【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.8

森林紀行

入植者達や気晴らし

 

入植者達

 入植者達はたくましかった。入植地はミニフンデ (minifunde 零細農地、小農場) と呼ばれていた。土地の地権はないが,軍から許可を貰っているし、住民達は逆に軍が守ってくれるからと安心していられたのだろう。

 入植者はブタやニワトリを連れて遠くからやって来て、オノとナタで木を伐り倒し、掘っ建て小屋を建て、住み込んだ。たくましい限りに見える。

 

  この調査の最初には、造林予定地全体の地図を作成するために、トランシットで正確な測量を行ったが、それが半分以上も役に立たないことになってしまった。

 

入植者達と。一番右が私。その左は森林局の技術者.jpg

入植者達と。一番右が私。その左は森林局の技術者

 

ロバを引く入植者の小さな娘.jpg

ロバを引く入植者の小さな娘

 

 

黄疸になった入植者を病院へ運ぶ

 入植者がいくらたくましくても病気には勝てない。ある日調査が終え、ブトゥのペンション(ホテル)に帰る途中だったが、まだ調査地に近いところで、道路をブトゥ方面に歩いている二人連れのカップルを車で追い抜いた。夫が妻の手を引いており、歩き方が不安定である。

 車を運転していた森林局の技術者に車を止めるようにいい、二人のところに戻って話すと、奥さんと思われる女性は、顔がもう真っ黄色というくらい黄色く黄疸がでていた。肝炎だなと思った。どこへ行くのか訪ねるとブトゥの病院へとのことだった。ここから20Kmも歩いていくつもりだったのだ。こんなに黄疸がでていて歩くのはとても無理である。へたをすると死んでしまうだろう。

 肝炎の感染の恐れもあるかとも思ったがそんなことは言ってられない、車に乗れとブトゥの病院まで送り届けた。仕事ついでの人助けといったところだったが、その後どうなっただろうか。

  肝炎といえば、私もこの調査の15年後くらいではあるが、アフリカのジンバブエでA型肝炎に罹り、死の淵をさまよったことがある。全身のけだるさで、全く動けなくなるのだが、黄疸がでるあたりまでは、食欲は全くないのだが、動けることはできた。この話は、またジンバブエ編で書く予定である。

 

気晴らしなど

調査基地としたペンション

 この調査で滞在していたのは、国道沿いのブトゥという町にあるペンション(ホテル)である。パラグアイ人がペンションと言っていた。ここから調査地までは約20Kmあり、道路が砂地であるため毎日約1時間かけて通った。

 南半球なので7月~8月の冬は寒かった。毎朝霜が降りるほど寒かった。厚手のジャンパーを着こみ、車には暖房を入れて現場まで行く。着くころには少し暖かくなり、昼頃には大分暑くなる。

  それに引き換え、夏にあたる11月から3月くらいは非常に暑かった。直射日光の下ではすぐに熱中症になってしまいそうである。森林内では暑さがかなりしのげ、林内にいる方が楽であった。

 

ペンションの娘達

 このペンションには16才から25才くらいの3人の娘がおり、ペンション経営を手伝っていた。この姉妹全員、目を見張るような美人で、皆の注目の的であった。今写真を失ってしまい、見せられないのが、残念である。やはり、メスティッサで、白人系統が強い様に見えたが、美人なのはスペイン人と先住民の混血だからだろうか。美人とは関係ないが、最近のDNA研究によれば、パラグアイの先住民グアラニー族は日本人と相当近いそうだ。

 一番下に5才くらいの息子がおり、これは娘達の甥っ子だったかもしれない。一番下の娘はフアニータと言い、16才である。ある時、フアニータが、その男の子のいたずらを怒るのに「¿Qué estás haciendo? ケ・エスタス・アスィエンドー(何しているの?)」と怒った声で言っているのが聞こえた。この時、怒り方は、日本語と同じ全く同じ言い方だと思ったものである。徐々にではあるが、スペイン語もかなり聞き取れるようになってきて、言葉は、やはり現場で状況に合わせて覚えるのが最も良い方法だと思ったものである。

  森林局の連中は何番目の娘に手をだしたとか、あることないことを気晴らしで、この姉妹たちのうわさ話ばかりを話していた。彼らのあこがれが昂じて、想像をあたかも現実のようにしゃべっているようなところがあった。

 

ダンス

 パラグアイではダンスが盛んでフィエスタ(パーティー、宴会)といえばダンスをしていた。やたらにフィエスタが多く、毎週末には行っていたようなものだった。もちろん男女ペアで踊るのであるが、パラグアイでは、組んで踊るよりも離れて踊る方が多かった。後に仕事をするコロンビアやエクアドルでは組んで踊る方が多かった。

  私もこのペンションの一番上の娘とは良く踊ったものだった。日本人チームの若い仲間は、良く踊っていたが、40台以上のメンバーは、ほとんど踊らなかった。パラグアイ人も年は関係なく踊っているのだから、踊れば良いのに、楽しみの一つを失っていると思ったものである。

 

 このペンションにはときどき、近くに住むおじさんが(40才前後だったろう)がギターを片手に歌いに来た。体が大きく、腹が出て太り気味であるが、すごい声量で、澄んだ通る声で歌が上手なので驚いた。プロとしても十分にやっていけそうに思えた。また、森林局の共同技術者の中にいたレオンというのが、ギターを弾くのが非常に上手で驚いた。

 

農牧省に派遣されていた専門家

 農牧省に個別に派遣されていた専門家の方も我々の仕事をバックアップしてくれ、ときどき現場にも来てくれた。その方の39才の誕生日の誕生パーティーをペンションのレストランでしたことがあった、私より5才年上であったが、彼がしみじみと「もう39才になってしまい、来年は40才で不惑です。」と年を取るのを嘆いていたが、当時は別にあまり自分の齢を感じなかったが、今の私は60才をだいぶ超えてしまい、まさに「光陰矢のごとし」である。

