平成27年度長野県優良技術者表彰および若手技術者等所長表彰
平成27年度 長野県優良技術者表彰および若手技術者等所長表彰において、弊社より5名が受賞いたしました。
関係者の皆様方には、この場をお借りして御礼申し上げます。
今後とも、さらなる技術の向上に努めてまいります。
長野県優良技術者表彰
受賞者:田中洋治
業務名:平成26年度 砂防基礎調査事業に伴う調査業務委託(管内一円(辰野町・中川村))
受賞者:森村浩之
業務名:平成26年度 県営ため池等整備事業 竜西2期地区 久米川工区用地測量業務委託
若手技術者等所長表彰
受賞者:境澤昌志
業務名:平成26年度 県単水防管理事業に伴う氾濫危険水位等改定業務委託
(長野県飯田建設事務所)
受賞者:羽生健志
業務名:平成26年度 防災・安全交付金(道路)事業用地測量調査業務委託
(長野県伊那建設事務所)
受賞者:清水郁
業務名:平成26年度 社会資本整備総合交付金(広域連携)事業に伴う物件調査業務委託
(長野県諏訪建設事務所)
桜満開
会社の前にある公園の桜が、満開となりました。
4月11日。満開は概ね昨年と同じくらいでしょうか。
今年も昨年と同じような方向より、撮ってみました。
遊具も新しくなって、桜と共に色鮮やかです。
イワヤマツツジ(トウゴクミツバツツジ)も咲き始めました。
花咲き誇る季節の到来です。
4月の駒ヶ岳
森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.9
セロコラでの森林調査
キャンプでの朝
翌1980年12月4日(木)、キャンプ地では、朝霧が晴れてモルゲンロートという感じのきれいな朝焼けであった。
調査地に入る前の挨拶
昨日偵察しておいた場所へ行く。どこの森林に入るにも牧場を通らねばならず、必ず持ち主に挨拶が3回くらいある。それに非常に時間がかかる。話好きのパラグアイ人はテレレやお菓子を出してきて、話していれば1時間でも2時間でも平気でしゃべっている。永遠にしゃべるのではないかと思わされる。
言葉はポルトガル語かスペイン語かグアラニー語である。この時は、スペイン語もさっぱり聞き取れず、何語で話しているのかさえわからなかった。
テレレというのは、牛の角を容器にし、その中にマテ茶を入れて、冷たい水を注ぎ、ボンビージャと言って、先にマテ茶の葉をこすものがついた金属製のストローのようなもので吸って飲むのである。そこにいる全員がボンビージャを吸って回し飲みする。何人もの人が同じ吸い口に口をつけるものだから何となく、ためらいを感じてしまうが、酒のおちょこの回し飲みも似たようなもので、慣れるとどうということはない。お湯をいれたものをマテと言う。
調査地の設定
牧場からようやく森林の端に到達する。起点を決めて航空写真上に指針(その位置を航空写真上に針で刺し裏側にそのポイントがわかるように記載)する。起点から林縁の影響を避けるため、測量して約250m奥に進む。ここは、高木は予想外に少なく、既に抜き伐りされている。そのため光が入るとやたらに灌木が生え、ブッシュとなっている。その後プロット(標本地:大きさを500m×20mとした)の長さ500mを加え合計750m進むのに、作業員3人がブッシュを伐り開き、その後を別な3人で測量して進むだけでも丸々1日かかってしまった。
虫ノイローゼ
最初森林に入った時はブヨの多いのにびっくりした。虫ノイローゼという言葉があるというのを聞いていたが、なるほどと思った。長袖を着ていたが、顔の回りや皮膚がでているところにはブンブン、ブンブンとブヨが飛びまわり、葉っぱのついた細い木の枝で常に顔の周りをはたいていないと無数のブヨがたかるのであった。一瞬でも手を休めると、すぐにブヨだらけになってしまう。さされるとかゆくてしかたがない。
