち出しは許可しないと言いだした。このことで契約交渉が進まず、団長が帰国する前までに契約ができなかった。
そしてNさんがずっと交渉を重ねた結果、日本へ航空写真を持ち出す時は、エクアドル側からセキュリティーオフィサー(航空写真管理官)を付ければ持ち出してもよいというところまできた。
すると今度は、その管理官の費用はエクアドル側が持つのか、日本側が持つのかで話しが進まなくなった。エクアドル側は当然のことながらその費用を日本側が持つなら航空写真は持ち出しても良いと言った。日本大使館では、そんな話しは受け入れられるわけがない、エクアドル側がごねているだけだとカンカンに怒っている。
キトー市(1985年)
しかし、いつまで経っても議論は平行線で、結局エクアドルの管理官の費用は日本側で持つということで予算をつけることとなり、日本側が折れた。そしてようやく決着が着き、そのことを契約書に書きこむことでエクアドル側は納得した。
実際に翌年航空写真の判読を日本で行ったのだが、私の勤めに写真の保管庫を設置し、その時来た管理官に鍵を預け、彼が毎日9時に保管庫を開け、我々が写真を判読し、5時に写真をしまって保管庫を閉めるということを行った。その管理官の面倒も良く見てやったものだった。
Nさんが一人残る
結局、航空写真の撮影の契約書にNさんとIGMの長官がサインしたのは9月2日で、我々の帰国前日で、その時不在だったMAG大臣は9月5日にサインした。
さて、それから撮影が開始され、Nさんが予定を延長して一人残って撮影監督をしていたのだが、撮影できるような晴天の日が少なく、撮影がなかなか進まなかった。
我々がアマゾン川源流域にいる時は、毎晩空を眺めると満天の星空で天の川もこれほどきれいな天の川はめったにないと言うほどきれいに見えた。これで明日は天気が良くて航空写真が撮れるかなと思って、翌朝起きると必ずどんよりした一面の雲である。これでは航空写真を撮影するのは難しいのではないかと思ったものである。その後時々撮影できた日があり、全部の撮影が終了するのは翌年の7月で1年もかかったのである。
この間Nさんはキトーに11月まで滞在した。撮影を開始し約1ヵ月で15%程撮影でき、Nさんが帰国する11月までに、約50%の撮影が終わったが、一旦日本に帰国し、翌年またキトーに長期間滞在することになった。
キトー市旧市街
帰国
我々は9月3日にキトーを発ち、多くの資料を積み込み日本に向かった。帰りはキトーからグアヤキルに一旦降り、その後メキシコシティーに降りた。それからロスアンゼルに向かい、ロスアンゼルスには夜の9時15分に着いた。この日はロスアンゼルに泊まり、翌日ロスアンゼルスを午後1時に発ち、9月5日の4時過ぎに日本に到着した。
第1回調査帰国後
私はデータを整理し、当時のコンピュータ言語のBASICでプログラムを組んで、材積表を作成した。材積式というのは木の形に合わせて、多くの式があり、それらを一つ一つ解いて、最も誤差の少ない材積式を選定した。
1本1本のデータを入れて、その後は異常データを棄却する統計処理の検定プログラムも組み入れ、その後最終的に材積式が算出されるプログラムを組んだ。
今ならエクセルなどに組み込んである関数で何も考えずに解けてしまうが、当時は何千行もあるプログラムを組み、プログラムに間違いがないかチェックしたり、短期間に良くできたと思う。
こういうプログラムも集中しないとできないもので、3日くらい同じことをずっと考え続け、集中力が持続すると、より少ないプログラム量でできることがひらめいたり、そのような時はプログラミングも面白いと思ったものである。そのプログラムは、今では完全に時代送れとなり、そのようなものを使う人はどこにもいないであろう。
その後、次回以降に供与するコンピュータを何にするかなど検討をしていた。当時NECのPC9800シリーズがでた直後であり、それに決めたが、今のパソコンから見るとおもちゃみたいなものだが、それでも相当に高価なものであった。
その後
この第1回の材積表作成調査は何とか終了したが、この後、第2回、第3回・・・と調査は続いた。特に第3回目の調査の時には、住民の反対運動にあい、中途で仕事を中断させなければならなかった。それらの経緯については、機会があれば、将来このホームページに載せてもらいたいと思っているところである。