 

食事

 現場にいる時はブトゥのペンションで、朝昼晩とも用意してもらった。昼は弁当のサンドイッチである。朝はパンとコーヒー。晩のご飯の味付けはほとんどどれも同じで、牛カツか、硬い肉のステーキだった。Tallarin(タジャリン:麺)もあり、ねっちゃりとしたスパゲッティで、それに肉を付けてもらったりもした。タジャリン・コン・ポージョ(麺と鶏肉)と言って注文するが、その響きがなんとなく楽しげであった。

 

 アスンシオンにいる時は、外食であった。食べにいったのは第1が和食、次が中華、韓国、続いてドイツ、チリ、といった外国料理が中心であった。移住者が多いので前述した内山田以外にもいくつか日本料理屋があったのだ。どうしても東洋系の食事になってしまうのだった。

  パラグアイ料理といってもステーキかステーキにころもをかぶせたミラネッサ(ミラノ風カツ)というカツばかりで、単調な料理だったので、値段は安いが、パラグアイ料理はたまに食べに行く程度だった。

 

釣り

 ペンションから1?2kmくらい離れた場所に湿地があり、そこにいくつも小さな池があった。現場から帰ると暗くなるまで、サッカーをするか釣りに行くかだった。パラグアイの技術者はサッカーをしていることが多かったが、釣りにも何人かで一緒に行った。

 私は、出張の時には、竿をいつも持って行っていた。エサはペンションでもらう牛肉である。肉を1cm四方程度の大きさにして針につけ、浮きでも、重りを付けて投げ込んで沈めても、ボガというコイのような魚が良く釣れた。大きさはだいたい10cm?20cm程度で、それほど大きくはなかった。腹に黒い点があった。時にはピラニアも釣れた。

 

  それに珍しい魚で、口が吸盤になっている魚も釣れた。釣った魚はペンションに持ち帰り、スープと一緒に煮てもらい食べた。ボガは少し泥臭い感じがしたが、牛肉ばかりで飽きているところに良いおかずとなった。一方ピラニアは、やはり小さなヒピラニアで、あごの肉が発達しているが、ほど良く堅く、泥臭くもなく、ボガよりおいしいと思った。

 

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口が吸盤になっている珍しい魚

 

カピバラ

 ある時、皆とは別な池で、一人で静かに釣っていると対面にカピバラが現れた。10mくらい離れているが、カピバラがこちらに気が付いていないので静かに観察していた。しばらくしてカピバラが私に気が付くとあわてて水の中に飛び込み逃げていった。

 

ゴキブリに好かれる人もいる

 ブトゥのペンションにはゴキブリが多かった。パラグアイのゴキブリは茶色で、日本のようにこげ茶色ではなかった。大きさは日本のよりも少し大きかった。

  それがメンバーのHさんの部屋には特別に沢山でるのであった。ゴキブリが天井から落ちて来るというので、Hさんは時々眠れずに、ゴキブリ退治に大騒ぎしているのであった。Hさんは男らしい体臭が強かったからそれがゴキブリを引きよせていたのだろう。すると集まってきたのはメスのゴキブリだったのだろうか?

  人により、虫を引き付けるフェロモンを出す人がいるのだろう。他にも日本で私と一緒に調査で山に入った後に、出てくると、私には全くダニがたかっていないのに、その人はダニだらけといったこともあった。

 

ヒキガエル(ガマガエル)

 スペイン語ではヒキガエルはサポと言う。暖かくなり始める8月の終わりくらいだったろうか。ブトゥのペンションには沢山のヒキガエルが集まってきた。日本のヒキガエルよりは少し緑かかっていてやや大きい。ペンションの通路がサポだらけになってしまったこともあり、ときどきは部屋の中にも入ってきた。

 

 

つづく

 

 

 

【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.7

森林紀行

計画地の土地が入植地に

現地での協力スタッフ

Fさん

 このカピバリの調査では,アスンシオンなどでの会議の時などの通訳を当時アスンシオンに住んでいたFさんにお願いした。Fさんにはミシオネスの現地調査にも参加してもらった。Fさんは10代でパラグアイに移住した後、あっというまにスペイン語使いになってしまったという伝説の人である。

 当時40代であった。パラグアイ政府の要人とも巾広い繋がりを持ち、そのような関係から必要な資料はすぐに見つけてくれ、またその資料の要約の日本語版を直ちに作成してくれるので、仕事推進上の強力な助っ人、縁の下の力持ちに巡り合った思いであった。

 この調査の数年後に日本に戻ったが、また、南米に戻り、サンパウロで働いていらっしゃるということをお聞きした後、音信は不通となってしまった。これが今から20年くらい前の話で、今は80才台になられていると思うが、どうされているか、お会いしたいと思うものである。

 Fさんの家で夕食をごちそうになったことがあるが、そのときは話が弾み二人でジョニウオーカを一本開けてしまった。遅くなり私はホテルに帰れずに、泊めていただいた。翌日の10月12日(水)はコロンブスがアメリカ大陸を発見した(インディオ側からみればインディオがヨーロッパ人を発見した)記念日で休日なのであった。今(2017)から34年前の1983年のことである。

 

Kさん

 現場調査にはパラグアイで生まれた二世のY君と二十歳前後にパラグアイに移住したKさんに来てもらった。Kさんはほとんど白髪であったが当時50代だった。一応通訳だが、スペイン語はうまくなかった。作業員などへの指示は問題ないが、少し込み入った話だと訳す日本語の意味がわからないことが時々あり、何回か聞き直すことがあった。

 一方、Kさんの娘さんが当時アスンシオンの事務所に勤めており、とてもかわいい方で、この方は日本語よりスペイン語の方が上手だった。一度日本に研修にこられたことがあり、その時、他の研修生も含めて会食に招待したことがあった。

