【森林紀行No.1 14/18】「交通事故」
交通事故
不思議なもので、悪いことは重なるものである。1985年8月12日に日航ジャンボ機が御巣鷹山に墜落したが、そのニュースを短波ラジオジャパンで聞いた日に、ここでもラゴ・アグリオに帰ったカウンターパートが交通事故を起こし、その日に残っていて仕事に行った別のカウンターパートが指を切ってしまった。これは私にとっても重大な危機管理能力不足だったので日を追って順に述べる。
いつも食べていたコカの町の食堂
カウンターパートとのせめぎあい
1985年8月9日(金)
いつも朝が遅いカウンターパート
この日は、コカから約40km先のゲレイロという名前の人の所有している森林を調査した。
前日の木曜日には「明日は朝7時に出発して午後1時までには仕事を終わらせてから、弁当を食べ、早く帰ろう。」とモリーナ達エクアドルの技術者と作業員は、共々言っていた。何故彼らがそう言うのか、頭が働かなかったのであるが、彼らはラゴ・アグリオに帰りたかったのである。
朝の出発は毎朝7時と決めていたのだが、モリーナは、いつも遅く8時過ぎになってしまうのであった。他のカウンターパートはちゃんとしているのだが、親分のモリーナがいつも遅いのであった。彼は7時には出発すると言いつつどうしても出発できないのであった。我々はいつも7時にMAGの事務所に行っていた。
彼らが木曜日に「明日は必ず朝7時に出発する。」と言うので、8月9日(金)は我々はいつもの通り、朝6時に起き朝食後、7時にコカのMAGの事務所に行きカウンターパートを待っていた。
しかし、彼らが出発準備ができたのは、やはり8時過ぎで、出発したのは8時半であった。
また、この日は一番良く働く、チェンソーマンのパスクワルが来ていないので、どうしたのかと思った。彼は先住民だからだろうか、とても真面目で、いつもは7時には来ていて、チェーンソーの手入れや、他の道具を車に乗せたり、こまごまと働くのであった。彼の息子も作業員として雇っていたので、「パスクワルは今日はどうしたのだ?」と尋ねると「昨日の夜は家に帰ってこなかった。たぶんどこかで飲んだくれて酔い潰れているのだろう。」と言う。パスクワルでもそんなことがあるのかと思う。それも先住民だからだろうかとも思う。仕方がないのでパスクワル無しで昨日と同じゲレイロの山へ入る。
入植者の家
モリーナとのせめぎ合い
モリーナはしきりに仕事は「1時までにしよう。」と言う。しかし、我々は「少なくとも2時までは行う。」と言う。しかし、前日もそうだったが、この日も雨で危険であった。前日の雨は強弱強弱のリズムで降ってきて、全員ずぶ濡れであった。カッパを来ていても中から汗でびしょ濡れである。この日は、山へ入るなり、いきなり雨が降り出し、それほど強くはないが、一定の強さでずっと降っていて、やはりずぶ濡れであった。
2時まで仕事をして、山から出て、ゲレイロの家で昼飯を食べ、4時にMAGの事務所に戻った。モリーナは、「どうしてもラゴ・アグリオに行きたい。」と言う。
私は「だめだ。我々は仕事に来ているので、私的な行動は許されない。それにラゴ・アグリオまでは車で1時間半はかかる、往復すれば3時間もかかる。途中に渡し場もあるので何時間かかるかわからない。コカでの仕事が終わってから帰ることにする。ここで仕事の整理と休養をしてくれ。車での往復は疲れるだけだから。」と言って許可しなかった。
しかし、モリーナは、「大丈夫だ。増井。人生は仕事だけではないよ。我々はキトーに戻るのではなく、ちょっとその先のラゴ・アグリオまで行ってくるだけだ。心配しなさんな。月曜日の朝7時までには帰ってくるから。ウワハッハッ。」と言う。結局彼らを抑えきれず、「仕方がない。それでは月曜の朝7時までには必ず戻ってくるように。」と言ってしまい、彼らの言い分に負けた。モリーナもきちんと理由を説明してくれればよかったのだが、そうは言えなかったのだ。それはモリーナの二号さんとその子供がラゴ・アグリオに来ているからだった。