これは周辺に牧場が多いからだ。牛の周りには無数のブヨがたかっている。近くに牧場がある森林に入ると無数のブヨが寄ってくる。近くに牧場がなければブヨはかなり少なくなる。
日本からはセンスを持って来ていたが、ロストバッゲージになってしまったために無い。しかし、センスでよけられるようなブヨの量ではない。次回からはうちわを持ってこようと思う。
測樹
翌12月5日(金)は昨日設定したプロット内を測樹する。プロットは50m×20mの小プロットを10個つなぎ合わせたものにし、合計で500m×20mとし、1haの大きさとした。その枠の中に入る胸高直径(1.3mの胸の高さ)10cm以上の樹木全てについて、樹種、樹高、枝下高、胸高直径、枝下高の直径を測るのである。
その日は1日かかって、プロットの半分も測樹できなかった。枝下高の直径はアメリカ製のペンタプリズマを日本に取り寄せて、日本からパラグアイに持ち込んだ。ペンタプリズマというのは、簡易に直径を測ることができる機械で、機械の中にプリズムが入っていて樹木までの距離に関係なく、カメラのファインダーのようなものを覗くと、樹木の幹の左端と右端を直線で合わせられるようになっていて、それを合わすと、バーが幹の直径と同じ長さにスライドし、幹の直径が測れるものである。
林内でのバーベキュー
昼は持って行った肉を林内で焼いて食べた。朝国道沿いの店で大量に買って持ってきた。
しかし、暑いので肉はすぐに痛む。焼こうと思ったところ、既にウジが湧いているのもある。しかし、焼いてしまうので大丈夫だろう、ちょっと痛みかけた肉の方がおいしいだろうと焼いて食べた。これが何とも言えずおいしいのである。
しかし、パラグアイ人達も食べ過ぎか肉が痛んでいたかで、翌日は腹を痛めた模様である。幸い私はこの時は大丈夫であった。
林内で肉を焼く
ようやく1プロット終わる
翌12月6日(土)はペドロ・ファン・カバジェーロから昨日と同じプロットに向かい、残りの測樹を行い、ようやく1プロットの調査が終わる。終了後、再度キャンプへ向かう。
グアラニー族の大酋長に会う
12月7日(日)は朝7時に出発。別のプロットを捜す。途中、先住民に会う。筋骨隆々で、背中に銃とアルマジロを背負っている
銃とアルマジロを背負う筋骨隆々の先住民
9時頃先住民の部落へ着く。パラグアイの先住民はグアラニー族というが、その中のAba族と言った。聞くと75才だというじいさんが孫の面倒を見ている。いろいろ話していると大酋長がいるからそこへ挨拶に行こうという。
すぐ近くで約1Kmの道程だという。「じゃあ行こう。」と後ろから追って行くと75才とは思えないくらい歩くのが早い。追いつくのがやっとだ。暑くて汗が噴き出す。着いてみれば決して近くはなく、1時間以上、約5km程歩かされて、大酋長の家に着く。この辺の先住民達には1時間歩くなんてたいした距離ではなく、すぐ近くなのだ。
残念ながら、大酋長は、全くの文明人となっていて、大酋長というよりもそこらの「おっさん」という感じであり、期待はずれであった。グアラニー語を話し、スペイン語は話さない。
知事の保護認定書を持っており、その内容は「軍人も民間人も先住民の生活の邪魔をするな。」というものであった。
グアラニー族の中のアバ族の大酋長と。
先住民の大酋長の家で弓を引かせてもらう
先住民の大酋長の家では弓を引かせてもらったり、ハンモックで休ませてもらった。
その後、その日は昨日のプロットに戻り、そのプロットの500mのラインを設定して終わる。直射日光は森林のないサバンナ状の場所ではもの凄い強さで、とてつもなく暑い。林内も雨が降らなくなり段々と暑くなってきた。