 その時、料亭の座敷に靴を履いたまま上がってしまい「アッ。やっぱり習慣の違いというのは、こういうところに現れるのだなあ。」と料亭には悪かったが、興味深かった。パラグアイでは家の中でも靴を履いたままの習慣なので、日本で靴を脱いで座敷に上がるという習慣を知らなかったのだ。この娘さんには失礼ではあったが、他にも文化の違いで話がはずんだ。

 また、Kさんは戦前の教育を受けたから、それをそのまま引きずり、その考え方から抜け出せないように感じた。しかし、その洗脳されたような堅い考えが、娘さんは引きずっておらず、自由な考えの持ち主であったことは良かったことだと思った。

 

いい加減なパラグアイ人

 Fさんのところでごちそうになった翌日10月12日(木)は、休日ではあるが、調査用に翌日からレンタカーを1台借りる話しがついていた。そしてレンタカー屋のフーリオという事務兼運転手がホテルに午前中に来て細かい打合せをすることになっていた。その時我々が使っていた車は、北東部の調査の時に購入していたランドローバー2台に、ハイエースが1台あったが、調査は4?5グループに分かれて行っていたため、もう1台車が必要だったのだ。

 

 その日午前中チームで打ち合わせているとフーリオから、午前中は行けないので、午後4時に行くという電話があった。「わかった。4時に待っている。」と電話を切った。そこで午後4時にホテルで待っていたがフーリオは来なくて、連絡もなかった。その後フーリオに何回も電話をするが、連絡が取れない。明日からの1台が借りられないと調査がずれこむのだ。いい加減だなあと思い、しょうがないので、明日別な車を捜そうかと思っていた。

 

友情あふれ義理堅いパラグアイ人

 そうこうしている内に、その晩は、北東部で森林局の共同作業者だったウエスペが、義理堅く奥さんを連れて訪ねて来てくれた。ウエスペは森林局を辞め、アスンシオン大学の教授に転身し、また新婚だったのである。そこで皆で日本人経営の内山田にスキヤキを食べに行った。

 

 パラグアイの人は早朝から働くので、翌10月13日フーリオの事務所に朝7時半に行くと女性の事務員だけがいて、らちがあかない。するとその時通訳をしてくれていたFさんが、じゃあもうレンタカーはやめようということで、知り合いにあったってくれたら、ドイツ人のペンネルという人がすぐにジープタイプの車を貸してくれることになった。レンタカー屋よりも良い車が安く借りられることになり、これはこれでよかった。しかし、フーリオのレンタカー屋もいいかげんなものである。

 

 その日はその後、9時にホテルに戻り、借りた車も含めて他のメンバーと森林局の職員をカピバリに送り出し、私は残り、作業員、運転手、通訳などの保険を保険屋で掛けてから夜ブトゥに向かったのであった。

 

アルゼンチンで森林と土壌を調査

 第1回目の調査は、土地所有の権利など不明確な問題を残したままであったが、基礎調査ということで、予定の調査を終わり帰国した。

 

 その後、1984年の1月?2月にかけて、第2回目の調査として森林調査と土壌調査を行った。この時の調査は、私と他の団員と2名がパラグアイに行き、パラグアイというよりもアルゼンチンでの調査が主体であった。

 

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アルゼンチンミシオネス州を走る。粘土質の暗赤色の土壌

 

 前述したように、アルゼンチンのミシオネス州には、植林地が多いので、その植林地の森林の成長具合と土壌との関係を調査したのである。ここでの植林木の成長具合と土壌との関係からパラグアイで植林した場合の成長を予測しようとしたが、アルゼンチンのミシオネスの土壌はニトソルというものであり、パラグアイの植林予定地のものとは、かなり異なるものだった。ミシオネス州の土壌は、粘土質が非常に強く、濃く暗い色の赤土で、硬く、中々土壌が掘れなく、スコップに粘土質の土がくっついてしまうので、調査に難儀した。それほど遠い土地でもないのに、こんなにも土壌は違うものだと思ったものである。それでもこの調査のデータは後に非常に役立った。

 

Y君

 この時は通訳でY君が付いてくれた。Y君はパラグアイ生まれの二世であった。当時二十歳をちょっと過ぎたくらいであった。今なら50台も半ばのおじさんであろう。Y君は日本語も上手にしゃべるが、考え方はパラグアイ人で、伸び伸びと育っており、何かに動じることはないという印象を受けた。私もスペイン語がかなり上手になってきていて、Y君のしゃべるのを聞いていて、実際の場面ではこういう単語を使うのかとわかり、同じ場面で使ってみて、アルゼンチン人に感心されたり、なるほどぴったりの言い方があるものだと内心うれしく思うこともあった。

 

第3回目の調査

 その後1984年の6月から8月にかけて第3回目の調査を行った。この時のメンバーは、6名だった。

 

アスンシオンでの気持ち

 さて、第3回目の調査でパラグアイに到着前には、土地問題も解決するだろうという森林局からの報告を日本で受けていて、これは良い傾向だと浮き浮きした感じでアスンシンに着いたが、それがすぐに全く逆になるのであった。

 

企画庁

 企画庁の長官に挨拶に行くと、カピバリの土地名義の変更は3カ月以内にできるだろうと言う。そしてこの2年以内に政府が勧銀に土地代を支払うので、カピバリの天然木を伐採し、売った場合の代金はすべて植林費用に充当して良いというので、また喜んだ。

 

BID

 融資の宛先の一つとして考えているBID(米州開発銀行)のアスンシオン事務所を訪ねると、この調査には大いに期待しているので、早く報告書を提出してもらいたいと言われるので、ここでも喜んだ。

融資条件についてはいろいろ聞きこんだが、我々の計画がまだ具体的でなかったので、融資については具体的な話にはならなかった。

 