モリーナとルナとメディナのカウンターパート3人、作業員4人、運転手2名をラゴ・アグリオに帰した。車は我々が借りているトラック1台とMAG本部から提供されているランドクルーザー1台の計2台でラゴ・アグリオに帰った。MAGから借りているブロンコ(アメリカ製の車で6人~7人乗れる)は貸さなかった。
夕方になり、MAGにようやくパスクワルも顔を見せに来たが、やはり酔っぱらっていた。彼も途中までモリーナの車に乗せてもらい自分の家へ帰った。
カウンターパートの中では、アロンソがラゴ・アグリオに帰らずコカに残って、我々と一緒に行動すると言ったので安心した。一番若いアロンソの方が一番年上のモリーナよりもはるかに責任感があった。
1985年8月10日(土)
ナポ川の偵察
この日はアロンソとカスティジョ(コカのMAG職員であるが、給料が安いので我々は作業員として雇い日当を支払った。)と我々と計6人でナポ川をエンジン付きのボートを船頭付きで借り上げ、先に書いたようにプリマベーラまで往復した。
ナポ川を渡るハシケ
最高に楽しかった日
1985年8月11日(日)
楽しかった一日(日エ米仏文化交流)
この日は休みとした。コカのような辺鄙な場所にもアメリカ人の学生で医療関係のボランティアの学生が一人いた。それにフランス人の青年夫婦が探検に来ていて、同じホテルアウカに泊まっていた。午後からは彼らと一緒に日西英仏の4カ国語チャンポンで雑談をしたり、トランプ、特にポーカーなどをして楽しんだ。
我々の中ではY君が190cmほどと背が高く、彼らも背が高かったので背比べをしたが、Y君が一番高かった。
夜は、この汚い町にもディスコがあり、そこに踊りに行った。やはり南米人にはダンスがないと生きていけないのだ。夜になり暗い中で回転するミラーボールの光の中で、とてつもなく汚い場所だがその汚さは見えず、とても高級な場所にいるような錯覚を覚えた。皆で踊って、特にフランス人の若い奥さんは引っ張りだこであった。今回の調査の中では楽しい思い出であった。
事故の前触れ
1985年8月12日(月)
ラジオジャパンで日航機の墜落を聞く
この日はカウンターパートは朝9時までにラゴ・アグリオからコカへ帰ってくることになっていたが、我々はどうせ10時か11時までは帰ってこないだろうし、この日の仕事はハードにはできないだろうと思っていた。
この日はまったくついていなかった。朝6時に久しぶりに聞いたラジオジャパンで、500人以上乗った日航のジャンボ機が墜落したというニュースを流していた。日本では大変なことになっているのではないかと思った。何か不吉な予感が走った。
9時から11時半までMAGでモリーナ達を待つが帰ってこないので、この日から働くことになっているMAGのパトリシオ(職員だが作業員として雇う)のクニャード(義理の弟)の山へ行く。我々4人と残っていたアロンソと作業員3名と運転手とそれにクニャードの父親やそのとりまき計3人が付いてきて、胸高直径1m38cmのチョンチョ(ローカル名)を1本伐る。これくらいの大木を倒すのには2時間以上もかかる。そして測るのにもまた1時間以上かかり、この日はこれ1本しか測定できず、また水曜日か木曜日に来るから頼むと言ってMAGへ帰る。
アロンソが指を切る
帰る途中、ハシケの渡し船を渡ったところで、カウンターパートのアロンソが誰かがサトウキビをむいていたマチェーテ(ナタ)にぶつかって左手の人差し指をかなり深くきってしまった。白い肉が見えたと思ったら血が噴き出してきた。すぐに応急のバンドエイドを貼ってやる。
近くに最近できたばかりの病院があるので、すぐに行こうと言ったのだが、医者に行くのをすごくいやがる。無理に連れて行くとまだ若い医者は指をすぐに洗い、針で縫うと言う。麻酔もかけずにすぐに縫おうとする。たぶん麻酔も無いのであろう。するとアロンソは怖がって逃げてしまった。