ひどい下痢になる
翌12月8日(月)はもう一度プロット1を確認しに行く。途中でシカを見る。アリ塚がもの凄くある牧場がある。この日の暑さはもの凄く厳しかった。
キャンプに戻るとグロッキー状態だ。すぐに横になる。熱中症だ。水を十分に取り、元気になり、回復した。その後、下痢となり、ひどい状態だ。原因は昼に飲んだテレレに違いない。汲んできた川の水をテレレにそのまま注ぎ、飲み回し、回りに牧場が多かったので、牧場から牛の糞などが混じっていたのだろう。パラグアイ人も同じようにテレレを飲んでいたが、彼らは慣れているので何ともなかった。もっと気をつけるべきであった。
レラスコープの使い方のトレーニング
翌12月9日(火)は、3番目のプロットの偵察を行いつつパラグアイ技術者へレラスコープの使い方を教え、トレーニングをする。レラスコープというのはオーストリアのビッターリヒ博士により考えられた「林分胸高断面積測定法」を応用し、森林の万能測樹高器として発明されたものである。傾斜地の距離、樹木の直径、樹高、胸高断面積などを測れるのである。扱い方が少し難しく、慣れが必要で、皆すぐには使えるようにはならなかった。
測定には、レラスコープよりも樹高はブルーメライスという簡易な測定器、直径は直径巻尺とペンタプリズマで測るのが簡単で効率はずっと良さそうだった。
午後はキャンプを片付けてポンタ・ポラのホテル・エル・ボスケへ戻った。
つづく
現場にて
綺麗な景色を眺めながらの現場です。
森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.8
森林調査
セロ・コラ国立公園でキャンプ
1980年12月3日(水)は、ペドロ・フアン・カバジェーロから車で約1時間半、南に行ったところにセロ・コラ(Cerro Cora) 国立公園のキャンプ場があるので、そこでまず森林調査の予行演習をしようとそこへ向かう。途中ガソリンを入れにいくが停電で30分待たされた。
セロ・コラ セロはスペイン語で切り立った岩山、コラはグアラニー語で周辺という意味
正午に国立公園の事務所に着いた。事務所は軍隊が管理しており、その隊長へ挨拶の後、午後からキャンプを設営する。
キャンピングカーの冷蔵庫は、早くも故障し、冷えなくなった。午後国道5号線(コロネル・オビエドからペドロ・ファン・カバジェーロ間の国道)をペドロ・フアン・カバジェーロ方向に戻り、森林に入る。
キャンピングカーと近くに張ったテント
ガラガラヘビを捕まえる
途中山の中の道路上で、ガラガラヘビを捕まえる。約1mの長さで太い。パラグアイではガラガラヘビの尻尾の先端で、ガラガラがついた部分をお守りとするそうで、パラグアイの技術者が、そこを切り取りお守りとして大事そうにしまう。
ガラガラヘビを捕まえる
ガラガラヘビの尻尾の先端は小さな粒のような殻が、重なってくっ付いていてその中に小さな玉が入っている。その小粒の石のようなものが、ヘビが興奮して尻尾を震わせると殻に当たりガラガラなるのである。その殻の数から8才のヘビと分かる。1年に1つづつ殻が増えるのだ。
ガラガラヘビの尻尾
それにしてもパラグアイの北東部地域はガラガラヘビとトカゲが多いと思った。山道をやたらに1m前後のトカゲが横断するのである。
ガラガラヘビは山に入れば1日に数回は見るのである。ガラガラヘビは乾燥地帯のサバンナに多いと思っていたが、このような森林地帯にも多いのである。
ある時、1mくらいのトカゲが車にぶつかったので、つかまえて車に乗せてホテルに持ってかえったが、車の中は生臭くなり、この匂いにはまいった。
車にぶつかったトカゲ
キャンプ地でサッカー