アセパル

 アセパルも訪ねたが、木材でも炭でもどのような形であっても買いたいということだった。これで天然木の伐採の後の販売先が確保できたと喜んだ。

 

カピバリにて

 しかしその後、現地のカピバリに行くと、大変なことが起こっていた。軍が道路の西側の土地の肥えた方の土地に、住民に一家あたり10haをめどに金を取り、入植させているのであった。全く信じられない出来事である。こんなことが日本で起こるとは考えられないだろう。奈良時代以前の土地所有があいまいな時代であれば別であろうが。

 

 これには我々も驚き、すぐに森林局の長官に報告した。しかし、どうにもなるものではない。いろいろ調べてみると軍は既に約2,000家族も入植させてしまっていた。単純に言って約2万haである。その後も継続して入植させている。パラグアイでは今でも土地なし農民の入植問題がある。当時は、今よりも土地なし農民は多かったであろう。入植できると聞きつけるとすぐに大量の土地なし農民が全国から駆け付けて、先を争って入植してしまうのであった。

 

 最低で一家族あたり25,000グアラニー(約21,000円)は取っていたようだから、何千万円か、とんでもない額の金が軍の懐に入ったのだろう。軍の誰の懐に入ったかは知らないが、途中で大半が消えてしまっているかも知れないが、ひどいことをするものだと思ったものである。

 

長官の現地行き

 取り敢えず、森林局の長官も軍と住民と話し合ってみるために現場に行くから、我々も一緒に行ってくれと頼んできた。我々は、パラグアイ側の内政問題だからパラグアイ側で解決するように働き掛けたが、結局、長官のたっての頼みなので、同行することにした。我々は技術協力をしているので、我々には全く責任のない社会的な問題で責任をかぶらされるのを恐れていた。そもそも土地問題はなく、森林局の土地という前提で協力が始まったものであるからだ。

 長官が運転する車に同乗し、我々のハイエースも同行させた。長官は運転が好きで、運転手を使わずに自分で運転したのだった。この時通訳はパラグアイ生まれの二世M君だった。すると運が良いのだか悪いのか分からないが、長官の車が途中で故障してしまった。結局、我々はハイエースで引き返し、長官は途中で車を修理しに行き、現場には行けなかった。その日は、我々はアスンシオンに戻り、長官は、後日一人で現地に行くはめとなった。

 

長官の話

 その後、長官は、軍の将軍と話し合ったということだった。その結果を聞くと、森林局は軍に大敗北した。今さら長官が、一体何を言うかと思ったが、どうしようもない。今まで管轄区域が軍と森林局で明らかでなかったとのことで、すべての土地は軍の管轄下に置くことになり国防省が行うことになったということだった。こんな話は日本に調査を要請する、はるか以前に決めておかなければならなかったことだ。

 

 しかし、森林局には道路の東側の痩せている方の土地が与えられるとことになった。約11,000haである。しかし、ここにも約400家族が既に入植してしまっているので、これらの入植者を東側に移転させるという。そして移転費用は森林局が持たなければならないと言う。それは全部で約4,000万グアラニーということだった。当時のレート1$=350G、1$=240¥からすると2,700万円くらいであった。森林局自体の予算は少なく、とても負担できる金額ではなかった。

 造林計画の土地面積は当初予定の半分以下になってしまい、それも養分の多い方の土地を取られてしまい、がっかりであった。軍には森林局も全く何も言えないと言うことだった。

 

最終的に計画した地域、当初の計画地域の東側.jpg

最終的に計画した地域、当初の計画地域の東側

(11,000haの地域の内、約6,600の造林計画を作成した)

 

 

つづく

 

 

 

3月の駒ケ岳

社窓


3月の駒ケ岳

3月、早いものでもう桃の節句、ひな祭りです。

さて、あなたのご家庭の雛飾り、お内裏様は向かって右側ですか、左側ですか。

 

日本では、太陽に向かって座し、陽が昇る東側が上位とされてきました。これが「左上位」。

つまり、向かって見た場合には右側が上位となります。

この思想は、着物の着方やふすま・障子のはめ方など様々なところに見て取れます。

 

一方、西洋では、英語で右側をright=正しいというように、日本とは反対に「右上位」となっています。

このため、国際儀礼では「右上位」が原則となっています。

オリンピックなどの表彰式では、金メダリストの向かって左側が銀、同じく右側が銅となっているのも

「右上位」の思想によるものです。

 

さて、お雛様ですが、京雛は伝統礼法に従って「左上位」、

一方、一般的な関東雛は最近の流れに合わせて「右上位」。

お雛様を見る機会があったら気にして観てください。

 

でも、最近は「左上位」でも「右上位」でもなく、『女性上位』かなと思う今日この頃です。

 

[南アルプス]

 

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平成28年度 飯田建設事務所若手技術者等所長表彰

お知らせ

このたび、平成28年度 長野県飯田建設事務所 若手技術者等所長表彰において、弊社の社員が表彰を受けました。

関係者の皆様方にお礼申し上げます。

今回の表彰をはげみとして、さらなる技術の向上に努めてまいります。

 

受賞者  羽生健志

業務名  平成26年度 防災・安全交付金(総合流域防災) 砂防事業に伴う用地調査等業務委託

 

【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.6

森林紀行

製炭、製紙などの調査

製炭調査

 当時パラグアイではアセパル(Acepal)という会社が、1985年から年間約15万トンの製鉄を行う計画があり、その開業準備中であった。そのためにアセパルにも調査に行った。製鉄には炭を用い、その需要は年間約10万トンとのことだった。製炭するのには、直径5mのレンガ製の炭釜を400基作る計画であった。一釜で1回約6トンの炭ができ、製炭に8日?10日かかるということで、フル稼働すれば年間約10万トンの炭ができる計算であった。