捉まえると「あの医者は野蛮だ。麻酔もかけずに縫おうとした。」と言う。「たいしたことないんだから、痛いのを少し我慢すればいいんだよ。」と私が言うが、「あの医者は野蛮だ。」の一点ばりだ。応急の絆創膏をはがしたので、また血がどんどんと流れている。仕方がないので上腕をしばり、またガーゼを巻いて絆創膏で固定してやる。
交通事故とのうわさが流れて来る
さて、5時頃MAGへ帰るとMAGの車が事故を起こしたとのうわさなので、署長が見に行っているとのことだった。我々はモリーナ達カウンターパートは、まだ戻って来ていないと頭に来ていた。MAGの車と言っても沢山あるので、我々の仲間だとは思わなかったし、思いたくなかった。それにまだはっきりしていない。
それからホテルへ6時頃帰る。アロンソはその後ホテルの私の部屋に訪ねて来たので、飲み薬の抗生物質を3日分やり、ガーゼをはずし、クロマイをたっぷり塗りつけ包帯をしてやった。すると3日くらいで治ってしまった。あまり薬のお世話になったことがなかったのだろう。あまりに早く治ったので驚いた。
交通事故
カウンターパートの交通事故だった
夕食を近くの食堂で食べていると借上げ車の運転手が来て、事故は我々の仲間でかなりひどいと言う。午後7時頃で、既に暗かったが、すぐにMAGに行くと事故にあったのは我々がMAGから借りているランドクルーザーだった。署長が別の車でそのランドクルーザーを引っ張ってきて、かなりひどい状態である。フロントガラスは全てなく、横の三角窓も壊れている。車の天井は歪んでひし形になっている。バンバーは付いているが、ところどころへこんで歪んでいる。エンジン部のふたはしまらず、歪みが大きい。タイヤは、パンクはしていないが軸が曲がったのだろう少し傾いでいる。内部の運転席の横に血がついている。
交通事故を起こしたランドクルーザー
署長が行った時には車は道端に捨てられており、もう周りには人は誰もおらず、車だけ引っ張って帰って来たということだった。
口コミの話をまとめると乗っていたのは8人で3人は背骨をやれており、内2人が重体だとのこと。朝10時頃、コカから30kmくらい離れたラゴ・アグリオよりのサンチェスという場所で事故が起きたとのこと。
事故車の前部
事故車のフロントガラス
当時雨が降っており、かなりのスピードでカーブを曲がり切れず、石油のパイプラインにぶつかって一回転したとのことだった。しかし、正確なことはわからない。すぐに電話局へ行くがコカとラゴ・アグリオの間には電話はないという。また、また仕方がない。
署長は明朝キトーへ電話し情報を得るという。口コミでは、事故が起きた近くにテキサコの施設があり、そこに収容され、セスナでキトーに運ぼうとしたらしいが、雨が激しく、運べずにラゴ・アグリオに運んだらしいとのことだった。
明日朝6時にならないと渡し船が動かないので、6時にアロンソ、Y君、運転手の3人をラゴ・アグリオに行かせ情報を得ることにする。私を含めた日本人3人は、残って署長の情報を待つことにした。
中秋の名・
19日は、1年でも最も美しいといわれる「中秋の名月」でした。大きな丸い月が上ってきましたが、写真を撮るタイミングを逃し、9時頃撮った写真ですが、ただの丸い点にしか見えません・・・残念 by NK
【森林紀行No.1 13/18】「コカの町」
コカの町
コカの町の方がラゴ・アグリオよりも大分小さかった。道路はやはり未舗装であった。
ただ、ラゴ・アグリオの町よりは古い町なのだろう。少し落ち着いた雰囲気が漂っていた。しかし整うのは、まだまだ先の話しだろうと思われた。
毎朝早く起きて町の食堂に朝食を食べに行った。3軒くらい食堂があり、パンとコーヒーだったが助かった。ホテルにも食堂があったが、朝は始まるのが遅かったのだ。
コカの道路。左側の青い建物がホテルアウカ
ホテル・アウカ
受付にて
最初にホテル・アウカに着いたときに、受付の女性が我々に向かって「どこから来たの?」と聞いてきた。我々は「ハポン(日本)から来た。」と答えた。すると彼女は「ハポンから車でここまで来たのか?」とたずねて来た。最初私は何を聞かれているのか良く分からずキョトンとしていると、「ハポンとはどのあたりにある村か?きっと小さな村でしょう。」と言った。世界の地理がどのようなものか知らなかったのだろう。