パラグアイの森林局の技術者や作業員達はキャンプに戻り暗くなるまで必ずサッカーをする。狭い道で10mくらいの長さでゴールは1m幅くらいである。強くは打てないのでボールの取り合いである。私も混ざってやるが、彼らのテクニックには驚かされる。子供の時からサッカー漬けなので、皆うまい。ボールを取ってもすぐに取り返されてしまう。彼らにフェイントのかけ方なども教わった。
初めてのキャンプ
キャンピングカーのベッドは2段で、下は広いが上は狭い。下には大きい2人が入り、下には小柄な私ともう一人が入る。上は幅がせまくて50cmくらいで寝にくい。一晩くらいなら4人でも泊まれるが、長期では難しい。
キャンピングカーで泊まるのは疲れるので、この時の調査時だけとし、次の調査からはテントに泊まるようにした。パラグアイの技術者達もテントで寝る。夜は南十字星がきれいに見える。
キャンピングカーの中
キャンプでの一時。昼間
キャンプにて。火を囲み皆でテレレを飲む。
つづく
3月の駒ヶ岳
福寿草
庭の福寿草です。
この花の名前、いいですよね ♪
なんだかとっても幸せ感ありませんか (*^0^*)
しかし、しばらくは花粉症シーズンです・・・つらい・・・
森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.7
調査対象地域とペドロ・ファン・カバジェーロの町
アマンバイ出張所に挨拶
ペドロ・フアン・カバジェーロの町に着くとまず、アマンバイ出張所の所長を伺い、所長に到着の報告に行った。
1980年当時のアマンバイ出張所
所長が一人で事務所を運営している。あいにく、所長は留守だったので奥さんに挨拶し、予約してあったブラジル側の町ポンタ・ポラのホテル・エル・ボスケに向かう。
ホテル・エル・ボスケに泊まる
ペドロ・フアン・カバジェーロ側には小奇麗なホテルがなく、ポンタ・ポラ側にはいくつか良いホテルがあった。エル・ボスケは森林という意味で、これまた、この辺には森林が多かったことを伺わせた。町はずれに位置するが、この町では最高級ホテルで実際かなり高級なホテルに見えた。
しかし、夜、部屋の冷蔵庫のブラマという名のブラジルの缶ビールを飲むと、何だか古い味である。きっと部屋のビールは高いので長いあいだ宿泊客が部屋でビールを飲んだことがなかったのだろう。
それに翌日は腹の周りがムシに刺されたようでいくつかポツポツ赤くなっている。きっとダニか南京虫がいたのだろう。高級なホテルなのになんていうことだろう。すぐに部屋を変えてもらう。
ホテル・エル・ボスケの食事は高級で高い。量がもの凄く多い。1人前頼むと普通の日本人が食べる4人分くらいの量があり、最初はほとんど残してしまった。1人前を4人で分けるのもみっともないから、次から1人前の量を少なくしてもらった。
外のレストランもだいたい量が多い。ピザも大中小あるが、大で日本の10人前くらい、中で5人前、小で2人前くらいである。
エル・ボスケはこの予備調査の時のみ使い、その後は、手ごろの値段でかつ清潔でいごこちも良く、ポンタ・ポラの町中にあるバルセロナ・ホテルに泊まるようになった。名前はスペインだ。
所長がいろいろと便宜を図ってくれる
12月1日(月)の朝、所長がエル・ボスケに来てくれ、いろいろと便宜を図ってくれる。この日は、ペドロ・フアン・カバジェーロが市制80周年のお祭りで、カンビオ(両替商)が休みで、所長の紹介で、個人の店で当面必要な分だけグアラニー(パラグアイの通貨)からクルゼイロ(ブラジルの通貨)に替える。
所長がポンタ・ポラ側の町を案内してくれ午前中、20人分の鍋や釜などキャンプ道具やキャンプ時の食糧の調達をする。
所長は囲碁が大好き