  これは良い炭材の供給先ができたとカピバリからの供給を考えた。我々の計画は頓挫してしまったが、その後アセパルはどうなったのであろうか。

 

調査地内で住民が行っていた炭焼き、レンガで釜を作っている.jpg

調査地内で住民が行っていた炭焼き、レンガで釜を作っている

 

 

日本でも製炭釜の調査

 製炭も調査対象としたころからパラグアイへ出発前には当時の林業試験場に、炭研究の第一人者だった先生に製炭技術や移動式炭釜など教えを乞いに訪ねたものだった。

 

アルゼンチンでの調査

 1983年11月17日(木)から25日(金)まで1週間ほどパラグアイ南部のエンカルナシオン周辺及びアルゼンチンのミシオネス州に調査に行った。

  ミシオネス州は、パラグアイの南部と隣接しており、半島のようにブラジル内に突き入っている。ここにはパラナマツ(Araucaria南洋スギ)やエリオッティマツなどの人工林が多く、その材を用いた林産業関係の工場が多く、植林地、パルプ会社や製材工場などを調査したのである。

 

エンカルナシオン

 エンカルナシオンはパラグアイの南部イタプア県に位置し、アルゼンチンの北東部ミシオネス州と接している。当時エンカルナシオンはパラグアイでは首都のアスンシオン、東部のストロエスネル(ストロエスネルは当時の独裁大統領の名、彼が失脚した後、エステという都市名に変更された。)についで、3番目に大きな都市といわれていた。当時のエンカルナシオンは都市というよりも少し大きな田舎町といった感じで、石畳の町並みと平屋建ての家並みが、薄暗くあるいは薄汚い感じがしたが、落ち着いていた。

 

領事館

 ここに日本の領事館があり、領事へ挨拶へ行った。すると領事は機嫌が非常に悪い。何らかの行き違いがあり、我々の訪問は昨日と予定し、待っていたのだ。領事は我々が約束をすっぽかしたと思っていた。昨日17日(木)は我々はエンカルナシオンに着いた後、すぐに製材所などの聞き込み調査を行っていたのだった。我々は予定通りだったけれども、何がなんだかわからなっかた。しかし、我々が謝ることでひとまず領事の機嫌は治まった。

 

CEDEFOへ

 領事への挨拶の後、エンカルナシオンから車で北へ約1時間のピラポ(Pirapo)という町にあるCEDEFO (Centro de Desarrollo Forestal 林業開発センター)を訪ねた。ピラポは日本人移住地があり、町には日本語の看板もあちこちに立っていた。ここでは、CEDEFOの他にも農業関係でCRIA (地域農業研究センター)と CEMA (農業機械化センター)という施設があり、これは日本が技術協力を行っていたものだった。移住の関係もあり、パラグアイへの技術協力に力を入れ始め数年たったころだった。

 CEDEFOには建物を建て、林業関係の様々な資機材の供給を援助していた。苗木作りから植林、保育、伐採、製材まで様々な技術指導を行っていた。日本の技術者が常時数人、年単位でCEDEFOに派遣され、交代する形で専門家として長期派遣されていた。この時、当時の私の職場からも派遣されていた技術者もおり、いろいろ親切にセンター内を案内してくれた。パラグアイの森林局の共同作業者は多数働いていた。

  この日はエンカルナシオンで日本人が経営している小田旅館という名のホテルに泊まった。

 

ポサーダスの町

 アルゼンチンに行くにはエンカルナシオンからフェリーで対岸のポサーダスに渡るのであった。待ち時間に港で釣りをしたらナマズが釣れた。エサは道端で捜したミミズだった。

  ポサーダスの町はきれいに整っており、先進国の町並みようだった。先の北東部の調査紀行でも書いたが、パラグアイ北東部の町ペドロファンカバジェーロとブラジル側の町ポンタポラ側との差と同じ様な差を感じた。つまり、パラグアイ側のエンカルナシオン側は道路は石畳で落ち着いてはいるが、家並みも木造で薄汚れ見栄えがしないのに対し、アルゼンチン側のポサーダスは道路も舗装され、数階建てのビルも多く近代都市のように見えた。街並みもきれいで、ホテルも清潔で従業員もパラグアイよりずっと洗練されていると感じた。

 

アルゼンチンに移住した日本人

 ミシオネス州へ移住されて植林を行い森を育てている日系人の方も幾人か訪問した。尤も森を育てるといっても木材を販売する商売のためであったが。

 その中の一人広島県出身でKさんという方の話しは次のようだった。ミシオネスに移住して約25年とのことだったので、1950年台の後半に移住されたのであろう。Kさんは60才前後と見えたから30代半ばに移住されたのであろう。今(2012年)から見れば50年以上も前のことである。家は特に裕福でも貧しいとも見えなかったが、パラグアイの平均的な田舎への移住者に比較すれば、かなり余裕はありそうに思えた。

 1983年当時、植林木のパラナマツやエリオッティマツは約15年生であった。これくらいの年数でも日本の同年生のスギやマツより成長はかなり良く、植林木の胸高直径は約20cmになっており、伐採木のパルプ工場への売れ行きは非常に良いとのことだった。

 この植林をするにあたり、アルゼンチン政府から植林費用の融資を受け、その返済条件は利子4%、返済開始までには10年の猶予をみてくれたとのことだった。このころアルゼンチンは大インフレで、返すときにはほとんどただみたいなもので、非常に助かったとのことだった。その後アルゼンチンは更に超大インフレに陥るのであったが。

 キリは10年で約60cmになり、日本に輸出しているとのこと、日本のスギは成長が悪く、ミシオネスには適していないということだった。

  樹種としてはパラナマツの方がエリオッティマツや他のマツ類よりもずっと材質が良く、同じ量で値段は倍には売れるとのことであった。

 