私は「ハポンからキトー経由で、車で来たよ。ハポンは本当に小さな村だよ。」と答えた。
アウカの部屋
数が限られているので一人部屋が満杯であれば相部屋であった。2~4人くらいの相部屋の方が多少広くて居心地が良さそうだったが、壁はベニヤ板みたいなもので隣室との声は筒抜けであった。
一人部屋は多少しっかりしていたが、狭くて汚く居心地は非常に悪かった。特に裏の部屋はコンクリート製だったが、窓が小さくまるで監獄に入れられているようだった。
私は一人部屋にいたが、満杯の時は仕方なく裏の部屋に入ったが、多少でも居心地の良い一人部屋が空けばそちらに移った。
ホテル・アウカの部屋
ホテル・アウカにいた先住民
ある時、仕事から帰ってくると受付に入ろうとすると何か獰猛な動物がいるような殺気を感じ、中に入るのがためらわれた。中をそっと覗くと、これこそ正真正銘の原生のアウカ族ともいうべき先住民のインディオがいた。
やや小柄ながら筋肉質、猫背で耳に大きな穴を開け、木の枝を短く輪切りにしたものをさしている。その迫力には圧倒され、声をかけることもできなかった。冒険旅行に来たヨーロッパ人が道案内に雇っているとのことだった。
庭に飼っていたボア
ボアは大きくなれば5mにも達し、最初に我々が遭遇したものも4m程もあった。3m程のボアをホテルアウカの庭で放し飼いで飼っていた。木の枝2mくらいの高さのところにまとわりついてじっとしていた。昼間は動かないようだった。夜行性なのであろう。
その他飼っていた動物、鳥
ホテルアウカでは放し飼いのボア以外にオセロットやサル、トゥカン(オオハシ)やオウムを小屋に入れて飼っていた。トゥカンというのはくちばしが長く大きく、変わった鳥だ。キツツキ目オオハシ科に属する。キトーの土産物屋ではバルサ(比重が0.2程度の非常に軽い木)で作ったトゥカンを売っており、私もいくつかお土産に買った。
オセロット
サルと小鳥
小鳥
オウム
トゥカン(オオハシ)
コカの町の中にて
町で大きなネズミをみる
町の食堂ではときどきネズミの肉のステーキがあり、それも良くたべた。脂肪分が少なく、パサパサといった感じだったが、おいしかった。
それを犬のように首輪を付け散歩している人を町中ではときどき見かけた。小型犬くらいの大きさはあり、重さは6?7Kgはあるだろう。
モリーナ達
モリーナ達はラゴ・アグリオでもそうだったが、コカでもMAGの事務所の宿泊所に泊まった。そして夜は良く飲みに行った。彼らも泊まる場所は狭く、相部屋なので、事務所には泊まりに行くだけで、眠くなるまで外で時間をつぶしたかったのだ。そのため彼らと飲むときりがなかった。
飲み代といっても大したことはなかったが、最後は我々が持つようになるのだが、彼らは最初は、必ず「俺がおごる。」と言う。こちらも眠いので、「もうやめよう。」というと、モリーナは、「これが最後の一杯だ。」と言う。そしてそれが終わると「俺がおごるのはこれが最後だったが、今度はアロンソがおごる。」という。そしてアロンソが最後になると、「アロンソの最後のおごりは終わったが、今度はメディーナがおごる。」と言っていつまでたっても飲んでいて帰ろうとしないのだった。
コカの市場
コカの町に市場があり珍しいものが沢山あったので撮った写真が次のものである。その他、森や町で取った珍しい動植物も載せる。
マンダリン、チリモヤ(釈迦頭)、パッションフルーツ。
チリモヤは種の周りの果肉がクリームのようで甘く柔らかい。
種の大きさはカキの種くらい。パッッションフルーツは中に
つぶつぶの種があり、その周りの果肉と果汁が甘酸っぱい。
豆類(入れ物が珍しい)
果物を売る少年
野菜を売る少女
日本とは違った感じのニワトリ
コーヒーの殻を乾かしている
近くにいた水牛
林内周辺で取った動植物の写真
マーモセット?