所長は、しばらくし、仕事の準備が一段落した時に、「誰か碁を打つ人はいませんか?」とたずねられた。それで私が「一応打ちますが。」というと、「じゃあ今晩家に来て下さい。」という。何だか分からないが、囲碁は囲碁として、仕事の話ももう少し詳しく話した方が良いと思っていた。そんなことで夕食後、所長宅に伺うと囲碁を何番も打たされ、こちらが根負けした。負ければもう一番、勝てば勝ったで、うれしくてもう一番、実力は似たようなものだった。私が碁を打つようになったのは、勤め先に碁を打つ人が沢山いて、それから始めたようなもので、当時の私の腕はたいしたことはなかったが、碁の面白さに引き込まれ始めていたところだった。
次の2回目の調査の時にはメンバーの副団長が、碁が大好きで、私よりもかなり強かったので、次回の調査の時は私よりも強い人が来ますと言っておいた。それで所長は次に副団長が来るのを手ぐすねを引いて待っているような感じであった。我々が到着した晩から「今晩夕食にどうぞ。」と誘われる。「できるだけ早く来て下さい。」と言われる。そうすると碁である。山から下りてきても同様であった。しかし、我々は奥さんにはどうも大迷惑をかけていたようである。ペドロ・ファン・カバジェーロでは強い相手がいなかったのであろうが、これほど碁が好きな方も珍しいと思ったものだった。
アマンバイ県知事に挨拶
午前中キャンプ道具の不足品をすべてそろえる。ペドロ・ファン・カバジェーロにはアマンバイ営林署がある。ここの営林署長はミルシアール・バルデスといった。バルデスが選んでくれていた5人ほどの作業員に面接して全員雇うことにした。その日の午後、雇う作業員の傷害保険を掛けに行った。バルデスもウエスペ等と同じくらいの年で若かった。後に50才近くになって森林局長官になった。
調査対象地
改めて述べると、調査対象地はパラグアイの北東部で面積は150万haであった。150万haというと日本の県で最大の面積を持つ岩手県と同じくらいの面積である。東京都の約7倍の面積もあり、調べるのはかなり広大であった。
調査対象地はパラグアイの行政区分のうち4県にまたがっていて、アマンバイ県というのが全域含まれていた。その北東部にある比較的大きな町がペドロ・フアン・カバジェーロ市でアマンバイ県の県庁所在地で、調査基地としたのだった。
1980年当時のペドロ・フアン・カバジェーロ市
ペドロ・ファン・カバジェーロとポンタ・ポラの町
ペドロ・フアン・カバジェーロはパラグアイ側の町で、ブラジル側のポンタ・ポラ(ポンタは先端とか岬、ポラというのはグアラニー語で美しいで、美しい岬という意味)という町と隣接しており、ポンタ・ポラはマット・グロッソ・ド・スール州(南の大森林)にあり、ポルトガル語の意味からして、かつてはこのあたりは大森林であったことが伺える。
ペドロ・フアン・カバジェーロ市とポンタ・ポラ市とは実態上一体化して機能していた。両市の境を走る道路が国境となっており、道路の中心部には分離帯があったが、人も車も自由に往来できた。
ブラジル側のポンタ・ポラ側の道路はきちんと舗装され、町並みも美しく整っていて近代都市の雰囲気を醸し出していた。一方、パラグアイ側のペドロ・フアン・カバジェーロは石畳になっており、街中を少しはずれると未舗装で国力の差をまざまざと感じた。
ペドロ・ファン・カバジェーロ市とポンタ・ポラ市の境界に立つ
ポンタ・ポラは貿易で栄えていると聞いたが、どうもこれはパラグアイ側からの木材の密輸や麻薬関係だったのかも知れない。
ペドロ・フアン・カバジェーロは、軍隊の駐屯地があり、兵隊がやたら銃を打つから危ない、ブラジル側もマフィアがいるから危ないが、ブラジル品が自由に買えるので良い町だとか聞いたが、一体流れ玉やマフィアをどのように避けるのであろうか?