パルプ会社

 Papel misioneroというパルプ会社に1983年11月24日に訪ねた。この時、訪問許可を取っていたが、工場内を見学させてもらうのにパスポートまで預けさせられた。このころは、今のようにテロが起きるということは少なく、会社管理も厳重なところは少なかったから、企業秘密を守るため厳重な警備をしていたのであろう。

 ここは従業員が500人もいるとのことで、かなり大きなパルプ工場であった。日本の商社を経由して日本の大きな製紙会社の技術援助を受けているとのことであった。クラフト紙(褐色の丈夫な紙でセメント袋や封筒などに用いる)の生産が1日110トンとのことで、パラグアイやボリビアにも輸出しているとのことだった。

  このパルプ工場を調査する前に、パラグアイの古紙再生工場なども調査したが、その旧式な機械や劣悪な労働環境に比べれば、機械類も巨大で近代的であるし、労働環境もかなり良く見えた。しかし、パルプ工場というのは激しい騒音と化学薬品の匂いで、勤めるのはとても大変であろうと思われた。

 

 

 

 

 

鬼退治

ゼンシンの日々

節分です。

朝起きると、鬼がいました。

 

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直後、退治されました。

無残です。

が、いい表情をしています。この鬼達。

節分鬼退治1.jpg

めでたし、めでたし。

 

2月の駒ケ岳

社窓


2月の駒ケ岳

2017年も早いもので、12分の1が過ぎました(^^)

 

 

この「12分の1」にちなんだ、

あまり役に立たないかもしれない知識をひとつ。

 

模型やフィギュアなどが好きな方はご存知かと思いますが、

こうしたものの多くは、1/12、1/24、1/48、1/72、1/144というスケールでつくられています。

 

これは、発祥が英国(発展したのは米国)であり、

基準はフィート・インチだからのようです

1フィート=12インチ(30.48cm)

つまり、1フィートを1インチに換算して作成すれば1/12スケールとなるわけです。

ですから、1/144スケールは12フィートを1インチに換算したものとなります。

 

ちなみに、戦車などのミリタリーモデルの国際的な標準スケールは1/35。

これは、日本のメーカーが1/35を採用し、各国のメーカーがこれに追随したことによるそうです。

 

他にも、鉄道模型のHOゲージやNゲージのスケールなど、

調べてみたらいろいろなスケールモデルがあるようです。

 

 


 

 

[南アルプス]

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湿度管理

ゼンシンの日々

この時期は加湿器が欠かせません。

皆さん、ご存じのとおり快適な湿度は40から60%と言われています(下の表)。

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湿度が高いとダニやカビが発生しやすく、逆に低いとウイルスが発生しやすく、風邪をひきやすくなります。

ということで、50%前後が快適な湿度ということです。

 

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我が家はこの時期、加湿器が24時間フル稼働しています。

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いい感じに50%をキープしています。さすがです。

ただ、加湿器を置くいい場所がなく、通路や床に置くため、これをおもちゃと勘違いするお方の餌食になり、電源が切れていたり、水の入ったトレイが外されていたり、吹出口にゴミが詰め込まれていたりします。

湿度管理は大変です。

 

【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.5

森林紀行

植林への批判や調査

 

天然林を伐採して人工林へ転換することへの批判

 これは後に植林を実行した時に、批判されたことである。パラグアイの自然保護派は、天然林を伐採して人工林に転換するのは、自然破壊であると。

 日本でも戦後同じ様にクヌギ、コナラの自然林を伐採し、スギ、ヒノキの人工林に拡大造林を進めてきたのと発想は同じであった。確かに天然林状態であれば、生物多様性は高いし、生態系も保護されるであろう。

 しかし、自然林のままでは樹木の成長は遅いし、目的とする材が必ずしも生産されるわけではないので、生物多様性などは劣るが、ある面積に限っては人工林とすることもやむを得ないであろう。

 あるいは放棄された牧場などで、森林に回復すべき土地などがあれば、そのようなところで人工林を造成できれば良かったのであろう。技術的には、木材の生産ということと生物多様性が維持できるように、伐採の面積を小区画にして群状に連続させないというような方法を採るのが良いのであろう。

  とはいうものの、それまでのパラグアイの巨大な森林破壊を見れば、パラグアイの自然保護派もその阻止へもっと早く動くべきだったろう。しかし、独裁者の大統領ストロエスネルの下ではそういった自由な活動はできなかったのである。ストロエスネル大統領の失脚後、国民は政治的な抑圧から解放され、自由に活動できるようになったので、むしろ批判は自由な意見が言えるようになったことと、歓迎すべきことなのであった。

 

近隣の植林地(エリオッティマツ).jpg

近隣の植林地(エリオッティマツ)

 

 

調査

調査地の形状と測量

 その暫定的な27,000haの位置は次の図に示すような形で調査地のほぼ中央に道路が、東側と西側を分けるような形で走っていた。

 

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当初の対象地域(27,000ha)

 

 この時中央の道路をトランシットで測量をした。平らに見えた中央の道路も思ったより標高差があり、傾斜があるところでも3%(100mで3mの標高差)にも届かないが、約10kmの総延長では、50m以上のアップダウンがいくつかあった。平らに見える土地も意外に波打っている土地であることがわかった。

 

 この調査地内のほぼ中央付近東側にはセロ・ドス・デ・オロ(Cerro dos de Oro:金の2つの丘)という標高約380m(麓は約250mだったから、頂上には約130m程登る)の双子山のような山があり、調査地を見晴らすため良く登ったものである。

  このセロ・ドス・デ・オロの山頂を結ぶロープウエィでも作れば、将来は観光地としても使えるなあと思ったものである。この話を長官にすると、「それは良いアイデアだ。是非実現したいものだ。」とその気にさせてしまった。

 

 