同上
着生ラン
着生ラン
木の幹から直接花が咲く幹生花
菌類
サルノコシカケ
ノボタン科の低木(三主脈がはっきりわかる)
9月の駒ヶ岳
西駒んボッカに参加
9月15日(日)第1回中央アルプス西駒んボッカに参加しました。
伊那市鳩吹公園から中央アルプス将棊頭山の山小屋、西駒山荘までの標高差1750mのヒルクライムレースで、競争だけでなく、建替え工事予定である西駒山荘の建材(レンガ2.5キロ)を参加者全員で運び上げ、再建に携わることが大会の趣旨です。
小生3か月ぶりのレースで、練習もロクにせず、またしても過重肉体のままの参加となってしまったうえ、大会規定の携行品が、レンガのほかに地形図・レインウエア・食料・水1L以上・携帯電話・防寒着・熊鈴・健康保険証・ヘッドライト・携帯トイレ・手袋・ホイッスル(協賛)で、計約7キロを背負っての苦行であります。
台風18号上陸 前日であったため中止が心配されたレースは、AM6:30小雨で無事スタート。前半ロード区間と桂小場登山口から馬返しまでのトレイルはなんとか走りき り、馬返しから分水嶺はひたすら岩段を四つ足で登り続け、分水嶺から西駒山荘のトラバースでは大雨・暴風で震えながら、ゴール西駒山荘にてレンガを大会委員に手渡しての完走となりました。
想像以上にレンガが重く、登坂中は何度も捨てようかと思いました(おいおい?!)が、何とかゴールしてレンガを届けることができ、他のトレイルレースとは一味違う達成感。
ゴール後、稜線をトレランしようと計画していたため、しばらく天候の回復を待っていましたが、雨風は止まず、体が冷え込んできたので山景色を全く見ることもなく、早々にカッパを着込んでの下山となりました。
復路はレースでは無いため、他の参加者としゃべりながらのんびり走って、鳩吹公園着がAM11:30。山を見上げたら、なんと晴れあがっていました。
神様からの「来年も参加しなはれ」の声と解釈し、鬱憤は快晴となった午後に、駒ヶ根のテニスコートで晴らしました。
mokoji
駒ヶ根さんぽ
秋になってきましたね!
季節の変わり目に、近ごろみかけた植物を紹介します。
クサギ
山の中でよくみかける木です。
その名の通りとっても臭いので、うかつに触ると手ににおいがついて嫌われます。
たまたま花が咲いていたので撮りました、花はかわいいですね。
アカザ
ホウレンソウの仲間なので、心なしか似てますね。
食べれるそうですが、自分は食べたことはありません。やたらアクが強いという噂です。
ちなみにこの赤い色は実は表面に赤色の粉がついていて、触ると指につきます。
この粉の色が白いシロザという植物もあります!
ノビル
田んぼのあぜ道など、どこにでも生えています。
ニラの仲間で、根元の少しふくらんだ部分がとってもおいしいのです。味噌に合うと思います!