雇った作業員の中には流れ玉にあたって腹に弾が貫通し、その手術跡を見せてくれた者もおり、治安の悪さを感じさせられた。
それはそれとして、ポンタ・ポラ側には、手ごろな値段でとてもおいしいシュラスコ屋(牛の様々な部分の肉塊を大串に刺して焼き、焼けたところから皿に切り取ってくれる)があり、山から下りて来た時などは良く食べに行った。
つづく
森林紀行No.4 パラグアイ – 北東部編】No.6
アスンシオンからペドロ・フアン・カバジェーロへ
アスンシオンとペドロ・フアン・カバジェーロ間は、直線距離で約400kmあり、陸路、車で行くと約600Kmは走らなければならなかった。
航空機で行けば1時間ほどであった。ただし、この当時飛んでいた航空機はDC-3 で第2次大戦前から使われていたものであった。運営していたのはTAM(Transporte Aéreo Militar:軍航空輸送)で軍が経営していた。空路も時々利用したが、DC-3は席に座ると既に座席は20度くらいは傾いており、寄りかかるような感じで座った。座席のシートベルトのバックルが壊れていて、シートベルトを手で結ばされたこともあった。
陸路ペドロ・フアン・カバジェーロへ
1980年 (昭和55年)11月29 日(土)の早朝アスンシオンを出発する。ハイエースにランドローバー1台である。もう1台のランドローバーはカウンターパートが後からキャンピングカーを引っ張って来るのに使った。
コロネル・オビエド
私はハイエースに乗り、アスンシオンから西に約150km離れたコロネル・オビエド(Coronel viedo:オビエド大佐)という町に向かい、ここでまず昼食を取った。ここにはルエダ(車輪という意味;ここで方向を変えるのでルエダと言うが付いたと思われる)という大きなレストランがあり、多少とも余裕のある人々はこのレストランで食事をするのが常であった。パラグアイは肉料理が中心であるが、ここのレストランの肉料理はおいしかった。
ハイエースでペドロ・ファン・カバジェーロに向かう
因みに、コロネル・オビエドの名前は、1870 年三国戦争(対ブラジル、アルゼンチン、ウルグアイの3 国)でパラグアイは敗れたものの、コロネル大佐の勇猛な活躍は後世にその名をとどめ、市の名前となったものである。スペイン人の侵略者の中にもオビエドと言う名もあり、南米各地にオビエドという地名は多い。
ぬかるんだ道路
コロネル・オビエドから北上していくのだが、舗装をしてあったのは、ここから約50km北のMbutuy(ブトゥ)くらいまでであった。
ブトゥはこの北東部の調査の後、ブトゥの奥のカピバリという地域で造林計画を作成するのであるが、その時に基地とした町である。ここから先は、未舗装となるのであった。
この辺りの道は、平らであるということと砂利がなく、粘土か砂をベースとする赤土であったので、雨が降らなければ、走りやすかったが、埃はひどかった。しかし、一旦雨となるとぬかるみ、時にはそのぬかるみに車がはまり動けなくなり、それが邪魔になって後続車は、そこで待たなければならないのであった。
その上、道路の所々に、運搬物の検査や道路保護のための検問所があり、雨が降るとそこで止められ、その先へ進めないのであった。
その日も雨は降っていなかったが、ブトゥからちょっと先へ行ったところで、道がぬかるんでいて木材を積み過ぎ重すぎたトラックから木材が下ろされ、道路際に置かれていたところに、後から来たトラックがぬかるみにはまりこみなかなか抜け出せないでいた。
ぬかるみにはまり込み動けなくなったトラック
(道路際の丸太はペローバ。この木を目当てに無秩序な伐採が進んでいた)
それが障害物となり、その後ろから来た我々の車もそこから前に進めなくなった。そこで2時間くらい待たされ、トラックがようやくぬかるみから抜け出たので、次のSan Estanislao (サン・エスタニスラオ)という町までたどり着くことができた。
サン・エスタニスラオのことをパラグアイ人は、略してサンタニと呼んでいた。
しかし、そこにも検問所があり、通行を禁止していたため、先に進むことができず、サンタニの町で泊まることとした。いくつかホテルをあたり、ドイツ人が経営していて小じんまりしているが、清潔そうなホテルに泊まることにした。
道路がぬかるんで検問を通れず
通訳のH君とサンタニのホテルにて
ホテルの名前はホテル・アレマンと言い、訳せばドイツホテルという意味でまさにドイツ人が経営しているからつけた名前である。