終わりに
この調査を通じて最も強く感じたことは、森林破壊の凄まじさである。アマゾン川源流域の大森林がいとも簡単に破壊されて行くというのは驚くべきことである。森林破壊は地球温暖化のような気候変動にも影響を与えているだろう。その影響へは化石燃料の使用が最も大きいだろうが、炭素を蓄積した樹木が大面積に伐採、焼却されて放出される二酸化炭素も膨大であり、この影響も膨大だろう。
エクアドルのアマゾン川源流域の森林破壊を見ると、最初は石油開発が起因となっている。政府が石油開発権を売るのであろうが、原生林状態の中から産出される石油開発権を買った会社が、原生林を切り開き石油開発のための道路を作設するのである。
アマゾン源流域で開発されていた油田
道路が作設されるとそれに沿って貧しい農民達が入植してしまう。この地域がエクアドル政府の管理も及ばない誰でも入れるオープンアクセスの状態だったこともあるが、もともとは先住民が住んでいたのである。この調査の翌年からエクアドル政府はこの土地に日本の政府が明治時代に行ったような官民有地区分のような国有林と民有地を区別する事業に着手した。それにより先住民地域も決まったが、管理は十分にできなかったであろう。先住民にとっては、国有林も農民が入植する民有地も、もともとは彼らが自由に使っていたのである。
森林は石油開発の道路が作設されるとそれだけで多くの木が伐採され、大径木は販売されていった。大規模な商業用伐採ではないが、起因は経済的利益の追求であり、それにより森林が犠牲になったのである。その後道路に沿って住民が入植すると森林を伐採し、販売できる木は販売するが、多くは焼かれ農地へ変換されるのである。
道路沿いに入植していく農民
原生林が農地へと変換されていく
また、アクセスが容易になり、大規模なアブラヤシ園への変換も容易になり、生物多様性は失われていくのである。
大規模なアブラヤシ園
原生林からアブラヤシ園へ(生物多様性が失われて行く)
ブラジルのマットグロッソ州はアマゾン川の最上流域にあたるが、衛星画像を見ると今は、森林はほとんどない。マットグロッソとは大森林という意味なのにであるが。私はこのエクアドルの調査の前にマットグロッソドスル(南のマットグロッソ)州に続くパラグアイの森林を調査したが、その消失した過程から数十年前まではマットグロッソ州には大森林が広がっていたはずである。それが今では牧場や農地に変換されている。ヨーロッパの森林もすべて伐採されて再生された歴史を持つ。アマゾン川流域の平坦地の森林はいずれ全て伐採される運命にあるのかもしれない。
今なお残るアマゾン川流域の熱帯林は、生物多様性の高い天然資源であり、ここでの保護は重要であるが、その保護は危機的状態にある。
今国連で盛んに議論されているREDD (Reduced Emissions from Deforestation and forest Degradation:森林減少・劣化からの温室効果ガス排出削減) の考えを敷衍すると、残された熱帯林を政府がコンセッション(伐採権)を民間業者に与えて両者が儲けるような場合、その収益に当たる分まで経済的支援を与え、伐採を阻止するという考えにまで至らなければならないだろう。そしてその考えをもっと推し進めると、残された天然林は買い上げて国際機関の管理下に置くということにまでなるであろう。そこまでしないと熱帯林の保護は難しいであろう。
この調査地域の近隣には有名なヤスニ国立公園がある。エクアドル政府は石油開発権よりも多くの資金を集めることで、ここの石油開発は行わないこととしたが、資金が十分に集まらなかったので、ここの石油開発を行うよう政策を変更した。ここは生物多様性が高いことで有名であるが、これではヤスニ国立公園も私が調査したこの地域のように成ってしまうであろう。再度資金を集め森林保護への政策転換を望むものである。非常な虚しさを感じつつ、この紀行文はこれでひとまず終わりとしたい。
次回からの予告
次回は来春からとしたいが、私が最初に海外調査を行ったインドネシアのスマトラ島での紀行文を書きたいと思っている。