花はとってもきれいですね。今頃咲いているので、ぜひ探してみてください。
ニホンアマガエル
かわいい!
RS
【森林紀行No.1 12/18】「標本木の調査」
伐採
チェンソーマン
しばらくして2班とも良いチェンソーマンが見つかった。石油開発のため伐採をしていたので、大きなチェンソーを扱って、木を伐るのがうまかった。これでまた仕事がはかどるようになった。
私の班のチェンソーマンはパスクワルといい、先住民である。
大木を伐るパスクワル(大木になると板根が発達する)
同じ木を反対側から撮影
もう一方の班のチェンソーマン。見守るのはモリーナ
伐採した木を測る
伐倒したらまず2mおきに印をつけ、樹高を測り、2m毎に直径を測る。
樹高を測るルナ
直径を測るメディナ
当初、木の年輪は見えないだろうと思っていたが、年輪が見える木が多かった。年がら年中雨が多く、いつも暑いので、偽年輪が多いと思われた。それでも雨期と呼ばれるほど雨が多いのは4月~6月で、それらの月は300mm~400mm以上降り、その他の月でも200mm程度は降るのである。それでも月雨量に150mm~200mmもの差があるので、4月~6月に最も成長すると推定し、年輪幅を測り、成長速度を予測することとした。
いくつもの年輪、疑年輪がわかる
年輪を測る
板根を伐る
木の直径が1m以上、樹高が30m~50mもある木を切り倒すと、伐るのに半日くらいかかってしまう。それは大木には板根が発達しているからで、沢山の板根を持っている木が多く、それを一つ一つ伐っていって、ようやく幹にたどりつくのである。
板根が発達する理由は、熱帯は雨が多く暑いので、落ち葉など養分になるものがすぐに分解してしまい、またすぐに流されるので、土壌の表面にしか養分が蓄積しないため、表層の養分を吸収するためである。暑いので植物体の生産も早いが、分解されたり流されたりして養分が土壌に蓄積しないのだ。つまり土壌中の養分の蓄積の少なさを早い養分の供給(木の葉が沢山落ちすぐ分解する)、早い回転で補っているので木の成長が速く見えるのだ。
そのためその養分を求めて木の根は、表面を浅く横に這い地中深く下に入らない。そのため木が大きくなるとその巨体を支えるために板根が発達するのだ。
板根を一つずつ伐っていって木を倒す
背景の木は板根の幅だけで10m以上もある大木
木の根に跳ね飛ばされる。
ある時、MAGに帰ってからの打合せの時に、Y君が木の根に跳ね飛ばされたと言った。危ないから伐っている木のそばに近づくなと口酸っぱく言っていたのだが、近くで見ていたのだ。倒れるときに根が跳ねあがり、自分も飛ばされたとのことだった。幸い何の怪我もなくよかったが。
また、私とI君がリックサックを木から4~5m離れていたところに置いていたことがあり、やはり木が倒れる瞬間に根が跳ねあがり、リックが10mも飛ばされたことがあった。幸い壊れたものは何もなかったが、もっと気を付けなければならなかった。その後はより注意深くなった。
雨、雨、雨
本当に雨が多かった。
先にも書いたが、ここは本当に雨が多かった。ラゴ・アグリオの年平均降雨量は3,500mm、コカは2,900mmもあり、東京のほぼ倍である。降雨日は年200日を超える。実際に調査の時は毎日午後になると雨が降った。
林内で雨に打たれるルナと増井
晴れると直射日光の下では猛烈に暑く、林内では蒸し暑い。しかし、雨に打たれると冷える。気温は16度くらいまで落ちることがある。帰ってびしょ濡れのままホテルのシャワーを浴びるのだが、よけいに冷えた。コカのホテルの水はアマゾン川の水をポンプ車で運んで来て、そのまま屋根の上のタンクに溜めたものだから、茶色く、雨の方が清潔なくらいだったが、汗混じりの雨は落としたかったのだ。
マチェーテ(南米のナタ)を持つ作業員らと共に
森の人パスクワル