小さなホテルで、急遽泊まったので、アスンシオンから雇用していた通訳のH君と相部屋となった。H君はペドロ・ファン・カバジェーロ近くで生まれた日系2世である。きちんとした日本語も話し、スペイン語とのバイリングアである。年は私よりも少し若く、20台後半であった。
その後キャンプ生活もずっと共にし、長くつきあうのであったが、日本人の感覚ではなく、パラグアイ人の感覚で、こんなにも感覚が違うのかと驚かされた。
何しろ私は日本人の中で育って来たから、他人に対する遠慮とか、上司の意見を尊重するとかといったものをおそらく無意識に身に付けていたのだろうが、H君にはそんなものはなかった。
まったくフランクで誰でも対等な人間として付き合っているように思えた。自分のしたいと思うことをさっさとやるし、遠慮などはまったくなかった。それに馬力があり、顔が日本人なので、同じような感覚が持っているのかと思っていたが、全く違った。パラグアイ人がそうなのであろう。
アメリカ人はフランクで上下関係はあまり意識しないようなことを学校の英語の授業で聞いていたが、そのような感じであった。人に気を使わなくて良いのはこちらも気楽であった。日本の社会や教育により、私は随分と枠にはめられ、不自由に育ったのではないかとも感じた。
パラグアイでは学歴による上下関係は前に述べたように強かったが、社会全体では横の関係が強く、アミーゴの世界で動いているようであった。役所のような所では、大卒はエリートなので縦の関係が強かったのだろう。
サンタニからペドロ・ファン・カバジェーロへ
翌日の1980年11月30日(日)にサンタニのホテルを朝7時に出発。この日はサンタニの検問所は開いていた。私はハイエースからランドローバに乗り換えてこちらで進む。
待ち時間を利用して森林を見る
更に2時間くらい進んだところに、また検問所があり、そこで止められた。ここは晴天なのに、この先が雨でぬかるんでいるという。しばらくすれば開くという。そこで待ち時間を利用して森林を見に行くことにする。
くたびれもうけ
道路際の牧場は、はるかかなたにまで続いているように見える。その向こうが森林だ。牧場の入り口に鍵が掛っており、車が入れない。国道沿いを歩いていた人に聞くと、その鍵の所から家まで約2Kmとのこと。家まで車が通れる道がついている。森林まではそれからまだ10kmくらいはありそうだ。
とりあえず、その家まで鍵を借りに往復4Kmの道を歩くことにする。暑い。汗が噴き出て来るが、空気が乾燥しているのでベトつかないのが救いだ。30分ほど歩いて、その家に着く。
「こんにちは。ご主人はいますか?」カウンターパート(共同作業技術者)のウエスペが尋ねる。
「いませんよ。」
「あなたは?」
「私はここの使用人だ。」
「そうですか。我々はパラグアイの森林局のものですが、奥の森林を見せてもらいたいと思い、牧場の入り口の鍵を借りにきたのです。」
「そうか、それはおあいにく様でしたな。鍵は道路沿いの家にあるよ。主人はこの奥の家へ行っている。」
「えッ。本当ですか。これはくたびれもうけだったなあ。」
「まあ、あんた達、テレレでも飲んで行きなよ。」と、その人は我々にテレレを勧めた。テレレを飲みながらひとしきり談笑した後、また元の道を半時間ほど歩いて戻ったのであった。テレレはパラグアイ独特の飲み物である。
ピューマの頭蓋骨
道路沿いの家なら最初に車で止まったところからすぐそばだった。その家にあった鍵を借り、牧場の入口の錠を開ける。今度は、奥までランドローバで進む。途中でさっき訪ねた家を通り過ぎ、10kmほど奥まで進む。そこに家があり、その先が森林だ。
「こんにちは。ご主人ですか?」
「そうだよ。名前はロペスという。」
「我々は森林局のものですが、森林を調べており、この奥の森林を見せてもらいたいのですが。」
「ああ、いいよ。でもこの辺りにはもう大きな木は無いよ。ブラジル人がみんな伐って持っていってしまったよ。」
「そうですか。残念ですね。それでも森林を見せて下さい。ところで、そこの壁にかけてある頭蓋骨は何のものですか?」
「ピューマだよ。私が撃ったものだ。今でも沢山いるよ。」
「大したものですね。」
ロペスさんは、子供3人と掘立小屋に住んでおり、この辺りに高木林はないと言う。ピューマの頭蓋骨が飾ってあり、それを銃で打った時の写真を見せてくれた。
我々が森林を見ると確かに、伐採が入っていて、大きな木は皆伐られた跡で、がっかりした。
道路へ戻ると午後1時過ぎで、通行止めが解除されている。それからペドロ・ファン・カバジェーロへ向かった。