森林調査や土壌調査

 私は、森林調査を中心に行っていた。森林調査は、先にも記したが土地立木評価に必要なもので、行ったものである。標本地を設定してその中の樹木を調べたのである。小さい樹木は薪炭用に使うということで、更に小さい標本を設定し、調べた。北東部での森林調査の経験があったので、普通の標本の大きさは100m×40mの小さいものとし、胸高直径(木の高さ1.3m地点の直径)10cm以上の木の樹種、樹高、枝下高までの高さ、直径などを調べた。

  土壌調査も行った。私も森林土壌の調査はそれまでもかなり行っていたが、ここに来た土壌の専門家の方に随分と教えてもらった。植林するには、土壌の種類に応じて植栽する樹種を決めるのであるが、その判断するために行ったものである。

 

 

土壌

 森林土壌の調査は土壌の化学成分を分析するものではなく、幅1m、深さ1mくらいの穴を掘り、その断面を観察し、土壌の層位、色、硬さなどを観察と簡易な機器を使った値に基づき、土壌のタイプを判定するのである。ただし、土壌の酸性度pHを正確に測ったので純水を手に入れるのに苦労した。

 

 調査地の土地は波打っているものの概ね平坦で、大きくは肥えている土地と肥えていない土地の2種類、その中を細分して4種類程度に分けられるものだった。これも調査をしてみて分かったことである。

 土壌はアクリソルと言って砂岩を母体とした赤色の土壌であった。時々鉄塊もあった。昔学校で習ったラテライトの一種であるが、現在の土壌タイプは、かなり細かく分類されている。

  川沿いなど土地がわずかでも低くなると土壌の養分が流されグライ化(土壌中に水分が多くなり、酸欠となり、白色化する)されている土壌もあった。土地の良い方は赤色の砂地で、肥えていない方は養分が流され白色の砂地であった。

 

 

水量調査

 調査地の中に幅3?5mくらいの小川が流れており、この水を苗畑の水源にするため水量調査なども行った。これはいたって簡易な方法で行った。川の中央の点と中央と両川岸の計3点の深さを測り、断面積を計算し、その点を流れる浮きの単位時間の距離を測り、流量を計算するというものである。季節を変えて測ったが、乾期でも水量は十分にあり、苗木生産には十分過ぎる水量があり、水供給には問題ないことがわかった。

 

調査地内を流れていた小川.jpg

調査地内を流れていた小川

 

 

ヘビが多かった現場

 1983年10月25日(火)は調査中に森林の中の大きな木から枝が落ちてきて、森林局の共同調査者の頭に当たって出血する怪我があった。幸い大事には至らなかったが、念のためレントゲン検査を受けるようアスンシオンに帰した。

 そういう日は、他にも変なことがあるもので大きなヘビを見た。アナコンダの子供だったかも知れない。

  ヘビといえば、ある日調査している時に体をくねらせて横飛びをするヘビを見た。体は黒く長さは2mくらいあった。1mくらい飛び跳ね、結構早いのだ。ヘビが横飛びをして私の方に近づいてくるので、私も驚き飛び跳ねて避けた。

 

 

つづく

【森林紀行No.5 パラグアイ – 造林計画調査編】 No.4

森林紀行

悩まされ続ける土地問題

 

勧業銀行の抵当物件だった土地

 前回述べたように、計画を作成する土地は、勧業銀行の抵当物件であったため、所有者は私有地から国立の勧業銀行に変わった。つまり、国有地となったため、その一部の2万7千haが森林局に払い下げられることになったのである。

パラグアイ森林局は、それまで大規模に植林を行った経験がなかったため、我々が造林計画作りのために派遣されたのである。

 

最終的な結果

 途中、計画地の大部分を軍が住民に分譲してしまい、土地をかすめ取られてしまった。最終的に作成した造林計画は、約1万1千haの土地の中の6,600haとなった。日本ではこれほど大面積の造林計画はないだろうが、平地なのでできるのである。かなり緻密なものができ、この計画は今でもモデルとして使えるほど良い計画だと思っている。植林方法や保育方法などを計画した事業計画とその事業計画を実行するのに必要な資金の調達や返済などの計画した資金計画も作成したが、残念ながらどこも融資してくれるところはなかった。これは南米全体が超インフレに進んだという当時の社会背景が影響し、融資しても返済の可能性が少ないと見られたためである。計画では利益がもたらされるように様々に工夫したのであるが。

 しかし、我々の作成した計画書に基づき、その後日本が援助し、植林を行った。ただし、全面積までの植林までには至らなかった。

 

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森林が焼かれ農地に転換されていく

 

既に作成されていたFAOの報告書

 調査を取り巻く状況は、あいまいなもので、まず状況を正確に把握する必要があった。まず、我々が計画を作る前にFAO(Food and Agriculture Organization of the United Nations 国連食糧農業機関)で既に同じような計画を作成していたのだが、何故その計画が実行されなかったのか私には疑問だった。いろいろ調べて行くとその計画は基礎資料として作成されたが、融資申請用の書類とまでには至らなかったとのことだった。

 この計画を私は精査したが、造林計画実行に必要な施設や資金計画などは良くできており、具体的な植林箇所の指定などの技術的根拠や融資の返済計画などが少し説明不足かなと思える程度で良くまとまっていた。

 

FAOの報告書が利用されなかった経緯

 何故これに基づきどこかの金融機関に申請しなかったかを森林局の長官に聞いてみた。すると、これに基づき、BID(Banco Interamericano del Desarrollo 米州開発銀行)に申請するつもりで、打診したところ、その段階で断れたとのことだった。当時BIDには、50年間無利息の融資枠があり、それを借りることを目的にFAOで計画を作ってもらったとのことであった。しかし、打診した時にBIDには、既に無利子で融資する原資がなく、その条件にあわなくなったとのことである。その後、BIDでは利子2.5%の融資枠も作ったが、それも利用できなくなっていたとのことである。南米全体で既に社会状況が変わり、インフレも激しく7.5%の利子でないと貸せない状況になっているとのことであった。2.5%でも返せないのに、7.5%で返すことは、到底不可能なので、申請は取りやめ、日本に再度計画作りを頼むことにしたとのことであった。造林の実行には初期投資が必要で、最も良い技術を用いたとすれば、生産材から利益を得て、何%の利子までなら返済が可能なのか、借りる先はBIDでも日本でもどこでも構わないから、もう一度最良の計画案を作ってもらいたいとのことだった。