パスクワルは強かった。重いチェンソーをかついてドンドン林内に入って行き、歩くのも早い。よくこんなに力があるものだと思うくらいに力がある。
あるとき緑色のヘビが木にからみついていて、インドネシアで見た猛毒のグリーンスネークとそっくりだった。パスクワルはその蛇を見つけると、マチェーテで頭を切った。他にも猛毒そうな小さい蛇は沢山いた。
パスクワルが切ったヘビ
また林内には毒蜘蛛タランチュラやさそり(エスコルピオン)も多く、あまり気分の良いものではなかった。
パスクワルに「林内にいるヘビやタランチュラ、さそりは気にならないか?怖くないか?」と聞いてみた。すると彼は「何が怖いんだ。危ないんだ?危ないことなど一つも無いさ。どんな生き物だって、俺の方が先に気が付くから全く問題ないさ。ヘビはマチェーテでイチコロだし、タランチュラやさそりなんてにぶいから簡単に踏みつぶせる。」とのことだった。
パスクワルもかなわなかったもの
しかし、パスクワルも蜂にはかなわなかった。大きな木を切り倒すと、木の上の方には蜂の巣がよくあった。倒すと黒い蜂、日本の地バチのようなハチが一斉に襲ってくるのだった。「逃げろ。」と全員が一目散に逃げる。するといつも逃げ遅れるのが木の真下にいるパスクワルだった。運悪く逃げ遅れると沢山のハチが毛髪の中に入ってしまい、大量にさされるのであった。全員ヘルメットをかぶっていたが、ヘルメットの脇から入ってしまうのだ。幸い私は遠くでみており、逃げ足も速く、刺されたことがなかったが、パスクワルは時々刺され、刺された翌日は調子が悪いと言っていたこともあった。
森の人パスクワル
【森林紀行No.1 11/18】「細かい問題の発生」
細かい問題の発生と石油開発
調査地域内の小さな湖。静かな湖面をカヌーで渡る先住民
伐採した樹木の大きさを測る。
細かい問題
作業員がゴネる
一人の作業員が数日働いた後にゴネだし、まだ、残業をしていなかったにもかかわらず「残業代をつけろ。」と言う。それに「土曜日働くなら2倍、日曜日働くなら3倍払え。」と言いだした。我々は、「基本的に、安全第一で極力残業しないようにしている。川の渡しなどで帰りが遅くなることがあるかもしれないが、実質的に労働時間は短い。それに雨で働けない日があったら休みにするから土日関係なく働く。日給はこの辺の相場よりも少し高く払っているので今のままの条件で働いてくれ。」と頼むと、「じゃあ働かない。」という。
もう一度事務所でじっくり話し、「遅くなった場合の残業代は付ける。土、日は仕事の進行具合を見て極力休むようにするが、働かなければならないときは働いてもらう。土曜日は2倍、日曜日は3倍払う。」ということで我々が折れて彼の言うことを認めた。
しかし、翌日になるとその作業員がまたゴネ出し、今使っているマチェーテ(南米のナタ、チームが貸している)をくれ、それに靴を買ってくれなければ働かないという。昨日我々が折れたのでゴネ得と思っているのだろう。「マチェーテは貸しているので仕事が終わったら返してもらう。我々の仕事は今後も続く。靴は自分で調達してくれ。いやなら別な人を雇うから、来なくていいよ。」と言ったら翌日から本当にこなくなってしまったので、少々驚いた。
仕方がないので別の作業員を雇った。作業員の雇用についてはヒメネスとモリーナが率先してやってくれたので問題はなかった。
小切手が落ちない
Banco Internacionalは現場の町ラゴ・アグリオで我々が泊まっているホテル「エル・コファン」の近隣にある。ある時私がサインした小切手の金が落ちないと作業員が言ってきた。漢字のサインを使っていて、急いで書いたので崩れた字で、銀行員には漢字は分からず、丁寧に書いた原本のサインと違って見えたのだ。仕方がないので銀行へ言って説明し、サインをもう一度してお金が下りた。それからサインは丁寧にするようになった。
毎日のパンク
借りたレンタカーとMAGの車は毎日パンクする。仕事に行くと毎日2台とも4本のうち、1本は必ずパンクした。2台とも1本のタイヤがパンクし、予備のタイヤと取り換えてからその後にパンクすることはなかったのは幸いだった。2本パンクしたら走れなくなる。ただ、積んでいる予備のタイヤと交換するのに毎日時間がとられるのがもったいなかった。我々も業を煮やし、タイヤ10本全部買ってやるからと全部取り変えさせた。すると次の日から一切パンクしなくなり、仕事がはかどった。
レンタカーとMAGの車なのでバカバカしかったがやはり仕事が進まないのでは仕方がない。多少の金を惜しまず思いきって変えて非常に良かった。
石油開発
先述したが、この地域は1960年代に石油が発見され、1970年代に本格的な石油開発が進んだ。これにより石油開発のための道路が開設され、政府が入植政策を進めていたこともあるが、許可を持たないアンデス山脈中に住む貧しい農民が多数、この道路に沿って入植してしまい、今度は横道を作って森林を伐採し、農地に転換して行くのである。もともとは先住民しかいなかった土地に新たな入植者が入って来て先住民の土地が奪われていった。
我々が調査を始めたこの年まで、この周辺の土地所有は誰のものともはっきりせず、あいまいであった。それをエクアドル政府は、この翌年国有林設定事業(日本の明治時代に行った官民有林区分のような事業)を始めるのであるが、我々日本の調査団がその境界設定のための測量をしていると入植者や先住民に誤解され、調査の反対運動にあい、調査は中断に追い込まれるのである。
石油開発の最先端
ダユマ周辺は石油開発の最先端の場所である。この道路の最先端に小さなテントを張り、寝泊まりして、森林の大木を伐採していたのは黒人たちであった。よくまあこんな劣悪な場所に寝泊まりさせられているなあと思うほど大変そうであった。顔も険しく、あまりしゃべらないので親しくはなれなかったが、彼らは1本いくらで伐採を請け負い、伐採しているのであった。最初にテキサコの技術者が石油が出る場所を探査してあるのだろう。その方向に向かって道路が延びていく。
石油開発のための道路が延びて行く。周辺の大木の樹高は30m~50m。
石油掘削地の整地
もちろん道路は石油掘削のためで、油田がある方向へ延びていくのだが、道路の延び方をみるとアンデス山脈に沿って南北方向に走って行く。油田は麓に沿って南北方向に分布しているのだ。
石油の採掘は次のように行っていた。まず、道路に近いところで、採掘井戸を作設するため周囲の森林を伐採する。ここも有用木を一本単位で、作業者に伐採を請け負わせている。
次に石油汲み上げ用井戸の掘削のために整地する。そして周囲が伐採されたところで、伐採した木を敷きつめ固めその上に砂利を引いてさらに固めて行く。
採掘用井戸を作設するため伐採された場所
木材を敷きつめ、その上に砂利をかけていく
井戸の作設
それができたら次に石油を採掘するための井戸を作設するのである。
石油採掘の井戸
安定供給
そして安定的に取れるようになると次のように自動的に石油が回収される簡易な井戸となるのである。
石油を自動採掘中の井戸
夏の必須アイテム!!
「暑い!!」 と、言っては毎日過ごしています。(夏だから当然と言えば当然ですが・・・)
そんな我が家ですが、
これまでエアコンなどというものはもとより、扇風機すら碌なものも無く過ごしてきました。
とはいうものの、今年はさすがに暑い。
暑い時の日中の室温は35度を優に超え、
夜10時を過ぎても30度を下回らない状況(@_@)
というわけで、今年は扇風機を購入!!
触っても安全なように、羽根なしタイプにしました。
これまでに比べれば、かなり涼しい感じがしています。
でも暑いものは、暑い (^_^;)
RYU。