 

何ともおかしな話

 それにしても昔のBIDには50年間無利息で貸してくれるという信じられない有利な条件の融資があったものである。しかし、そもそもFAOで作った案でBIDでの融資が受けられないのだから、計画を作り直してBIDに申請してもそれが通るのは難しいと思われた。おかしな話と思った。

 日本が融資するなら、儲けとかは考えないで、赤字覚悟で政策的に援助を行うなどとしなければ融資は、無理な話であると思ったものである。FAOも相当な資金を拠出して造林計画の報告書を作成したのだろう。それが使われなかったのは計画作成費が無駄になったということである。

 パラグアイの森林局あるいは政府全体が、計画作成の前段階からBIDと交渉し、融資枠を獲得しておかなければならなかったであろう。常識的に行っておくべきことを怠っていたことに大きな問題があったのだろうと私は思った。そして、この怠慢が我々の計画作りにも大きな悪影響を及ぼすとは最初の段階では思いも及ばなかった。

 

計画作成過程の効果

 尤も我々の作った計画も結果的には一部しか使われなかったことからFAOの場合と同じく、計画作成費の一部は無駄になったようにも思える。しかし、発展途上国では往々にしてあることで、計画通りにものごとは進まないことが多い。

  とはいえ、日本人が協力し、ものごとを誠実に実行したり、不正なことは一切行わないといった我々の態度やモデルとしても使える造林計画ができたことは、少なからずパラグアイの森林局の職員にも好影響を与えたであろうから、協力自体は決して無駄とはいえず、相当な効果を上げたと思う。

 

いつまでたっても移管されない土地

 さて、何度も取り上げているように調査をする上で我々にとっての大きな問題は、勧銀から森林局への土地移管が調査開始時点でなされていなかったことである。その時は勧銀の土地であったが、森林局のものとして登記されていなければ、軍がからんでいるので軍の土地となってしまうかもしれなかった。また、勝手に入ってくる入植者も多く、一旦入植してしまえば、排除するのも難しく、土地登記が急がれているのであった。

 言ってみれば調査以前に決まってなければならない最も肝心なことが決まっていなかったのである。発展途上国ではありがちなことである。しかし、後の経過を考えると森林局の土地として登記されたとしても同じ様な経過をたどっていただろう。

 なにしろ、森林局の土地となる予定の土地の境界は暫定的なもので、正確なものではないから、測量をして境界を確定してもらいたいという要請も含まれていた。日本でも山の境界はあいまいなものであるし、昔は見取り図だったので、そんなものだろうと思っていた。

 

土地登記も進まない

 パラグアイに到着後、土地はまだ登記されておらず、相変わらずその手続き中とのことであった。森林局の担当者や森林局の長官には我々はいつも「土地登記を早くしてくれ、そうでないと計画地域が定まらない。」とプッシュするが答えはいつも同じで「それはすぐに終わるはずだ。」とのことで一向に終わらないのだった。

 森林局の上部組織の農牧省の企画庁にも直接何回もプッシュするが進まなかった。最終的には、土地移管の話はついたが、1年半後の調査終了時にも、正式に森林局の土地に登記されたという話しにはならなかった。

 

大前提が崩れ、立て直すために苦労する

 このように肝心なことがあいまいなままに仕事が始まるから、実際に現場の最前線で仕事をする我々のような調査チームは苦労させられるのである。仕事を始めるということは、当然、大前提が決まっていて始めるものであるが、大前提は崩れるのが当然であるかのごとく、発展途上国では崩れるのである。だから、「法律は破られるために存在する。」などという言葉がことわざのごとく言われるのである。

 そして本来構築されているべき、その大前提を我々調査チームが新たに構築しなければならず、本来の仕事を行う前に、多大なエネルギーを注ぎ込まなければならないのであった。森林局のものになっていなければならなかった土地が、まだ宙ぶらりんで、いずれは森林局のものになるはずだということで、調査は見切り発車がされていたのだった。

 

かすめ取られていく土地

 この土地問題がすぐにかたづかなかったのは、軍が絡んでいたからだった。この土地が払い下げられるのが軍と森林局であったことで、パラグアイでは軍の力が圧倒的に強く、農牧省も軍には強く口出しできなかったからである。そして多くの土地が軍にかすめ取られて行ったのである。

 

土地に関するもう一つのあいまいさ

 また、勧銀から払い下げられる土地についてその土地代金を森林局が勧銀に支払うものなのか、勧銀から森林局にただで払い下げられるのかもはっきりしていなかった。これがはっきりしないと資金計画が成り立たないのだ。

 現状は良木が抜き伐られた跡の天然林であるが、残った天然林の販売可能な樹木を製材用に売り、残りの小径木やかん木を薪炭材用に売り、その儲けを造林費用の足しにし、その伐採跡地に植林する計画であった。

 そのため、前述したように、この調査で土地と立木の評価をしてもらいたいというのが森林局の希望だった。いずれにしても土地代金を勧銀に支払うにしても支払わないにしても土地と立木の金額を出すことにした。勧銀に土地代金を支払う場合は、立木の販売収入で支払った後にその金額が余れば、その金額を事業費の足しにする。また、土地代金を支払わない場合には、立木の販売収入全部を事業費の足しにする。ということで、計画作りに進んでいった。

 

つづく

 

 

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